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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.498 雑本記事
戸神尾・稲荷山に二段の伏兵を置き、家久と大野・宮原勢が大口・相良勢を破って百三十六首を得たとする雑本の記事。八月十八日に大口城を包囲し、敵の降参後、九月に城内で太平の祝宴を行ったことも記す。
後編1-No.499 島津中務大輔家久譜
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
後編1-No.500 樺山玄佐自記
義久が馬越に在陣している間、翌年に家久が平泉戸神尾で大勝し、大口城の引渡しと球磨境の和平に至った経過を記す。その後の入来院・祁答院・東郷・千台方面の知行再編や、樺山家への横川・小浜堅利などの替地を述べる。玄佐は日新の死後、弓箭から離れて和歌に傾き、貴久隠退後の寂しさを舟を流した海人にたとえている。
後編1-No.501 友野元真奉公覚書
戸神尾合戦のころ、伊集院善左衛門を取次として佐敷方面へ兵船六、七十艘を送るよう命じられた友野元真の奉公覚書。船の調達に苦労し、四本越中守と協力して佐敷方面で働き、船一艘を取得し、福浦でも分捕りをしたことを記す。
後編1-No.502 庄内平治記
永禄十二年五月十日、島津忠親が河野筑前守・大岩根河内守を串良へ派遣し、島津義久と肝付家の和睦を取り持とうとしたが不成立に終わった。五月二十二日には義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月、菱刈氏は降参して一命を許され、平城を安堵された。
後編1-No.503 年代記
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
後編1-No.504 島津貴久譜
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
後編1-No.505 島津貴久譜
永禄十二年八月十八日、島津方が大口城を包囲すると、武器・兵力の尽きた守兵が降参を願い、貴久が許した。九月十日に相良方と島津方が人質を交換し、十四日に敵兵が球磨へ退去、十八日に貴久・義久が入城して凱歌を唱えた。約束により新納忠元を大口地頭に任じ、武蔵守へ改めて功績をたたえた。
後編1-No.506 島津義久譜
八月十八日に大口城を四方から包囲して作毛を払い、守兵の兵器・弓弦が尽きると降参を許した。九月十日に双方が人質を交換し、十四日に球磨勢が退去、十八日に貴久・義久が入城した。新納忠元を大口地頭・武蔵守とし、諸城へ守兵を配置、菱刈氏には降参を許して平城を与え、軍を解いた。
後編1-No.507 長谷場越前自記
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴…
後編1-No.508 長谷場越前自記
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
後編1-No.509 箕輪伊賀覚書
五月二十五日の長野城攻めでは下城を破ったが多数が戦死し、いったん退いた。その敗報で伊東方が桶比良陣を撤収すると、八月十八日から大口城を包囲して秋作を刈った。相良氏は島津への旧恩を思い和平へ傾き、九月に球磨勢が退去した。大口城を受け取り、相良の請願で菱刈氏に本城一所を残し、新納忠元を大口地頭・武蔵守と…
後編1-No.510 箕輪伊賀自記
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
後編1-No.511 樺山玄佐譜
永禄十二年、菱刈・牛尿両院が島津方に帰したのち、樺山玄佐が小浜堅利との替地として横川を与えられたことを記す。玄佐は六十歳に至って戦場の勇を離れ、和歌の道に専念した。自身の歌を卑下しつつも、鳥や虫の自然な声にも歌があると述べ、義久の治世の恩恵が国中を潤すとたたえる。
後編1-No.512 加世田人衆交名
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
後編1-No.513 島津伯囿貴久書状
島津貴久が樺山兵部太輔に、境目の警固に長く尽力していることを賞した書状。遠方のため音信を欠いたことを詫び、祁答院長野城攻めでたびたび合戦して粉骨した働きは比類なく、率いた人々の働きも含めて感賞すると伝える。
後編1-No.514 細川藤孝書状
細川藤孝が喜入季久から匠作を介して書状と黄金十両を受け取った礼を述べた書状。藤孝が思いがけず入手した小笠原家旧蔵の鞍一口を、伊勢因幡入道に添えて贈り、しかるべく取り計らうよう求めている。
後編1-No.515 細川藤孝書状
喜入家に伝来する細川藤孝書状の別掲本。六月十一日付で喜入季久に宛てられ、本文と上包の宛所・藤孝の署名花押を示す。No.514と同日の贈答関係書状として収録されている。
後編1-No.516 島津義久書状
島津義久が、前年六月十六日付の将軍御内書を当年正月三日に拝受したことを細川藤孝へ報じ、足利義昭の入洛を祝った書状。国内の逆徒に妨げられて祝賀が遅れたことを詫び、御殿料は時機を見て奔走すると約束する。将軍御女中へ唐織の衣服を進上するため、藤孝に取り次ぎを依頼した。
後編1-No.517 島津義久宛行状
島津義久が菱刈鶴千代に、大隅国平院内の本城および曽木を宛行った文書。今後長く二心なく忠功を尽くし、この命令を守るよう求める。本文注記は「平院」を太良院と解すべき可能性を示す。
後編1-No.518 北郷時久譜
永禄十二年五月二十二日、義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月に菱刈氏が降参すると一命を助けて平城を安堵した。その後、相良頼房が北郷時久へ和睦成立を述べる書状を送った経緯を記し、正文としてNo.519を掲げる。
後編1-No.519 相良頼房書状
相良頼房が北郷時久に、菱刈方との二年間にわたる不慮の戦いを振り返り、島津氏の取りなしで菱刈家を存続させると聞いたことへの大きな喜びを伝えた書状。今後は従来どおり相談し、別儀なく付き合うと述べ、時久の出陣に対する礼を使者に託している。
後編1-No.520 野辺盛季夢想歌
野辺盛季が夢想によって得たとする和歌。「曇なき光をそへて月の影/照すひかりや秋の夜の空」と、月光が菱刈を照らす情景を詠む。末尾には野辺盛仁の歌と思われるとの注記がある。
後編1-No.521 島津義久宛行状
島津義久が肝付兼盛の軍忠を比類ないものと賞し、親類や年来の家臣十人が戦死・粉骨したことに感心して、大隅国曽於郡内の上三蓋堂名を宛行った文書。速やかな知行と今後の戦功を命じる。
後編1-No.522 島津義久寄進状
島津義久が菩提所である薩摩国鹿児島郡妙谷寺へ、向島赤生原の塩屋一宇を寄進し、後代まで違乱してはならないと定めた寄進状。
後編1-No.523 伊集院孤舟寄進状
伊集院大和守沙弥孤舟が、給分として宛行われた薩摩国鹿児島郡西田名の水田二段を来世のため笑岳寺へ寄進し、義久の判を受けた文書。転変で西田の土地が失われても、竹崎の水田二段は相違なく確保すると保証する。
後編1-No.524 島津氏老臣連署寄進状
島津氏老臣五名が、伊集院大和沙弥笑岳の勲功により宛行われた西田名内竹崎の水田二段を、建立した笑岳寺へ寄進する願いが義久に許可されたことを確認した連署状。将来土地に変動があっても、この二段は永代違乱してはならないと定める。
後編1-No.525 島津義久寄進状
島津義久が弓箭祈念のため、大隅国曽於郡内の小窪名を霧島社へ寄進した文書。菱刈・牛尿両院が島津方の支配に入ったのは霧島の名鑑によるとして、武運長久、子孫繁昌、国家泰平を祈る。
後編1-No.526 島津氏老臣連署寄進状
本文はNo.524と同文のため省略される老臣連署寄進状。伊集院大和沙弥笑岳が笑岳寺へ寄進した竹崎の水田二段を、将来にわたり違乱なく安堵する内容に当たる。
後編1-No.527 伊集院孤舟寄進状
本文はNo.523と同文のため省略される伊集院孤舟寄進状。西田名の水田二段を笑岳寺へ寄進し、土地が転変した場合にも竹崎二段を代替地として保証する内容である。
後編1-No.528 島津氏老臣連署宛行状
島津氏老臣が本田刑部少輔に、先年の戦乱時に姫城を奉公のため差し出した返地として、薩摩国谷山郡山田名を宛行った文書。境界が明確になった時には城を返すこと、一か所への繰替えに相違がないことを保証し、当面は水田十町を与える。
後編1-No.529 島津義久寄進状
本文はNo.522と同文のため省略される島津義久寄進状。鹿児島郡妙谷寺を菩提所として、向島赤生原の塩屋一宇を寄進し、後代の違乱を禁じた内容に当たる。
後編1-No.530 島津義久寄進状
本文はNo.525と同文のため省略される島津義久寄進状。弓箭祈念と菱刈・牛尿両院平定への霧島社の加護を理由に、小窪名を寄進して武運長久・子孫繁昌・国家泰平を祈る内容である。
後編1-No.531 島津氏老臣連署状
菱刈四郎が曽木を差し上げ、当面の在所が定まらない状況について上聞に達したことを、新納忠元へ伝えた老臣連署状。忠元が以前から尽くした奉公への賞として、まず花北一所を与えるよう上意があり、追って加扶持も行うので速やかに伝達するよう命じる。
後編1-No.532 島津国史
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金…
後編1-No.533 島津国史補注
島津貴久の葬所をめぐる異説を検証した補注。旧説では福昌寺の石塔を墓としたが、祭文や加世田の伝承から日新寺常潤院山中説が唱えられた。享和二年、本田親貞・相良常旭が現地調査すると石塔には「大中公」とだけあり、埋葬を示す銘記も伝承もなかったため、加世田で葬儀後に福昌寺へ埋葬し、常潤院の塔は灰塚と結論づけた…
後編1-No.534 長谷場越前自記
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
後編1-No.535 箕輪伊賀覚書
元亀元年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院・東郷両氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山・水引・中郷・湯田・西方・高城などを差し出した。清敷と東郷は両家に残し、高城・中郷・西方・京泊・川向こうと牛尿院山野を義虎へ与え、各地の給分・地頭職を定めた。貴久は加世田、義久は鹿児島へ戻った。
後編1-No.536 島津義久譜
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
後編1-No.537 島津中務大輔家久譜
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
後編1-No.538 島津義久公帖
島津義久が、伊集院谷口善福寺・城之河内宝聚寺・市来院水月寺の三寺を、広済寺住持雪辱東堂へ寄附した公帖。三寺は古くから広済寺末寺だったが戦乱で関係が絶えており、雪辱が初めて琉球へ渡る際に望んだため、先例どおり永代の執務を認めた。
後編1-No.539 島津義久寄進状
島津義久が正八幡宮へ、大隅国羽坂名内の松木門を寄進した文書。具体的な田地などの内訳は別紙目録に記したとする。
後編1-No.540 広済寺由緒書
広済寺の由緒として、同寺が泰定山南禅寺派で寺領三十石を有したこと、七代雪辱和尚が義久の時代に琉球使僧として渡海し、七月十四日に出帆したことを記す。使節を忠実に勤めた賞として、旧来の末寺を寄附された置文が伝わるとする。
後編1-No.541 島津義久公帖
本文はNo.538と同文のため省略される島津義久公帖。谷口善福寺・城之河内宝聚寺・市来院水月寺を、旧例どおり広済寺末寺として雪辱東堂へ永代執務させる内容である。
後編1-No.542 島津氏老臣連署坪付
興国寺領として、大隅国帖佐郷住吉名の平野園門にある田地を列記した老臣連署坪付。平野園之門五段二十、佃一段二十、堀町・開田・屋敷添などを合わせ、総計一町一段十とする。
後編1-No.543 島津氏老臣連署坪付
龍盛院領として、薩摩国鹿児島郡田毛名の水町門・浜田・芦牟田・橋路などの水田と畠地を列記した老臣連署坪付。水田は総計二町四反十のほか堀町一反を記し、畠地は合計一町七段とする。
後編1-No.544 島津氏老臣連署坪付
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
後編1-No.545 年代記
元亀元年正月、渋谷党が降参し、川内郡が島津義久の知行となったことを記す。今回の忠節により、高城・水引および川向こうの地域が島津義虎へ宛行われた。
後編1-No.546 島津氏老臣連署坪付
内田主馬首へ宛て、薩摩国牛尿院内の浮免田を示した老臣連署坪付。築原名・小木原名・大田名などの田地を合計九段とし、そのうち七反を御重恩分と記す。
後編1-No.547 加久藤湯田村知行名寄目録
加久藤湯田村内の知行をまとめた名寄目録。高六斗四升の知行分を阿多甚左衛門に宛てて記録する。永禄十三年関係文書の後に、後代の元和六年十一月十五日付目録を参考として収録したもの。
後編1-No.548 島津義久書状
島津義久が中山王へ、両国は広い海を隔てながら古くから兄弟の盟約を結んできたと述べ、広済寺住持雪辱東堂を派遣して旧例を改め、隣好を修めたいと申し送った書状。微少ながら方物を別幅の目録どおり贈り、今後永く関係を続けることを願う。
後編1-No.549 島津氏老臣連署坪付
北辰大明神領として、大隅国曽於郡郡田名萩原門内の田地を記した老臣連署坪付。寺前の三反のうちに含まれる土地であると注記する。
後編1-No.550 某寄進状
北辰大明神へ、水田一段を寄進した文書。坪所を「さは千代殿先」「そくたう」と記す。年月日の一字は本文・確定版とも判読が定まらないため、確定版表記を維持する。
後編1-No.551 秋目九玉明神再興棟札
薩摩国加世田秋目津の九玉大明神社殿一宇を再興し、天皇の長久、国土安穏、島津貴久と日新の娘である大檀那の息災延命を祈った棟札。地頭島津尚久が遷宮し、導師・役人・大工・鍛冶・社人を列記する。本文の干支「戊午」は元亀二年と合わず、日新も既に没しているとの編者注がある。
後編1-No.552 島津伯囿書状
島津貴久が琉球国王へ、前年春に天龍寺長老が国王書状を携えて来訪したことへの厚意を謝した書状。近年、貴久は守護職を義久へ譲ったと知らせ、広済寺雪辱長老を派遣して関係刷新を申し入れ、別幅記載の品を贈り、両国の永続的な友好を願う。
後編1-No.553 島津伯囿書状
本文はNo.552と同文のため省略される島津貴久書状。守護職を義久へ譲ったことを伝え、広済寺雪辱長老を琉球へ派遣して贈答と旧好の更新を申し入れる内容に当たる。
後編1-No.554 島津義久書状
本文はNo.548と同文のため省略される島津義久書状。広済寺雪辱東堂を琉球へ派遣して旧例を改め、兄弟の盟約と隣好を今後も永く続けたいと伝え、別幅の品を贈る内容である。
後編1-No.555 村田経定書状
村田経定が、広済寺雪辱東堂を琉球へ派遣するに当たり、近年薩摩商人が印判を携えず私的に往来しているのは沙汰の限りだと伝えた書状。今後違反者があれば船や財物を琉球側の処分に委ねるとし、詳細は雪辱和尚の口上に託す。
後編1-No.556 伊集院忠金書状
伊集院忠金が、先例と家伝の趣旨を伝えるため雪辱東堂を渡海させると通知した書状。近頃、正式な印判を持たない商船が自由に往来しているため、今後そのような船を点検し、重科に処してほしいと求める。
後編1-No.557 川上意釣書状
川上意釣が、琉球国の政務刷新を祝う使節として広済寺雪辱東堂を派遣した書状。近年、島津家の印判を持たず旧制を破る商船が多いため、今後違反船を詳しく調査して処罰し、乱妨・私交易を厳禁するよう三司官へ求め、詳細は長老の口上に託す。
後編1-No.558 中山王書状
中山王が、島津義久の命を受けた広済寺雪辱東堂が書状と多数の方物を携えて琉球へ到着し、祝意を伝えたことへの返書。両国の隣好を今後いっそう長く続けることに同意し、詳細は雪辱東堂が説明するとして、返礼品を別紙に記す。
後編1-No.559 広済寺由緒書
雪辱和尚が琉球国使僧を無事に勤めて帰朝した忠賞として、高百石を与えられたとする広済寺由緒。雪辱はこれを隠居領とし善福寺へ移り、弟子永果に寺とともに付嘱して没したが、永果が所領を雪辱の縁者である甥へ与えたため、当時は寺領として残っていなかったという。住職継承は代々弟子譲りで続いた。
後編1-No.560 広済寺由緒書
後年の琉球征伐後、中山王が義久に謁見するため上国した際、広済寺末寺の大田村報恩寺へ到着して数日滞在し、雪山和尚に伴われて府中へ出て謁見し、帰国したとの伝承を記す。この時から中山国主の来訪を「上国」と称したという。報恩寺は当時すでに廃寺だったが、王の宿泊地として免地の寺跡とされた。
後編1-No.561 島津義久書状
島津義久が足利義昭の入洛を祝賀する書状。国内事情のため祝賀が遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・黄金百両を進上して将軍の機嫌を伺い、取り計らいを細川藤孝に依頼した。詳細は使者喜入季久に申し含めたとする。
後編1-No.562 島津伯囿感状
島津貴久が本田松閑の弓箭におけるたびたびの軍忠を比類ないものとして感賞した文書。子孫に至るまでこの旨を永く守り、いっそう戦功を尽くすよう命じ、末代の亀鑑とする。
後編1-No.563 佐藤秀家証文
佐藤秀家が安楽下野介に、新当流五具足と灌頂の次第、太刀十三に関する伝授に疑いがないことを証した文書。鹿島明神・香取大明神・八幡大菩薩・摩利支天を掲げ、島津貴久の判もある。諸国のどこでも望む者へ指南することを第一とする。
後編1-No.564 喜入季久譜
元亀元年夏、喜入季久は大願成就のため上方へ向かい、義久の使節として将軍足利義昭への祝賀を担った。八月中旬に泉州境浦へ着船し、伊勢参宮と諸社寺参詣後に京都へ入り、将軍に謁見した。酒盃を頂戴し、宝刀を賜ったことを喜入家の名誉として記す。
後編1-No.565 近衛前久書状
近衛前久が喜入季久の上洛を喜び、滞在中に必ず来訪するよう求めた書状。島津義久からの音信も受け取り祝着していると伝えるよう依頼し、詳細は進藤左衛門大夫が申し伝えるとする。
後編1-No.566 進藤長治副状
進藤長治が喜入季久の上洛を祝し、以前薩摩へ下向した際の厚遇を忘れていないと述べた副状。世上の事情と多忙で面会できないことを残念がり、具体的な用件は大泉坊へ伝えたとし、贈られた線香一把への礼を述べる。
後編1-No.567 昭高院道澄書状
昭高院道澄が喜入季久へ贈った二通の短札を収める。一通は扇一包を贈り、今後細々と文通したいと伝える。もう一通は初の面談を喜びながら突然の帰国に驚き、翌春に使節を下す予定なので、その際に詳しく申し述べると約束する。上洛後の元亀元年冬頃の書状と推定する編者注がある。
後編1-No.568 島津伯囿寄進状
島津貴久が志願により、薩摩国谷山郡福本名内の水田三段を福昌寺の鎮守・開山へ寄進し、永く違乱してはならないと定めた寄進状。具体的な地所は別紙目録に記す。
後編1-No.569 島津義久譜
元亀元年六月下旬、伊勢参宮へ出発した喜入季久を義久の使節として将軍足利義昭へ派遣した。九月二十三日に将軍が織田信長を伴って摂州中島陣所から帰京したが、翌日信長は越前勢に備えて志賀へ出陣した。二十五日、季久は細川藤孝を介して将軍へ太刀・馬代千疋・黄金百両を献上し、藤孝にも太刀・馬代五百疋・塩硝三十斤を…
後編1-No.570 細川藤孝書状
細川藤孝が島津義久へ、上洛礼の使者喜入季久から太刀一腰・馬一疋・黄金百両を将軍へ進上した旨を披露し、将軍が喜んで御内書を下したと報じた書状。さらに太刀一振が義久へ返礼として下賜されたので、趣旨を了承するよう伝える。
後編1-No.571 島津義久譜
元亀元年十月二十五日、喜入季久が将軍御殿へ召され、義久に下賜された御内書と太刀を受け取ったことを記す短い譜中記事。
後編1-No.572 島津義久譜
本文はNo.536と同文のため省略される譜中記事。元亀元年の渋谷党降参後、隈城以下の所領を再配分し、家久を隈城地頭、義虎・平田狩野介らを各地の領主とした内容に当たる。
後編1-No.573 島津氏老臣連署状
本文はNo.531と同文のため省略される老臣連署状。菱刈四郎が曽木を差し出した後の処遇と、新納忠元の奉公への賞として花北一所および追って加扶持を与える上意を伝える内容である。
後編1-No.574 北郷時久日記(自永禄十一年正月至元亀二年九月)
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相…
後編1-No.575 薩州島津家略系図
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
後編1-No.576 島津義久書状
島津義久が島津義虎へ年始の吉兆と多幸を祝った書状。豊州・北郷・新納・典厩・金吾らへの年頭書状と書式を区別したとの注記を伴い、祝儀として五明一本を贈り、後日さらに諸慶を申し加えるとする。
後編1-No.577 昭高院道澄書状
昭高院道澄が喜入季久に、前年冬の上洛時は多忙で雅興を十分に尽くせず残念だったと伝え、再度の在京を待つ書状。面談できた喜びを忘れないとし、自筆を加えた三部抄を贈り、詳細は清春上人の説明に委ねる。
後編1-No.578 加世田日新寺鐘銘
日新寺へ大鐘を鋳造・寄進した鐘銘。日新を薩摩・大隅・日向三州太守梅岳常潤在家菩薩と称し、文質慶才大姉ら功徳衆を列記する。梁武帝と誌公の説話を引き、鐘声を聞けば地獄の衆生の苦が一時止むとして、鐘音が広く響き安楽をもたらすことを願う。鋳造者・修造者も記す。
後編1-No.579 秋目九玉明神再興棟札
本文はNo.551と同文のため省略される秋目九玉明神再興棟札。社殿再興、貴久ら大檀那の息災延命、島津尚久による遷宮を記すが、本文干支と日新の没年に矛盾があるとの編者注もNo.551に示される。
後編1-No.580 島津義久起請文神文
島津義久が樺山兵部太輔に差し出した起請文の神文部分。天帝・四大天王、日本六十余州の大小神祇、惣社新田八幡、当地の鎮守である諏訪・稲荷大明神の照覧に任せ、誓約に偽りがないことを誓う。
後編1-No.581 島津義久三女譜
島津義久の三女に関する系譜記事。元亀二年四月二十六日、種子島左近大夫時尭の娘を母として生まれ、のち島津家久の夫人となった。寛永七年十月五日に鹿児島で六十歳で没し、持明彭窓庵主・興国寺殿と号した。
後編1-No.582 小笠原宗賢書状
小笠原宗賢が喜入季久の無事な帰国を喜び、在京中のたびたびの対面への礼を述べた書状。銀子十文の贈答に謝し、依頼された口伝・各方面への伝言や近況を知らせ、ゆがけ二具を贈る。今後も用向きがあれば承ると申し出る。
後編1-No.583 宗図書状
宗固が上方・豊後方面での活動と苦労を詳しく報じた書状。薩摩から送られた鷹を土佐一条氏を介して将軍家へ届け、織田信長が拝領したこと、路銀不足や堺での争い、豊後への帰還事情を記す。喜入季久の上洛時の評判が京都で高く、将軍もたびたび尋ねたことを伝え、唐織の衣服を調えるため将軍家・局・取次へ贈る黄金の内訳と…
後編1-No.584 細川藤孝書状
細川藤孝が喜入季久の帰国後、二度書状を送ったが届いたかを尋ね、京都は現在平穏だと知らせた書状。季久在洛中は多忙のため疎遠になったことを今も残念がり、今後こちらで用事があれば隔意なく申し付けるよう求め、十一日韻の懐紙を贈る。
後編1-No.585 豊州島津忠親譜
豊州島津忠親が元亀二年六月十二日に都城で死去したことを記す。法号は崩永鬱居士とする。
後編1-No.586 島津国史
元亀二年六月二十三日、島津貴久が加世田の本宅で没し、二十九日に日新寺で荼毘に付されたことを記す。日新寺境内の釈迦堂を忠良・貴久父子の廟所とする伝承、平田純貞が貴久の冥福のため六十六州を巡歴し翌年鹿児島海中で入水した話を載せる。十一月二十日には肝付・禰寝・伊地知連合軍が船百余艘で鹿児島内海へ侵入して帖…
後編1-No.587 島津貴久譜
父日新の仏道修行を慕った島津貴久が、色心を仏心と悟り、昼夜法華経の訓読を怠らなかったとする。元亀二年六月二十三日、二階の持仏堂で花香を供え、法華経第一巻を読み終えて第二巻を手にしたまま、香煙が消えないうちに壇上で死去した。享年五十八、法号を大中良等庵主、南林寺殿とする。
後編1-No.588 島津貴久下炬法語・祭文
代賢和尚が島津貴久の葬儀に際して述べた下炬法語・祭文。貴久の温良・慈悲、文武の徳、父日新への忠孝、治世と家業再興、法華経信仰をたたえ、生死を超える禅機をもって追悼する。原文に島津義久の発給・関与を示す記載はない。
後編1-No.589 島津歳久祭文
貴久没後二十九日の荼毘に際し、三男島津歳久が日新寺で捧げた祭文。貴久を三州中興の大賢として、孔孟の学、軍略、民の撫育、父子への忠孝、寺院建立・僧侶済度などをたたえる。歳久自身も軍旅で愛憐を受けたことを回想し、突然の死と父との永別を嘆く。
後編1-No.590 島津征久祭文
島津征久が父貴久の死を悼んで日新寺で捧げた祭文。貴久の軍略、民を慈しみ天を敬う治世、和歌・学問・武威、幼くして父を失った征久への教導をたたえる。加世田で突然没したことを嘆き、九天・黄梁の夢・散る桐葉などの比喩で五十八年の生涯と永別の悲しみを表す。
後編1-No.591 川上忠真譜
川上忠真は小次郎・治部少輔・筑前守を称し、まず島津忠良に仕え、忠良没後は島津貴久に奉仕した。元亀二年六月二十三日、貴久の病状が重くなると側近くに侍し、貴久は忠真の膝の上で息を引き取ったとする。
後編1-No.592 肝付良兼祭文
肝付良兼が島津貴久の死を知り、七月二十四日に僧衆を集めて霊前へ供膳を備え、捧げた祭文。貴久を文武に秀でて三州を中興し、適材を用い、百戦百勝の名を広めた君主とたたえる。良兼の先人と貴久との盟約・厚誼を回想し、敵対関係にあっても死を悼む情は貴賤を超えるとして、五十八年の生涯と群臣・庶民の悲嘆を詠嘆する。
後編1-No.593 瀧ケ水合戦従軍者交名
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
後編1-No.594 箕輪伊賀覚書
元亀二年六月二十三日暁、島津貴久が五十八歳で没し、義久・義弘・歳久・家久ら一門から庶民まで父母を失ったように嘆いたと記す。鹿児島南東の海辺に松を植えて寺を建立し、法号を龍洞大中庵主としたのが松原山南林寺であるとする。貴久は十二、三歳で忠兼の養子となった時から非凡で、将来三州太守になると見抜いた老人の…
後編1-No.595 名号之連歌
島津義久ら多数が参加した名号之連歌。義久の発句「名や残る入ての跡も秋の月」から始まり、秋月・時雨・旅・海・雪・春・恋・無常などへ題材を展開する。末尾に参加者ごとの句数を記し、義久七句、其阿八句、珠玄十句などを数える。
後編1-No.596 賦何船連歌
島津義久らによる賦何船連歌。「みしやあらぬ見すや今年の秋の月」を発句とし、旅・船・古郷・秋月・雪・恋・釣舟・山寺・春景・別離などを連ねる。義久八句、其阿十二句、珠玄十句、意外九句など、参加者別の句数も記す。
後編1-No.597 昭高院道澄書状
昭高院道澄が喜入季久の上洛時の懇切な対応に謝し、その後便宜を得られず音信を欠いたことを詫びた書状。門跡末寺の大弘寺を当面預かって取り成すよう特に依頼し、今後は頻繁に連絡するとして、衣一重を贈り、詳細を不断光院の説明に託す。