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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 801~900件・9 / 15ページ

  1. 後編1-No.796 近衛前久書状

    近衛前久が警固のため滞留する喜入季久の尽力と親密な奉公を喜び、今後も他と混同せず命じるので引き続き馳走するよう求める。『詠歌大概序』を自筆で贈り、貞知に詳細を伝えさせ、義久へもよく申し聞かせるよう依頼する。

  2. 後編1-No.797 足利義昭御内書

    足利義昭が帰洛について毛利氏へ申し入れて承諾を得たことを伝え、武田・北条・上杉以下の東西諸勢力を統一して出陣が迫っているとして、島津氏が忠功を尽くすよう老臣らに意見することを求める。詳細は昭光・昭秀が伝えるとする。

  3. 後編1-No.798 真木島昭光・一色昭秀連署副状

    真木島昭光・一色昭秀が、足利義昭が中国へ移り毛利氏の支援を得て、武田・北条・上杉以下の東西諸勢力を糾合し帰洛を急いでいると説明する。義昭の御内書を受け、島津義久へ忠勤を尽くすよう進言することを求め、詳細は蓮華坊が伝えるとする。

  4. 後編1-No.799 島津義久譜

    天正三年四月二十一日、琉球使節を慰労するため島津義久が犬追物を催したことを記す。

  5. 後編1-No.800 犬追物手組

    琉球使節慰労の犬追物手組で、義久・歳久・征久ら射手の配置と射犬数、検見・喚次を記す。琉球衆の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚も同席した。天界寺南叔が漢詩を作り、雪辱・東雲以下が和韻し、義久ら一族は和歌を詠んだ。本文日付は天正三年四月二十一日と読める。

  6. 後編1-No.801 島津義久譜

    琉球使節を慰労する犬追物で、使節の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚が同席した。天界寺南叔の漢詩に雪辱和尚・洛陽人東雲以下が十首を和し、義久・不断光院・浄光明寺・珠玄・珠長ら一族が和歌を詠んだ文化的接遇を記す。

  7. 後編1-No.802 島津征久譜

    天正三年四月二十一日、琉球使節慰労の犬追物で島津征久が二の角に立ち、犬十一匹を射たことを記す。さらに同年冬、亡父心翁大安大居士の追福のため廻の坂傍に石塔を建て、一寺を創建して大安寺と号した。

  8. 後編1-No.803 島津氏老臣連署状

    島津氏老臣四名が、足利義昭が中国へ移り東西諸勢力の支援で帰洛を急いでいるとの御内書を受けたことを祝し、遠国ながら島津領の忠節を尽くして馳走すると返答する。詳細は蓮華坊へ伝えるとする連署状。

  9. 後編1-No.804 島津氏老臣連署状

    島津氏老臣四名が、四月十七日付の足利義昭御内書を五月十九日に受領したと述べ、東西の武士が支援して帰洛が迫ることを祝う。遠国ながら相応の奉公に微力を尽くし、祝儀として白糸十斤を進上するので披露してほしいと依頼する。

  10. 後編1-No.805 島津義久書状案

    島津義久が大覚寺門跡からの書状を拝見し、大興寺末寺の件は不断光院が当地の事情を知っているので伝達させると返答する。織色一表を拝領した礼として緞子二端を進上し、門跡へ披露するよう求める書状案。

  11. 後編1-No.806 島津義久書状

    島津義久が、争論のため大乗院が当地へ赴き、腹を立てて退出したとの風聞を聞いて案じる。重大事なので自身が赴いて意見を聞きたいが、差し支えがあれば使節を通じて熟談し、五日の延期を無沙汰と思わないでほしいと、幼少以来の朋友として心底を伝える。

  12. 後編1-No.807 飯野一之宮大明神再興棟札

    島津忠平義弘夫妻子女を大檀那として飯野一之宮大明神社頭一宇を再興した棟札。地頭・先地頭、大工、小工、導師、遷宮、祝など造営関係者を列挙し、天正三年八月十一日の年紀を記す。

  13. 後編1-No.808 島津義久直書

    島津義久が、十三日夜に金峯山神前へ落雷があったことについて、当家にとって吉兆か凶兆かを問うた直書。

  14. 後編1-No.809 小笠原宗賢書状

    小笠原宗賢が喜入季久からの書状と沈香に礼を述べ、前年に島津歳久、今度は島津家久と対面したことを喜ぶ。老齢と中風を訴え、生前に季久の上洛を望み、包丁二丁を贈った書状。

  15. 後編1-No.810 島津歳久譜

    天正三年、島津義久の命で歳久が市来湊から海路上洛し、川上忠真・八木主水佑を案内役として詩歌・連歌を学んだ。紹巴と連歌を催し、青蓮院尊朝・尊道親王・近衛前久の筆跡を得たことを記す。

  16. 後編1-No.811 青蓮院尊朝書状

    青蓮院尊朝が島津歳久との対面を喜び、八木主水佑の求めに応じて入木道五箇条を伝授し、三種の贈物に礼を述べる。尊道親王筆一枚を添え、詳細は治部卿から伝えるとした書状。

  17. 後編1-No.812 近衛前久書状

    近衛前久が島津歳久との対面を喜びながら、急いで帰国することを残念に思うと述べ、扇三本を贈った書状。詳細は貞知から伝えるとする。

  18. 後編1-No.813 近衛前久書状

    近衛前久が島津歳久の上洛を喜び、島津義久の変わらぬ忠節を賞する。前年に織田信長とともに京都から退いた後も家領を回復できない窮状を訴え、近衛家再興への援助を求め、琵琶引一巻を贈った書状。

  19. 後編1-No.814 青蓮院尊朝書状

    青蓮院尊朝が八木入道に、龍伯(島津義久)から依頼された書を時間不足で完成できなかったと詫び、冬までに仕上がれば侍従を介して届けるので取り成してほしいと依頼した書状。年次には天正十六年かとの編者推定がある。

  20. 後編1-No.815 青蓮院尊朝書状

    青蓮院尊朝が、島津義久から遠国の酒を贈られた礼を述べ、養生のため少量を賞味したと伝える。依頼された書が遅れていることへの取り成しを頼み、次の上洛時の再会を望んだ書状。

  21. 後編1-No.816 大口泉徳寺勝軍地蔵光背銘

    大口泉徳寺本尊の勝軍地蔵木像・光背・蓮台の寸法を記し、大檀那新納忠元・忠恒の武運長久と家門繁栄を願って華厳意曇が造立した旨を刻む。確定版年月日は天正元年だが、本文銘文は天正三年乙亥菊月二十八日と読める。

  22. 後編1-No.817 犬追物手組

    天正三年十月二十日の犬追物手組として、四角に配した射手と各人の射犬数、検見・喚次を記す。島津忠長・歳久、喜入季久、新納忠元らが参加した。

  23. 後編1-No.818 犬追物手組

    加世田で犬百匹を射立てた天正三年十月二十一日の犬追物手組。四角の射手、各人の射犬数、検見と喚次を記し、島津歳久・家久、新納忠元、島津忠長らが参加した。

  24. 後編1-No.819 祥雲寺脇立観音銘文

    祥雲寺に安置する脇立観音の像高・蓮華座・光背を記し、華厳意曇が彫刻した旨を刻む。あわせて新納忠元・忠興の武運亨通と家門繁昌を祈る観世音菩薩造立銘や、後年の鰐口寄進銘を載せる。

  25. 後編1-No.820 賦何木連歌

    島津義久を中心に珠玄・珠長・久隅・芳渓・宗運・上井覚兼らが詠んだ百韻連歌。発句「嶺とをき雪やつりはり玉簾」から、四季・旅・恋・述懐などの句を連ね、末尾に各人の句数を記す。

  26. 後編1-No.821 殉国名薮

    天正三年十二月八日、日秀上人が、通常の修行では願いを遂げ難いとして、入定して鬼霊となり兵を助け敵を滅ぼすと誓い、日置山に三光院を創建して入定したことを記す。石廟が残るという。

  27. 後編1-No.822 島津義久譜

    天正三年十二月十四日、島津義久が上井覚兼・白濱周防介を浄光明寺へ遣わした。豊後から肝付へ来た島津勝久の子が旧領内居住を望んだが、浄光明寺の意見を聞いたうえで、国内居住は許可し難いとした。

  28. 後編1-No.823 島津義久譜

    天正三年十二月二十七日、肝付義兼の後室が使者竹田笑我を介し、三郎四郎は家督に不適として別の男子を立てる意向を伝えた。伊東方は後室を高城から志布志へ送ろうとしたが、肝付方が伊東氏との断交を理由に通行を拒み、後室は高城領へ戻った。

  29. 後編1-No.824 島津家久上京日記

    島津家久が天正三年二月に串木野を発ち、肥後・筑後から長門・安芸・播磨を経て上洛し、京都・坂本・堺・奈良・伊勢などの社寺・名所を巡った往復日記。里村紹巴らとの連歌、公家・僧侶・武家との贈答・酒宴、祭礼・猿楽、各地の城郭・町並みや荒天の船旅を克明に記す。京都では織田信長の行列を見物し、信長が馬上で居眠り…

  30. 後編1-No.825 出水専修寺住持覚書

    近衛前久の薩摩下向について、随行者名簿と行程、専修寺への宿所下賜、八代での拝領・進上を記す覚書。天正四年三月に鹿児島へ下向し、七月に鹿児島を発ち八月に八代へ上ったこと、住持が前久から馬や書状を受けたことを載せる。

  31. 後編1-No.826 賦何路連歌

    島津義久を中心に其阿・芳渓・珠玄・珠長・久隅・意外・賀雲・上井覚兼らが詠んだ百韻連歌。発句「遠山も見るやこゝろの花盛」から四季・旅・恋・述懐などを連ね、末尾に各人の句数を記す。

  32. 後編1-No.827 賦何人船等連歌

    「何人」「何船」「何路」「二字返音」「初何」「山何」「何風」「薄何」「何草」「御何」の十組について、発句と脇句以下を集成した連歌資料。島津義久・上井覚兼・樺山玄佐・喜入季久・伊集院忠棟らの句を収める。

  33. 後編1-No.828 島津国史

    天正四年の記事を編年で記す。近衛前久の鹿児島滞在と犬追物・和歌連歌、高原城攻めと伊東方の開城、三山・須木の降伏、肝付方の南郷敗戦と志布志・櫛間の守備、下大隅巡行と地頭配置など、島津氏の軍事・外交・文化活動を収録する。

  34. 後編1-No.829 上野隼人覚書

    天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。

  35. 後編1-No.830 年代記

    天正四年の主要事件として、近衛前久の三月二十九日鹿児島下向と六月二十六日出立、八月の高原城開城・小林城放棄、太守の入城祝儀を記す。また四月、小坂から住吉・天王寺へ走った一向宗徒が討たれたことを載せる。

  36. 後編1-No.831 近衛前久書状

    近衛前久が専修寺で寄宿中に受けた種々の馳走を賞し、同寺を今後は勅願所に定め、家来に列する旨を認めた書状。

  37. 後編1-No.832 町田忠房坪付

    大隅国清水内の一か所を田中縫殿助に示した坪付。近衛前久の花押を据え、島津以久家老町田忠房家に伝来した文書である。

  38. 後編1-No.833 島津義久書状

    島津義久が義弘に、近衛前久の伊集院到着と家久の市来湊下船を伝え、前久饗応の犬追物は人員不足や伊東方との境目緊張、農繁期を考慮して今回は中止してもよいと指示する。火箭の準備と近日中の馳走も命じた。

  39. 後編1-No.834 大友宗麟書状

    大友宗麟が島津義久に、薩摩方面の様子を詳しく知らせてほしいと求め、従来どおり親交を保つ意向を述べる。詳細は酒井寺快宥法印から伝えるとした書状。

  40. 後編1-No.835 島津義久書状案

    島津義久が、相手方の船が前年に当地の港を出帆した際に敵に拿捕された件について、肝付氏との先例・仲介を踏まえて返還を取り計らったと通知する。今後も廻船などを通じて相互に連絡したいと述べた書状案。

  41. 後編1-No.836 島津義久譜

    伊東義祐の家臣落合勘解由が、日向川南三千町はもと島津氏領であり、島津方は一族・家臣とも強大なので、川南を去って和睦すべきだと諫めた。義祐はその進言を受け入れず、落合は空しく退いた。

  42. 後編1-No.837 島津義久譜

    近衛前久が九州の戦乱調停のため京都から西下し、天正三年十二月二十五日に出水専修寺へ入り越年、翌年三月十七日に鹿児島へ到着して宝持院を旅館とした。義久が日夜厚遇し、前久の台覧に供する犬追物を二日間催した。

  43. 後編1-No.838 島津義久譜

    近衛前久の台覧に供する犬追物が、天正四年四月九日と同十二日の二日にわたって行われたことを記す。

  44. 後編1-No.839 近衛前久詠草

    島津歳久の所望に応じて近衛前久が書いた和歌。「乗駒の道を伝へて白真弓引きつれつつも犬を追ふ袖」と、弓馬の道と犬追物を詠む。

  45. 後編1-No.840 島津征久譜

    天正四年春、近衛前久の鹿児島来訪を厚く遇し、台覧のため犬追物を催した際、島津征久が初日は一の角で犬四匹、翌日は犬七匹を射たことを記す。

  46. 後編1-No.841 犬追物手組

    近衛前久の台覧に供した天正四年四月九日の犬追物手組。四角に配した射手、各人の射犬数、検見・喚次を記し、島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが参加した。

  47. 後編1-No.842 犬追物手組

    天正四年四月十二日の犬追物手組。四角の射手と各人の射犬数、検見・喚次を記し、前久台覧のもと島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが射芸を披露した。

  48. 後編1-No.843 島津義久譜

    天正四年四月十四日、近衛前久が鹿児島に滞在していた際に歌会を催したことを記す。

  49. 後編1-No.844 夏日詠月前郭公和歌

    「月前郭公」を題に、島津義久・近衛前久・伊勢貞知・島津歳久・新納忠元らが詠んだ和歌集。月夜の郭公の声を都・雲居・旅情などに結び付け、天正四年四月十四日の会として収める。

  50. 後編1-No.845 近衛前久滞留中行事及進上物覚

    近衛前久の鹿児島滞留中に行った歌会・馬追・花見・連歌・川遊・馬揃・犬追物・瀬引・笠懸・春日社参詣などを列挙する。帰京に際して茶入・葉茶壺・琉球蓮・沈香・色糸・蘇木・上布・真綿などを進上した。

  51. 後編1-No.846 大村重頼古戦書付

    近衛前久の鹿児島下向中に行われた連歌・馬追・川遊・犬追物・鷹野・巻狩・花見などの接遇と、帰京時の進上物を記す。前久は九州諸大名の求めで和睦を仲介しようとしたが、島津義久が同意せず帰京したという。

  52. 後編1-No.847 夏日詠月前郭公和歌

    本文はNo.844と同じ「夏日詠月前郭公和歌」につき省略されている。近衛前久の鹿児島滞在中、月前の郭公を題として義久・前久・歳久・忠元らが詠んだ歌会詠草の重出である。

  53. 後編1-No.848 島津義久・歳久詠草

    天正四年四月十四日の当座詠から、島津義久の「中婚の隔り」と菖蒲の葉を詠む歌、島津歳久の椛山花見の歌「白雲の尾上につづく松原や…」を抄出した詠草。ほかの詠者の歌は省略される。

  54. 後編1-No.849 近衛前久詠草

    近衛前久が犬追物の興に際して詠んだ一首を、島津歳久が五月七日に写した詠草。正本は殿中にあると注記する。

  55. 後編1-No.850 新納忠元勲功記

    天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。

  56. 後編1-No.851 島津義久書下

    島津義久が、島津家との歴然たる旧好により、頴娃小四郎家の所定の役務について、代々の嫡子一人を永く免許すると認めた書下。

  57. 後編1-No.852 近衛前久書状

    近衛前久が島津義久による古今集伝授の無事成就を祝い、礼として太刀一腰・馬一匹・銭一万疋と珍しい唐物を受領したことを喜ぶ。伝授した道を余流と混同せず、今後も心掛けるよう求め、物名の書付を添えた。

  58. 後編1-No.853 島津義久書状

    島津義久が一乗院門跡からの尊書と扇を拝領したことに謝意を述べ、返礼の進物を送るので門跡へ披露してほしいと北小路実宗に依頼した書状。近衛前久の上洛時に託した請状案である。

  59. 後編1-No.854 近衛前久内意書

    近衛前久が伊勢貞知に、今回の在国中に児玉備前守が示した奉公は神妙であったと心得、その旨を本人へ伝えるよう命じた内意書。

  60. 後編1-No.855 島津義久書状

    島津義久が義弘に、川上左京亮からの報告を踏まえた境目の軍事談合について問い合わせ、現地足軽の状況を見極めるよう求める。熊鷹の羽一手と適期の竹を求め、出陣案と境目の情報を詳しく調べて神慮を伺う意向を伝えた。

  61. 後編1-No.856 島津龍伯義久書状

    島津義久(龍伯)が花林寺に、祈祷を一段と懇ろに行う旨の神載を差し出したことを喜び、義久側も今後別心なく、丹精を尽くすよう望むと伝えた書状。本文末に編年を疑う注記がある。

  62. 後編1-No.857 島津義久掟書二十ケ条

    領国統治と人の処し方を説く二十箇条の掟。民の飢寒を思い奢侈を避け、刑罰を軽く恩賞を厚くし、農繁期の労役を控え、君主の私利より民利を優先するよう命じる。忠節を公平に賞し、讒言・虚言・利口・悪友を退けるなど、為政者の倫理を示す。

  63. 後編1-No.858 島津義久書状

    島津義久が義弘に、庄内方面へ三百人を送る計画は通路・橋の備えや案内人の報告が想定と異なるため今回は見送ると通知する。高原口の判断を優先し、川上左京亮・雅楽助を十六、七日ごろ派遣して詳しく相談させるとした。

  64. 後編1-No.859 島津義久詠草

    島津貴久夫人雪窓妙安大姉の三十三回忌が天正四年八月十五日に当たるため、義久が追善の悲しみを述べ、広揖和尚の詩の韻字を用いて「月にちるはゝその秋は程もなく…」と一首を詠んだ詠草。

  65. 後編1-No.860 彦山法印豪継書状

    彦山般若坊法印豪継が、日向表への出陣が神恵によって勝利したことを祝し、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと伊集院右衛門大夫に依頼した書状。

  66. 後編1-No.861 島津義久譜

    天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。

  67. 後編1-No.862 島津義弘譜

    島津義弘の視点から高原城攻めを記す。義弘が伊東方の越境を止めるため出兵を義久へ提案し、諸軍を率いて進発した。門壁攻略と断水の後、家久・忠長を中心に人質交換を整え、伊東新二郎以下が退城、高原・三山・須木など八か所を獲得し、義弘は三山城に入った。

  68. 後編1-No.863 島津中務大輔家久譜

    天正四年八月十九日の高原城攻めで、家久が義弘・歳久・征久・忠長と軍功を挙げたことを記す。二十一日には忠長と鎮守尾に陣して敵将の降伏申出を義久へ伝え、人質交換を行い、二十三日の退城後、三山城で凱歌を唱えて散軍した。

  69. 後編1-No.864 島津忠長譜

    伊東方が高原城を拠点に霧島山を越えて侵入したため、天正四年八月、義久・義弘が薩隅軍を率いて攻囲した。門壁を破り水路を断つと城兵は二十三日に降伏退去し、その間、忠長は義弘・征久・歳久・家久・北郷時久らと軍務に尽力した。

  70. 後編1-No.865 島津征久譜

    天正四年八月十九日、義久が大軍を率いて高原城を攻め、征久が義弘・歳久・家久らと軍功を挙げた。二十三日に城兵が降伏退去し、二十八日には三山などの敵城が義久の手に入ったことを祝して太刀を献じた。

  71. 後編1-No.866 北郷時久譜

    北郷時久が一万の兵を率いて江平へ進み、高原城南口を攻めて家臣数十人を失ったこと、三山・須木・奈佐木が降伏したことを記す。戦後、上井覚兼が三山へ来て時久の武功を賞し、田野城攻略の人数・敵情と神慮を探るよう命じた。

  72. 後編1-No.867 樺山久高譜

    高原城攻めの初対陣で、城内の勇士落合豊後守が若い樺山久高へ弓を引いた。傍人が、美しい若者を殺して得るのは一時の名声にすぎず後世に非道の評判が残ると諫めたため、落合は弓弦を切り、久高は命を救われた。

  73. 後編1-No.868 樺山紹剣自記

    天正四年の領域変動を簡潔に記す。島津氏が高原・三山を領有し、伊東氏は野尻を保持した。さらに福島・志布志を得た一方、肝付氏は高山・姶良・内之浦・岸良を残し、禰寝氏に姶良・西俣を与え、鹿屋・串良・大崎は島津方が掌握した。

  74. 後編1-No.869 島津義久譜

    天正四年八月二十八日、島津義久が義弘の多年の軍功を賞し、三山を与えたことを記す。その祝儀に島津義虎が良馬を献じた。

  75. 後編1-No.870 高原城攻出陣賦

    高原城攻めに際する軍役賦課を記す。田方一町につき一人、主従二人と詰夫・送夫馬を出し、自弁の飯米に加えて、手甲・楯・立木・鎌・鍬・鋸・鑿・鉈・もっこ・縄などの普請具を携行させた。町高の換算に関する後世の注記も付す。

  76. 後編1-No.871 高原城攻出陣賦

    高原城攻めの出陣賦として、田方一町ごとに主従三人と送夫馬を出し、寺社・後家衆にも負担させること、無足衆は武人一人に詰夫を付けることを定める。飯米の自弁期間や普請具の算用方法も規定する。

  77. 後編1-No.872 高原城合戦従軍者交名

    天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。

  78. 後編1-No.873 殉国名薮

    高原城合戦で天正四年八月十九日に戦死した三原重房・入佐郷久震・野村良綱・四本半忠次・宮原越中守らを列記する。続いて十月朔日の南郷合戦で戦死した新納忠氏・忠盈、安楽兼治・兼清らも収める。

  79. 後編1-No.874 高原城攻之記

    義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。

  80. 後編1-No.875 上井覚兼日記

    上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。

  81. 後編1-No.876 肝付氏略伝

    肝付兼護が三百余兵で高原城攻めに従軍したが傍観したため、伊東方への内通を疑われた。忠節を示すため十月に飫肥へ出兵して南郷で伊東軍と戦うが大敗し、新納忠氏兄弟ら数百人が戦死した。福島城は鎌田政近・島津征久の援軍で守られた。

  82. 後編1-No.877 庄内平治記

    伊東氏との長年の抗争から高原城攻めに至る経緯を叙述する。義久・義弘・北郷時久らが城を攻め、双方に多数の死傷者を出したが、断水と人質交換により伊東勘解由が退城し、高原・高崎・三山・須木など八か所が島津方に属した。戦後、覚兼が時久へ田野城攻略を諮問した。

  83. 後編1-No.878 樺山玄佐自記

    樺山玄佐が、高原城攻めの出陣・攻囲・断水・開城と、小林・須木など周辺諸城の帰属を回想する。孫の忠助・久高も戦ったとし、続いて肝付勢の飫肥出兵と大敗、志布志・福島の島津方接収、肝付領削減を記し、日新忠良の娘が肝付家にいたため家を残した慈悲と説明する。

  84. 後編1-No.879 長谷場越前自記

    高原城攻めを叙事的に記す自記。島津軍が諸口から門壁を破り、多数の死傷者を出しながら断水して城を孤立させた。伊東援軍は猿瀬に陣したが救援できず、城兵は降伏して退去、三山・小林・温水・須木も放棄され、義久・義弘は番兵を置いて凱旋した。

  85. 後編1-No.880 谷口宮内左衛門覚書

    天正四年八月十九日、島津方が高原城を攻め取った後、上原長門守尚近を地頭とし、衆中三百五十人を付けて移住させたことを記す。後に日向一国領有時には尚近を飫肥地頭としたが、豊臣秀吉の下向時に飫肥城は伊東氏へ与えられた。

  86. 後編1-No.881 箕輪伊賀覚書

    竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。

  87. 後編1-No.882 友野元真奉公覚書

    高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。

  88. 後編1-No.883 頼継立願文

    花林寺住持頼継が高原出陣の勝利を霧島権現と末社へ祈願した立願文。所領寄進、大節供を七年間勤めることなどを誓い、若宮八幡・有王二十一社・天神・荒神・善神・野神らへの祭田配分を列記する。

  89. 後編1-No.884 北郷時久譜

    住吉原合戦の敗北で肝付勢が衰えると、義久は肝付氏が降れば救仁院・志布志を北郷時久の忠賞に与えると約した。天正四年十月に肝付氏が降属した後、伊集院忠棟の反対により志布志の代わりに恒吉・永吉・内之浦百八十町が時久へ与えられた。

  90. 後編1-No.885 庄内平治記

    肝付氏が住吉原合戦で大敗して衰えたため、義久は降属後に救仁院・志布志を北郷時久へ与えるとした。しかし伊集院忠棟の意見で志布志を改め、恒吉・永吉・内之浦百八十町を忠賞として与えた経緯を記す。

  91. 後編1-No.886 上野隼人覚書

    野尻地頭福永丹波守が島津方の高原地頭上原尚近へ人質を出して内応し、天正四年十二月七日に島津軍が野尻へ入った経緯を記す。伊東義祐は綾城で抗戦を望んだが領内放火を受け、一日で国を捨てて豊後の大友氏を頼ったという。

  92. 後編1-No.887 肝付兼護書状

    肝付兼護が、近衛前久の下向時に無沙汰したことを先に使者で詫びたところ懇意に扱われ、さらに細書軸・片書・履物などを贈られた礼を述べる。生涯の面目であるとして、前久へ聞こえるよう取り成しを求めた書状。

  93. 後編1-No.888 肝付兼護書状

    肝付兼護が伊勢貞知からの書状と油煙五丁を受領した礼を述べ、今後相応の用事を命じられれば速やかに奉公すると約す。返礼として赤地の織物一端を進上した書状。

  94. 後編1-No.889 島津義久詠草

    本文はNo.859と同文につき省略されている。島津貴久夫人雪窓妙安大姉の三十三回忌に、義久が追善の悲しみを詠んだ詠草の重出である。

  95. 後編1-No.890 近衛前久書状

    近衛前久が八代滞留中、高原方面の戦勝を祝う。和泉滞在中に島津義虎と相談して出陣しようとしたが、義久が義虎を制止し、前久の出馬も負担になると聞いて遠慮した事情を述べ、加勢できなかった無念を伝えた。

  96. 後編1-No.891 某袖判留守職補任状

    石清水八幡宮善法寺法印完清の命により、正執印紀景親を大口国正八幡宮の留守職に補任し、神事祭礼に専念するよう命じた執達状。確定版は天正四年だが、本文年紀は天正二年九月十日と読める。

  97. 後編1-No.892 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が宮原景種に、去る晦日の石城攻略を祝し、七月の石口での子息の働きも比類ないと賞する。義久へ報告すると約し、現在の平泉見舞いも外聞・実儀とも申し分ないとして、面会時の詳談を望んだ書状。

  98. 後編1-No.893 近衛前久書状

    近衛前久が肝付兼盛と鹿児島で対面できたことを喜び、道中の馳走にも謝意を示す。義久へもその旨を伝え、今後特に文通を続けると約し、京都からの知らせで近辺まで出向いた事情は石田弥介から伝えるとした。

  99. 後編1-No.894 相良頼房書状

    相良頼房が島津義久からの誓書を畏れ入り、代々の関係と近年の格別な指南を踏まえて永続的な親交を確かめる。詳細は善興寺に伝えさせ、礼として太刀一腰・織筋一端を進上した書状。

  100. 後編1-No.895 大友宗麟書状

    大友宗麟が島津義久に、遠隔のため久しく無音で薩摩方面の様子を知りたいと述べ、自領の戦況は思いどおりなので安心するよう伝える。琉球へ派遣する使者の通行を支援するよう求め、織物五端を贈った書状。