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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.598 小笠原秀清書状
小笠原秀清が、父が美濃に滞在しているため自ら喜入季久へ返答した書状。京都の騒乱で長く在国し、音信を欠いたことを詫びる。季久から注文された空穂について、虎・豹皮が手に入らないため猪皮で製作させたと伝え、銀子三両を受領し、ゆがけ二具を贈る。
後編1-No.599 島津忠平起請文
島津義弘が川上経久から神裁をもって伝授された弓馬一流について、子孫だけでなく志のある者にも時宜に応じて伝える一方、無関係の者へ漏らさないと誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王・堅牢地神、日本国中の神祇、白鳥・霧島六所権現、諏訪上下大明神の神罰・冥罰を受けるとする。
後編1-No.600 殉国名薮
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
後編1-No.601 北郷時久譜
元亀二年十月九日、北郷時久が軍議のため鹿児島へ赴いた際の随行者を列挙する。北郷紀伊守忠徳・和田越中入道起雲・津曲備後守兼庚・亀津河内守・河野筑前守・大岩根兵部少輔が供奉した。
後編1-No.602 島津義久譜
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津氏への出仕を拒み、廻城主肝付忠勝の死後は伊東氏とも結んで敵対した経緯を述べる。元亀二年十一月二十日、百余艘の船団が鹿児島湾に侵入して瀧水村を攻めたが、平田新三郎ら帖佐衆約五十人が防戦し、敵船を退却させた。
後編1-No.603 長谷場越前自記
伊地知重興が肝付氏に同心し、日向・肝付・禰寝・下大隅の三百余艘で鹿児島方面へ来襲した戦闘を記す。野尻沖で伊集院善左衛門が鉄砲に倒れたのち、敵は瀧水に上陸したが、平田新三郎ら約五十人が撃退した。島津家久は瀬戸の防備を命じ、岸からの一斉射撃を受けた船団は軽石港へ退いた。
後編1-No.604 年代記
元亀二年十一月二十日、伊東・肝付・伊地知・禰寝方の百余艘が桜島内へ侵入したが、瀧水を守る平田新三郎ら帖佐衆五十人が迎撃して退けたことを簡潔に記す。
後編1-No.605 宗入書状
豊前にいる宗入が喜入摂津介へ、前年の上洛中には将軍の摂津中島への移動など騒乱のため礼を尽くせなかったと詫びる。近国まで赴く機会があれば面会して謝意を述べたいが、当面は差し支えがあるため、来訪時の案内と取次を依頼した書状。
後編1-No.606 島津忠平書状
島津忠平が上原長門守の書状を読み、懸念していた一件に変化がないと知って安心した旨を伝える。詳細は川上三河守との相談内容に合わせ、適当な時機に面会して協議するよう求めた書状。
後編1-No.607 島津国史
元亀三年の軍事記事を通覧する。正月の肝付水軍による小村攻撃を退け、二月には廻・市成境で肝付勢を伏撃し、境・二川を破却した。五月四日の木崎原合戦では島津義弘が少数で伊東方大軍を破り、伏兵・援軍とともに追撃した。秋には島津歳久が下大隅へ出兵して小浜を攻略し、北郷時久も肝付領へ攻勢をかけたほか、国分国主院…
後編1-No.608 島津国史補注
元亀三年の島津国史本文に付された補注。小村攻防、廻・市成境の伏撃、木崎原合戦、下大隅攻略などについて、関係人物の系譜・官途、地名の比定、旧譜・軍記等の異同を示し、本文記事の人物同定と典拠を補う。
後編1-No.609 島津義久譜
元亀三年正月十九日、肝付方の多数の兵船が小村を攻撃した。島津方は敵船二艘を奪い、岸良治部少輔以下二十四人を討ち取って撃退した。
後編1-No.610 島津義久譜
元亀三年二月二十日、廻と市成の境に伏兵を置いて肝付越後守以下二十人を討ち取った。同月二十九日には肝付方の拠点である境・二川を攻めて破却した。
後編1-No.611 島津義久譜
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟の左衛門督歳久を大将として諸軍を率いさせ、下大隅の敵対勢力を討伐させたことを記す。
後編1-No.612 岩瀬戸口合戦従軍者交名
元亀三年三月中旬の岩瀬戸口合戦に参加した島津方の将兵を列記する。川上上野守・肝付弾正忠兼盛・野村兵部少輔・樺山兵部太輔・上原長門守・鎌田少外記のほか、猿渡越中守・喜入摂津守、島津右馬頭歳久・島津図書頭忠長らを掲げる。
後編1-No.613 箕輪伊賀自記
禰寝重武が伊東・肝付・伊地知方から離れて島津方への忠勤と番兵派遣を願い、島津歳久・忠長を大将とする三千余騎が禰寝へ渡った経緯を記す。元亀三年三月中旬、大姶良方面で敵の誘撃を受け一時混乱したが、歳久・忠長の八百余騎が横撃して敵を破り、重武は幼い息子を人質として差し出した。
後編1-No.614 箕輪伊賀自記
伊東・肝付・伊地知方が小禰寝へ出兵して浜城を落とし、本城麓へ放火した。園見城から喜入図書助・弟小四郎が加世田勢を率いて奮戦したが、多勢に敗れて兄弟とも戦死した。続く岩瀬戸口の追撃戦では猿渡越中守・井尻伊賀守・喜入摂津守・平田新左衛門らが働き、敵も損害を出したものの、この戦いは伊東・肝付方が小利を得て…
後編1-No.615 年代記
壬申年の軍事記事として、正月十九日の小村で肝付方の兵船二艘を奪い岸良治部少輔以下約二十人を討ったこと、飯野・三山境で敵八人を討ったこと、二月二十日に廻・市成境の野伏で肝付越後守以下約二十人を討ち、同二十九日に境・二川を破却したことを列記する。本文の年号表記には矛盾がある。
後編1-No.616 長谷場越前自記
禰寝重武が島津方へ帰順し、元亀三年三月中旬に伊東・肝付・伊地知方と戦った経緯を詳述する。大姶良方面では島津歳久・忠長らの反撃で敵を退け、重武の子を人質として境目の城々に番兵を置いた。のち敵が小禰寝の浜城を落とすと、喜入図書助・小四郎兄弟らが戦死し、岩瀬戸口で島津方が追撃して多数を討ち取った。
後編1-No.617 長谷場越前自記
元亀三年四月下旬、島津方が下大隅へ出兵し、作物を薙ぎ払って苗代を踏み荒らした。駆けつけた敵勢と激しい射撃戦になり双方に負傷者を出したが、島津方の足軽が敵を追い立て、二人を討ち取って引き揚げた。
後編1-No.618 島津貴久譜
平田治部少輔純貞入道純喜が、島津貴久(大中良等庵主)の後世菩提を弔うため日本六十六州を巡歴した。翌元亀三年に帰国して、三月二十三日、貴久を追慕して鹿児島の海に身を沈め殉死し、廉州純貞禅伯と号したことを記す。
後編1-No.619 細川藤孝書状
細川藤孝が喜入季久へ、池坊が薩摩へ下向するので取り扱いを依頼した書状。池坊は代々奉仕してきた者で昔から比類ない働きがあるとして、その旨を大守へ取り成し、特別に懇意にするよう求める。
後編1-No.620 島津義弘譜
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破っ…
後編1-No.621 新納忠元勲功記
元亀三年五月の木崎原合戦で、新納忠元が大口から兵を直ちに差し立てて島津義弘を援けたとする。後日、飯野城移徒の祝席へ向かう途中で盗賊を討ったため遅参した忠元に対し、義弘は事情を聞いて賞賛した。また祝いの席で火に通じる名を避けた刀を用いた心配りから、武事に限らず万事に配慮する人物と重ねて褒めたという逸話…
後編1-No.622 殉国名薮
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
後編1-No.623 木崎原合戦頚注文
元亀三年五月四日の木崎原合戦で島津方が得た伊東方の首級を、所属地・身分・被官数とともに列記する注文。大将・伊東一族、落合・長倉・米良・別府・柚木崎ら各地の武士を挙げ、確定できた首級を二百九十六、ほかに切り捨てた者は不明と記す。後世の参照用に重複を承知で旧記の人名を写したとの注記がある。
後編1-No.624 箕輪伊賀覚書
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引…
後編1-No.625 加久藤噯連署差出
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを…
後編1-No.626 壱岐賀州年代記
元亀三年五月四日、伊東方が真幸・加久藤城の囲いを破って島津方を一部討ったものの、退却時に島津方の追撃を受けて大軍が崩れ、日向勢が大敗したことを簡潔に記す。
後編1-No.627 木崎原合戦従軍者交名
元亀三年五月四日の木崎原合戦に従軍した島津方の将兵を列記する。大口住人の久富伴五左衛門をはじめ、遠矢下総守・日高掃部左衛門・竹下又左衛門・瀬戸口八郎左衛門・五代右京亮友喜・川上三河守忠智・二階堂四郎左衛門入道秀綱・有川雅楽助貞員・鎌田刑部左衛門らを掲げ、個々の戦功注記を添える。
後編1-No.628 日向記
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると…
後編1-No.629 上野隼人覚書
元亀三年五月四日、伊東方が加久藤の大明寺口を破ったため、島津義弘が飯野勢を率いて木崎原へ進み、敵を繰り返し追い詰めた戦いを記す。上野隼人佐が伊東方の大将米良筑後守を討ち取った戦功を特記し、敵を小林郷まで追撃して多数の首級を飯野へ持ち帰ったとする。
後編1-No.630 谷口宮内左衛門覚書
元亀三年五月四日、伊東方が飯野・加久藤方面へ侵攻した際、島津義弘が大将として戦い、伊東新次郎・伊東加賀守をはじめ一門・一家あわせて五百余人を討ち取って勝鬨をあげたと伝える。
後編1-No.631 長谷場越前自記
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心…
後編1-No.632 木崎原合戦記
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を…
後編1-No.633 大口諏訪社段銭反米日記
大口諏訪社の造営・祭祀に充てる段銭と反米の負担を記した日記。各負担者の田地面積に応じて銭・米を割り当て、本文では人名の多くを省略しつつ、十八町分として銭三百二十文・米五斗八升などの集計を掲げる。
後編1-No.634 大口天満天神厨子裏書
大口郷篠原村の天満天神木像を納める厨子の裏書。像は高さ七寸五分で、新納武蔵が建立したとの伝承を記し、当旦那藤原忠元、大宮司久甫、大工宇戸藤助藤原忠重の名と、元亀三年八月二十五日の造立を記載する。
後編1-No.635 島津義久書状
島津義久が愛宕山長床坊からの札と本尊像を受領し、島津家繁栄・武運長久・領国安全の祈祷を依頼する。戦乱が続き本地堂への奉加が意に任せないことを詫びながら銀子を寄進し、義久の安置堂寺領について示された内容も了承した旨を伝える。
後編1-No.636 正八幡宮両社殿造営茶番交名
正八幡宮の両社殿造営に際し、茶番を担当する人々・寺社・組を一番から十九番まで順不同で割り当てた交名。沢氏文書として伝わり、元亀三年八月二十八日に永堅が花押を据え、以後の番もこの方式で預かるよう記す。
後編1-No.637 島津義久書状案
島津義久が琉球国三司官へ、往来の勘合符改定と広済寺の渡海について通知した書状案。従来の例に従い東泰・西華・北南星斗の秩序を保つことを望み、近年は正規の印判を持たない商人が往来しているため、今後は正印のない船と財物を琉球側の公用として没収し、取締りを強化するよう求める。
後編1-No.638 島津忠平義弘書状
島津義弘が伊地知主水佑へ、上洛以来会えず朝夕懐かしく思うと述べ、再度の下向を望む。伊東勢が加久藤麓へ侵攻して退いた戦いでは、院内衆だけで五百人を討ち、今も山中で遺骸が見つかると戦果を報告する。左近権介も大いに働き無事であり、忠勤を重ねているので安心するよう伝える。
後編1-No.639 島津義久譜
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟歳久を大将として下大隅へ派遣した。軍は樫島に船を繋ぎ、翌日瀬戸を渡って早崎高峰に陣し、伊地知重興領の小浜古城を攻めた。義久も古江浜へ船を進めて士気を高め、同日落城させた。島津方の戦死は肥後平次郎ら三人、伊集院久春が負傷し、小浜を前陣と改称して越年した。
後編1-No.640 樺山玄佐譜
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興を大隅の三凶徒とし、島津義久がまず下大隅征討を決めた経緯を記す。元亀三年九月二十六日、義久と歳久が軍を率いて樫島を経て小浜古城を落とし、早崎高峰を陣営として越年した。樺山玄佐は新春を祝う和歌を詠み、その後三氏が次第に島津方へ屈したと結ぶ。
後編1-No.641 島津忠長譜
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
後編1-No.642 島津歳久譜
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
後編1-No.643 島津義久書状
島津義久が歳久の大隅出兵での辛労と勝利を祝し、千勝万歳と称える。肝付家中の内紛により肝付弾正が十九日に殺害されたとの逃亡者の報告も伝え、諸事を相談すべき時機なので翌日早々に来訪するよう求める。本文日付は葉月二十三日と読め、インデックスの二月二十三日と異なる。
後編1-No.644 北郷時久譜
元亀三年九月、島津義久が肝付氏征討のため下大隅へ出張すると、北郷時久も肝付領攻撃を命じられた。同月二十九日に月野・泰野を攻め破って多数の首級を得、同日、梶山の兵も肝付領福島の兵と戦って敵を討った。
後編1-No.645 下大隅合戦従軍者交名
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
後編1-No.646 庄内平治記
元亀三年九月下旬、島津義久が肝付氏征討のため下大隅へ出張し、北郷時久にも攻撃を命じた。時久は同月二十九日に月野・泰野を攻め破って多数の首級を得、梶山の兵も同日に肝付領福島の兵と戦って敵を討った。
後編1-No.647 壱岐賀州年代記
元亀三年秋、島津方が下大隅の伊地知領内にある新垣城を忍び入って落とし、早崎を城取りして両陣を構えたと記す。この軍事行動には禰寝方との内談があったとも伝える。
後編1-No.648 樺山玄佐日記
元亀三年九月二十六日に下大隅早崎の陣を構え、島津義久の弟歳久と諸軍が一味同心して小浜城を攻め取ったこと、その後も早崎に陣して越年したことを簡潔に記す。
後編1-No.649 島津尚久一流系図
島津尚久一流の系図記事。島津図書頭忠長の女子が元亀三年十一月十七日に生まれ、母は島津右馬頭忠勝の娘で、のち島津中務大輔豊久の室となったことを記す。
後編1-No.650 島津国史
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元…
後編1-No.651 殉国名薮
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
後編1-No.652 越前島津庶流知覧氏系図
越前島津庶流知覧氏の系図記事。梅北地頭知覧大和守久親が天正元年正月六日の末吉住吉原合戦で北郷時久に従い、梅北八十町の兵を率いて橋野から肝付勢を攻撃し、稲井原から進んだ時久軍と呼応して勝利したことを記す。
後編1-No.653 北郷時久譜
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
後編1-No.654 庄内平治記
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六…
後編1-No.655 新納忠元勲功記
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を…
後編1-No.656 新納忠元譜
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
後編1-No.657 島津義久書状
本文はNo.643と同文のため省略される島津義久書状。歳久の大隅出兵での辛労と勝利を祝い、肝付家中の内紛と肝付弾正殺害の情報を伝え、協議のため早々の来訪を求める。No.643本文の日付は葉月二十三日と読め、確定版年月日との相違が残る。
後編1-No.658 島津久保譜
島津久保の系譜記事。久保丸(又一郎)が天正元年に誕生し、母は康瀬氏の娘で宝国田清左衛門尉の娘でもあると記す。姉妹の一人が島津豊後守朝久の室となったことも掲げる。
後編1-No.659 島津義久譜
下大隅が未平定のなか、島津義久が宝持院と八木昌信を禰寝へ密派遣した和睦工作を詳述する。昌信は舟底に隠れて上陸し、夜間に東禅寺から禰寝重長と密会して、子息の婚姻も示唆しつつ島津方への帰順を説いた。帰陣後、義久は新納忠元・伊集院久治・上原尚近らを再派遣し、家老・使者が秘密保持のため無署名を含む誓紙を重長…
後編1-No.660-1 島津氏老臣連署起請文
禰寝重長との秘密交渉に際し、取り決めの一か条を漏らさないことを誓った起請文。天帝釈・四大天王、日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げる。密事のため作成時には署名を記さなかったと説明される。
後編1-No.660-2 二月二十日記事
二月二十日、島津義久の国老・三使・副使が禰寝重長へ誓紙を渡したが、秘密事項のため当初は署名しなかったことを説明する。翌二十一日には署名を記した誓紙を改めて示したとし、底本に欠ける本文を県立図書館本から補ったとの編者注を付す。
後編1-No.660-3 島津氏老臣起請文連署
禰寝重長との和睦成立後、前日の無署名誓紙に代えて署名を明示した連署起請文。伊集院忠金・本田盛親・河野清通・伊集院久治・上原尚常・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名が花押を据え、誓紙を重長へ渡した。
後編1-No.661 島津義久起請文
島津義久が禰寝重長に対し、肝付方を離れて一途に忠節を尽くすとの決断を喜び、子孫に至るまで互いに隔心を持たず、雑説が生じた際は双方から事情を申し開くと誓う。違反時には新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
後編1-No.662 島津氏老臣連署起請文
伊集院忠金・平田昌宗・喜入季久が禰寝重長へ、肝付方を離れて忠節を尽くす決意を祝し、以後永く相違なく、和議をめぐる雑説があれば双方から申し開くことを誓った連署起請文。新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げる。
後編1-No.663 島津氏老臣連署起請文
禰寝重長への使者となった伊集院久治・上原尚常・市来家諸・河野清通・新納忠元の五名が、今回伝えた条々に虚言はないと誓った連署起請文。違反時には日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
後編1-No.664 島津義久譜
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討…
後編1-No.665 島津以久譜
天正元年三月、島津軍が肝付兼続方を攻めた際に以久も従軍した。十八日の西俣合戦では先頭に立ち、兼続が亡父の仇であり今日の戦いこそ望むところだと士卒を励まし、疾風迅雷の勢いで諸将とともに敵軍を撃破して首級を得たとする。
後編1-No.666 島津忠長譜
禰寝重長が島津方へ属したため、天正元年三月十日に薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿へ進んだ。十八日の西俣合戦では歳久が隅州軍、忠長が薩摩南方軍を率いて肝付勢を大破し、多数を斬獲した。重長も参戦し、戦後は海を渡って指宿で義久に謁し、鹿児島まで随行した。
後編1-No.667 北郷時久譜
天正元年三月八日、島津義久が大軍を率いて肝付氏攻撃へ向かうと、北郷時久も平松に陣を構えた。時久は翌天正二年十二月まで同地に在陣したと記す。
後編1-No.668 中山網幸等起請文
中山主計介・中山綱幸・中山源次綱吉・湯前対馬守・橋口半七郎・四藤清右衛門・米良美濃守・肥田木三郎兵衛らが、野心なく二心を持たず島津氏へ奉公すると誓った同文の起請文群。元亀二年から四年にかけての日付と各人の署名・判を列記し、違反時の神罰を誓う。
後編1-No.669 樺山玄佐日記
禰寝重長が島津方へ忠節を尽くす意向を固めたため、天正元年三月十一日に島津軍が禰寝へ渡海し、義久も指宿まで出陣した。十四日に肝付領高洲浦の船を奪い、十八日に大姶良で肝付勢と交戦して歳久・忠長らが多数を討ち取った。重長も勝鬨をあげ、のち指宿・鹿児島へ参上した。
後編1-No.670 庄内平治記
天正元年三月、島津義久が肝付氏攻撃へ向かうと北郷時久も平松に陣を構えた。陣営造成の鍬初・地破・鎮定・地神供・幣・幕・武具などの役割を北郷家臣へ割り当て、天長寺・西生寺が愛染明王・青面金剛の秘法で勝利を祈った。最終的に義久と肝付氏が和睦したと記す。
後編1-No.671 壱岐賀州年代記
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
後編1-No.672 島津氏老臣連署証文
禰寝重長が望む鹿屋の処遇について、現時点では周辺事情に詳しくないため、島津方の戦争成就後に検討し、やむを得ず守護領とする場合には鹿屋の田数に相当する別所を与えると約束した証文。伊集院忠金・村田経定・平田昌宗・川上意釣・喜入季久が連署する。
後編1-No.673 倭文麻環
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪…
後編1-No.674 年代記
天正元年の政治・軍事記事を列記する。七月二十八日の改元、足利義昭が織田信長に京都を追われ宇治槙島も落ちたこと、九月に島津軍が早崎へ着陣して義久の指揮下で小浜城を落としたことを記す。禰寝重武は横尾で敵五十余人を討ち、十二月には平小場で伊東・肝付方と戦って百余人を討ったとする。
後編1-No.675 川上久辰譜
天正元年九月、島津軍が下大隅の咲花平に着陣した際、十三歳の川上源三郎久辰が初めて出陣し、殿軍の任務を務めたことを記す。
後編1-No.676 長谷場越前自記
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
後編1-No.677 箕輪伊賀覚書
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
後編1-No.678 箕輪伊賀覚書
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
後編1-No.679 谷口宮内左衛門覚書
肝付省釣の子を三郎兼包とし、省釣が島津貴久の姉婿であったとの伝承を記す。肝付三郎が伊東氏と縁組して百余艘を集め、鹿児島海上から春日口を射撃し、桜島・脇元・瀧水を攻めて瀧水で合戦になったことを簡潔に述べる。
後編1-No.680 島津義久譜
天正元年七月二十三日夜半から二十四日黎明、敵軍が山背の樵夫道を案内者によって密かに進み、早崎陣を包囲して火矢・鉄砲で攻撃した。守兵に多数の死傷者が出るなか、島津家久が従者二、三人と敵中へ斬り込み八か所を負傷した。喜入久績も二か所を負傷しながら敵を斬って家久を救い、平田光宗らも奮戦した。
後編1-No.681 島津中務大輔家久譜
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
後編1-No.682 樺山玄佐日記
長雨のなか早崎両陣の普請が続いた後、天正元年七月二十四日夜に敵が後山から忍び寄り、翌朝西口を攻めて陣屋へ放火した。島津家久は敵数百人へ斬り込み、深手八か所を含む多数の傷を負ったが、喜入久績が駆けつけ、二人とも負傷しながら敵を退けた。その後も牛根進攻が評議され、十二月十四日には歳久を大将として平常に数…
後編1-No.683 琉球国三司官那呉道林書状
琉球国三司官の那呉道林が伊集院忠棟へ、初めて書状を送り、懇切な音問への謝意を述べる。先代伊集院忠朗以来の交誼が変わらず続くことを喜び、琉球と島津領国が隣国として旧約を保ち、隔意なく往来することを望む。心香・唐五明・織物を祝儀として贈る。
後編1-No.684 土持麟松書状
土持麟松が伊集院忠棟へ、前年夏に伊東方が真幸へ侵攻した際、島津方が援軍によって伊東の主要将士数百人を討ち大勝したことへの祝意を述べる。遠国かつ通路困難のため祝賀が遅れたと詫び、豊州大友氏の指示に従って国境を警戒し、伊予方面への派兵も退治されるだろうと報じ、脇差一腰を贈る。年次は本文注記で検討される。
後編1-No.685 大友氏老臣連署状
大友氏老臣四名が島津氏老臣へ、南郷へ渡した船が島津領内に繋留中、暴風で少し損傷した件について照会する。使節を送ったのに返答がなく不安であり、両家は代々親交を得てきたので小事から隔心を生じるのは望ましくないとし、宗麟の派遣船として廉直に扱い、速やかに判断するよう求める。
後編1-No.686 相良頼房書状
相良頼房が島津義久へ、肝付方面への長期在陣と軍事行動を察していると述べる。遠方のため無音になっているが疎意はなく、現在の戦況を詳しく知りたいとして、定泉坊から委細を伝えさせ、改めて意向を聞きたいとする。
後編1-No.687 島津義久書状案
島津義久が相良頼房へ、長期在陣のため互いに無音となっていたところ、使者と書状を受けて喜んだと返答する書状案。島津領内の状況に特段の変化はなく、必要が生じれば相談すると述べ、詳細は定泉坊に伝えさせる。
後編1-No.688 島津氏老臣書状案
島津氏老臣が志岐方へ、遠隔のため長く無音であり、前年以来の肝付方面在陣で多忙だったと述べる。天草久玉との不和について、先年仲介したのにほどなく関係が破綻したのは不都合だとし、遠方ゆえ即応は難しいが、薩摩へ連絡があれば後日相談し、疎意なく交流を続けたいと伝える書状案。
後編1-No.689 島津義久書状案
本文はNo.687と同文のため省略される島津義久の相良頼房宛返書案。長期在陣中の無音を詫び、使者と書状への謝意、島津領内が平穏であること、必要時には相談することを述べ、詳細を定泉坊に託す。
後編1-No.690 島津氏老臣書状案
本文はNo.688と同文のため省略される島津氏老臣の志岐方宛返書案。肝付方面の長期在陣による無音、天草久玉との和睦破綻への懸念、薩摩への連絡があれば後日相談する意向を伝える。
後編1-No.691 島津義久書状案
島津義久が志岐方へ、天草久玉との和睦を先年仲介したにもかかわらず、ほどなく関係が破綻したことを遺憾とする。志岐方の鬱憤について、機会ごとに相談があれば後日も疎遠にせず対応すると述べ、詳細を使僧に託す。
後編1-No.692 島津氏老臣連署状案
島津氏老臣が豊州大友氏老中へ、破船問題についてたびたび使書を受け、両家の堅い盟約に基づき法意に沿って処理すると答える。大友方から船・銀子・鹿皮・南蛮国の進物などが目録とともに贈られたことを確認し、詳細は詫時庵と相談しており、仲掃部助が説明するとする。
後編1-No.693 伊集院忠金忠棟書状案
伊集院忠金が臼杵鑑速へ、南郷へ渡った船が島津領内の港で不慮に破損した件について、両家の旧盟と鑑速から受けた懇切を踏まえて誠意を尽くし、おおむね法意に従って処理したと報告する。贈られた船・銀子・鹿皮・南蛮進物・鎧一領に謝し、返礼として馬一疋を贈る。
後編1-No.694 島津義久書状案
島津義久が琉球国王即位の礼使として徳雲軒と源松都文を派遣するので便宜を求める。大明国と日本の関係が不穏ななか、明から琉球経由で日本へ勅書が渡るとの情報や、渡唐船の取扱いを島津家が永代管掌するとの琉球王宣旨について述べる。天王寺を通じた伝達や葉大人の帰国などの詳細は源松都文に託す。
後編1-No.695 島津勝久譜
島津勝久が元亀四年十月十五日に沖浜で七十一歳で死去し、法名を大翁妙蓮とした記事に続き、勝久の女子や島津忠良の系譜を掲げる。忠良は文三郎・二郎左衛門尉・修理大夫などを称し、天文四年七月五日に鹿児島本城で生まれ、母を禰寝式部大輔重就の娘とする。標題と本文冒頭の史料名には留意を要する。