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後編6の目録
旧記雑録 寛永16年~寛永21年の文書・記事です。
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後編6-No.1 島津光久吉書
島津光久が年頭の吉書として、神社・仏閣の修理興行、農事の奨励、年貢納入の励行を三か条で示し、その趣旨に従って沙汰するよう命じたもの。
後編6-No.2 島津光久譜
毎年正月十一日に対面所で行う吉書始めの式について、右筆が吉書を書き、太守が花押を加えて下知する手順を記す。この年の吉書は島津光久が家督を継いで最初の年頭のもので、明治二十五年まで二百五十四年を経たとの伊地知季通の注記を伴う。
後編6-No.3 新納忠清宛行状
新納忠清が二之宮伊與に、高一石五斗を飛諏訪の祭田として知行に付置き、祭祀を堅固に執り行い、諸出物なども怠りなく処理するよう命じた宛行状。正文は大口郷の二之宮氏に伝来したとの注記がある。
後編6-No.4 新納忠清知行目録
原田村川くぼの田地について、下田四畦十五歩、金助に関わる籾高などを掲げ、外略分を合わせて籾・大豆四俵四升、高一石五斗とする知行目録。これを飛諏訪の祭田として二之宮伊與の知行に付置き、祭祀と諸出物を怠りなく勤めるよう新納忠清が命じている。
後編6-No.5 飛諏訪大明神祭由緒書
里村の麓御城内から未の方にある飛諏訪大明神の祭由緒を記す。大口が島津家の領分となる以前、新納武蔵が市山城を攻め取って在城した際、城外から諏訪の鎌一つが飛来したため飛諏訪として崇め、以来代々信仰して毎年七月二十五日に祭礼を行ったという。新納氏に伝わる写しで、本文は永禄十年頃の箇所に記載があるとの小字注…
後編6-No.6 新納忠清書状
新納忠清が伊勢貞昌に、島津光久の参府に供奉する息子刑部の指導を頼むとともに、自身の知行・加増問題で外聞を失い、奉公を続けにくい窮状を訴えた書状。昨秋以来返答のない件について、他の重臣やその子が加増地を保持する例を挙げ、大口国境の衆中を預かる立場から、明確な沙汰と取り成しを求めている。
後編6-No.7 北郷久直譜
北郷久直が島津家久の位牌を龍泉寺に安置し、香華料として高三十石を寄進したことを記す譜記事。
後編6-No.8 島津久元・伊勢貞昌連署書状
伊勢貞昌と島津久元が、島津光久の初入国を祝うため幕府から上使が派遣されるとの酒井忠勝の内意を、光久に供奉する老中衆へ急報した書状。上使との行き違いを避けるため、大坂で三日ほど待って参会し、到着しない場合は道中で会えるよう出船と旅程を調整するよう求めている。
後編6-No.9 琉球国司尚豊覚書
琉球国司尚豊が、薩摩への奉公、とりわけ中国貿易の処理が疎略になったことを認め、渡唐銀の運用、買物の不首尾、役人の処罰などを条々に整理した覚書。琉球が島津家の支配下で受けた歴代の恩義を忘れず奉公すべきことを確認し、金武按司上国時に命じられた銀千貫目規模の貿易が実現しなかった事情などを、両使から説明させ…
後編6-No.10 金武朝貞・勝連良継連署覚書
金武朝貞と勝連良継が、薩摩から託された銀による中国貿易について、銀三百貫目や隠銀の取扱い、買物糸・巻物の品質と価格、銀の差替え、船の遅延、役人の違背と処罰などを詳細に報告した覚書。銀千貫目の貿易命令が首尾を得なかった事情や、中城・野村大学助らの銀運用上の問題を条項ごとに述べ、自分たちの責任と経緯を弁…
後編6-No.11 金武朝貞・勝連良継連署覚書
金武朝貞と勝連良継が、中国貿易用の御物銀と糸代銀について、残銀、差替え、商人への過分な支払い、役人間の役割分担と処分を追加報告した覚書。中城の主取としての責任や、福治官舎・与那城官舎らの取扱い、残銀をめぐる違背と処罰を挙げ、関係者の主張の食い違いも含めて経緯を説明している。
後編6-No.12 琉球国司尚豊書状
琉球国司尚豊が島津光久へ、光久が三州の太守職に任じられたことを祝うとともに、琉球側の従来の不忠・怠慢を詫びた書状。軍事的に防戦できない琉球が島津家の保護を受けてきた厚恩を述べ、今後は先例に従って国政を改め、薩摩への奉公を怠らないと誓い、引き続き庇護するよう願っている。
後編6-No.13 琉球国司尚豊起請文
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を受け、光久の下知に随い、琉球国の奉公に不忠・怠慢がないことを神仏に誓った起請文。誓約に背けば自身と子孫が梵天・帝釈、八幡、熊野、琉球の諸神など多数の神罰を受けるとする、広範な神名を列挙した厳重な誓詞である。
後編6-No.14 琉球国司尚豊書状
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を祝賀し、薩摩・琉球両国の安泰と光久の長久を祈った書状。祝儀として黄金、琉香三種、樽十荷、茶二壺などを進上し、詳細は派遣した両使に説明させるとしている。
後編6-No.15 伊勢貞昌書状
伊勢貞昌が川上久国へ、立野をめぐる寺院・宗旨の扱いについて回答した書状。種子島では他宗がなく祈念にも支障があること、先人の内意や故人の意思を踏まえるべきことを述べ、法華宗で取り扱う場合は関係者が互いに争わず相談して処理し、必要なら内談のうえ後日返答すると伝えている。
後編6-No.16 島津久元・伊勢貞昌連署書状
出典見出し「御文庫拾九番箱中」「光久公御譜中三在り」の連署書状。島津久元(下野守)と伊勢貞昌(伊勢兵部少輔)が国元重臣へ、相良某に与えられていた米之津の屋敷の処置について協議を求めた。相良の上洛時に設けられた屋敷について、返還または預置の可否、屋敷守・商人の往来・隠し置かれた物品、国元と江戸双方の用…
後編6-No.17 松平信綱・阿倍忠秋連署奉書
松平信綱と阿部忠秋が島津光久へ、佐々権兵衛が上使に任じられ、将軍の鷹狩で得た鶴も下賜されることを伝えた奉書。派遣された使者が御前へ召し出され、用向きを滞りなく果たしたことを知らせ、詳しくは口上で述べるとしている。
後編6-No.18 殉国名藪
寛永十六年四月九日、汾陽理心の家臣とされる横山豊前が殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
後編6-No.19 島津氏老臣某覚書
江戸の幕府評定所で琉球の貿易事情を尋ねられた際、伊勢貞昌が持参した覚書。琉球の渡唐進貢船に積む銀、芭蕉、上布・白布、扇、筆、食料・香辛料、織物、薬種、器物などを列挙し、太刀・長刀・鎧類など、以前は渡来したが現在は法度によって停止されている品々を区別して記している。
後編6-No.20 島津光久書状
島津光久が弾正大弼へ、吉利織部佑への用向きに心を配るよう頼み、現地の若輩者にも助言してほしいと求めた書状。あわせて宛先の病状を尋ね、少し快方に向かったと聞いて満足しているので、十分に養生するよう気遣っている。
後編6-No.21 児玉利昌譜
児玉利昌が寛永十六年五月二十日に六十七歳で病没し、興国寺に葬られ、法号を寿山源量居士としたことを記す譜記事。生前に画工へ自画像を描かせ、東郷重位に画像へ添える歌を求めたとも伝えている。
後編6-No.22 児玉利昌一詠草
児玉家に伝来した掛軸に記された児玉利昌の詠草。天地を吹き分ける風と露を題材に、色を変えないものに寄せて変わらぬ心を詠んだ和歌で、寿山源量居士の名が添えられている。
後編6-No.23 東郷重位書状
東郷重位が児玉利昌の死を悼み、茶を持たせて送った書状。重位は利昌を頼みにしていたのに自分より先に亡くなったため力を落とし、今後誰を頼ればよいのか心細いと嘆き、遺族と思われる「御懐様」の悲嘆を察して心遣いを求めている。
後編6-No.24 島津光久譜
寛永十六年四月二十九日、阿部忠秋が上使として島津光久へ時服百領・白銀などを伝達し、光久が江戸城で徳川家光に謝意を表して馬一匹を拝領したことを記す。光久は五月七日に江戸を発ち、大坂から船で六月十六日に鹿児島へ帰着し、伊勢貞昌が供奉した。さらに北郷久加を江戸へ遣わして帰国許可への礼を述べ、肴・琉球酒・絹…
後編6-No.25 北郷久加譜
島津光久が家督後初めて帰国を許された際、北郷久加が礼使として江戸城へ赴き、単衣四領を拝領して帰国したことを記す譜記事。久加は江戸滞在中に伊集院地頭職へ補任され、北郷吉左衛門忠盈が随行した。
後編6-No.26 島津光久公帖
島津光久が聖護院門跡の許可に基づき、薩摩・大隅・日向諸県郡の年行事職を飯隈山仙光坊へ安堵した公帖。毎年の大峯修行を中断せず、島津家のための祈念を丹精に勤めるよう命じている。
後編6-No.27 琉球国司尚豊書状
琉球国司尚豊が島津光久の家督相続を祝賀し、太刀一腰・馬一疋と別紙目録の祝物を進上した書状。詳しい口上は北谷按司に述べさせるとしている。
後編6-No.28 琉球国司進上物目録
No.27の祝賀書状に伴う琉球国司尚豊の進上物目録。香餅一箱、寿帯香一箱、玉蘭香一箱、焼酎二壺、漬物二壺を列挙する。正文は文庫にあるとの注記を伴う。
後編6-No.29 蓮光院起請文
蓮光院が主君とその一族への奉仕に際し、私意や偽りをもって療治・助言を曲げず、自身や子らの処置を隠さず、呪詛・邪術や悪意を行わないことなどを誓った起請文。梵天・帝釈、八幡、熊野、国内の諸神仏を広く勧請し、違背すれば自身と子孫が神罰・仏罰を受けるとする厳重な誓詞である。
後編6-No.30 島津光久条書
島津光久が家督後初めて帰国した際に示した条書。将軍の直命を受けて国中の奢侈を戒め、先代以来の国政を守り、キリシタン宗門を厳禁し、江戸の法度に従うことを命じる。さらに軍役・武具馬鞍の備え、酒色の節制、知行への出物・未進の整理を求め、衣服・武具・身分秩序などに関する江戸条書の規定も掲げて、違背者を厳しく…
後編6-No.31 島津久元書状
島津久元が国元の重臣らへ、太田備中守資宗の長崎派遣に伴う応接、細川越中守忠利から受けた照会、九州諸国の城郭・門・矢倉道具や船舶に関する幕府側の関心を報告した書状。長崎での対応に遺漏がないよう、関係する事情を取りまとめて披露・相談することを求めている。
後編6-No.32 島津久元書状
島津久元が弾正大弼へ、御前様の病状が快方に向かっていることを知らせるとともに、太田備中守資宗の長崎下向に際する家老派遣や九州での応接、細川忠利からの照会、外国船の来航と取締りなどを報告した書状。関係する条書の写しを送り、国元でも対応を整えるよう求めている。
後編6-No.33 細川忠利書状
細川忠利が伊勢貞昌へ、将軍の安泰を伝え、太田備中守の長崎派遣と九州諸大名への条書伝達、唐船・外国船をめぐる幕府の処置など、江戸で承知した長崎関係の動向を知らせた書状。島津家側の対応の参考となるよう、内々の情報をまとめて伝えている。
後編6-No.34 井伊直孝外六名連署条書
幕府老中らが連署して示したキリシタン禁制の条書。日本国内で禁じられたキリシタン宗門を弘めたり信徒をかくまったりする行為を処罰し、宣教師・同宗旨の者や外国船の渡来を厳しく取り締まり、違反者と関係船を速やかに処置するよう命じている。
後編6-No.35 松平信綱外二名連署条書
幕府老中三名が連署した沿岸警戒の条書。宣教師を運ぶ外国船の着岸を禁じ、領内の浦々に監視役を置いて不審船を改め、異国船が着岸した場合は乗員を上陸させず長崎へ送ること、不審者や密かな上陸を通報・捕縛した者には褒賞を与えることを命じている。
後編6-No.36 島津久慶外五名連署条書
島津久慶ら六名が新納加賀守へ示した、蔵入と諸役人の算用に関する条書。押米・押銀などの上納物を算用のうえで滞りなく納め、役人の用捨や抑留によって御物を損なわないよう、関係者へ厳しく申し渡すことを命じている。
後編6-No.37 伊勢貞昌外二名連署申渡書
伊勢貞昌・三原重種・山田有栄が、御荷内所から銀子を借り受けた者には利足三割を付けさせるとの命令を、担当者へ堅く申し渡した文書。
後編6-No.38 島津光久書状
島津光久が下野守へ、物奉行関係の支出を精査して不要な入用をなくし、役人の怠慢や物資の抑留を防ぎ、御物を損なわないよう厳正に処理することを命じた書状。用捨やえこひいきをせず、役人へ申し聞かせるよう求めている。
後編6-No.39 酒井忠勝書状
酒井忠勝が島津光久へ、海路を無事に帰国し家督後初めて入国したことを祝った書状。島津家から進上された国元の肴・琉球酒・巻物を阿部対馬守重次が披露し、将軍も機嫌よく受け取ったと伝えている。
後編6-No.40 伊東某覚書
伊東某が琉球へ渡る使者に示した覚書。中国貿易に用いる銀子の取扱い、琉球国司への進上物、米・野菜・薪・味噌など滞在中の入用、船の手配と出帆、現地役人との協議について条項ごとに指示し、渡唐関係の用向きを遅滞なく処理するよう求めている。
後編6-No.41 島津光久譜
太田備中守資宗が長崎へ到着し、外国人の渡航禁止に関する幕府の厳令を示して九州諸家の家老を召集したことを記す島津光久の譜記事。島津家からは家老川上久国と使役鎌田政有が長崎へ赴き、禁制の趣旨を承った。
後編6-No.42 川上久国書状
川上久国が国元の重臣らへ、八重山の波照間島へ小舟で漂着した二人を琉球で取り調べる件を報告した書状。漂着船の形状や乗員、前年に琉球へ来た南蛮人、呂宋方面から琉球を足掛かりに宗旨を広める懸念などを鎌田政有と相談し、幕府側へ説明した経緯を伝えている。
後編6-No.43 島津光久譜
寛永十六年八月十一日に江戸城本丸で火災が発生し、島津光久が家老川上久国を走らせ、幕府へ鉄砲袋二百などの品を献上したことを記す譜記事。
後編6-No.44 島津久元書状
島津久元が国元の重臣らへ、ポルトガル船や黒船が領内へ来航した場合の処置を報告した書状。港に番を置き、長崎奉行らへ知らせ、江戸へ急報し、抵抗する船には石火矢を用いて徹底して対処するよう幕府から命じられたと伝える。あわせて姫君の祝言日程と兼松弥五左衛門尉の長崎派遣を知らせている。
後編6-No.45 島津久元書状
島津久元が国元の重臣らへ、江戸城で早朝に火災が起こり、本丸天守は残ったものの二の丸などが焼失した状況を急報した書状。酒井忠勝・松平信綱らに出向いて事情を確認し、島津家からの見舞い・献上について相談し、必要なら材木などを用意する案を伝えて指示を求めている。
後編6-No.46 細川忠利書状
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾九巻中」「光久公御譜中二在り」の細川忠利書状。細川忠利(越中守)が島津光久へ、八月十一日の江戸城本丸火災で天守だけが残り、将軍が西の丸へ移ったこと、下々の者まで無事であることを知らせた。進物等について申し入れたので、早々に使者を下して礼を述べるよう伝えている。
後編6-No.47 島津久元書状
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾四巻中」「光久公御譜中二在り」の島津久元書状。島津久元(下野守)が国元重臣へ、江戸城本丸火災の焼失範囲、将軍の西の丸移動、姫君らの避難と無事を報告した。松平伊豆守・松平薩摩守の留守居衆らと、火災見舞いの登城・御目見や進物を相談し、御成蔵の品や材木などの候補を検討して国元…
後編6-No.48 川上久国書状
川上久国が、八重山の波照間島へ漂着した小舟と乗員二人について幕府側へ説明した経緯を報告した書状。船の図や道具から呂宋船との関係が疑われ、乗員を差し出して琉球側で詳しく取り調べること、南蛮人が琉球を足掛かりにキリシタン宗旨を広める可能性を警戒することなどを述べている。
後編6-No.49 島津久元書状
島津久元が江戸城火災に伴う島津家からの進上品について、細川三斎らと相談した経緯を報告した書状。あわせて国元へ帰る大廻船が伊豆下田近海で大風に遭い、薩摩船や松平隠岐守の荷物船などが沖へ吹き流された状況と、その後の船・荷物の処置を伝えている。
後編6-No.50 土井利勝書状
土井利勝が伊勢兵部へ、八月十一日の江戸城本丸火災を報告した書状。御殿は焼失したが将軍・姫君は無事で、名物の道具類も運び出され、人的被害もなかったと伝える。自身は古河から夜通し江戸へ戻り、諸大名が寝具類などを火災見舞いとして進上した状況も知らせている。
後編6-No.51 島津光久禁制
島津光久が領内へ示したキリシタン・異国船取締りの禁制。キリシタン宗門を厳禁し、浦々に監視役を置いて不審船を改め、異国船の乗員を上陸させず長崎へ送ること、密かな上陸者や協力者を取り締まることを命じている。
後編6-No.52 島津久元書状
島津久元が国元の重臣らへ、相良狩野介が使者として江戸へ到着し、国元の無事と御前様の快復を報告したことを伝える書状。酒井忠勝・阿部忠秋らの内意を受けて進上物や祝物の注文・披露を調整し、鶴・蜜漬・硫黄などの取扱いと諸大名からの贈答について報告している。
後編6-No.53 東郷弥十郎外八名連署起請文
東郷弥十郎ら九名が、今後は私的な親交を結ばず、御前方のことを口外せず、親兄弟・親類にも秘密を漏らさず、悪心や不忠を抱かないことを誓った連署起請文。梵天・帝釈、八幡、天満大自在天神など多数の神仏を勧請し、違背すれば神罰を受けるとしている。
後編6-No.54 島津久元・伊勢貞昌連署書状
島津久元と伊勢貞昌が、太田備中守資宗の長崎下向に伴って川上久国・鎌田政有を派遣した経緯を国元へ報告した連署書状。長崎での進上物、唐人・呂宋船など異国人と船舶の取締り、琉球からの渡航・宗旨調査、銀や積荷の扱いについて、長崎関係者との協議内容を詳しく伝えている。
後編6-No.55 馬場利重・大河内正勝連署書状
馬場利重と大河内正勝が島津光久へ、江戸城火災後も将軍が無事であることを伝えた連署書状。ポルトガル船の渡航停止に伴い、琉球から米・巻物・菜種などを調達するよう幕府年寄衆から命じられたこと、琉球船の渡海便を利用して現地へ申し渡すことを報告している。
後編6-No.56 馬場利重・大河内正勝連署書状
馬場利重と大河内正勝が島津光久へ、当年長崎へ入津したポルトガル船を天候が整い次第出帆させ、乗員を浦へ上陸させないよう命じた連署書状。悪天候で港近くへ戻った場合も厳重に番を置き、再び出船させるよう求めている。
後編6-No.57 蜂須賀忠英外十名進物書立
江戸城火災に際し、蜂須賀忠英ら十一名が千代御姫様へ進上した品々の書立。蚊帳、手拭類、料理鍋、行水桶、湯桶、夜着、屏風、毛氈、銀子などを、各大名・家臣の名と数量を対応させて列挙している。
後編6-No.58 島津久元・伊勢貞昌連署書状
島津久元と伊勢貞昌が、江戸城火災後の再建に用いる大引物・材木の進上について国元へ指示した連署書状。幕府から急いで大材を整えるよう求められたため、寸法・本数・材質を吟味し、大坂・江戸への輸送、銀子の借用と支払い、他国との調整まで含めて遅滞なく準備するよう命じている。
後編6-No.59 新納久宣・八木某連署知行目録
新納久宣と八木某が、真幸の諏訪社は島津家久の氏神であり、先年から知行五十石を付置かれていたとの旧証文に基づき、その五十石を神領座主検校へ支配させることを確認した連署知行目録。
後編6-No.60 伊勢貞昌書状
伊勢貞昌が国元の重臣らへ、相良内蔵助らに関係する鹿児島・出水などの屋敷の返還・預置、屋敷替え、銀子の借用・返済、預かり物の扱いについて見解を述べた書状。過去の経緯と証言を照合し、家中での所有・管理関係を明確にして公平に処置するよう求めている。
後編6-No.61 松平信綱外二名連署奉書
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、江戸城本丸火災に際して献上された猩々皮・羅紗の鉄砲袋二百と毛氈百枚を披露したところ、将軍が入念な心遣いを喜んだと伝えた連署奉書。
後編6-No.62 島津久慶外五名連署条書
島津久慶ら六名が示した琉球・中国貿易に関する条書。ポルトガル船の来航禁止後、琉球から唐へ進貢船を派遣して北京・福州との商取引を確実に行い、銀二百貫目余を渡し、生糸・巻物・薬種などを品質に注意して買い付けること、代銀や残銀、船中の武具を厳格に管理することを命じている。
後編6-No.63 島津久元・伊勢貞昌連署書状
島津久元と伊勢貞昌が国元の重臣らへ、江戸城火災に関して酒井忠勝・井伊直孝らへ送った書状と返書の扱いを報告した連署書状。川上久国の海路での参府・到着、関係者への披露、使者の帰国予定などを伝え、後続の返書も届き次第送るとしている。
後編6-No.64 島津久元・伊勢貞昌連署書状
島津久元と伊勢貞昌が、江戸城火災の見舞使として参府した川上久国の行動を報告した連署書状。久国が幕府年寄衆へ島津家の進上品である鉄砲袋・毛氈を届け、阿部対馬守から奉書を受け、用向きを済ませて早々に帰国することになった経緯を伝えている。
後編6-No.65 伊勢貞昌書状
伊勢貞昌が国元の重臣らへ、作事の絵図・屋作りと江戸城再建用の大材木進上について意見を述べた書状。材木の寸法・本数や大坂での受取りを幕府側と調整し、作事担当者や大工・年寄衆と相談して手戻りを避け、石垣や屋敷移転も含めて慎重に進めるよう求めている。
後編6-No.66 島津光久譜
寛永十六年、徳川家光の姫君千代姫が尾張の徳川光友へ嫁ぐ婚儀を島津光久が祝い、家光へ御肴三種・御樽三荷、千代姫へ御寝衣五・御蒲団三・御枕二を献上したことを記す記事。
後編6-No.67 松平信綱外二名連署奉書
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、千代姫の祝言に際して光久が使者を立て、御肴三種・御樽三荷と御寝衣五・御蒲団三・御枕二を献上したことを披露し、将軍が入念な心遣いを喜んだと伝えた連署奉書。
後編6-No.68 島津光久証状
島津光久が高野山蓮金院へ、島津家の宿坊は往古には廻向院であったが、大坂籠城に加担した後は蓮金院に定めたと証した文書。領内から高野山へ登る者を他寺へ参詣させず、違反者があれば薩摩へ届け出るよう命じている。
後編6-No.69 島津光久寄進状
島津光久が高野山蓮金院を島津家の宿坊とし、家久が興隆させた由緒を確認した寄進状。買地三十五石と薩摩国内の知行百石を寄附し、旧約を違えず先祖の日牌や寺檀の修補を永代怠らないよう定めている。
後編6-No.70 島津久慶外五名連署条書
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処…
後編6-No.71 島津久慶外四名連署申渡書
島津久慶ら五名が諸外城の地頭衆へ、高野山の島津家宿坊は廻向院から蓮金院へ改められたため、領内の登山者を蓮金院に宿泊させ、廻向院・覆坊・別坊への出入りや宿泊を禁じるよう申し渡した文書。村中へ徹底し、違反者は蓮金院からの届出に基づき処罰するとしている。
後編6-No.72 島津久元・伊勢貞昌連署書状
島津久元と伊勢貞昌が国元の重臣らへ、江戸城作事用の大曳物・材木進上と海上輸送について詳報した連署書状。酒井忠勝・松平信綱らとの相談を踏まえ、到着次第江戸へ進上すること、大坂船奉行に経験ある船頭・水主を手配させること、十五端ほどの船に材木を積む方法や強風・遅着への備えを示し、材木相場や他大名の進上例、…
後編6-No.73 島津久慶外五名連署返答書
島津久慶ら六名が勝連親方・金武按司へ、琉球からの報告各条に回答した連署返答書。進貢船と破損した小唐船、渡唐役人による銀の過分な支出と粗悪品買付けへの処罰、残銀管理、帰帆遅延、波照間島へ漂着した外国人二名の取扱い、宮古島へ漂着した南京船と積荷の検査・買上げ、不審船への対応を指示し、韃靼勢力が北京近郊へ…
後編6-No.74 北郷久加譜
寛永十六年十一月、北郷久加が御旅家老に補任されたことを記す記事。
後編6-No.75 島津光久書状
島津光久が島津久慶へ、細川忠利の馬別当浅野七左衛門尉が良馬を求めて祁答院筋を通行するため、宿所を怠りなく用意し、厩の替馬や軍役向きの馬を見せ、購入後は長く滞在させず早く出立させるよう命じた書状。あわせて大和守の上洛は久元・貞昌へ伝えたとする。
後編6-No.76 細川忠利書状
細川忠利が島津光久へ、十一月三日付の書状と七島の鰹節一箱三百・赤貝のななし物一壺の贈答に謝し、将軍家光が健勝で鷹野へ出ていることを報じた書状。久元・貞昌への用件は申し入れるとし、細川忠興の安否を尋ね、自身は暇を得て江戸を発ち上京すると伝えている。
後編6-No.77 土井利勝書状
土井利勝が島津光久へ、将軍家光の健勝を報じ、自身が古河で病んだ際に玄琢法印の治療を受けて快復したことを伝えた書状。光久には交替時期を待たず来春早く参府するよう勧め、七島の鰹節一箱と琉球酒大壺一の贈答に謝し、詳細は伊勢貞昌から伝えるとしている。
後編6-No.78 酒井忠勝書状
酒井忠勝が島津光久へ、将軍家光が健勝で江戸城普請も大いに進んでいると報じた書状。薩摩国の肴と琉球酒を将軍へ進上する件を三老中へ申し入れたことを了承し、自身に贈られた七島の鰹節一箱・琉球酒一壺に謝し、江戸にいる久元・貞昌とは万事相談するとしている。
後編6-No.79 松平信綱・阿倍重次連署奉書
松平信綱と阿倍重次が島津光久へ、将軍家光の様子を案じて使者を上らせ、薩摩国の異産と琉球酒を進上したことを披露したところ、将軍が入念な心遣いを喜んだと伝えた連署奉書。追記では阿部忠秋が不在のため加判しなかったと説明している。
後編6-No.80 安倍正之書状
安倍正之が島津光久へ、将軍家光が健勝であると報じ、贈られた琉球酒一壺に謝した書状。江戸城本丸の作事が盛んに進み、翌年四月前には完成するとの取沙汰を伝え、伊勢貞昌と折々会って光久のことを話しているので、江戸で適当な用があれば命じてほしいと述べる。本文の日付本体は寛永十六年三月十九日で、脇注に「御譜ハ十…
後編6-No.81 島津忠清譜
島津忠清について、幼名を菊千代丸、のち又助と称し、寛永十六年十一月二十六日に誕生したこと、母が島津家久の娘であったことを記す記事。父方の後嗣が絶えた後、母が藩主の妹であった縁により、叔父忠紀との関係を整えて母の遺領を知行することを許された経緯を述べている。
後編6-No.82 阿倍重次書状
阿倍重次が島津光久へ、将軍家光への進上品を披露し、詳しくは奉書で伝えたとする書状。自身に贈られた琉球酒一壺と赤貝の漬物一壺に謝し、江戸に置かれた久元・貞昌へ用件を伝えるとの申し出を了承し、光久の無事を喜んでいる。
後編6-No.83 松平信綱・阿倍重次連署奉書
松平信綱と阿倍重次が島津光久へ、先月七日付書状で申し出た参勤の件を将軍家光へ上聞した結果、国元の仕置をゆるやかに整え、翌年三月中に参府するよう命じられたと伝えた連署奉書。
後編6-No.84 松平信綱・阿倍重次連署奉書
No.83と同文のため本文では省略された連署奉書。島津光久の参勤願を将軍家光へ上聞し、国元の仕置を整えたうえで翌年三月中に参府するよう命じた内容で、本文注記には朱書で寛永十七年とあることが示されている。
後編6-No.85 島津久元譜
島津久元が壮年から禅法を好み、諸寺の禅関を訪ねて知識から大事を聞き、六十歳頃に武州江戸で嵩山心宗寺を訪ね、絶同大和尚に参禅したことを記す記事。久元は安心と別称を請い、絶同が書して授けたとして、後続の付与状へつないでいる。
後編6-No.86 絶同別称付与状
絶同が島津久元に衣鉢ならびに三帰・三聚・十重禁戒を授け、安名を宗崑、号を鉄心として与えた付与状。寛永十六年十一月吉辰、釈氏七十二世絶同が書したもの。
後編6-No.87 絶同別称付与状
絶同が島津久元に衣鉢ならびに三帰・三聚・十重禁戒を授け、安名の宗崑を与えた付与状。寛永十六年十一月吉辰、釈氏七十二世絶同が書したもの。
後編6-No.88 島津久元譜
島津久元が絶同に安心の別称を請い、趙州無の公案を示されて参究し、しだいに省悟した経緯を記す記事。絶同は久元との問答を重ね、問答の次序や院号を書き与え、のちに久元が差し出した肖像・弓・鞍馬の三幅に賛を書くに至ったことを述べる。
後編6-No.89 絶同偏
絶同が、島津久元は壮年から約三十年にわたり参禅して諸知識を訪ねたが未徹であったため、心宗寺で趙州無の公案を示したところ省悟したと記す偈。久元に宗崑の名と鉄心の字を与え、その証として一偈を付している。
後編6-No.90 絶同・宗昆問答之次序
絶同が、竹箆のもとで疑いを脱した島津久元(宗崑)が詠んだ『月は雲井にたち上けり』をめぐり、末句の意旨、有意・無意、有無を離れるかなどを問答した次序を記す文書。絶同は同じ句を重ねて応答を確かめ、石火・電光にも比すべき境地として結んでいる。
後編6-No.91 絶同院号付与状
絶同が島津久元に「月宮院」の院号を授けた付与状。寛永庚辰純陽上旬、釈氏七十二世絶同が授与したことを記す。
後編6-No.92 絶問賛
絶同が島津久元(鉄心宗崑大居士)に関して作った賛。弓籙の賛、久元の肖像をたたえる寿影の賛、鞍馬の賛からなり、武功・忠節、文武兼備、為政や参禅の歩みを述べ、弓馬に託した偈を付している。
後編6-No.93 島津光久書状
島津光久が、「つしょのかみ」の子息の元服を祝う意をまず申し入れ、ほどなく対面して直接述べると伝えた仮名書きの書状。
後編6-No.94 島津光久書状
島津光久が伊勢貞昌へ、新納二右衛門尉を国元へ下した件について、貞昌が事情を聞き合わせて知らせたことに満足したと伝えた書状。今後も意見を報告すること、上洛時期について年寄衆の意向や現地での面会内容を詳しく知らせることを求めている。
後編6-No.95 細川忠利書状
細川忠利が島津光久へ、十一月二十日付の書状を拝見し、江戸に変わりなく将軍家光も健勝であるため安心するよう伝えた書状。光久の無事と江戸屋敷の平穏を喜び、久元・貞昌と折々話しているとし、追而書では騒動が起こらないよう御制があり、近く法度書も出るとの風聞を報じている。
後編6-No.96 松平信綱外二名連署奉書
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、参勤を望む旨を将軍家光へ上聞したところ、翌春三月末に到着するよう命じられたため、その意向を承知するよう伝えた連署奉書。
後編6-No.97 徳川家光御内書
将軍徳川家光が島津光久へ、歳暮の祝いとして小袖十領が到来したことを喜び、詳しくは土井利勝から述べさせると伝えた御内書。
後編6-No.98 蓮金院真心覚書
蓮金院の使僧を分国内の諸外城へ巡回させるため、伊集院・串木野・祁答院・出水・山野・蒲生・加治木・庄内などの巡回先と、各地で対象とする衆中を列記した覚書。漏れなく伝達するよう範囲を示している。
後編6-No.99 御分国中惣高並衆中乗馬究帳
薩摩・大隅・日向・琉球を含む分国の石高、検地高、仕明地・荒地、御倉入、外城ごとの高と衆中、寺社・寺家、知行取、人数、乗馬数などを詳細に集計した帳簿。各地域・石高階層別の人数と軍役規模を列挙し、末尾で衆中と乗馬の総数をまとめている。本文の日付は寛永十六年十二月。
後編6-No.100 城中着座之次第名書抄
寛永十七年正月元日の城中における着座順を抄出した名書。北郷式部太輔を筆頭に、兵庫頭、桂又十郎以下の家臣を『上』の区分と組み合わせて列記し、各人の席次・序列を示している。