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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 1401~1480件・15 / 15ページ

  1. 後編1-No.1391 殉国名薮

    天正十二年三月二十四日の島原合戦で戦死した新納駿河守・久永九郎左衛門尉以下の将士と、同年十一月二十六日の戦死者を列記する殉国者名録。各人の実名・父祖・年齢・後裔などを注記する。

  2. 後編1-No.1392 島津義久願文

    島津義久が愛宕山大権現へ、神威によって凶徒を敗北させる勝軍の加護を願い、成就の際は宝殿を開き奉幣・饗礼を捧げると誓った願文。神道・仁義を崇め、武運兵略と子孫への弓馬の名誉継承を祈る。

  3. 後編1-No.1393 島津義久譜

    島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取…

  4. 後編1-No.1394 島津義弘譜

    島津兵庫頭忠平(後の義弘)の代参として、小野寺相模坊が志布志から持参した御札に関わる祈念を行い、天狗から一巻を直に授けられたとする記事。包紙に「一巻之事在包紙」と記され、天正十二年三月二十五日の日付を付す。義久の出陣・龍造寺隆信首実検の記事ではない。

  5. 後編1-No.1395 島津義弘譜

    義弘のため小野出羽守相模坊が志布志の飛龍権現へ参詣して祈願したところ、天狗から一巻を直接授けられたと伝える。日付は天正十二年閏二月十五日。

  6. 後編1-No.1396 島津彰久譜

    有馬鎮貴が龍造寺隆信に圧迫されて義久へ救援を求めたため、彰久は家久を大将とする豊久・忠直ら三千の軍に加わった。島原で龍造寺勢と戦い、軍功を挙げた。

  7. 後編1-No.1397 島津中務大輔家久譜

    龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の…

  8. 後編1-No.1398 島津豊久譜

    島津豊久は元亀元年六月、島津家久と樺山善久の娘との間に生まれた。天正十二年三月二十四日の島原合戦では十五歳で出陣し、強敵一人を討ち取った。

  9. 後編1-No.1399 樺山規久譜

    三月二十四日の島原合戦で龍造寺隆信の軍が敗走した際、樺山規久は刀を振るって繰り返し敵を斬り、戦功を挙げた。

  10. 後編1-No.1400 島津義久譜

    島津義久が三月九日に薩摩・大隅・日向三州の軍勢を率いて出陣し、同月十六日に佐敷へ着陣した。

  11. 後編1-No.1401 島津義久譜

    三月二十四日の島原合戦で川上忠堅が龍造寺隆信を討ち、その首を挙げた。三月二十七日、佐敷にいた島津義久が隆信の首を実検した。

  12. 後編1-No.1402 島津義久譜

    四月十四日、島津義久は福昌寺住持天海に僧二千人を率いて有馬へ赴かせ、島原合戦の死者のため大施餓鬼を営ませた。同日、八代では島津家久の嫡子が元服を祝った。

  13. 後編1-No.1403 島津義久譜

    六月十九日、島津義久は大日寺法印を御船へ派遣した。甲斐宗運が和睦を求めたことへの対応である。

  14. 後編1-No.1404 島原合戦戦死者人数書上

    三月二十四日の島原合戦で戦死・負傷した龍造寺方の諸将と各手勢を列挙する人数書上。龍造寺隆信以下、鍋島・納富・百武・馬場・江里口・蒲池らの名と部隊規模を記し、戦死三千余、負傷一万余と総括する。龍造寺政家は負傷、鍋島直茂は逃れたとする。

  15. 後編1-No.1405 島津義久譜

    三月二十五日、八代から佐敷へ急使が走り、前日の島原合戦で龍造寺隆信以下数千を討ったとの報告を届けた。義弘・歳久らと戦勝を祝い、二十六日に隆信の首が佐敷へ到着すると多くの人が見物した。

  16. 後編1-No.1406 町田久倍書状

    町田久倍が頴娃・根占の役人中へ、法華経奉納のため来訪する快賓上人が当地から根占へ渡海するので、道中を滞りなく通行させるよう命じた書状。

  17. 後編1-No.1407 島津義久譜

    三月二十七日、島津義久が佐敷で龍造寺隆信の首を実検し、合掌して観念した後、首を衡木に懸けて近くから確認した。義弘・歳久以下の諸将が列座し、義久は同日夕刻に八代へ移って平田光宗宅に宿した。

  18. 後編1-No.1408 樺山紹剣自記

    龍造寺隆信が有馬氏を攻めたため、島津方が安徳へ番衆を送り、家久を大将として渡海させて島原への通路を断った経緯を記す。寡兵で隆信の大軍を破り首八百余を懸けたとし、義久は後詰として八代に在陣した。樺山久高らは隈本・合志方面を巡って調略した。

  19. 後編1-No.1409 上井覚兼日記

    天正十二年四月一日から晦日までの有馬方面従軍日記。覚兼らが海路で三江・島原へ入り、神代・井福・森山の降伏と質人提出を取りまとめ、諸将会議で温泉山再興・神領、諫早攻略、諸城の警固を協議した。五ヶ浦・竹崎への水軍攻撃と放火、島原・三会への薩摩番衆配置、各地の質人を八代へ送る準備、諸勢帰帆の調整などを詳記…

  20. 後編1-No.1410 上井覚兼日記

    天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定…

  21. 後編1-No.1411 真木島昭光・一色昭秀連署状

    本文はNo.1348と同文として省略される。真木島昭光・一色昭秀が城入殿へ、足利義昭の帰洛に向け毛利氏が要請を受諾し、武田・北条・上杉以下の軍勢を糾合する情勢を伝え、島津義久にも忠功を求める内書を出す予定とした連署状。確定版日付『四十七日』は、参照先では四月十七日。

  22. 後編1-No.1412 島津義久証状

    島津義久が山田有信へ、出水郷の者を押さえるため多人数を入れても解決しなかったところ、有信の派遣によって無事に鎮まった忠勤を賞し、出水以下の大河内・鹿倉を与え、子孫も必要時に本証状を提示するよう命じた。本文には偽文書との注記がある。確定版年月日は『年月八月』と重複する。

  23. 後編1-No.1413 島津義久譜

    四月三日以降の有馬方面平定を編年で記す。島津方は神代・井福・森山の降伏と質人提出を受け、諸城を接収して番衆を置き、温泉山再興・神領設定と諫早調略を協議した。十日には水軍百余艘で五ヶ浦・竹崎を焼き、十四日には僧二千人による大施餓鬼と家久嫡子の元服を行った。中旬、宇都顕孝が下野城を明け渡し八代へ出頭した…

  24. 後編1-No.1414 島津義久書状

    本文はNo.1349と同文として省略される。島津義久が安国寺の老和尚へ、九州の戦乱が鎮まり龍造寺隆信以下数千人を討ったことへの祝意に謝し、書状と虫薬の到来を喜んだ書状。

  25. 後編1-No.1415 島津義久譜

    四月十九日、義久は本田親貞を伴って八代から帰国し、義弘・伊集院忠棟・平田光宗を八代、島津忠長・上井覚兼を有馬に残して肥前・筑後・肥後の調略を続けさせた。二十二日、覚兼らは有馬鎮貴へ、薩摩勢の帰帆、有馬旧領の回復、温泉山再興と神領設定を提案したが、鎮貴は一、二か月の駐留継続を求めた。

  26. 後編1-No.1416 島津義弘譜

    四月十九日、島津義久が八代から帰国する際、義弘に伊集院忠棟・平田光宗らと八代へ残り、肥前・筑後・肥後の調略を終えるよう命じた。義弘は任務を果たした後、八代を辞して飯野へ帰った。

  27. 後編1-No.1417 北郷忠虎譜

    天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。

  28. 後編1-No.1418 秋月種実書状

    秋月種実が島津義久へ、かねて島津家との和睦を望み、前年八代まで使者を進めたが不測の変化で成就しなかったと釈明した。島原で龍造寺隆信が戦死した勝利を祝い、普光寺・内田九郎左衛門尉を派遣して意向を伝えた。

  29. 後編1-No.1419-1 彦山座主舜有書状

    彦山座主舜有が島津義久へ、秋月種実が仲介してきた島津・龍造寺の和睦が成立しないまま島津方の勝利となった経緯に触れ、龍造寺政家が以前の約束に背かない旨を秋月方へ伝えたので、宿老衆の言上を踏まえて政家を赦免するよう願った。

  30. 後編1-No.1419-2 彦山座主舜有書状

    彦山座主舜有が追伸として、織筋一段を島津義久へ進上し、戦勝の祝礼に充てるよう述べた書状。

  31. 後編1-No.1420 島津義久譜

    五月二日、長崎から大村方降人と南蛮僧の意向・質人情報が届いた。三、四日、島津方は三会・島原に薩摩番衆を置き、他城は有馬氏に守らせ、諸質人を管理して主力を帰帆させる方針を定めた。二十二日、秋月種実は前年の龍造寺との和睦仲介が隆信の違約で破れたと弁明し、島津方を欺く意図はなかったと伝えた。

  32. 後編1-No.1421 島津義久書状案

    島津義久が彦山座主へ、秋月種実が長年仲介した龍造寺との和睦が隆信の翻意で崩れたことは承知していると述べ、島原での不慮の勝利を知らせる使書と織筋二端に謝した。詳細は年寄が伝えるとし、祝儀の品を返贈した書状案。

  33. 後編1-No.1422 上井覚兼日記

    天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。

  34. 後編1-No.1423 大友義統書状

    大友義統が島津義久へ、高来・島原方面での勝利を祝し、その旨を申し伝えるため筆を執ったと述べ、新勅撰和歌集一冊を贈った。詳細は使僧稽名寺其阿が説明するとする。

  35. 後編1-No.1424 島津義久譜

    六月十九日、義久は和睦を求めた甲斐宗運のもとへ大日寺法印を派遣し、太刀と馬を贈って受諾を伝えた。二十一日には国泰民安を祈る法華千部読誦を始め、有馬鎮貴の使僧から救援と旧領回復への謝礼として太刀・馬・南蛮笠・水晶花瓶・唐墨・眼鏡などを受けた。

  36. 後編1-No.1425 高橋紹運・戸次道雪連署状

    高橋紹運・戸次道雪が大友方へ、隈部氏の処遇を喜びつつ筑後攻略を急ぐよう進言した長文の連署状。秋月種実や鍋島直茂側の言説は島津方への援軍を遅らせる計略の恐れがあるため警戒し、黒木・山下方面を先に制圧して諸将の去就を見極めること、豊前の調略、陣中警固と水軍整備を徹底することを求めた。

  37. 後編1-No.1426 島津義久譜

    六月二十四日から二十八日にかけ、宇都氏・赤星氏・五島宇久氏・合志氏から島津軍の帰陣や高来勝利を祝う使書と太刀・馬・巻物・衣類が届いた。また日向高城で大友勢が滅亡して七回忌に当たるため、同地で大施餓鬼を営むよう担当者へ命じた。

  38. 後編1-No.1427 上井覚兼日記

    天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝…

  39. 後編1-No.1428 島津忠清一流系図

    島津忠清の一流系図として、女子千鶴が天正十二年七月六日に誕生し、母は島津家久の子であること、初め伊集院忠員の妻となって一女を産み、忠員死後に島津久元へ再嫁したことを記す。

  40. 後編1-No.1429 島津中務大輔家久譜

    歌道を好んだ島津家久が樺山善久入道玄佐を師として古今集の伝授を受けたことを記し、家久と玄佐の贈答書状を収める。家久は金十両・銀二十両と水田納の証文を贈り、玄佐は宗祇・近衛家から伝わる抄物を書写・伝授したと答えた。

  41. 後編1-No.1430 島津家久書状

    島津家久が樺山玄佐へ、古今集伝授が成就したことを末代までの喜びとして謝し、祝儀として金十両・銀二十両と水田納の証文を贈った書状。

  42. 後編1-No.1431 樺山玄佐善久書状

    樺山玄佐善久が島津家久へ、宗祇から近衛家へ伝わった古今集抄物を書写し、口伝を授けたと述べ、祝儀の太刀・馬・金銀などの過分な贈答に謝した書状。

  43. 後編1-No.1432 伊作久逸譜

    三原昌安書状に基づき、幼少の伊作久逸(亀房)と岩切氏の関係を記す。伊作家の後継が絶えたため、鎌田氏が忠国の三男亀房を無断で連れ出して伊作家へ迎えた際、岩切氏が生涯供奉すると申し出て忠国・御簾中を安心させた。以後、岩切氏は久逸に最初に仕えた家臣として重んじられた。

  44. 後編1-No.1433 三原昌安書状

    三原昌安が岩切三河守へ、岩切氏が上古以来島津家に仕え、幼少の亀房を伊作家へ迎えた際に生涯供奉を誓って忠国・御簾中を安心させた由緒を詳述した。亀房が福島・伊作へ移る際も従い、家中で比類ない譜代として遇されたとする。

  45. 後編1-No.1434 北郷一雲時久書状

    北郷一雲時久が本田親貞へ、肥後出陣の件を承知したと答え、変事があれば改めて注進すること、宮崎へも直ちに書状の趣旨を伝えたことを報告した。

  46. 後編1-No.1435 島津義久譜

    肥前・筑前・筑後・肥後でなお従属しない勢力を平定するため、病中の義久は八月下旬、弟義弘を元帥として薩摩・大隅・日向三州の軍勢を肥後へ派遣した。諸将は九月一日に馬越へ集まって進路を評議し、四日に八代へ到着した。以後の陣中記事は義弘譜に譲る。

  47. 後編1-No.1436 賀恵重時書状

    賀恵重時が伊集院忠棟へ、八朔の吉兆を祝い、祝儀として太刀一腰と織筋一端を進上した書状。しかるべき披露と取り次ぎを求める。

  48. 後編1-No.1437 島津義弘譜

    八月二十九日、義弘は義久の命で三州軍を率いて飯野を発し、馬越で軍議を開いた。龍造寺政家が秋月種実を介して和睦を求めたが、肥後・筑後の領地を差し出さない和睦は謀略の疑いがあるとして、八代の使者二人を留め、残る二人を島津方使僧と秋月へ戻して再回答を待つことにした。

  49. 後編1-No.1438 島津世録記

    天正十二年、合志・隈部・宇都の諸氏が島津方への従属を申し出たため、義弘が軍を率いて肥後隈本へ進み吉松に陣した。赤星・三池をはじめ臼間野・大野・大津山・和仁・辺春・田島・鹿子木・東郷・小代が降り、龍造寺政家も質人を出した。筑後・筑前方面の蒲池・草野・星野・秋月・原田らも旗下に属し、義弘は帰陣した。

  50. 後編1-No.1439 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、帰洛に関する上申の趣旨を承知し、柳津元政を再派遣するので、この機会に格別の奔走を求めた御内書。太刀康次一腰と鞍一口を贈り、詳細は真木島昭光・一色昭秀が伝えるとする。

  51. 後編1-No.1440 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義弘へ、帰洛に関する上申を承知し、柳津元政を派遣するので義久へ格別の奔走を勧めるよう命じた御内書。肩衣・袴を贈り、詳細は真木島昭光・一色昭秀が伝えるとする。

  52. 後編1-No.1441 島津義弘譜

    九月四日、島津軍諸将が八代へ到着した。翌日、町田久倍・税所篤和が馬越軍議の決定を秋月方使者へ伝え、島津方使僧と二使を秋月へ戻して再回答を待つまで十日間、境界で放火せず停戦するよう求められた。十一日から十方暮に入るため軍事行動に不向きと判断し、六日に要求を受け入れて返書を持たせた。

  53. 後編1-No.1442 島津忠平義弘書状

    島津忠平義弘が満足寺吟窓へ、上洛後は遠路のため音信が途絶えていたが、下向した俊覚坊から健在を聞いて喜んだと伝えた。当地へ再住する際は用向きがあるため、必ず住山を遂げ、帰国時に詳しく申し伝えるよう求めた。

  54. 後編1-No.1443 島津義弘譜

    九月八日、島津忠長・伊集院忠棟・上井覚兼に命じ、肥後国内へ高札を立てさせた。神社仏閣・屋敷周囲の竹木伐採、耕作荒らし・濫妨、在地・旅人を問わない喧嘩口論を禁止し、違反者を処罰すると定めた。

  55. 後編1-No.1444 島津氏老臣連署高札

    島津氏老臣三名の連署高札。神社仏閣と屋敷四壁の竹木を切り取ること、田畑を荒らし濫妨すること、在地・旅人を問わず喧嘩口論することを禁じ、違反者は速やかに処罰するとした。本文の日付は天正十二年九月八日で、確定版年月日と一年異なる。

  56. 後編1-No.1445 島津義弘譜

    九月十日、義弘は八代から隈本へ移り、城親賢宅に宿した。翌十一日、老将らに諸方の調略の取捨、豊後陣への使僧、陣替えについて評議させた。

  57. 後編1-No.1446 島津忠長譜

    前年から有馬氏救援のため高来へ渡り、天正十二年三月二十四日の島原合戦では家久・彰久らと龍造寺隆信の大軍を破って首三千余を得た。四月には伊集院忠棟・上井覚兼と神代・井福・森山を調略して降伏させ、その軍功により三会・島原を与えられた。九月の肥後在陣時には老臣連署高札に加判した。

  58. 後編1-No.1447 一色昭秀・真木島昭光連署状

    一色昭秀・真木島昭光が伊集院忠棟・喜入季久へ、足利義昭帰洛のため東北・東西の軍勢を統合し、豊後から防長境で妨害が予想されるので、島津方に豊筑方面で働き龍造寺氏とも協議して戦功を挙げるよう求めた連署状。

  59. 後編1-No.1448 真木島昭光書状

    真木島昭光が伊集院忠棟へ、追伸として太守島津義久へ馬と鞍を進上するので取り計らうよう依頼し、忠棟本人にも祝意として太刀一腰を贈った書状。

  60. 後編1-No.1449 吉川元春・小早川隆景連署状

    吉川元春・小早川隆景が島津家老へ、義昭帰洛に際し大友氏が妨害するため防長勢を豊筑境へ派遣していると伝えた。島津方も日向へ出陣して大友方を攻めることは帰洛供奉同然の忠節であり、この機会に尽力するよう要請した。

  61. 後編1-No.1450 北郷一雲書状

    北郷一雲時久が本田親貞へ、宝之河内の番衆交替と肥後出陣の負担が北郷家に偏ることに不満を述べた。忠虎は遠国出張に備えて兵具を整え、菱刈で待機するが、他家の番衆が見えず、宝之河内の警備・普請も不十分であるとして善処を求めた。

  62. 後編1-No.1451 島津義弘譜

    九月十三日以降、島津軍は隈本から吉松へ進み、山鹿氏・隈部氏らの帰属と質人提出を交渉した。山鹿氏は一度受諾しながら翻意し、隈部氏は城親賢の仲介で従属した。秋月から戻った使僧は、龍造寺政家が肥後領を島津方へ譲る血判誓紙を持参した。二十三日以降、諸将は高瀬方面へ進み、小代城腰の陣を攻略して数百人を討った。…

  63. 後編1-No.1452 島津義弘起請文前書

    島津義弘が龍造寺政家との和睦条件を誓約した起請文前書。政家が従来の非を改め島津方の幕下となる願いを認め、豊後その他の勢力が政家を攻める場合は表裏なく同心すること、豊州との義絶については京都の仲介で大友氏と和睦しているため慎重に扱うことを定めた。

  64. 後編1-No.1453 上井覚兼日記

    天正十二年九月一日から晦日までの肥後従軍日記。馬越で龍造寺政家との和睦を審議し、佐敷・八代を経て隈本・吉松へ進軍した。山鹿・隈部・合志・宇土・小代などの帰属、質人、領知条件を交渉し、肥後高札へ加判した。秋月使者と往復して龍造寺から肥後領返還と血判誓紙を得、九月末には境界の軍事行動を抑えつつ和睦条件を…

  65. 後編1-No.1454 近衛信輔信尹書状

    近衛信尹が島津義久へ、肥前方面で一戦して本意を遂げたことを祝い、本来使者を送るところ蔭涼軒が下国する機会に託したと述べた。後日改めて連絡し、詳細は紹醸主が伝えるとする。

  66. 後編1-No.1455 島津義久書状案

    本文は『旧記雑録後編二』第九号文書と同文のため省略される。編者注はNo.1454と同じ九月二十八日付・同人関係の文書と推定している。

  67. 後編1-No.1456 島津義弘譜

    九月二十九日から十月にかけ、小代氏・隈部氏・辺春氏の降伏と出頭を受け、宇土顕孝・合志親重を饗応して軍労を賞した。義弘は上井覚兼から戦場救護に必要な金瘡医術を学び、宇土氏とも交歓した。龍造寺政家以下が和睦して旗下に属したため、十月二十日に高瀬から八代へ向け帰陣した。

  68. 後編1-No.1457 島津忠長譜

    本文は『国書頭忠長譜中』との標柱のみで、独立した本文は掲げられていない。前条の肥後在陣・諸氏帰属と帰陣記事に関係する参照標柱とみられるため、内容の補完は行わない。

  69. 後編1-No.1458 島津氏老臣連署状

    島津忠長・伊集院忠棟・上井覚兼が本田親貞へ、小代氏が質人を出し、弟と本人も参陣予定であること、隈部・和仁・辺春も出頭して肥後がほぼ平定したことを報じた。肥前からの質人を待つ間は軍勢を留め、御船・隈庄勢の悪行を戒め、小代にも早期出頭を求めるとした。

  70. 後編1-No.1459 島津義弘譜

    十月七日、田尻鑑種が敵路を忍んで使者を送り、高尾城へ入ったが妻子を龍造寺氏に質として押さえられていると釈明し、江之浦城の家臣へ内応を働きかければ奪還できると申し出た。翌八日、境界の難易を調べるため新納忠元・伊集院久治・山田有信・猿渡信光を三池へ派遣した。

  71. 後編1-No.1460 龍造寺家晴書状

    龍造寺家晴が島津義弘へ、秋月種実の仲介で政家が島津家の意向を得たことと、神載による誓約が成立したことを祝い、自身も神名にかけて同意すると誓った。祝儀として太刀一腰と馬一疋を贈った。

  72. 後編1-No.1461 島津義弘譜

    十月十三日以降、筑後黒木から大友勢来襲と援軍要請が届いた。十五日、龍造寺・秋月・筑紫との和睦成立を祝い、政家・家晴・鍋島から誓紙を受けた。大友勢討伐の提案には、島津と大友の現時点の和談を理由に直接出兵を避け、使僧を大友陣へ送り撤兵を要求した。十九日に高瀬を発って八代へ向かい、二十四日に誓紙を返し、二…

  73. 後編1-No.1462 上井覚兼日記

    天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受け…

  74. 後編1-No.1463 上井覚兼日記

    天正十二年十一月一日から晦日までの日記。宮崎帰着後、名護八幡・瓜生野八幡・海江田伊勢の延引した祭礼、狩猟、参詣、茶湯や連歌を記した。豊後勢が十月二十八日に撤陣すると約したとの帰国僧の報告、鹿児島での談合や諸役徴収にも触れる。月末に鹿児島へ赴いて島津義久・義弘・歳久らの饗応に列し、有馬から届いた水鳥二…

  75. 後編1-No.1464 新納忠元書状

    新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。

  76. 後編1-No.1465 島津義久譜

    十二月四日、秋月種実・龍造寺政家の使者が鹿児島へ来て和睦と帰属の謝意を伝え、太刀・馬・鎧などを献上した。彦山座主の使者も贈物を持参したが、秋月・龍造寺側は島津方使僧の撤兵要求後も豊後勢が高良山・筑後上郡に陣取ると訴えた。六日には将軍足利義昭の使僧蔭涼軒を礼式を整えて迎え、御内書の披露、酒宴、舞を行っ…

  77. 後編1-No.1466 島津義久譜

    十二月八日、小代下総守が鹿児島へ参上し、島津義久と対面して太刀・黄金などを献上した。義久も太刀・馬を与えてその帰属を賞し、隈部・辺春ら肥後諸氏の従属と進物を記す。

  78. 後編1-No.1467 円覚寺宗長書状

    円覚寺宗長が伊集院忠棟へ、島津氏による肥後六郡平定を祝い、武名が天下に比類ないと称えた書状。島津義久への進上品として明燭百丁を贈り、披露を依頼した。

  79. 後編1-No.1468 上井覚兼日記

    天正十二年十二月一日から晦日までの日記。義久・義弘・歳久らの鷹狩、秋月・龍造寺・彦山の使者と蔭涼軒の正式な拝謁・饗応、肥後諸氏の使者の進物を詳記する。中旬には新田宮再興、御船・隈庄方面の戦況、豊後勢の在陣を協議し、琉球渡海船へ印判を与えた。下旬は村田経定の赦免、年頭連歌、所領・鷹をめぐる相談を経て、…

  80. 後編1-No.1469 島津忠隣譜

    島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。