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後編6の目録

旧記雑録 寛永16年~寛永21年の文書・記事です。

全452件中 101~200件・2 / 5ページ

  1. 後編6-No.101 正月分年記事抜

    正月の年中行事を日順に抜き書きした記事。元日の表への出御、五社参詣、御剣持・供回り・門番の配置、御節供・御馬召初・御謡初などの儀礼、二日の皇徳寺代参、江戸への年頭使者、諸寺への年頭使者や門中衆の出仕、毎月五日の彰窓様忌日参詣を記す。

  2. 後編6-No.102 島津光久吉書

    島津光久が吉書として、神社・仏閣の修理興行、農事の奨励、諸国の年貢徴納を三か条で示し、その趣旨に従って沙汰するよう命じたもの。

  3. 後編6-No.103 島津光久覚書

    島津光久が弟の北郷久直へ、島津家と連枝の結束を守り家の長久を図るよう諭した覚書。軍役を第一として倹約に努め、学問・弓馬以外の遊興や夜行を慎み、登城・祖先忌日の礼を守ること、国法違反・兄弟間の不和を速やかに報告し、争論や私的殺害を避けて老中へ相談し、横目の監察を怠らないことを命じる。

  4. 後編6-No.104 松平信綱・阿倍忠秋連署奉書

    松平信綱と阿部忠秋が島津光久へ、十二月十日付の書状を拝見し、将軍家光の意向により光久が国元で越年する件を了承したと伝えた連署奉書。御礼のため島津大和が上り、国元の佳肴二種・樽一荷・琉球酒一壺を進上したところ、目録どおり披露され、入念な心遣いを将軍が喜んだと報じている。

  5. 後編6-No.105 島津光久書状

    島津光久が島津久慶へ、各方面に横目を二人ずつ置き、頴娃主膳・新納二右衛門にも同様の心得を伝えたとする書状。岩切縫殿助について久慶方の老若がどのように述べているか報告を求め、供衆に適任者が乏しいため黒葛原勝左衛門・田中内膳を派遣するので、両人が小身であることに配慮するよう頼んでいる。

  6. 後編6-No.106 相良満右衛門外二十四名起請文

    横目に任じられた相良満右衛門ほか二十四名が提出した起請文。主君の意向を親類にも漏らさず、他人を虚偽で告発しない一方、親類・知音の悪事も見逃さず証拠を控えて報告すること、自身に嫌疑があれば詮議を受けることを誓い、違反時には多数の神仏の罰を受けるとする。

  7. 後編6-No.107 島津久元・伊勢貞昌連署書状写

    本文ではNo.8と同文のため省略された連署書状写。島津光久の初入国を祝う幕府上使の派遣を供奉の老中衆へ急報し、上使との行き違いを避けるため、大坂で待って参会するか道中で会えるよう出船・旅程を調整するよう求めた内容である。

  8. 後編6-No.108 松平信綱・阿倍忠秋連署奉書

    松平信綱と阿部忠秋が島津光久へ、家督相続後の初帰国にあたり、佐々権兵衛を上使として派遣し、将軍家光から御鷹の鶴を贈るので、詳しくは口上で述べさせると伝えた連署奉書。

  9. 後編6-No.109 酒井忠勝書状

    酒井忠勝が島津光久へ、光久が政職を命じられて初めて入国するため、佐々権兵衛が上使として派遣され、将軍から御鷹の鶴も贈られたことを伝えた書状。光久が薩摩を出発する途上で上使と会うことになると見込み、近日の参府時に面談するとしている。

  10. 後編6-No.110 北郷久加・山田有栄連署書状

    北郷久加と山田有栄が、江戸から来た飛脚と下関で会い、上使が薩摩へ下向するとの書状を受け取ったため転送した連署書状。上使との行き違いを避けるため飛脚を陸路で下し、光久一行が大坂で数日待って参会できるよう、船中・道中の行程と受入れを関係重臣が相談するよう求めている。

  11. 後編6-No.111 新納忠清知行目録

    新納忠清が類右衛門へ、赤田村の仕明地にある田畠を知行として支配させ、後年の軍役・諸出物などを怠りなく勤めるよう命じた知行目録。

  12. 後編6-No.112 島津光久譜

    島津光久が北郷久加・山田有栄を家老として伴い、参勤のため鹿児島を出発して江戸へ向かった譜記事。備後鞆で上使佐々権兵衛と会い、家督相続後の帰国に対する将軍家光の上意と御鷹の鶴を受け、江戸到着後は松平信綱の使節を迎え、登城・拝謁して刀・馬・銀・衣類などを献上した経過を記す。

  13. 後編6-No.113 北郷久加譜

    北郷久加が島津光久の江戸参勤に供奉し、北郷次郎兵衛久利と祭主與左衛門重政も従ったが、勤仕中に長野金山の件によって帰国したことを記す譜記事。

  14. 後編6-No.114 北郷久加・山田有栄連署書状

    北郷久加と山田有栄が国元の重臣らへ、島津光久一行の大坂到着と伏見へ上る見込み、江戸からの飛脚到着を報告した連署書状。飼育を命じられた熊の子が死んだ件、琉球から来た南蛮人二人と付添二人、七島の平良島へ来た唐人三人を長崎へ送る件を伝え、追而書では塩屋休兵衛を召し置いたことと扶持方が未決であることを知らせ…

  15. 後編6-No.115 松平信綱・阿倍忠秋連署奉書

    本文ではNo.17と同文のため省略された連署奉書。松平信綱と阿部忠秋が島津光久へ、佐々権兵衛が上使に任じられ、将軍の鷹狩で得た鶴も下賜されることを伝え、使者が御前で用向きを果たした旨と、詳しくは口上で述べる旨を知らせた内容である。

  16. 後編6-No.116 川上久国書状

    川上久国が兵具方の担当者らへ、蒲生衆中の田代新兵衛は一向宗のため召し離された者だが、火縄の技能を用いるため兵具衆が身代銀を出して買い取り、飯米を与えて火縄の役を命じるよう伝えた書状。ただし公儀へ正式に召し出さず、兵具衆の被官同様に使うことを条件とし、北郷久加・山田有栄とも合意済みとしている。

  17. 後編6-No.117 北郷久直譜

    北郷久直が太守島津光久の質として江戸へ赴き、家老の北郷蔵人久孝が従ったことを記す譜記事。

  18. 後編6-No.118 伊勢貞昌覚書写

    島津光久が福屋伊賀を介して故兵部伊勢貞昌に尋ねた、兄弟衆への書札礼式に関する覚書写。兵庫頭・玄蕃頭・東市正・安藝守への自筆書状や正月の賀札の止め文、脇付の有無を示し、北郷式部太夫もおおむね同様に扱うこと、北郷家が古来大身で弓箭の時代から特別に賞翫されてきた由緒を説明している。正文は伊地知助左衛門重尭…

  19. 後編6-No.119 島津氏錠

    通常の振舞は香物を含め二汁三菜、立ち入った振舞は二汁五菜とし、酒はいずれも三遍とすること、木具・蒔絵物・金銀箔の類を禁じることを定めた膳符。江戸の法度であるため国元でも固く守るよう命じている。

  20. 後編6-No.120 島津光久書状

    島津光久が国元の島津久慶へ、備後朝日で上使佐々権兵衛と会い、江戸到着後に松平信綱の使節を迎えて登城・拝謁を済ませたことを報じた長文書状。久慶の病気療養、細川忠利らの使者への過度な饗応を避けること、琉球方や他国との応対、御納戸借銀の利息返済、兄弟衆家中の女性数、膳符など公儀法度の遵守を指示し、東市正・…

  21. 後編6-No.121 島津光久書状

    島津光久が図書頭へ、祁答院長野金山は金の出方が良く、肥後から金掘が来て多数を召し寄せ、砂金・吹金も届いたことを賞した書状。次には掘り出した金三十両ほどを送って公儀へ披露する見込みとし、金山の実情、金掘の集まり、産金を確かめて続報し、それまではむやみに負担・契約を負わせないよう求めている。

  22. 後編6-No.122 北郷久加外二名連署書状

    北郷久加・伊勢貞昌・山田有栄が国元の重臣らへ、祁答院長野金山の弥右衛門尉から確実に金が出るとの報告と砂金・吹金が届き、島津光久へ披露したところ大いに喜ばれたと伝えた連署書状。産金が続けば詳細を公儀へ披露するため再報を求め、金掘の人数と上納条件は産出状況に応じて協議し、性急に催促して掘手を立ち退かせた…

  23. 後編6-No.123 某覚書

    氏名不詳の山先が、薩摩で金山を見立てるよう依頼され、金掘を率いて再度赴き、長野・横川の二か所を発見して大規模な金山に仕立てた経緯を述べた覚書。図書頭から與右衛門の養子となるよう求められたが当初の約束に反すると断り、山先に任じられながら九州の他金山で認められる分一などの徳分を与えられず、自費まで投じた…

  24. 後編6-No.124 北郷久加外二名連署書状

    北郷久加・伊勢貞昌・山田有栄が国元の重臣らへ、公方から犬追物について尋ねがあるため、島津光久の意向により川上十郎左衛門尉入道を必要な書物とともに上らせるよう命じた連署書状。後注はこの人物を川上芳菊とし、六月四日に使者として下った件に触れている。

  25. 後編6-No.125 新納氏古日記

    新納氏古日記の記事。五月朔日に島津光久が日光参詣へ出発し、伊勢貞昌・野村大学助・新納刑部太輔ら九名が供奉したこと、四日に登山して太刀一腰・馬代銀三十枚、神祭料金子一両、宮仕・八乙女への青銅、毘沙門堂門跡や各院へ銀子を進上したこと、六日に帰館して日光での勤めを終えたことを記す。

  26. 後編6-No.126 島津光久書状

    島津光久が細川忠利へ、父島津家久(大隅守)と取り替わした神文は現在では不要となったため、内々に相談のうえ返進したいと伝えた書状。国々へ取りに遣わしており、集まり次第差し入れるので、まず下書を手元に置き、家久方の下書も光久へ渡すよう求めている。本文は案文で署名を欠く。

  27. 後編6-No.127 殉国名藪

    殉国名藪抄の記事。島津図書久通の家臣土屋市之助が、久通の嫡男左兵衛尉久武が十六歳で早世した跡を追い、寛永十七年五月四日に殉死したことを記す。

  28. 後編6-No.128 島津光久譜

    島津光久譜の記事。光久の妹婿で島津相模久信の二男にあたる島津大和久章が、光久の使者として江戸へ赴いた帰途、五月朔日に京都三条へ着いたのち十七日に逐電して行方不明となったことを記す。家臣らの捜索では見つからなかったが、七月十日に紀州高野山蓮金院へ隠れていたことが判明し、大坂留守居へ通報され、のち薩摩の…

  29. 後編6-No.129 伊地知重政・相良頼員連署書状

    伊地知重政と相良頼員が国元の重臣らへ、江戸から帰国途中の島津大和久章が五月朔日に京都三条へ着き、十七日昼に外出したまま戻らず、行方不明となったことを急報した連署書状。役人衆から五月二十二日に知らせを受けて上京し、手分けして捜索したが見つからず、江戸へも有馬左近将監を通じて報告したとする。追而書では久…

  30. 後編6-No.130 宮原景之外二名連署書状

    宮原景之ら三名が伊地知弥右衛門・谷口次郎左衛門へ、求麻表に変化がなく、佐敷・水俣の番手衆も従来どおりであると伝えた連署書状。相良内蔵の死去を聞いたこと、ある遺骨を高野山へ上らせるため前日に鹿児島を出て阿久根から出船したことを知らせ、追而書では相良喜平次の妻が京都から船で水俣へ到着したと報じている。

  31. 後編6-No.131 伊地知大蔵丞覚書

    島津大和久章の家臣伊地知大蔵丞が京都の御蔵奉行衆へ、久章の行方不明後に荷物を改めた際、見当たらなかった品々を列記した覚書。刀・脇指など複数の武具と拵、小袖六、帷子五、上下、蒲団、毛氈、硯、銀子百四十二匁五分などを挙げ、ほかにも持ち出された物がある可能性を記している。本文注記では島津光久譜にないとする…

  32. 後編6-No.132 篠原渡右衛門尉覚書

    島津大和久章の家臣篠原渡右衛門尉が京都の御蔵奉行衆へ、以前に系図を入れていた箱は残っているが、御系図そのものは見当たらないと回答した覚書。国元から届いたかどうかも不明であるとする。

  33. 後編6-No.133 井伊直孝外六名連署書下写

    幕府年寄衆七名が連署した書下写。キリシタン宗門を日本への悪逆として禁じ、ポルトガル船の渡海停止命令に背いて再来した船は破却し、乗員を死罪に処すと命じる。宣教師を今後送らない旨を明記しないのは偽謀であるとして、頭分・従類を処罰し、本国へ禁令を告知させ、以後はいずれの港でも来航船を見つけ次第処罰するよう…

  34. 後編6-No.134 幕府条書写

    島原で申し渡された幕府条書の写。ポルトガル船が再来した場合は乗員を死罪とし、領内の海上を見渡す場所へ常時番人を置いて早期発見に努め、高力摂津守・長崎奉行へ急報し、大坂や隣国にも知らせるよう命じる。沖にいる船へ軽率に攻撃せず長崎側の差図を待つ一方、唐船その他の外国船は従来どおり船内人数を改め、上陸させ…

  35. 後編6-No.135 松平信綱外二名連署書状

    松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、異国商船が領内へ来航して訴訟を申し出た場合の取扱いを指示した連署書状。乗員を不安にさせず、長崎で奉行を通じて訴えるよう案内を付け、現地での訴訟を望む場合は番を置いて大坂定番・町奉行・長崎奉行・高力摂津守へ急報すること、沖から小舟で申し出た場合は本船や重要人物…

  36. 後編6-No.136 島津光久書状

    島津光久が国元の下野守へ、細川越中守の帰国に伴う饗応や所望品への対応、肥後から求められた駄馬十疋の扱い、国元の仕置を松平隠岐守らと相談することなどを指示した書状。京都町人井上太郎兵衛尉が前年に琉球から来た糸を銀子と引き替えた件では、長崎割符の直段との相違による損失や糸の受渡しをめぐる処置を詳しく述べ…

  37. 後編6-No.137 北郷久加外二名連署書状

    北郷久加・山田有栄・伊勢貞昌が国元の重臣らへ、島津大和久章が先月に暇を得て五月朔日に京都三条へ着き、十七日まで逗留したものの、各所へ出歩き、供の者にも居所が分からない状態であったと報じた連署書状。予想外の行動に薩州様も驚いたことを伝え、当時の詳しい事情は市来備後守から口上で申し上げるとしている。

  38. 後編6-No.138 島津光久書状

    島津光久が国元の重臣らへ、金掘りの方法を調べるため、佐渡などで経験を積んだ松平隠岐守家中の者から新納右衛門佐・五代正介・山田十左衛門に詳しく聞かせたことを伝えた書状。あわせて薩摩の作法や家中の仕置が悪化しているとして、松平隠岐守らとの相談、家老・親類・家臣の処分、申合せと秘密保持を厳命し、必要時には…

  39. 後編6-No.139 島津光久譜

    島津光久譜の記事。先考島津家久の遺骨を高野山へ納めるため、川上因幡久国と平田将監宗昌を奉行として寛永十七年五月二十一日に鹿児島を発ち、六月二十五日に大坂で下船、二十九日に登山して納骨し、七月四日に蓮金院で僧百十口を集め、大曼荼羅供を営み青巌寺を導師とした経過を記す。続く書状では花心様の遺骨も大坂へ着…

  40. 後編6-No.140 島津綱久譜

    島津綱久譜の系譜記事。綱久と女子於満・女子於辰の系図を掲げ、寛永十七年六月二十三日生まれ、母は家臣松沢八右衛門の女、元禄三年九月二十三日卒、法名を珊窓貞珊大姉とする女性の履歴を記す。系図上でこの生没年記事が指す人物の対応は判読に注意を要する。

  41. 後編6-No.141 川上久国書状

    川上因幡守久国が国元の重臣らへ、花心様の遺骨が大坂へ着船し、蓮金院から使僧が付き添っていることを報じた書状。法事の忌日を避ける日取りを一乗院と相談し、六月二十九日に大坂を出発して七月三・四日ごろ法事を営む予定で、御蔵奉行衆と蓮金院が諸準備を整えているとする。順風に恵まれず船中で遅延したこと、島津大和…

  42. 後編6-No.142 北郷久直譜

    北郷久直譜の記事。寛永十七年七月朔日に北郷久直が徳川家光へ拝謁し、その際に松平越中守定綱・酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱から久直へ書状が贈られたことを記し、続く三通をその正文として掲げる。

  43. 後編6-No.143 松平信綱書状

    松平伊豆守信綱が北郷久直へ、前日の来訪時は登城中で面談できなかったが、将軍への御目見が首尾よく済んだことを喜び、祝儀として太刀・馬代銀と帷子五のうち単物二を持参したことへの礼を述べた書状。後日の対面を期すとしている。

  44. 後編6-No.144 松平定綱書状

    松平越中守定綱が北郷久直へ、先刻の訪問を喜びながら、その際は退出していて面会できなかったことを詫びた書状。琉球布などの贈物に対する謝意を伝え、改めて閑談したいとしている。贈物名の一部は判読に注意を要する。

  45. 後編6-No.145 酒井忠勝書状

    酒井讃岐守忠勝が北郷久直へ、将軍への御目見が首尾よく済んだことと私宅への来訪を喜び、参府祝儀として太刀・馬代銀子一枚と帷子五のうち単物二を贈られたことへの謝意を述べた書状。別府長次郎を通じて伝える事情にも触れ、後日の対面を期している。

  46. 後編6-No.146 川上久国書状

    川上因幡守久国が国元の重臣らへ、七月四日に高野山蓮金院で営まれた大曼荼羅供の法事を報告した書状。島津家は他家と異なる由緒ある家であるとして、蓮金院側が導師や諸役を事前相談なく整え、僧五十一人が一日三度・三日間勤行し、近年にない盛大な論議・儀式となったこと、礼物・布施に多額の銀子を要したが公的な儀礼と…

  47. 後編6-No.147 川上久国覚書

    川上久国が高野山での法事と今後の整備事項を列記した覚書。蓮金院・宝性院・無量寿院の相談で青巌寺が導師を務め、学侶方の高僧が残らず参列したことを報じ、宝性院・無量寿院への礼状を提案する。さらに蓮金院へ花心様の牌堂を建立し、位牌・画像・木像を安置する案、自性院・文殊院など寺地の整理、石塔建立、法事参加者…

  48. 後編6-No.148 島津久慶書状

    島津久慶が相良家中の騒動について国元の関係者へ指示した書状。相良家老清兵衛尉の縁者犬童牛兵衛らをめぐる殺傷・逃亡、江戸・肥後・人吉での捜索や追放者の処置を詳報し、薩摩へ逃げ込んだ場合は匿う者や協力者を含めて内密に調査・拘束し、早急に報告するよう命じている。追而書では大和守島津久章が高野山蓮金院へ登っ…

  49. 後編6-No.149 一乗院某書状写

    一乗院関係者の書状写。張紙に『御譜中ニ無之』と注記され、本文は『猶々不思儀之仕合ニ候、以上』との短い追而書のみを載せる。本文が断片的で、具体的な事情・宛所・差出人の名は確認できない。

  50. 後編6-No.150 金院秀伝書状写

    蓮金院秀伝が相良権兵衛尉・伊地知弥右衛門尉へ、大和守島津久章が七月十日申刻に高野山へ来るとの内報を受け、一人を遣わして事情を確かめたので、詳しい返事を求めた書状写。久章を蓮金院へ直接付けることも心得として伝え、まずは急ぎ連絡したとしている。本文傍注には右の原本表記に関する系譜上の注記がある。

  51. 後編6-No.151 川上久国書状写

    川上因幡守久国が国元の重臣らへ、高野山蓮金院から大和守島津久章が七月十日に到着したとの注進があったことを報じた書状写。一乗院も高野山に滞在しており、和州役人伊地知大蔵允に御蔵奉行衆の一人を付けて高野山へ上らせ、久章へ帰国を促すこと、なお帰国しない場合は三光院や一乗院を同道させる案を相談し、江戸へも飛…

  52. 後編6-No.152 米良某・菱刈某連署書状

    菱刈美濃守重綱と米良三左衛門尉が国元の重臣らへ、相良清兵衛を江戸へ召し出すよう相良壹岐守から命じられ、清兵衛が先月二十日に出立したことを報じた連署書状。その留守中に清兵衛方の者と犬童牛兵衛が同心して逆心し、勝手な振舞いをしたため討ち果たしたが、すでに残党なく事は収まったとして安心するよう伝え、詳しく…

  53. 後編6-No.153 高力忠房書状

    高力摂津守忠房が島津家の重臣らへ、相良壹岐守家中で起きた騒動を報じた書状。江戸からの使者神瀬外記が犬童孫太郎の旧職復帰を申し渡そうとしたところ、犬童牛兵衛側が使者を捕らえて成敗し、清兵衛屋敷へ一門・与力が走り込んで楯籠ったことを伝える。関係者が薩摩へ逃げ込んだ場合は直ちに捕縛し、相良方へ引き渡すよう…

  54. 後編6-No.154 松平信綱外二名連署書状

    本文では「二六七号文書ト同文ニツキ省略ス、但シ年季ノ注ナシ」として全文を省略した連署書状。No.267本文を再照合し、島原・天草領の百姓不足を補うため薩摩領から百姓を移住させる命令と確認した。No.154本文自体には年紀の注がないが、対応するNo.267は寛永十九年七月十六日である。

  55. 後編6-No.155 島津光久譜

    島津光久譜の記事。薩州祁答院長野村の会木深山で黄金の気が見つかり、島津光久が幕府へ採掘許可を願い出て認められたことを記す。北郷佐渡守久加を金山総監司とし諸役人を付け、各地から石工・鉱夫が集まり、岩を掘って鉱石を砕き、水で石粉を流して金屑を選別し、炉で鋳て月に数百斤の黄金を産出したとしている。

  56. 後編6-No.156 山田有栄・伊勢貞昌連署条書

    祁答院金山の開設に伴い、山田民部少輔有栄と伊勢兵部少輔貞昌が国元重臣へ示した条書。北郷佐渡守久加を金山惣奉行とし、家老中との協議、米価と蔵米販売、役人の簡素な家作、奉行の交替、地頭・諸奉行への緊急命令、殿役奉行・山奉行の在山期間、金山から他国へ通う商人の手形など、運営上の取決めを列挙している。

  57. 後編6-No.157 島津光久申渡書

    島津光久が金山惣奉行に任じた北郷佐渡守久加へ与えた申渡書。金山運営では必要な事柄を容赦なく精勤して整え、家老中へ速やかに相談し、急用は地頭・奉行・役人へ直接申し渡すよう命じる。一方、法度を細かくし過ぎると各地から来た者が退出するため、まず山が栄えることを優先し、状況に応じて法度を改めるよう指示してい…

  58. 後編6-No.158 島津久通譜

    島津久通譜の記事。参勤交代と江戸屋敷の造営・維持によって薩摩藩の出費と借財が増すなか、久通が金銀採掘の技術者を領内で探させ、寛永十七年に祁答院長野山中で砂金を発見した経緯を記す。採掘の評判で各地から金掘りや商人が集まり、産金を藩主へ献じて債務返済の助けとしたが、寛永二十年春に将軍家の禁令に従って採掘…

  59. 後編6-No.159 伊勢貞昌・山田有栄連署書状

    伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、高野山での法事が無事に済んだことと江戸の情勢を国元へ報じた連署書状。生駒壱岐守・松平石見守の家中処分と所領・預け先を知らせ、相良清兵衛が稲葉美濃守預かりとなり、能勢小十郎・二神宇兵衛が上使として出発したことも記す。さらに喜平次が以前から清兵内蔵助の処置を諫めてい…

  60. 後編6-No.159-2 松平石見守・生駒壱岐守衆中切腹被仰付候衆書立

    松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136…

  61. 後編6-No.160 伊勢貞昌・山田有栄連署書状

    伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、長崎・有馬方面に関する幕府上使の指示を国元へ報じた連署書状。三原左衛門佐と町田勘解由次官が有馬で上使に会い、琉球への幕府回答や甑島への玉薬の件を協議したこと、酒井讃岐守らを通じて幕府年寄へ伺っていることを伝える。両甑島・坊津に番衆を置き、不審船を見つけた際は有馬…

  62. 後編6-No.161 伊勢貞昌書状

    伊勢兵部少輔貞昌が北郷佐渡守久加へ、帰国後の金山の様子と山祭の実施を尋ね、坊津で銀が出たとの報告も十分に確認するよう求めた書状。伊勢の書付を持つ池田屋平右衛門尉・堺屋太郎兵衛尉を国元へ送り、将軍家の呉服屋で富裕な池田屋四郎兵衛尉の関係者のような有力商人を呼び込めば、米・酒・油その他の国産品が売れ、国…

  63. 後編6-No.162 山田有栄・伊勢貞昌連署書状

    山田民部少輔有栄と伊勢兵部少輔貞昌が、大和守島津久章の帰国後の居所について国元へ伝えた連署書状。久章を通常の宿所へ置くのは安心できないため寺領に住まわせる案を伺ったところ、山之寺に置くのがよいとの指示を得たことを報じる。寺中に長く滞在させることはできないので、市之瀬その他の場所を山寺の寺領として与え…

  64. 後編6-No.163 島津光久書状

    島津光久が国元重臣へ、金山取立てが将軍から認められたことは前代未聞の好機であり、領内の上下を潤す事業であるとして、諸役人に誠実に精勤させるよう命じた書状。金山が栄えなければ外聞を失い国の財を捨てることになると戒め、北郷佐渡守久加を奉行として派遣したので、その指示には油断なく速やかに対応するよう求めて…

  65. 後編6-No.164 島津光久譜

    島津光久譜の記事。九州沿岸を巡見する幕府上使の間宮虎之助と小濱久太郎が日向国から来訪し、島津領内の浦々を巡見したことを簡潔に記している。

  66. 後編6-No.165 新納忠清書状

    新納加賀守忠清が、廻国の聖を領内でどのように扱うか国元役人へ問い合わせた書状。通手形を持って到着し、羽月若王寺へ経納に向かう聖に一人を付き添わせ、菱刈九左衛門を遣わしたと聞いたことを記す。このような修行者を内場へ通すことは法度であるため、鹿児島へ連行して指示を仰ぐ案を示し、薩摩・大隅・日向での巡回を…

  67. 後編6-No.166 間宮長澄・小浜嘉隆連署書状

    九州沿岸巡見の幕府上使である間宮虎之助長澄と小濱久太郎嘉隆が、八月十日付の書状を淡路国穴賀で二十五日に受け取ったことを報じた連署書状。西国浦々の見分のため四国北浦から豊後へ渡海し、九州南浦を巡見する予定を示す。島津領内を通行する際、土地に不案内な場所では近辺の案内者を出し、悪天候時には引船などを手配…

  68. 後編6-No.167 松平信綱外二名連署書状写

    幕府年寄の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、相良壱岐守に関する訴訟を翌日に審理すると通知した連署書状写。島津方で預かっている相良喜平次を、四つ以前に付き添いを付けて評定所へ差し出すよう命じている。末紙には御家老衆からの切紙であるとの注記がある。

  69. 後編6-No.168 徳川家光御内書

    徳川家光が薩摩侍従島津光久へ、重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとした御内書。

  70. 後編6-No.169 相良頼覚書状

    相良壱岐守頼寛が島津家の重臣らへ、薩摩守島津光久の息災を祝い、相良家の訴訟に伴って喜平次兄弟を光久が預かり長く世話したことへの謝意を述べた書状。相良側の望むとおりの裁定となったことを喜び、在所へも使者を遣わすなど配慮を受けたことに礼を述べ、暇が許され次第帰国する意向を伝える。表題はインデックス記載の…

  71. 後編6-No.170 長岡興長外二名連署書状

    長岡監物興長らが島津家重臣へ、九州浦廻上使の動静を報じた連署書状。上使一行が島津領内の山川湊へ着船し、坊津・片浦・阿久根の三か所を巡見する予定で、島津領へも必ず来るとの知らせを受けたことを伝える。書状の内容を剣越中守へ申し聞かせたとして、今後も変化があれば知らせるよう求めている。

  72. 後編6-No.171 伊勢貞昌・山田有栄連署書状

    伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が国元へ示した、琉球渡海・翌年の帰国・江戸留守番に関する連署書状。八重山島へ南蛮船が来て多数が上陸したとの報告を受け、川上上野守らの渡海、鉄砲約百挺と物頭渋谷四郎左衛門尉の派遣を計画したが、病気のため一部を延期し、比志島監物の代わりに喜入吉兵衛を命じた経緯を記す。前…

  73. 後編6-No.172 松平信綱外二名連署書状

    松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、千代姫が疹を患ったものの軽症で速やかに快復したので安心するよう伝えた連署書状。光久が湯治をしながら徐々に養生しているとの報告も承知し、今後登城した際に将軍へ伝えるとしている。

  74. 後編6-No.173 島津光久譜

    島津光久譜の記事。光久が体調不良のため十一月に幕府から暇を与えられ、熱海の温泉で湯治したことを簡潔に記している。

  75. 後編6-No.174 松平信綱外二名連署書状

    松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、尾張大納言徳川義直の上屋敷火災を聞いて光久が驚いたとの書状を受け、江戸城は無事であると伝えた連署書状。千代姫の疹も快復していることを重ねて知らせ、これらを案じて使者を遣わした光久の配慮を将軍へ伝えるとしている。

  76. 後編6-No.175 島津久雄書状

    島津久雄が下野守へ、将軍徳川家光が諸大名家の元祖を尋ねた際に薩州家から差し出した系図・文書の写しを受領したことへの謝意を述べた書状。拝領した系図を秘蔵し、子孫へ代々譲り渡す意向を示し、宇宿傳左衛門らの尽力にも礼を述べている。幼少のため萬寿丸忠次の印判を用いたとの注記がある。

  77. 後編6-No.176 島津光久譜

    島津光久譜の記事。光久が父島津家久への孝養と追福のため、紀伊国高野山に石碑を建立したことを簡潔に記している。

  78. 後編6-No.177 島津家久石塔銘

    島津光久が、父島津家久の三回忌追福のため高野山に建立した石塔の銘。家久を薩摩・大隅・日向三州の太守、従三位中納言、慈眼院殿華心琴月大居士と記し、寛永十七年二月二十三日付で、その追善と成仏を願っている。

  79. 後編6-No.178 島津家久石塔銘

    島津家久の石塔・位牌に関する銘文。家久の戒名を慈眼院殿華心琴月大居士と記し、高野山の宝性院で用意された位牌と、三宝院から書き出された『慈眼院』の院号について述べる。院号の原本は江戸へ差し上げたとし、十二月二十日付の記載を伴う。

  80. 後編6-No.179 川上久国・新納久詮連署書状

    川上因幡守久国と新納右衛門佐久詮が国元重臣へ、海上防備用の船と石火矢について幕府側の回答を伝えた連署書状。前年に願い出た『かれうた船』・勢楼船・石火矢のうち、勢楼船は筑州との相談の結果ひとまず不要とされ、石火矢は新造より先に既存の筒を点検して試射するよう指示された。海上では鉄砲が不可欠であり、手持ち…

  81. 後編6-No.180 島津久慶外三名連署書下

    島津久慶ら四名が、荒廃した吉松般若寺の観音堂について、勧進によって再興するため、身分の貴賤を問わず志に応じて奉納するよう命じた連署書下。川上因幡守・下野守・弾正少弼・治部少輔の印判を伴う。

  82. 後編6-No.181 島津光久書状

    島津光久が根占七郎へ、世間の噂や讒言によって人を憎み悪く言う者がいても、自分は同調せず、七郎を頼もしく思っているので心配しないよう伝えた書状。今後も奉公に疎意なく、信任によって驕ることもなく、互いに疑わしい事柄があれば率直に申し分けるよう求めている。

  83. 後編6-No.182 中山王尚豊書状

    中山王尚豊が島津光久へ、前年に大明の勅使が琉球へ着岸し、冊封の冠を頂戴できたことは島津家の高恩によるとして謝意を述べた書状。報告と礼のため佐鋪王子を遣わし、別紙目録を添えて薄礼の品物を進上している。

  84. 後編6-No.183 島津光久譜

    島津光久譜の記事。寛永十八年二月十九日、阿部対馬守重次が上使として光久に帰国の暇を告げ、光久は同月二十五日に江戸を出発し、家老山田民部有栄を伴って四月二日に鹿児島へ着いた。帰国を許されたことへの謝礼のため、種子島左近忠時を江戸へ派遣し、数品を献上したことを記す。

  85. 後編6-No.184 島津光久条書

    島津光久が留守中の火災対応と江戸への注進方法を定めた条書。火災時には門外へ人を出さず、屋根に見張りを置き、延焼が近づけば家財を搬出すること、奥方では混乱の有無に応じて女子衆を整然と避難させることを命じる。江戸の様子は年六度ほど報告し、将軍からの命令や緊急の注進は随時伝え、城内で誕生があればその夜から…

  86. 後編6-No.185 蓮金院快深・応秀連署覚書

    高野山蓮金院の快深・応秀が、蓮金院使僧の巡回先として薩摩藩領内の諸外城を列記した連署覚書。向島・垂水・鹿屋・新城・高隈・牛根・始良・大根占・田代・谷山・指宿・頴娃・川辺・坊津・加世田などを含む二十八外城と関係地を掲げ、在郷の衆中へ周知する対象を示している。

  87. 後編6-No.186 黒田頼崇起請文

    黒田三左衛門頼崇が、振舞方の見廻役として諸事に念を入れて奉公し、御前で聊爾がないよう注意すること、どのような策があっても同調せず直ちに言上すること、聞き違いによる疑いを受けた場合は糺明のうえ召し仕えるよう願うことを誓った起請文。違反時には梵天・帝釈・四大天王・日本国中の諸神などの神罰を受けるとする神…

  88. 後編6-No.187 島津光久書状

    島津光久が北郷式部大輔久直へ、伊勢兵部貞昌が四月二日夜に死去したとの知らせが届き、驚き悲しんでいることを伝えた書状。久直の身を案じ、今後の諸事に十分注意して勤めるよう求めている。

  89. 後編6-No.188 島津光久書状

    島津光久が新納右衛門佐久詮へ、伊勢兵部貞昌が四月二日夜に死去したとの知らせを受け、驚き悲しんでいることを伝えた書状。久詮の身を案じ、諸事にいっそう注意して勤めるよう求めている。本文注は貞昌がこの年に七十二歳で没したとする。

  90. 後編6-No.189 北郷久直譜

    北郷久直譜の記事。寛永十八年四月十九日、江戸屋敷にいた島津光久が久直へ諸事を指図するよう命じたこと、伊勢兵部貞昌が同月二日夜に江戸で病没し、その訃報が十八日夜に光久へ届いたため、光久が深く悲しみ、久直にいっそう諸事を勤めるよう命じたことを記す。関連する光久書状二通の正文が存在するとしている。

  91. 後編6-No.190 島津光久書状

    島津光久が北郷式部大輔久直へ、当面の国元の仕置を新納右衛門佐久詮に任せているため、その指示に少しも背かず相談して処理するよう命じた書状。久直から江戸在勤経験者へも申し渡し、久詮には遠慮なく下知するよう含めておくことを求めている。

  92. 後編6-No.191 長岡興長・阿茶(監物)連署書状

    長岡興長・阿茶監物が島津家重臣へ、出水近海に流着した無人船の調査と沿岸警戒について報じた連署書状。船内外に生貝・生蠣が付着して長期間漂流した形跡があり、長崎へ向かう唐の釣舟で、付着した貝も高砂辺のものとする見立てを伝える。島津光久の命で出水周辺や領内の島々・浦々を警戒し、山田民部少輔有栄が出水へ赴い…

  93. 後編6-No.192 柘植正時書状

    柘植平右衛門尉正時が島津光久へ、琉球領八重山で唐人・南蛮人が同乗した船が破損し、生き残った南蛮人三人と唐人二人が四月二十二日に当地へ到着したため、籠舎させたと報じた書状。ほかの島々で唐船の破損に遭った唐人も着船しており、島津側の通報を幕府老中へ申し入れ、詳細は二人の使者へ伝えたとしている。

  94. 後編6-No.193 徳川家光御内書

    徳川家光が薩摩侍従島津光久へ、端午の祝儀として帷子・単物数十が届いたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとした御内書。

  95. 後編6-No.194 阿倍忠秋・重次連署書状

    阿部豊後守忠秋・阿部対馬守重次が島津光久へ、暇を得て道中無事に国元へ到着したとの報告を了承し、使者と巻物二十・鶴二羽・赤貝の漬物一壺・樽一荷などの進上品が届いたことを伝えた連署書状。披露の際に種子島左近忠時が御前へ召し出され、念の入った対応を将軍が上機嫌に受け止めたとして、詳細は左近から聞くよう述べ…

  96. 後編6-No.195 島津久慶覚書

    島津久慶が江戸・長崎関係の処置を列記した覚書。江戸城で諸大名へ申し渡された吉利支丹改めの手順、端午の御服と御内書を持ち下った使者が大坂船を待って遅れた件、老中への確認、大野内記・鬼塚源太左衛門が持参した相良主計助の条書を記す。さらに長崎奉行へ折々に情報を伝えること、江戸上屋敷の留守居として家老一人を…

  97. 後編6-No.196 相良頼元起請文

    相良藤七郎頼元が、振舞方の見廻役として諸事に念を入れて奉公し、御前で聊爾がないよう注意すること、どのような計策にも加わらず直ちに言上すること、疑いを受けた場合は糺明のうえ召し仕えるよう願うことを誓った起請文。違反時には梵天・帝釈・四大天王や国内諸社の神罰を受けるとする神文を伴う。

  98. 後編6-No.197 島津久通書状

    島津図書頭久通が新納加賀守へ、一同の疱瘡が軽く済んだことを伝え、祝儀の使者と酒を贈られたことへの謝意を述べた書状。受け取った酒を皆で祝い賞翫したとしている。

  99. 後編6-No.198 馬場利重・柘植正時連署書状

    馬場三郎左衛門尉利重と柘植平右衛門尉正時が島津家重臣へ、領内の浦へ唐船一艘が着岸した件を報じた連署書状。船内を調査し、唐人二十三人と荷物の書付を厳重に添えて届けたことを了承し、詳細は二人の使者へ伝えたとしている。

  100. 後編6-No.199 島津光久譜

    島津光久譜の記事。寛永十八年八月三日に将軍徳川家光の子竹千代が誕生したため、光久が島津安芸久雄を江戸へ先発させ、同月九日に久雄が江戸城で祝儀の進上品を献じたことを記す。竹千代へ腰物・脇指・産衣など、家光へ太刀・馬代などを贈り、安藤右京亮・松平出雲守をはじめ城中の関係者や女中方にも銀子・衣類・魚類など…