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前編2の目録

旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。

全2,778件中 601~700件・7 / 28ページ

  1. 前編2-No.595 伊集院久氏寄進状

    伊集院久氏の寄進状。本文はNo.593文書と同文であるため省略すると注記され、独立した本文は収録されていない。

  2. 前編2-No.596 島津伊久譜

    島津伊久譜の記事として、伊作大隅守久義が宿意を晴らすため応永四年十二月に軍勢を率いて出陣し、大河を渡って敵城に対陣したこと、木野・市来方面での動きと吉田某による和議の試みがまとまらなかった経過を記す。

  3. 前編2-No.597 島津元久加官状

    島津元久の加官状。本文は『加官』との簡略な掲示のみで、具体的な官職・対象者などの本文は収録されていない。

  4. 前編2-No.598-1 応永記

    応永記の記事として、応永五年正月に伊久が串木野へ越山・逗留し、市来・吉田方面から伊作方への対応を求められ、各方へ書状を送って情勢調整を図ったことを記す。

  5. 前編2-No.598-2 島津伊久書状

    島津伊久が大隅殿に、新年の祝意を述べたうえで、伊作方の振舞いが国乱につながる懸念、前年の渋谷一族退治、探題方への対応と国中催促について報じた書状。

  6. 前編2-No.598-3 島津元久書状

    島津元久が返書として、新年の祝意を述べ、伊作方との急な対立に際して実久が出陣した場合は速やかに撤兵させるよう協議すること、前年の探題方への使者派遣などを伝えた書状。

  7. 前編2-No.598-4 応永記

    応永記の記事として、新納実久が驚いて本田次郎左衛門尉を介し伊作久義をたびたび諫め、久義が撤兵したため伊久が喜んで山北へ帰り、三か国が平穏となったことを記す。

  8. 前編2-No.599 広済寺仏殿両牌銘

    広済寺仏殿の両牌銘として、天地の長久、国土・仏法の安寧と隆盛を願い、藤原輝正を大檀那として住持景周が記した銘文。

  9. 前編2-No.600 本田忠親寄進状

    本田忠親が、天地長久・国土安穏、公私の祈祷と亡者の菩提のため、薩摩国谷山郡内木下四町一段を惣勝禅寺へ寄進した寄進状。

  10. 前編2-No.601 島津元久書下

    島津元久が田代刑部少輔に、参津の件に関連して給分内を沽却することについて支障はないと認めた書下。

  11. 前編2-No.602 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、応永五年六月、清久が参津で要した費用を弁じるため領土の沽却を願い、十五日に島津元久が袖判を加えて許可を報じたことを記す。

  12. 前編2-No.603 蒲池久家打渡状

    蒲池久家が、重代相伝の私領である筑後国三瀦庄一木村内の重阿弥陀仏名田一町を道通へ打ち渡し、子孫が異議を申さないと定めた打渡状。

  13. 前編2-No.604 田代清久置文

    田代清久が、島津氏久から七郎入道清久および左衛門尉へ与えられた五通の書下と、串良院上条・鹿屋院の地頭職・弁分を列挙し、宗次郎の後代がこれに従って知行するよう定めた置文。

  14. 前編2-No.605 田代清久譲状

    田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について、遊喜田村・土橋村・原村・有里小野村・山野などの境界と自作分を列挙し、知行すべきことを示した譲状。

  15. 前編2-No.606 田代清久譲状

    田代清久が、大隅国田代村の四方境を、東は肝付内きしらのしら谷、南は花瀬河下流、西は野ヶ嶺境、北ははけ石・かなくその谷などとして示し、知行すべきことを定めた譲状。

  16. 前編2-No.607 田代清久置文

    田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について村・山野・自作分・屋敷などを列挙し、違乱する者は清久の子孫と認めないとして知行の維持を定めた置文。

  17. 前編2-No.608 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、応永五年十二月二十五日に清久が久助へ田代の諸村・山野に関する四通の文書を授け、その所領が子孫へ伝えられたことを記す。

  18. 前編2-No.609 島津元久書状

    島津元久が田代殿に、正宮村の木材を正月二十日以前に社頭へ納めて請取を持参するよう催促し、遅延すれば八幡の罰を受けるとして先の壁書どおり処置するよう命じた書状。

  19. 前編2-No.610 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、十二月二十五日に島津元久が清久へ書状を与え、正宮造営用の材木を正月中に運び納めるよう徴したことを記す。

  20. 前編2-No.611 島津国史

    島津国史の記事として、応永六年二月二十九日に島津元久が母崇欽禅尼の冥福のため谷山郡宇宿村の田畠・山野・浜海と水田八町を福昌寺へ寄進したことを記す。続いて、大内義弘討伐をめぐる幕府の命令、田代氏や伊作氏に関わる所領争いと元久の使者派遣など、同年の政情を載せる。

  21. 前編2-No.612 島津元久書状

    島津元久が田代殿へ、新春の祝意を述べたうえで、国人衆が出津の用意をして待っているため、一刻も早く渡って来るよう重ねて催促した書状。

  22. 前編2-No.613 島津元久書状

    島津元久が八代殿へ、探題方から河尻への合力を求められたため田代刑部少輔に軍勢を添えて派遣したこと、球磨郡をめぐる相良三郎の動向に対して親類美濃守と軍勢を差し向けたことを伝え、扶持・同心を求めた書状。

  23. 前編2-No.614 島津元久寄進状

    島津元久が、母崇欽禅尼の菩提所として、薩摩国谷山郡宇宿村内の門付事門六分の内の水田八町を福昌寺へ寄進し、万雑公事・諸役を停止した寄進状。

  24. 前編2-No.615 島津元久寄進状

    島津元久が、石屋和尚を開山として長谷の庭に建立した福昌寺へ、重代相伝の谷山郡宇宿村の田畠・山野・海辺を菩提所として寄進し、寺領の諸役停止と法系相続を定めた寄進状。

  25. 前編2-No.616 島津元久寄進状

    島津元久が、亡父輪岳久公禅定門の菩提所として、谷山郡宇宿村内の門付事門三分の内の水田三町を福昌寺へ永代寄進し、万雑公事・諸役を停止した寄進状。

  26. 前編2-No.617 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、応永六年三月十四日に清久が久助へ書状を授け、田代内の田園と狩倉を伝えたことを記す。

  27. 前編2-No.618 田代清久譲状

    田代清久が、大隅国田代内の東門田二反、南薗彦四郎屋敷などの水田・薗・狩倉を譲与し、違乱する者は清久の子孫と認めないと定めた譲状。

  28. 前編2-No.619 島津友久寄進状

    島津友久が、父道興禅門と母通奥禅尼の菩提所として、薩摩国鹿児島郡給分小牧内の二段を福昌寺へ永代寄進し、大檀那島津元久が加判した寄進状。

  29. 前編2-No.620 島津元久書状

    島津元久が田代清久へ、国勢がまだ集結せず中途に長く逗留していることを案じ、催促して近日中に集結させると伝えたうえで、市来辺ではなく山門へ急いで移り、当地から継続して注進するよう求めた書状。

  30. 前編2-No.621 応永記

    応永記の記事として、応永六年夏ごろから国中に疑念が広がるなか、島津元久の養子となった黒殿(久照)が鹿児島に屋形を構え、近臣を従えたことへの風評を記す。養子をめぐる政情不安が続き、翌年十二月に肥後・石井・伊地知らが下大隅で討たれた経過へつなげる。

  31. 前編2-No.622 島津恕翁公譜

    島津恕翁公譜の記事として、三州が平穏となったのち、応永六年夏に国中で疑念が広がった経緯を記す。元久が伊久の三男黒殿を養子として久照と名乗らせ鹿児島に屋形を設けたこと、その近臣配置をめぐる風評と処罰が政情不安へ発展したことを載せる。

  32. 前編2-No.623 島津元久書状

    島津元久が田代清久へ、参津を急ぐよう国人衆へたびたび催促していると伝え、まず山門へ移って国人衆を待ち、なお遅れる場合は阿蘇谷方と相談して一人でも出津するよう求めた書状。

  33. 前編2-No.624 島津元久書状

    島津元久が田代清久へ、来る十五日以前に真幸・栗野両所の間で敵方が軍事行動を起こすとの情報を伝え、合力のため準備して重ねて参集するよう求めた書状。

  34. 前編2-No.625 比志島義勝寄進状

    比志島義勝が、父立阿弥・母良阿禅尼・姉智貞禅尼の霊供のため、薩摩国満家院比志島名内の石原田・倉谷内・樋口の田地を徳雲寺へ永代寄進し、万雑公事・臨時課役を停止した寄進状。

  35. 前編2-No.626 島津元久宛行状

    島津元久が中馬左近蔵人へ、大隅国姶良庄西俣村内五町を祈祷所として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。

  36. 前編2-No.627 足利義満御判御教書

    足利義満が、大内入道の謀反が露見したため討手を派遣したと告げ、鎮西の薩摩国地頭御家人に、幕府方として忠節を尽くす者には恩賞を与えると命じた御判御教書。

  37. 前編2-No.628 延命寺領坪付注文

    延命寺領の田畠坪付として、古市の居屋敷、山本阿弥陀堂田・堂地、波平熊野田、天神田などを列挙し、田数と不現作分を記した注文。

  38. 前編2-No.629 大和守直久契状

    大和守直久が樺山殿へ、堅い親交を誓い、大小の事に用立つことを約束し、偽りがあれば伊勢天照大神・正八幡大菩薩・大明神の罰を受けるとした契状。

  39. 前編2-No.630 島津元久契状

    島津元久が田代殿へ、肥後・石井らをめぐる風説にもかかわらず田代本人の忠節を信頼し、兄弟・親類が敵方に同心しても本人を疑わず、今回の振舞いを遺恨としないことを神仏に誓った契状。

  40. 前編2-No.631 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、島津元久が伊久の三男久照を養子として鹿児島の北殿に置いたのち国中が騒乱し、肥後・石井らを下大隅で討ったことを記す。清久兄弟が誓状を差し出し、月末に元久が誓書で応じた経過を載せる。

  41. 前編2-No.632 島津元久書状

    島津元久が田代清久へ、探題の陣へ大将軍として出陣するよう重ねて命じ、家格・仁・分限から辞退は認められないと説いたうえで、阿蘇谷某を副将軍とし早々に出立するよう促した書状。

  42. 前編2-No.633 田代清久譜

    田代清久譜の記事として、探題が肥後河尻に陣して島津元久へ兵を求めたため、元久が清久を大将軍、阿蘇谷某を副将軍として派遣しようとしたこと、固辞する清久へ十二月二日に再度書状を与えて命令を強めたことを記す。

  43. 前編2-No.634 島津元久宛行状

    島津元久が菱刈安芸守久隆へ、日向国求仁郷内十五町を祈祷所として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。

  44. 前編2-No.635 島津元久書下

    島津元久が伊作殿へ、自身にとって重大な局面で弓箭の一味となるとの承諾を受け、薩摩国加世田別府を退治のうえ一円に進めると約束した書状。

  45. 前編2-No.636 幸範契状

    幸範が澤殿との間で、今後いっそう一味同心し、大小の事を隠さず相談し、所領問題や窮地には相互に支え、讒言があれば直接疑いを解くことを神仏に誓った契状。

  46. 前編2-No.637 島津元久宛行状

    島津元久が岸浦勘解由左衛門尉へ、大隅国姶良庄西俣村内五町を祈祷所として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。

  47. 前編2-No.638 島津元久宛行状

    島津元久が得丸但馬守へ、島津庄大隅方姶良庄内の得丸名一円を給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。

  48. 前編2-No.639 伊集院頼久契状

    伊集院頼久が島津元久へ、天下が変転しても元久の重大事には身命を懸けて相互に支え合うことを、日本国の大小神祇と八幡大菩薩に誓った契状。

  49. 前編2-No.640 西藩野史

    西藩野史の記事として、応永七年以降、島津元久が鹿屋周防介忠兼を鹿屋院へ復帰させ、肝付氏一族の所領・城を処理したことを起点に、伊作久義、鶴田重成、渋谷氏らをめぐる三州各地の軍事行動と所領再編を長期的に記す。元久・久豊方の出兵、和議、離反、討伐と恩賞の経過を載せる。

  50. 前編2-No.641 島津国史

    島津国史の記事として、応永七年正月以降、島津元久が鹿屋周防守忠兼を鹿屋院の地頭・領家職へ復帰させたこと、各地への使者派遣と所領措置、久照の養子問題とその後の処分などを記す。三州の支配再編と島津一族・国人間の緊張を同年の経過としてまとめる。

  51. 前編2-No.642 応永記

    応永記の記事として、伊久の子生黒丸が元久の養子となり、久照と名乗って北殿と呼ばれた経緯を記す。久照への厚遇と近臣の振舞いが元久・伊久間の不和、肥後・石井らの討伐、久照の離縁へつながり、本田忠親の諫言も容れられなかったことを載せる。

  52. 前編2-No.643 島津元久書状

    島津元久が田代殿へ、新年の祝意を述べ、探題から合力を急ぐよう求められているため、書状が届きしだい早急に出立・出津するよう重ねて催促した書状。

  53. 前編2-No.644 島津元久宛行状

    島津元久が鹿屋周防守へ、島津庄大隅方鹿屋院内の下村弁分・中村池上名弁分・田上名堀内の地頭・領家職を本領として一円に宛行い、先例どおり領掌することを認めた宛行状。

  54. 前編2-No.645 佐渡守親宗契状

    佐渡守親宗が樺山方へ、公方・私事の重大局面には身命を懸けて力を尽くし、不慮の風聞があっても直接釈明を求めることを、伊勢天照大神・熊野大権現・正八幡大菩薩などに誓った契状。

  55. 前編2-No.646 島津元久書下

    島津元久の書下。本文は『見于伊作家譜』との参照表示のみで、文書本文・宛先・具体的な命令内容は収録されていない。

  56. 前編2-No.647 島津元久書下

    島津元久が樺山殿へ、日向方穆佐院倉岡名内の林木跡十町、同所の先給分七町および当知行分を給分として宛行い、先例どおり知行するよう命じた書下。

  57. 前編2-No.648 島津元久書下

    島津元久が島津美濃守へ、日向国臼杵院内の左馬助跡と、同国宮崎郡内の戸次丹後守跡について、御下文の旨に任せて領知するよう命じた書下。

  58. 前編2-No.649 了阿契状

    了阿が澤殿へ、今後は重ねて一味同心し、大小の事を隠さず相談し、立場が変転しても互いの重大事を支え、讒言があれば直接問いただすことを正八幡三所大菩薩に誓った契状。

  59. 前編2-No.650 了阿契状

    国分宮内社司澤氏に伝わる了阿契状。本文はNo.649文書と同文であるため省略すると明記されており、同日・同標題の別伝文書として独立行を保持する。

  60. 前編2-No.651 島津元久安堵状

    島津元久が町田飛騨守へ、大隅国大祢寝内の本給分について相違なく、引き続き領知することを認めた安堵状。

  61. 前編2-No.652 島津元久書下

    島津元久が二階堂山城三郎へ、薩摩国河邊郡内の神殿村を料所として宛行い、相違なく知行するよう命じた書下。

  62. 前編2-No.653 島津久豊等連署起請文

    島津久豊・時成らが阿多加賀守へ、今度の供奉を願い、主君の重大事を自身の大事として力を尽くすこと、風聞があれば直接尋ねを受けて真意を説明することを八幡三所大菩薩などに誓った連署起請文。

  63. 前編2-No.654 島津元久書下

    島津元久が伊作殿へ、薩摩国谷山郡和田村の井佐屋脇半分を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。

  64. 前編2-No.655 島津元久書下

    島津元久が伊作殿へ、薩摩国益山庄を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。

  65. 前編2-No.656 禅室避状

    禅室が羽嶋氏側へ、所領一所を三年三作の期限で預け、期限中の扱いと返還時の作付けについて取り決めた仮名書きの避状。地名・細部には判読を要する箇所があるため、概要は取決めの骨格に限定した。

  66. 前編2-No.657 足利義満御判御教書

    足利義満が鹿屋周防守へ、日向国を新恩として今河讃岐入道法世に預け置いたので、早く沙汰を実施するよう命じた御判御教書。

  67. 前編2-No.658 渋川満頼書下

    渋川満頼が鹿屋陸奥守へ、上総入道久哲との確執が上聞に達したのは不適切であるとして、互いの意向を聞いたうえでまず和睦し、上裁を仰ぐよう命じた書下。

  68. 前編2-No.659 島津元久書下

    島津元久が鹿屋美濃守へ、島津庄日向方大田郷内十町を給分として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。

  69. 前編2-No.660 島津元久宛行状

    島津元久が鹿屋氏側へ、大隅国鹿屋院下村の地頭職を由緒により給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。本文上で宛名を確定できないため宛先欄は空欄とした。

  70. 前編2-No.661 伊集院頼久寄進状

    伊集院頼久が圓通庵へ、薩摩国伊集院内額田村の松木一町、樋脇五段、小河田の土地を寄進し、他の妨げなく先例どおり永代知行することを認め、違乱する子孫を否定した寄進状。

  71. 前編2-No.662 殉国名薮

    殉国名薮の記事として、応永八年の戦闘で新納実久方などに従い、大馬場・鶴田その他で戦死した人物を、所属・戦場・年齢等とともに列記する。細字の人物関係には判読を要する箇所があるため、概要は戦没者記事の性格に限定した。

  72. 前編2-No.663 畠山政長書状

    畠山政長が島津陸奥守へ、たびたび上洛を命じているものの、京都の情勢と敵軍の進退を見極めてから制人を派遣するので、それまでは連絡を保ち、戦功者の申告にも備えるよう伝えた書状。

  73. 前編2-No.664 福昌寺鐘銘

    薩摩国鹿児島郡に福昌寺を創建し、新たに青銅の洪鐘一口を鋳造したことを記し、寺風の隆盛と鐘声の功徳を漢文の銘文でたたえた福昌寺鐘銘。

  74. 前編2-No.665 福昌寺版鐘銘

    福昌寺常住の版鐘について、大檀那前陸奥太守藤原元久が助縁し、住持石屋真梁がこれを置いたことを記す銘文。

  75. 前編2-No.666 島津元久寄進状

    島津元久が、重代相伝の薩摩国鹿児島郡坂下内中薗一か所(良本の居屋敷)を福昌寺へ寄進し、雑公事・諸役を停止して永代知行を認め、違乱する子孫を否定した寄進状。

  76. 前編2-No.667 島津久哲預ケ状

    島津久哲(伊久)が渋谷弾正少弼重茂へ、薩摩国谷山郡と給黎院半分を祈祷所として預け、先例どおり沙汰するよう命じた預ケ状。

  77. 前編2-No.668 渋谷重茂避状

    渋谷重茂が清敷殿へ、祁答院内中津川名と黒木村について自身の由緒を認めつつも、協議した事情により権利を避け進めることを証した避状。

  78. 前編2-No.669 禅祐譲状

    禅祐が、薩摩国薩摩郡内の所領について、田畠・屋敷等の扱いを仮名書きで定めて譲った譲状。地名・条件の細部に判読を要する箇所があるため、推測せず文書の主旨に限定した。

  79. 前編2-No.670 島津国史

    島津国史の記事として、応永八年三月以降、島津久哲が田代清久らを市来へ派遣して城攻め・救援を行い、渋谷氏諸族や鶴田・高城などをめぐる戦闘が続いた経過を記す。多数の合戦・人名を含むため、主要な派兵と攻城の流れに限定した。

  80. 前編2-No.671 島津元久書下

    島津元久が田代刑部少輔清久へ、島津庄日向方柏原保内十町分を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。

  81. 前編2-No.672 島津伊久譜

    応永八年春以降、市来・鶴田方面で続いた合戦を記す島津伊久譜記事。元久方が各地を攻撃して苦戦すると、伊久方は田代清久ら救援軍を派遣した。市来氏・鶴田氏・渋谷氏を含む各隊の陣配置、兵数、戦死傷、進退を詳述し、戦闘の合間に試みられた和議とその不調までを追う。

  82. 前編2-No.673 応永記

    応永記の記事として、元久・伊久方と渋谷氏諸族をめぐる鶴田・熊越・神崎山方面の軍事行動を記す。複数の陣・攻城・撤退、兵数、負傷者と戦功申告などを含む長文で、主要な戦況推移に限定して概要化した。

  83. 前編2-No.674 島津元久譜

    島津元久譜として、渋谷四か所と鶴田をめぐる元久方・伊久方の軍事行動を記す。鶴田・串木野・神崎山周辺で陣の奪取と反撃が繰り返され、山田氏らを含む双方に死傷者が出た。戦闘後の所領処置と和議策にも触れ、島津一族間の対立が渋谷領支配へ波及した経過を示す。

  84. 前編2-No.675 島津恕翁公譜

    島津恕翁公譜の記事として、本田信濃守忠親が島津元久・伊久の対立を憂えて出奔し、のち軍勢と合流して戦ったこと、熊田原兄弟らの戦死と宝満寺門前での供養・像の安置を記す。

  85. 前編2-No.676 島津久哲書下

    島津久哲(伊久)が伊作大隅守へ、薩摩国日置庄内の名主職を預ける旨を伝えた書下。

  86. 前編2-No.677 島津久哲書下

    島津久哲(伊久)が伊作大隅守へ、薩摩国の南郷を祈祷所として預け置き、先例どおり沙汰するよう命じた書下。

  87. 前編2-No.678 村田経安書状

    村田経安が山田加賀守へ、境目での長期の辛労をねぎらい、当面は現地に留まる事情を述べたうえで、谷山内山田の本領と吉田方の所領処置、屋形が難儀した際の借用などについて内々に伝えた書状。末尾の詳細は石井方へ申し伝えるとする。

  88. 前編2-No.679 島津元久宛行状

    島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国姫木中城村一所を野口氏重代相伝の居屋敷として宛行い、後日の証拠とした宛行状。

  89. 前編2-No.680 島津久哲書下

    島津久哲(伊久)が伊作大隅守へ、薩摩国日置庄内の名主職を預ける旨を伝えた書下。

  90. 前編2-No.681 島津久哲書下

    島津久哲(伊久)が伊作大隅守へ、薩摩国知覧院で元久方の祈祷所として先日知行していた水田二十町を、新たな祈祷所として知行することを認めた書下。

  91. 前編2-No.682 大山道賢寄進状

    大山道賢が、弟子丸名内新田北村の水田二段を、父母道通・妙祐の菩提のため惣勝寺へ寄進した寄進状。本主が請け戻す場合は米六石で追善供養を行う条件を付す。

  92. 前編2-No.683 島津元久書状

    島津元久が隈本殿へ、時節到来への喜びと長期の辛労をねぎらい、日向国の情勢により一方が手空きになったこと、相手の本意達成が近いと見込み、一所を攻める際には最初に合力すると伝えた書状。

  93. 前編2-No.684 伴忠家寄進状

    伴忠家が、大隅国弟子丸名内新田一段を池袋宮内方から米一石一斗五升で買得し、父母の後生菩提のため惣勝寺へ寄進した寄進状。本主が買い戻す際の供養条件も定める。

  94. 前編2-No.685 足利義満補任御教書

    足利義満が長楽寺住持職について、先例どおり執務することを認めた補任の御教書。

  95. 前編2-No.686 島津元久書下

    島津元久が、大隅国内弥那尾村の地頭職を祈祷所として預け置き、先例どおり知行することを認めた書下。

  96. 前編2-No.687 島津国史

    島津国史の記事として、応永九年八月、鎮西の海賊が明国を侵したことを受け、幕府が海賊鎮圧と所領処置を命じた経緯を記す。久哲への書状、伊地知氏への措置、大隅方の所領関係を載せる。

  97. 前編2-No.688 島津元久宛行状

    島津元久が隈本石見守へ、大隅国宮内の万得房跡功得丸を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。

  98. 前編2-No.689 足利義満御判御教書

    足利義満が、鎮西辺の賊船が渡唐して狼藉を働くことを非難し、海賊行為を早く停止させるとともに、亡父久哲の遺跡について島津判官入道道徳の領掌に相違がないことを認めた御判御教書。

  99. 前編2-No.690 伊作島津久幸寄進状

    伊作島津久幸が、松崎の榎田二段などを長興寺の観音堂へ寄進し、万雑公事を停止した寄進状。

  100. 前編2-No.691 堀四郎左衛門覚書

    堀四郎左衛門が、島津忠国・元久・用久・忠良・久逸らの親族関係と、忠国の娘玉泉智芳大姉をめぐる玉泉寺の由来、長興寺からの改称、寺領・由緒を記した覚書。