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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.200 瀬戸口伊豆入道覚書
飫肥を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた島津忠親が、永禄五年九月十七日夜に飫肥城へ忍び入り、伊東方百余人を討って城を奪回した経過を記す。冒頭の『弘治七年壬戌三月十八日』は、本文注記により永禄五年の誤りとされる。
後編1-No.201 島津貴久譜
永禄五年、国家安全と民衆の安楽を祈るため、三月四日から福昌寺で一万部の法華経を読誦し、代賢和尚が修行したことを記す。
後編1-No.202 島津氏老臣連署坪付
薩摩国伊集院のうち、修理田・野田名・上原・加藤先・大谷などの田地を寄進するため、坪付を示した島津氏老臣四名の連署文書。
後編1-No.203 島津尚久譜
島津尚久が永禄五年三月一日に三十二歳で死去し、法名を曇秀、号を一枝、陽広山曇秀寺殿と称したことを記す。家臣尾辻源八が追腹殉死し、尚久の娘が島津義久の前室となった系譜情報も載せる。
後編1-No.204 島津貴久書状
金鐘寺の門役が断絶した件について、二度の書状を受けた島津貴久が、代わりの役を立てて寺職を旧来の門派へ返付すると回答した書状。詳細は福昌寺から伝えるとしている。
後編1-No.205 島津氏老臣連署状
郡の金鐘寺を新地に建立して当年秋中に移し、寺職を改めて旧門派へ帰付することを認めた島津氏老臣四名の連署状。
後編1-No.206 島津日新起請文
日新が頴娃山城入道との信頼関係について、合意した条項を守り、他方からの妨害や中傷を信用せず、両者の間に雑説が生じた際は直接問い合わせて確かめると神々に誓った起請文。
後編1-No.207 島津忠平起請文
忠平が川上経久に対し、島津家への奉公について互いに覚悟を固め、隔意なく相談することを望み、取り決めを長く他言しないと誓った起請文。
後編1-No.208 島津義久起請文
義久が頴娃山城入道に対し、今度の雑説をめぐって互いに疎略なく、敵方がどのような計略をめぐらしても同心せず、世上がどう変化しても一味して奉公し、相手に謀略を用いないと誓った起請文。
後編1-No.209 北郷時久譜
北郷氏が約三十年間にわたり伊東氏と戦った軍功への賞として、永禄五年五月に末吉三百五十町が北郷時久へ与えられた。土持摂津助を地頭とし、のち忠虎を末吉へ移し、梅北も飫肥後援のため時久に付属させた。
後編1-No.210 島津貴久譜
永禄五年六月三日、横川城の北原伊勢介・新介を討つため義弘・歳久を大将として攻撃した。新納忠元・伊集院久春らが奮戦し、歳久も負傷しながら城門へ攻め入り、北原父子を討って城を陥落させ、横川を菱刈氏へ与えた。
後編1-No.211 横川城合戦従軍者交名
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
後編1-No.212 樺山玄佐自記
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
後編1-No.213 箕輪伊賀自記
北原兼守死後に真幸院の家中が分裂し、白坂氏らが島津方へ従った経過を記す。島津方は六月三日に横川城を攻め、北原伊勢守・新助が妻子を自ら討ったのち城外で戦死し、島津勢が城を落として横川を菱刈氏へ恩賞として与えた。
後編1-No.214 長谷場越前自記
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
後編1-No.215 島津義弘譜
北原兼守死後の家督争いで伊東義祐が真幸院へ介入し、北原兼親が球磨へ逃れたのち、白坂氏・樺山玄佐・相良氏の支援で飯野へ復帰した経過を記す。大川平氏の防戦と今城築城、島津方と伊東方の境界が不安定になった事情も詳述する。
後編1-No.216 島津義弘譜
永禄五年六月三日、島津義弘・歳久を大将として横川城を包囲した戦いを詳記する。新納忠元・伊集院久春らが攻め、北原伊勢介・新介が戦死して城が陥落し、横川は菱刈氏へ与えられ、北原兼親は栗野を島津方へ献上した。
後編1-No.217 樺山玄佐譜
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
後編1-No.218 新納忠元譜
真幸院主北原兼守の死後、横川城に拠って島津方へ背いた北原兼正を討つため、永禄五年六月三日に義弘らが出陣した。新納忠元は伊集院久春と先登し、城門で槍を振るって負傷しながら城を陥落させた。
後編1-No.219 新納忠元譜
横川城を攻め崩した際、新納忠元が伊集院玄集とともに内城の城戸口へ攻め入り、合戦で負傷したことを本人の奉公申上の形で記す短い記事。
後編1-No.220 新納忠元譜
横川城攻略時に新納忠元が伊集院玄集と同心して城戸口へ詰め、槍を取って戦ったことを記す。貴久が溝辺に滞在中、両人が派遣された際の戦功として述べる。
後編1-No.221 新納忠元勲功記
真幸院主北原兼守の死後、北原兼正が横川城に立て籠もったため、永禄五年六月に島津方が攻撃した。歳久を大将とする軍勢の中で、新納忠元は伊集院久春と先登し、城戸で槍を合わせて城を攻め落とした戦功を記す。
後編1-No.222 長谷場越前自記
球磨から北原家督へ戻された北原兼親が、のちに伊東・相良両氏と内通して薩摩方の番兵を討とうとしたため、島津方が糾明した経過を記す。相良方番衆は助命して球磨へ追放し、兼親らを移住させ、兼親には伊集院上神殿村五十町を与えた。
後編1-No.223 箕輪伊賀自記
北原兼親が伊東・相良両氏と内談し、薩摩方の在番衆を討とうとした企てが露見したため、島津方が取り調べた。相良方番衆は命を助けて球磨へ帰し、兼親らを各地へ移し、兼親には伊集院上神殿村五十町を与えた処置を記す。
後編1-No.224 島津貴久書状
島津貴久が相良氏の計らいによって北原兼親を真幸院へ入部させられたことに満足を表し、横川城も容易に切り取れたのは相良氏の尽力によるとして謝意を伝えた書状案。
後編1-No.225 島津義久書状
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
後編1-No.226 樺山玄佐起請文
樺山玄佐が自身への無実の讒言について直接糾明されたことに感謝し、樺山家十一代にわたり守護へ不忠をしていないと述べた起請文。今後も終始一貫して忠節を尽くし、雑説があれば天道に従って弁明すると誓う。
後編1-No.227 島津歳久譜
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
後編1-No.228 島津貴久感状
島津貴久が歳久に対し、横川城戸口で太刀打ちして負傷しながら尽力したことを賞し、手負いの具合とその後の容体を案じて知らせるよう求めた感状。
後編1-No.229 伊集院弧舟忠朗等連署起請文
伊集院忠朗ら島津・北原・相良方の関係者が、将来にわたり合意を違えず、世情が変化しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った連署起請文。
後編1-No.230 島津貴久起請文
島津貴久が樺山玄佐に対し、近時の雑説を信用せず、玄佐の度重なる忠節と助太郎の死を忘れていないと述べた起請文。今後も玄佐父子を疎略に扱わず、雑説があれば何度でも互いに説明すると誓う。
後編1-No.231 伊集院孤舟書状
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
後編1-No.232 相良頼房起請文
相良頼房が北郷氏に対し、将来にわたり合意を違えず、世情が変転しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った起請文。
後編1-No.233 島津日新譜
日新が田布施の常珠寺へ法華経八巻を寄進し、その奥書を次の記事に掲げることを記した短い譜中記事。
後編1-No.234 田布施常珠寺法華経奥書
田布施常珠寺に伝わる妙法蓮華経巻第八の奥書。永禄五年仲秋、薩摩国加世田庄の大願主・在家菩薩日新が法華経八巻を寄進したことを記す。
後編1-No.235 島津忠平書状
忠平が飫肥方面への出陣予定について知らせた書状。当初は兵糧を籠める程度と聞いていたが、日新の度重なる意見を受け、両陣役を終えたうえで全軍を率いて越山する案を協議中であり、軍勢が順次上ることは確実だと伝える。
後編1-No.236 島津貴久譜
永禄五年九月十八日、島津尾張守忠親が策をめぐらして飫肥へ向かい、伊東勢を攻めて勝利し、再び飫肥の領地を取り戻したことを記す。
後編1-No.237 日向記
日置・柏原両氏ら三十六人が神判して時機を待ち、永禄五年九月十七日夜に忠親勢とともに飫肥本城へ侵入した経過を詳記する。伊東方の守兵と各門で戦い本城を奪い、翌十八日には酒谷城も落として、忠親が再び飫肥へ入部した。
後編1-No.238 島津義久書状
島津義久が北郷氏と肝付氏との国境で和融の動きがあることを肝要と評価した書状。肝付方が島津家の鬱憤を懸念しても、今後真実に親交するなら島津家に執着や遺恨はないと伝え、納得を求める。
後編1-No.239 田布施金蔵院書出
島津貴久が法華経十部を寄進し、八角形の金塔に納めて御嶽社内に安置したことを記す金蔵院の書出。塔銘には貴久の奉納名、三千番神・十羅刹女と永禄五年十一月吉日の年紀を載せる。
後編1-No.240 島津良久譜
島津良久が永禄五年十二月十九日に日向国広原で生まれ、母は伊東義祐家臣福永入道月甫の長女であったことを記す。天正二年、十三歳で広原八幡宮において元服し、又三郎良久と称した。
後編1-No.241 島津義久書状
義久が飫肥・志布志南口の問題を一途にまとめるため、関係者と内談するよう三原重益へ求めた書状。忠親が急な戦況にあるため、飫肥内の所領調整で一時難儀を延ばし、伊東方が和融しなければ肝付方を通じる策も検討するよう指示する。
後編1-No.242 島津国史
永禄六年、島津貴久が飯野へ赴き、二月十日に三山の伊東勢を攻めて勝利したことを記す。北原兼親の飯野入城後、島津・相良両方の兵が守備し、十一月十六日には貴久が肝付兼盛の飯野での功を感賞した。
後編1-No.243 水引泰平寺薬師堂推鐘銘
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
後編1-No.244 年代記
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
後編1-No.245 島津貴久譜
永禄六年二月十日、島津貴久が薩摩・大隅両国の軍勢を三山城へ向けて伊東勢と戦わせ、多数の首級を得たことを記す。球磨へ退いていた北原兼親を真幸へ復帰させたのち、薩摩国伊集院上神殿村へ移した。
後編1-No.246 島津義弘譜
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
後編1-No.247 樺山玄佐譜
永禄六年、貴久が飯野へ赴き、三山へ軍勢を送って勝利したことを記す。北原兼親の伯父が相良兵を吉松へ入れて島津方番兵を討とうとした企てが露見し、兼親の側近も離反したため、兼親を伊集院へ移し、真幸院を島津家領として義弘を飯野に置いた。
後編1-No.248 島津貴久立願条々
島津貴久が敵城の破却と諸願成就を霧島六所大権現へ祈った立願。小林城への攻撃について、直ちに一度攻める、時機を見て二度攻める、先例どおり白攻めを行うという三案を示し、神意を仰ぐ。
後編1-No.249 大村重頼自記
兵庫頭忠平が二十八歳のとき飯野へ移り、その後に義弘と名乗ったことを記す大村市兵衛重頼の短い自記。
後編1-No.250 島津貴久琉球渡海朱印状
日向国櫛間湊の天神丸船頭・日高但馬守が琉球へ渡海することを島津貴久が認め、朱印を据えた航海許可状。
後編1-No.251 村田経定書状案
村田経定が日向の防戦・和睦を大友氏へ重ねて相談していることを伝え、今後も連絡を密にするよう求めた書状案。陽春院を使者として送り、相手方の真意を確認して報告するとし、到来物への返礼に塩十斤を贈った。
後編1-No.252 島津氏老臣連署坪付
大隅国宮内の観音屋付水田五町について、その坪付を示した島津氏老臣の連署文書。肝付兼盛・伊集院孤舟・勝軍坊が署判する。
後編1-No.253 若宮託宣条々
長期化する合戦への備えを説く若宮の託宣。軍議を慎重にし、敵方から心を寄せる者にも用心し、当面の出動を延期すること、貴久の帰陣時期や義久の病後の回復、祈念の方法、先の合戦での金峯山若宮の加護などを条々に示す。
後編1-No.254 北郷一雲時久書状
北郷時久が喜入季久からの返書を受け取り、貴久が当地へ来訪して軍事相談中であるため、遠方ながら今後も支援を求めた書状。追伸で飫肥・福島境に変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ったと報じる。
後編1-No.255 島津義久譜
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
後編1-No.256 島津家重物目録
島津家の重宝・文書類を列挙した目録。御幡、十文字立物、銀、兵書十六巻、鳳凰の羽、鎧・甲・太刀・鞍鐙、諸大名目録、神仏画像、論旨・御内書・足利尊氏判形などと、櫛間院給分坪付の関係者を記す。
後編1-No.257 村田経定書状案
遠隔地のため長く連絡できなかったことを詫び、前年夏に最上宗檜を派遣したのちも無音となったため、使書を送った村田経定の書状案。わずかな段子を贈り、詳細は使者が説明するとして取り成しを求める。
後編1-No.258 正親町天皇綸旨
専修寺における仏法興隆を神妙と評価し、今後いっそう天皇の寿命長久を祈るよう命じた正親町天皇の綸旨。左大弁俊光が奉じて弥阿上人へ伝達した。
後編1-No.259 島津征久年忌偈文
島津征久が父・島津忠将の大祥忌に際し、私宅で三日間にわたり茶菓・法筵を設け、諸山諸宗の僧二百余人を招いて法会と論議を行ったことを記す偈文。近津が心翁大安居士の六字を冠した六首の偈を作り、霊前へ捧げた。
後編1-No.260 肝付省釣兼続証状
肝付省釣兼続が安楽因幡守の望みにより、野柄・合爪・中救仁・樋下・薗草・橋崎などの田地と堀町・小原の屋敷を含む所領を、従前の扶持分として認めた証状。
後編1-No.261 島津義久書状案
前年夏に古市宗檜を迎えたのち無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦に大友氏の一途な援助を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。同文の後出文書を参照して本文を補った。
後編1-No.262 島津氏老臣書状案
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の働き掛けを求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家に損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗すると警告し、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。同文の後出文書を参照した。
後編1-No.263-1 佐々木宗綱書状
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
後編1-No.263-2 佐々木宗綱書状追而書
戸次山城守から具足一領が進上され、当地でも特別に心を添えているため、重ねて書状を送り、その厚意を祝着として披露するよう求めた佐々木宗綱書状の追而書。
後編1-No.263-3 佐々木宗綱書状追而書
戸次伯耆守方の南郡八人が連署を整え、陣中へ加わること、豊後側でも親類衆を同心させて派遣することを伝え、親方から改めて書状を出すとした追而書。
後編1-No.264 島津義久書状
島津義久が飯野の重大事に際し、肝付兼盛が急に留め置かれながら長期間にわたり辛労したことへ深い感謝を示し、今後もいっそう力を尽くすよう求めた書状。
後編1-No.265 島津義久書状
義久が歳久のもとを訪れる意向を伝え、道筋に不案内なので迎えの案内人を一人付けるよう求めた書状。十二日に境へ到着し、十三日に歳久方へ赴く予定を知らせる。
後編1-No.266 島津国史
永禄七年、貴久・義久の官途叙任、今城守備兵撤退後の伊東勢による落城、大河平隆次以下九十余人の戦死を記す。さらに櫛間桂原合戦、新納忠衡の戦死、北原兼親処分、義弘の加久藤・飯野移住、北郷時久との盟約までを編年する。
後編1-No.267 島津義弘伝
島津義弘が真幸院飯野を領して居城とし、永禄六年に鹿児島から移って二十八年間在城したことを記す。飯野で家老・地頭職を務めた五代友慶や、有川・上井・川上・宮原ら家老・使衆を列挙する。
後編1-No.268 庄内平治記
永禄七年正月二十日に伊東勢が鬼ケ城へ陣取り、三月十四日に酒谷へ進攻して翌夜退いたことを記す。十六日には伊東兵が本城向原の作物を荒らしたため、城兵が迎撃して敵六人を討ち取った。
後編1-No.269 年代記
永禄七年、島津貴久が陸奥守を称し、島津義久が修理大夫に任じられたことを記す年代記事。
後編1-No.270 島津義弘譜
永禄七年、島津貴久の受領と義久の官途について、近衛稙家が朝廷・幕府へ取り成して成就させ、祝賀書を送った経過を記す。続く近衛家文書群の導入記事。
後編1-No.271 近衛稙家書状
近衛稙家が島津貴久の受領と又三郎義久の官途について朝廷・幕府へ取り成して文書を下したことを義弘へ通知し、必要があれば今後も取り成すよう求めた書状。詳細は進藤左衛門大夫長治が伝えるとする。
後編1-No.272 近衛稙家書状
近衛稙家が貴久の受領と義久の官途について公武へ働き掛け、関係文書を下したことを新納忠元へ知らせ、必要時の取り成しを依頼した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
後編1-No.273 新納忠元勲功記
永禄七年三月、近衛稙家・前久父子の取り成しにより、貴久が修理大夫から陸奥守へ、義久が文三郎から修理大夫へ任じられた経過を記す。宣旨を進藤長治が持参し、忠元にも取り成しを求める両近衛家の判物が下され、家蔵された。
後編1-No.274 近衛前久書状
近衛前久が貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を取り整え、文書を下したことを新納忠元へ通知し、今後必要があれば取り成すよう求めた書状。
後編1-No.275 新納忠元譜
永禄七年三月、近衛稙家・前久が島津貴久父子の官途を朝廷へ請い、十四日に貴久を陸奥守、義久を修理大夫に任じる宣旨が出たことを記す。その前日に進藤長治が忠元へ近衛父子の書状各一通を届けた。
後編1-No.276 近衛稙家書状
No.272と同文として本文が省略された近衛稙家書状。貴久の受領・義久の官途を公武へ取り成したことを新納忠元へ伝え、必要時の取り成しを求める。
後編1-No.277 近衛前久書状
No.274と同文として本文が省略された近衛前久書状。貴久・義久の官途を取り整えたことを忠元へ通知し、必要時の取り成しを求める。
後編1-No.278 近衛稙家書状
近衛稙家が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途を整え、文書を下したことを川上左近将監へ伝えた書状。不断光院との内談に基づくとして、必要時の取り成しを求める。
後編1-No.279 近衛前久書状
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えて文書を下したことを川上左近将監へ知らせ、必要があれば取り成すよう求めた書状。
後編1-No.280 近衛稙家書状
近衛稙家が遠路のため無音となっていたことを詫び、貴久の受領と義久の官途を公武へ申し整えて文書を下したことを日新へ通知した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
後編1-No.281 北郷時久譜
永禄七年三月十三日、島津貴久が陸奥守、義久が修理大夫に任じられ、近衛家から北郷時久へもその官途成就を知らせる書状が届いたことを記す。続く近衛前久書状の導入記事。
後編1-No.282 近衛前久書状
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えたことを北郷時久へ通知し、その成就を祝い、必要があれば取り成すよう求めた書状。詳細は進藤長治が伝えるとする。
後編1-No.283 蔵人頭柳原淳光奉口宣案
上卿中山大納言のもと、蔵人頭右大弁藤原淳光が奉じ、藤原義久を修理大夫に任じることを伝えた口宣案。
後編1-No.284 島津日新請書案(No.314同文)
本文はNo.314と同文につき省略される島津日新請書案。日新が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途について、将軍家の書状と使節を頂戴し、自身にまで書状が下されたことを前代未聞の厚恩として感謝し、祝儀の進物を差し出して取り成しを求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
後編1-No.285 島津忠良書状案(No.315同文)
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
後編1-No.286 蔵人頭柳原淳光奉口宣案
上卿中山大納言のもと、蔵人頭右大弁藤原淳光が奉じ、修理大夫藤原貴久を陸奥守に任じることを伝えた口宣案。
後編1-No.287 足利義輝御内書
足利義輝が島津家の官途について詳しく承知し、稙家の子・又三郎を修理大夫に任じるのがよい旨を伝えるよう命じた御内書。詳細は使者量忠が説明するとする。
後編1-No.288 島津義弘譜
永禄七年春、北原兼親が飯野と今城の守備兵維持は費用が大きく、今城有事には飯野から援軍を出せるとして撤兵を義弘へ勧め、義弘が三月に守兵を退けたことを記す。後に、兼親が宗旨を改めない大河平一族を滅ぼす意図だったとの説も伝える。
後編1-No.289 永禄七年戦死者交名
永禄七年の戦死者交名。三月十四日および五月晦日の今城合戦で戦死した宇都源十郎、大河平隆次・隆堅・隆光以下の一族・郎党を多数列挙し、七月十八日に櫛間桂原で戦死した新納新三郎忠衡も付記する。
後編1-No.290 足利将軍家公帖
筑前国聖福寺の住持職について、宗賓西堂が先例に従って執務するよう命じた足利将軍家の公帖。左中将が判を据える。
後編1-No.291 島津義久書状案
義久が以前思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が、遠隔地のため遅れたと詫びた書状案。好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。
後編1-No.292 古市宗檜書状
古市宗檜が島津方に長く滞在して受けた厚遇へ謝意を述べ、四月十七日に薩摩へ帰着して相手方の調略と懇意を報告した書状。真幸境で伊東氏が近年押領した地域を別紙に記し、遠方の飫肥境については後報するとして、神力坊を使者に立てる。
後編1-No.293 真幸院伊東方押領地書付
薩摩・大隅・日向の境目について、伊東方が近年押領した真幸院内の地として三野山郡、三之山内の高崎・高原・野尻を列挙した書付。飫肥境の押領地は遠方のため後に報告するとし、宗檜が神力坊を使者として進上したNo.292の別紙に当たる。
後編1-No.294 戸次紹花書状
戸次紹花が、島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べた書状。詳細な謝意は神力坊が下向した際に申し上げるとして、披露を求める。
後編1-No.295 島津義弘譜
永禄七年五月晦日、伊東勢が夜明けから申刻まで今城を攻め落とし、大河平隆次の一族・郎党九十余人が戦死した経過を記す。十六歳の隆次も一族全滅を嘆いて大軍へ突入し、伊東方にも五百余人の死者が出たが、城内の妻子・下人は捕虜となった。
後編1-No.296 足利義輝御内書
足利義輝が南国での対立は不適切であり、早急に無事・和平へ移ることが肝要だと義久へ命じた御内書。日向側にも同旨を命じたとし、詳細は近衛稙家と貞孝が伝えるとする。
後編1-No.297 近衛稙家書状
近衛稙家が島津家との旧好を重んじ、これまで疎意なく尽力してきた日新へ、今後も取り成しを頼むと伝えた書状。色紙一枚に筆を染めて贈り、詳細は古市長門守に言い含めたとする。