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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 1201~1300件・13 / 15ページ

  1. 後編1-No.1191 賦何人連歌

    天正九年二月二十五日、島津義久ら十五人が催した百韻連歌。『うくひすの花かさひろきさかり哉』を発句とし、春景・旅・恋・月・秋・神祇などを詠み継ぎ、末尾に各人の句数を記す。

  2. 後編1-No.1192 近衛前久書状

    近衛前久が喜入季久へ、前年に織田信長の朱印で命じられた豊薩両国の和睦を必ず成就させるよう重ねて求める。滞れば信長が遠国へも軍事行動を及ぼすと述べ、早速請けるよう促し、詳しくは伊勢貞知に申し含めたとした。

  3. 後編1-No.1193 島津義久感状

    島津義久が伊集院久治へ、隣国の凶徒を防ぐ戦いで粉骨して忠節を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう軍功に励むよう命じた感状。

  4. 後編1-No.1194 島津忠平義弘書状

    島津義弘が一乗院法印らへ、米菊丸が前日十八日巳刻ごろから通常の咳とは異なる病状となったため、直ちに懇切な祈祷を行うよう依頼した書状。追而書で、まだ効験がないので引き続き祈念するよう重ねて求める。

  5. 後編1-No.1195 樺山紹剣自記

    天正九年四月、龍造寺勢が肥後南関から隈部方面へ進み、二十日ごろ赤星方の城が落ちて熊本の守備が困難になった情勢を記す。相良氏が水俣から豊福までを押さえて往来を遮ったため、まず水俣へ出陣する方針となった。

  6. 後編1-No.1196 彦山衆徒連長等連署状

    彦山衆徒の連長らが伊集院忠棟へ、前年に学琳坊を通じて願い出た年二度の薩摩下向を認められたことは山門興隆の基礎となり、衆徒一同が満足していると礼を述べた連署状。織物二端を贈り、詳細は鬼石坊に託す。

  7. 後編1-No.1197 彦山座主舜有書状

    彦山座主舜有が島津氏へ、年二度の領国内巡回を認められたことを大いに喜び、国家安全の祈祷に励むと述べた礼状。織物一端を贈り、詳しい事情は鬼石坊が申し上げるとする。

  8. 後編1-No.1198 島津尚久一流系図

    島津尚久流の島津忠在について、近江守・下野守と称し、天正九年四月二十二日に大隅国串良で生まれ、母は島津馬頭忠勝の娘であったと記す系図記事。幼名は新龍丸、のち新八郎。

  9. 後編1-No.1199 島津義久追悼和歌

    本文はNo.1183と同文。島津義久が梅岳常潤の死を悼み、十三回忌を迎えて教えを思い出し、梅の二字を詠み込んで霊前へ手向けた追悼和歌。

  10. 後編1-No.1200 蔵人万里小路充房奉口宣案

    水無瀬中納言の上卿により、正五位下藤原義久を従四位下へ昇叙する旨を、蔵人左少弁藤原充房が奉じた天正九年五月三日付の口宣案。

  11. 後編1-No.1201 島津義久書状案

    島津義久が琉球国王へ新年を祝し、前年夏の渡海と普門寺の帰国によって旧来の礼を果たしたことを喜び、今後も変わらぬ交誼を望むと伝えた返書案。進物は別紙に列記するとする。

  12. 後編1-No.1202 島津義久条書案

    島津義久が肥後情勢と外交方針を箇条書きにした案。龍造寺氏との関係、豊後勢敗北後の筑後の安全、相良氏を見捨てないこと、天草方の人質、熊本到着後の対応などを確認し、川内落城以来の相良氏への加勢約束にも触れる。

  13. 後編1-No.1203 上井覚兼書状案

    上井覚兼が伊勢貞知へ、島津義久の書状を受領し、豊後・薩摩両国の和平を取り計らったことに礼を述べる。義久自身が意向を直接申し述べたとし、扇十本の礼として沈香五十両を贈り、披露を頼んだ書状案。

  14. 後編1-No.1204 龍造寺隆信書状

    龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、便宜を得たので島津義久へ申し入れる件を適切に取り次いでほしいと頼み、詳しい事情は使者の口上に含めたので返答を得たいと述べた書状。

  15. 後編1-No.1205 島津義久書状案

    島津義久が顕孝へ、国内が錯乱した際にも偽りのない心底を示したことを神前の誓いによって承知し、今後も違背しないと春日八幡にかけて約した返書案。詳細は年寄衆から伝えるとする。

  16. 後編1-No.1206 島津義久書状案

    島津義久が伊勢貞知へ、織田信長の朱印を京都で拝領した礼を述べ、豊薩和平の命に従って今後の盟約を望むと伝えた書状案。隣国出馬の際は相応の馳走をするとし、太刀長光一腰と馬一疋を信長へ進上するため取次を頼む。

  17. 後編1-No.1207 島津義久覚書

    島津義久が伊勢貞知へ示した覚書。御祈祷、日向国の領知、使者を通じて申し上げる事項、相良氏の進退、秋月氏・龍造寺氏への対応の五か条を列挙する。

  18. 後編1-No.1208 村田経定書状案

    村田経定が伊勢貞知へ、書状と扇子十本を受領した礼を述べ、織田信長への相談によって豊薩和平を取り計らわれたことを喜び、島津義久も命に応じたと伝えた書状案。軽微な進物を添え、披露を頼む。

  19. 後編1-No.1209 島津義久書状案

    島津義久が、先方からの返書となって疎意に似た形となったことを詫び、上使による豊薩和平の命と朱印を尊重して遠国ながら今後の盟約を喜ぶと述べた書状案。畿内の静謐を問い、薩摩への出馬時には相応の馳走をするとし、祝儀の進物を添える。

  20. 後編1-No.1210 島津義久書状案

    島津義久が、島津家が難儀した際に上意によって和平が成立した高恩へ謝意を示した書状案。本来は参陣して礼を述べるべきだが遠国のため果たせないことを詫び、今後の厚誼を望み、詳細は一色殿・多羅尾氏が説明するとする。

  21. 後編1-No.1211 正八幡宮雨社殿造営茶番交名

    正八幡宮の両社殿造営に伴う茶番の分担者を順不同で記した交名。前条と同人数であるため大部分を省略し、田口殿・桑幡常陸介・朝見道詮らの名と七番、田所検校永堅の署名を載せる。

  22. 後編1-No.1212 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が、隣国の兵革のため無沙汰となったことを詫び、豊後・薩摩両国の和平について島津義久の意向を員連房に含めたので上申し、入洛の際には遠国ながら忠節を尽くしたいと述べた書状。沈香四斤を進上する。

  23. 後編1-No.1213 島津氏老医書状案

    島津氏老中が伊勢貞知へ、豊後への到着を長山讃岐介から聞いたと述べ、進物の孔雀が急死した事情を釈明する。老中は芦北方面へ在陣中で、相良方が前城三か所の明渡しを求める一方、水俣籠城中の蓑田・高橋らとの条件調整が続き、近日中の決着を見込むと報じた書状案。

  24. 後編1-No.1214 島津氏老臣書状案

    島津氏老臣が伊勢貞知へ、豊後方からもたらされた計策に表裏があるとして、添付の一通を京都で詳しく披露するよう求めた書状案。現地情勢との相違を懸念し、国境の陸路往来を停止すべきだと述べ、詳しい説明を後日に期す。

  25. 後編1-No.1215 島津義久書状案

    島津義久が鞍馬寺妙法坊へ、先年祈念のため少地を寄附したことへの礼使・書状、本尊像・札、扇子・織物一端を受領して喜び、子孫繁栄の祈念に一層励むよう依頼した返書案。沈香一斤を贈る。

  26. 後編1-No.1216 秋月種実書状

    秋月種実が島津義弘へ、以前から評判を聞きながら直接の交誼がなかったところ、義弘が島津義久へ各境目の情勢を申し述べたと聞いたため書状を送った。織物一端を祝いとして贈り、今後は特に相談し合いたいと申し入れる。

  27. 後編1-No.1217 島津義久譜

    相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。

  28. 後編1-No.1218 天正九年八月水俣城攻図

    天正九年八月の水俣城攻囲における島津軍の陣配置を示す図。本文ではNo.1171と同図であるため省略すると注記されている。

  29. 後編1-No.1219 島津義久譜

    相良義陽の人質を受け取った島津義久が、九月二十日に比志島国貞へ水俣城を受け取らせ、籠城衆七百余人を八代方面へ送還した記事。二十六日には義陽が佐敷で津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田などを献じて謝罪し、息子兄弟を人質とした。長子には島津家の通字を許して忠房と名乗らせ、義陽は阿蘇氏攻撃を申し出た。

  30. 後編1-No.1220 島津義弘譜

    島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。

  31. 後編1-No.1221 島津征久譜

    島津義久が相良義陽を攻めるため肥後へ大軍を進めた際、島津征久が従軍して葦北郡へ入り、鏡亀尾の陣を川上忠智・新納忠元と守った記事。諸陣が日夜攻撃すると義陽は領地と人質を差し出して和を請い、義久が囲みを解かせた。

  32. 後編1-No.1222 北郷忠虎譜

    天正九年八月の肥後水俣攻めで、北郷忠虎が島津軍に従い、島津義虎らとともに陣を構えたことを記す譜中記事。

  33. 後編1-No.1223 西川氏系図

    西川氏の伊勢守忠直が天正九年八月二十日、肥後国水俣の戦いで四十四歳にして戦死したと記す系図記事。この時、藤川高兵衛尉・石塚八左衛門尉・八郎右衛門も戦死した。

  34. 後編1-No.1224 殉国名薮

    天正九年八月の水俣攻めで戦死した島津方将士を掲げる殉国者記事。宮原狩野介景明、切通左馬允、島津出羽守らの名を記す。

  35. 後編1-No.1225 殉国名薮

    殉国した島津方将士の名と没年月を掲げる記事。鬼塚助左衛門、伊集院若狭らに関する記載を収める。

  36. 後編1-No.1226 島津義久譜

    天正九年八月十七日、島津義虎を大将、北郷氏・喜入季久・上原尚近らを副将として、相良義陽の領地である肥後国八代方面を攻めたことを記す義久譜中記事。

  37. 後編1-No.1227 新納忠元勲功記

    相良義陽が北原・菱刈との戦いや耳川出陣時に敵対したため、島津義久が三州の大軍で水俣城を攻め、新納忠元も談合衆として先陣の家久勢に加わった経緯を記す。矢文連歌を交わしたのち、義陽が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬と息子兄弟を差し出して和降を願い、囲みが解かれた。

  38. 後編1-No.1228 新納忠元譜

    水俣城攻めの矢文連歌を伝える古書付の写し。城主を入道宗雲とし、薩摩方から『秋風にみなまた落る木の葉哉』を送り、城中の返句に続いて新納忠元が第三句を付けたとする。ただし国名・城主名・伝来者には本文自身が不確かさを残す。

  39. 後編1-No.1229 新納忠元譜

    本文はNo.1167の記事と同文であるため省略されている新納忠元譜中記事。

  40. 後編1-No.1230 島津忠長・新納忠元連署状

    本文はNo.1168の文書と同文であるため省略されている、島津忠長・新納忠元の八月二十二日付連署状。

  41. 後編1-No.1231 勝部兵右衛門聞書

    天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。

  42. 後編1-No.1232 勝部兵右衛門聞書

    五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。

  43. 後編1-No.1233 在村田氏小掛物(新納忠元詠草)

    村田氏の小掛物に伝わる新納忠元の詠草。天正九年七月の諏訪法楽歌、同年秋の芦北陣中で海辺を詠んだ歌、津奈木の敵城を目前にして詠んだ歌の三首を収める。

  44. 後編1-No.1234 長谷場越前自記

    相良義陽の敵対を受けて島津義久が天正九年八月に水俣城を攻め、義弘・歳久・家久らが諸陣を守って大鉄砲を撃ち込み、相良方を降伏させた経緯を記す。九月二十日に比志島国貞が城を受け取り、義陽は佐敷・湯浦・津奈木を献じて和睦したが、恩に報いるため阿蘇方へ出兵し、甲斐宗運勢との戦いで討死したと続ける。

  45. 後編1-No.1235 古物語

    水俣陣中で城受取の際、敵が設けた針を埋めた障害を馬場氏の者が越えて戦死したため、刑部大夫が障害を切り開き、多数の味方を救ったという逸話。現地にその痕跡が残るとする。

  46. 後編1-No.1236 古物語

    矢崎の陣で拙斎が敵から島津家久の標識を奪い、丸田休右衛門に急いで城へ登るよう促されて横入りし、城を落としたという武功譚。丸田休右衛門は当時十六歳で、敵三十六人を討ち取ったと伝える。

  47. 後編1-No.1237 御家子女系図

    島津忠良の娘について、肝付河内守兼続の室となり、母は島津薩摩守成久の娘であったと記す子女系図。天正九年九月三日に七十一歳で没し、姶良含粒寺に葬られ、法名を月庭桂秋大姉とする。

  48. 後編1-No.1238 真木島昭光書状

    真木島昭光が喜入季久へ祝意を表して太刀一腰を贈った書状。追而書で、馬一疋を太守島津義久へ進上するので適切に取り計らうよう頼む。

  49. 後編1-No.1239 島津義久譜

    本文はNo.1219の記事の一部と同文であるため省略されている島津義久譜中記事。

  50. 後編1-No.1240 新納忠元書状

    新納忠元が星野九郎へ、音信が滞ったところ丁重な見舞いを受けた礼を述べる。肥後方面が残らず制圧されたことを祝い、太刀一腰と百疋への謝意を示し、筑後方面では談合中に豊後勢敗北の報が届いたので諸口も間もなく静謐になるだろうと伝え、賢慮と忠節を求める。

  51. 後編1-No.1241 伯耆行直書状

    伯耆行直が島津氏へ、前年夏に使書を受けながら遠方のため礼が遅れたことを詫び、疎意ではないと述べた書状。先方の弓箭について賢慮を求め、今後は特に連絡を取りたいとし、礼として太刀一腰と馬一疋を贈る。

  52. 後編1-No.1242 島津義久書状

    島津義久が琉球国王へ、遠海のため音信が絶えたことを詫び、累年妨害した隣国の凶徒を前年秋から討って数城を掌握し、九州が命令に従って安寧となったと報じる。琉球と薩摩の旧来の盟約を守ることを望み、甲二領・腹巻二領を贈り、詳細は国老に託す。

  53. 後編1-No.1243 島津義久感状

    本文はNo.1255の文書と同文であるため省略されている、天正九年二月十二日付の島津義久感状。

  54. 後編1-No.1244 八木正信書状

    八木正信が土持弾正忠らへ、先年の親成と相州の懇切を後代の証とし、両家に諸役が命じられる際は親成・久綱の一筋を左、正信の一筋を右に置き、他の土持名字より公儀上の上位とするよう求めた書状。

  55. 後編1-No.1245 近衛信尹書状

    近衛信尹が樺山善久へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、匠作へ使札を送ったと伝え、この機会に助力が得られれば喜ばしいと述べた書状。扇三本を贈り、詳細は進藤筑後守に託す。

  56. 後編1-No.1246 近衛信尹書状

    近衛信尹が喜入季久へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会の助力を頼み、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。本文朱書は天正九年とするが、編者注は天正十年の誤りと指摘する。

  57. 後編1-No.1247 近衛信尹書状

    近衛信尹が喜入久道へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会に助力を得たいと求め、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。

  58. 後編1-No.1248 島津氏老臣書状案

    本文はNo.1113の文書と同文であるため省略されている島津氏老臣書状案。

  59. 後編1-No.1249 島津氏老臣書状案

    本文はNo.1124の文書と同文であるため省略されている島津氏老臣書状案。前条と合わせた二通の案文は天正九年ごろのものとして同年末に収載されたとの注記がある。

  60. 後編1-No.1250 島津義久譜

    天正九年十二月二日、相良義陽が甲佐・堅志田・御船・隈荘方面へ進み、岩下町を破却して退く途中、甲斐宗運が伏兵で前後から攻めて義陽を討ち取った記事。球磨・八代が動揺して薩摩へ救援を求めたため、義久は新納忠元に大口などの兵を率いさせ、八代城と周辺諸所を警衛させた。

  61. 後編1-No.1251 島津義弘譜

    相良義陽が岩下町を攻めて退く際、甲斐宗運の伏兵に前後から攻められて戦死し、相良家が危急となったため、新納忠元が八代城などを守った記事。義陽の弟相良大膳亮が上球磨へ攻め入れて郡中を騒動させると、兵庫頭忠平が使者を送り、これを制止した。

  62. 後編1-No.1252 勝部兵右衛門聞書

    相良義照が島津への忠節を示すため阿蘇方へ出兵し、岩下町を破って勝利したのち、響野原で油断したところを甲斐宗運に急襲されて討死した経緯を記す。相良領が騒然となり、新納忠元が八代へ入って鎮めた後、大膳亮の上球磨侵入や八代老衆の要請を受け、翌年島津勢が八代を領有して相良遺児を球磨へ移し、花山に新城を築いて…

  63. 後編1-No.1253 友野元真奉公覚書

    松浦筑前守が八代・小川街道ほか五、六か村の地頭職を違えて京都へ走った後、友野元真がその跡を命じられたとする奉公覚書。甲佐・堅志田・御船・隈庄・吉松、筑紫・岩屋の陣まで従軍し、小川・内田街道の三百余人を率いて奉公したと述べる。

  64. 後編1-No.1254 勝部兵右衛門聞書

    相良義照の弟大膳亮が上球磨へ侵入して郡中を乱したため、島津忠平がこれを召し戻した記事。八代老衆の要請を受け、義久は八代を島津領とし、相良忠房兄弟を球磨へ移した。忠平が八代領有を辞退した後、平田光宗、次いで伊集院忠棟を地頭とし、花山に新城を築いて木脇刑部左衛門尉を城衆頭に任じた。

  65. 後編1-No.1255 島津義久感状

    島津義久が相良忠房へ、芦北着陣時に前非を改めて幕下に属した願いを受け入れたこと、阿蘇家との戦いで粉骨し、父義陽も名誉の戦死を遂げたことを賞した感状。この忠節を永く忘れず、変わらぬ関係を約す。

  66. 後編1-No.1256 島津義久譜

    相良義陽の弟大膳亮が兄と不和になって津奈木を去り、谷山を経て薩摩へ属し飯野に住んだ経緯を記す。義陽戦死後、大膳亮が無断で上球磨へ攻め入り郡中を騒動させたため、島津忠平が真幸へ使者を送り、召し戻して乱を止めた。

  67. 後編1-No.1257 島津義久琉球渡海朱印状

    大隅国根占湊の船『小鷹丸』に対し、天正九年十二月二十一日付で琉球への渡海を認めた島津義久の朱印状。

  68. 後編1-No.1258 島津義久譜

    天正十年正月、島津義久が球磨一郡を相良四郎太郎忠房に安堵して相良家を存続させ、相良氏の旧領のうち残余を島津忠平へ与えた記事。

  69. 後編1-No.1259 島津義弘書状

    島津義弘が、真物の壺が掘り出されたとの伝聞を受け、ぜひ実見したいと望んだ書状。近く参上する際には必ず持参するよう繰り返し頼む。

  70. 後編1-No.1260 合志宣頓書状

    合志宣頓が島津義弘へ、領国静謐のための出陣を祝い、段子一端を贈った書状。親の借用に関する件では島津義久の下知に従い、今後いっそう忠心を尽くす覚悟を述べる。

  71. 後編1-No.1261 島津忠平書状

    島津忠平が一乗院法印へ年頭を祝い、米菊丸が年々いっそう健固なのは懇ろな祈祷のおかげだと礼を述べ、引き続き繁栄を祈るよう頼んだ書状。詳細は永春が伝える。

  72. 後編1-No.1262 北郷時久書状

    北郷時久が伊集院忠棟へ改年を祝い、恒例に従って祝書を送り、扇二本を進上した書状。披露を頼み、詳しい祝意は後日に述べるとする。

  73. 後編1-No.1263 島津義久琉球渡海朱印状

    薩摩国坊津の船『権現丸』に対し、天正十年正月十七日付で琉球への渡海を認めた島津義久の朱印状。

  74. 後編1-No.1264 長谷場越前自記

    八代から番兵を求められ、新納忠元が菱刈・両院の兵を率いて急行し、内応勢とともに高方境まで制圧して宇土・熊本への海陸交通を安定させた記事。相良義陽の子息は球磨へ移り、小野・守山・松橋・小川への備えとして花山城を築き、木脇刑部左衛門尉を城主に、球磨・八代・薩摩・日向衆を置いた。

  75. 後編1-No.1265 新納忠元書状

    新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。

  76. 後編1-No.1266 上津浦鎮貞書状

    上津浦鎮貞が伊集院忠棟へ新年を祝い、前年末に新納忠元を通じて祝意を申し述べたが、重ねて礼を伝えた書状。太刀一腰と馬一疋を進上し、適切な取次と披露を頼む。

  77. 後編1-No.1267 上津浦鎮貞書状

    本文はNo.1266と同文であるため省略されている上津浦鎮貞書状。

  78. 後編1-No.1268 島津義久条々

    島津義久が父貴久の菩提所である鹿児島郡南林寺に定めた条々。山内の殺生禁断、田園の永代寄附、寺内喧嘩・不忠者の処断、寺門付近での乗馬禁止、将来の崇敬などを定め、島津家子孫に遵守と孝行を命じる。

  79. 後編1-No.1269 相良忠房書状

    相良忠房が島津義弘へ、球磨一郡の安堵と以前からの尽力に礼を述べた書状。祝礼として太刀一腰と青黒毛の馬一疋を贈り、今後の厚誼を望み、詳細は南立坊に託す。

  80. 後編1-No.1270 島津義久譜

    相良家が弱体化したため、八代老衆が八代を島津領とするよう請願した経緯を記す。義久は義陽戦死後の領地取得を辞退したが、他勢力に奪われれば相良・薩摩双方に害があるとの強請を受け、自八代両城から関・谷山・高塚・豊福までを領し、球磨一郡を忠房に安堵して相良家を存続させ、残る旧領を忠平へ与えた。

  81. 後編1-No.1271 島津義弘譜

    相良家の勢力が朝露のように危うくなったため、八代老衆が八代を島津領とするよう願った記事。義久は再三辞退したが、八代が他人の手に渡れば相良氏にも薩摩にも害となるとして承諾し、八代から豊福までを領して後に義弘へ与えた。

  82. 後編1-No.1272 相良忠房書状

    相良忠房が伊集院忠棟へ、球磨一郡の安堵に礼を述べ、金覆輪の太刀一腰と鹿毛の馬一疋を進上し、詳細は南立坊から伝えるので披露を頼んだ書状。

  83. 後編1-No.1273 島津忠平書状

    島津忠平が一乗院法印へ、米菊丸のため不動護摩供と薬師法を修し、配札・護符を送られた礼を述べた書状。米菊丸が息災堅固であることを喜び、遠方まで人を遣わした厚意に感謝して、引き続き懇ろな祈祷を頼む。

  84. 後編1-No.1274 島津氏老臣連署条々

    島津氏老臣四名が種子島久時へ示した琉球渡船等の条々。琉球渡船で先例に違わず出帆ごとに島津方へ連絡すること、直木の三分一、壁材の割当、六か国や三島・他国から木材を買う船の入津を許さず停止することを定める。

  85. 後編1-No.1275 真幸吉田天神社奉納和歌

    島津義久が真幸吉田天神社へ奉納した十首和歌。立春・花・郭公・萩・月・雪・待恋・逢恋・山松・神祇を題として、四季、恋、神の加護を詠む。

  86. 後編1-No.1276 新納忠元譜

    天正十年六月、明智光秀が本能寺で織田信長を弑し、十三日に羽柴秀吉が小栗栖で光秀を討って復仇したと記す。京都滞在中の日向長持寺僧が近衛前久を訪ねたため、前久は同僧を帰国させ、伊集院忠棟への書状を持たせた。

  87. 後編1-No.1277 新納忠元譜

    天正十年六月、新納忠元が冥福を祈るため大般若経六百巻を大口の宇佐八幡宮へ寄進し、巻頭に寄進銘と願主藤原忠元の名を記した記事。

  88. 後編1-No.1278 近衛前久書状

    近衛前久が島津義久へ、天下の情勢は既知であろうとして詳述せず、自身は事件後に蟄居していると伝えた書状。万一の場合の支援を頼み、鷹は不要とし、沈香百両の厚意に礼を述べる。

  89. 後編1-No.1279 島津義久書状案

    島津義久が伊勢貞知へ、勅使が二度下向したが前年は近衛家の書状が添えられず、修法の案内もなく疑念を表明したところ、今回も配慮がなく悪語に及んだと抗議した書状案。ただし真の勅命なら遠国ながら応分の奉仕をするとし、今後は同様の仲介時に信用できる証拠を求める。

  90. 後編1-No.1280 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が伊勢貞知へ、妙音院下向時に近衛家の書状がなく信用できないと重ねて説明したのに、再度疑わしい使者が来て悪口に及んだと報告する。弓箭中で進物も整わないが疎意はなく、今後は禁中関係を近衛家の証文で確認し、虚偽なら上聞に達するよう求める。

  91. 後編1-No.1281 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が伊勢貞知へ、前年の上使による豊薩和平に島津義久は命に従い、現在まで疎意がないのに、豊後方が口実を設けて鬱憤を晴らそうとし、宗麟の縁者を在京させて訴訟しているとの風聞を報じた書状。龍造寺氏との隔心もあって諸方に苦慮しており、上方の実情を腹蔵なく知らせるよう求める。

  92. 後編1-No.1282 島津義久書状案

    島津義久が大友宗麟へ、京都の下知に従って豊薩関係が先例どおり親密になったことを喜び、前年春の使僧への返礼が遅れたことを詫びた書状案。太刀一腰と馬一疋を贈り、詳細は大慈寺西堂に託す。

  93. 後編1-No.1283 島津義久書状案

    島津義久が大友義統へ、前年に京都の仲介で豊薩和睦を受け入れ、今も喜んでいると述べた書状案。前年春に花岳院が届けた厚意への返礼が遅れたことを詫び、今後の交誼を望み、太刀一腰と馬一疋を贈って詳細を大慈寺西堂に託す。

  94. 後編1-No.1284 宗湔書状

    宗湔が伊集院忠棟へ、段子二巻を受領した礼を述べ、本能寺後の天下の不慮の情勢に触れた書状。勅使として妙音院が再び下向し、四品叙位と修法について上意を伝えたため叡慮を伺い、女房奉書を得たと報じる。坂弦五十筋も贈る。

  95. 後編1-No.1285 新納忠元譜

    天正十年八月、京都から帰った長持寺僧が新納忠元へ、細川藤孝らが明智の変で死んだとの道中の風聞を語った記事。和歌に秀でた藤孝を長く師と望んでいた忠元は、会えぬまま死去したと信じて哀悼し、伊集院忠棟へ情を尽くした書状を送った。

  96. 後編1-No.1286 新納忠元書状

    新納忠元が伊集院忠棟へ、近衛前久の書状を持って帰国する長持寺僧を熊本から大口経由で安全に同行させるよう依頼した書状。僧が京都情勢を直説するとし、羽柴秀吉が中国方と和談して明智方を討ち、信長の仏事を行ったと報じる。一方、細川藤孝戦死の風聞を惜しみ、秋の出勢について吉利忠澄の進言も伝える。

  97. 後編1-No.1287 新納忠元詠草

    天正十年八月二十五日の青木天神法楽で、新納忠元が『かよふ野の萩や小鹿の思草』と詠んだ詠草。本文はほかの歌を省略する。

  98. 後編1-No.1288 樺山紹剣自記

    水俣攻囲の五陣と佐敷獲得後、樺山忠助が義久への慶賀に参上したところ熊本警固を命じられ、船で松葉瀬へ渡って宇土を経て熊本へ入った記事。城親正は病で対面できず年末に死去し、熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木町を焼いたが、忠助は城入道とともに警固した。

  99. 後編1-No.1289 島津義久書状案

    島津義久が近衛家へ、前年十一月二十六日付の書状と親王筆の色紙三十六枚、板物二端、引合十帖などを正月に受領した礼を述べた書状案。京都の錯乱への連絡が遠路のため遅れたことを詫び、洛中静謐と近衛家繁栄を願い、進物を添えて披露を頼む。

  100. 後編1-No.1290 島津忠平書状

    島津忠平が一乗院法印へ、遠隔のため無音となったことを詫び、米菊丸のため朝夕怠らず祈祷しているとの知らせを喜んだ書状。周囲が米菊丸の命を危ぶむため心配しているが、法印の祈祷を頼む以上は健固になると信じ、引き続き厚意を求める。