ARCHIVE DIRECTORY
前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
全2,778件中 301~400件・4 / 28ページ
前編2-No.300 国分久成軍忠状
国分豊後守久成が、応安七年十二月の谷河陣、翌年四月八日の肥後国日置陣、七月十二日の菊池水島陣への従軍と忠勤を列挙した軍忠状。複数戦役への継続参加を根拠に、軍功を京都へ注進し、将来の証拠となる御判を加えるよう島津伊久へ求める。
前編2-No.301 法眼朝実・定禅連署奉書
法眼朝実・定禅が正宮留左衛門入道に、田所永穏・万善・曽恒見・東恒見の三か所で知行者が年貢を納めず抑留しているとして、厳密に催促し、難渋すればさらに厳しい沙汰を行うよう命じた連署奉書。
前編2-No.302 肝属兼氏譜
肝属兼氏譜として、今川了俊が肥後菊池へ出陣し、水島で少弐冬資を殺害した経緯と、その後に島津氏久を筑後守護へ誘い出して危害を加えようとした際、伊地知季弘・本田氏親らが護衛したことを記す記事。
前編2-No.303 南山巡狩録
南山巡狩録として、天授元年・永和元年八月二十六日に少弐冬資が肥後国で今川了俊と戦って討死し、二十九日に島津氏久が筑後守護となったこと、氏久が了俊に武家故実を尋ねたことを記す記事。
前編2-No.304 今川了俊書状
今川了俊が島津氏久に、先祖一代に許された錦の直垂は子孫へ相続でき、旗は同じ陣中では一流のみ用いるべきであると、武家故実について回答した書状。
前編2-No.305 供奉役人注文
『やく人いてたちの注文』として、若党・中間・はやのものなどを区分し、若党一人・中間五人などの人数、狩衣・直垂・烏帽子等の装束、役割と随行関係を仮名書きで定めた供奉役人注文。末尾の考証によれば、永和三年八月、今川了俊が肥後水島で催した宴会に島津氏久が奉公した際の注文であり、本文は前掲八月十日条の次に置…
前編2-No.306 今川了俊書下
今川了俊が、日向国臼杵院地頭職跡の椎葉左馬助について、御下文の趣旨を守って沙汰するよう命じた書下。
前編2-No.307 善喜譲状
善喜が比志島孫太郎久範へ、薩摩国伊集院内中河名六町、中山田一町の居屋敷分、麦生田・前原・神殿内柳田などの相伝所領を譲った譲状。安堵下文と手継状を添え、田地・屋敷を一括して継承させることで、久範の所領権と相伝根拠を明確にする。
前編2-No.308-1 島津道貞公書状
島津道貞が久富らへ、幸府越前殿との音信・使者接遇を細かく指示した長文書状。酒などの贈答、武芸について質問された際の答え方、宴席での振舞い、酒少新左衛門を含む同席者への配慮を述べ、相手の機嫌を損なわず関係を保つ作法を示す。
前編2-No.308-2 伊地知季安考
伊地知季安がNo.308-1の書状を考証した記事。永和元年、島津氏久が肥後菊池水島の今川了俊陣屋を訪ねた時の文書と推定し、島津師久・伊久の動向、年紀、関係する複数記録を比較する。書状の成立時期と軍事情勢を史料横断で位置付ける。
前編2-No.309 応永記
応永記中の島津伊久案文として、肥後国託麻原合戦で弟三郎左衛門尉・新納左近将監が討死した忠節が顧みられず、少弐冬資も水島で討たれたことへの恨みから、伊久が帰国した経緯を記す記事。
前編2-No.310 大日本史
大日本史足利義満伝として、天授元年秋に今川貞世が少弐冬資と戦って殺害したことを記す記事。
前編2-No.311 室町記
室町記巻三として、永和元年八月二十六日、肥後国の軍陣で大宰少弐冬資が九州探題今川了俊に誅されたとの報が届いたことを記す記事。
前編2-No.312 日向記
日向記巻三の伊東祐重世伝として、永和元年九月七日に肥後国水島の陣を開き、肥前国横大路松崎城へ退く途中、二度塚崎で宿直したことを記す記事。
前編2-No.313 今川了俊挙状
今川了俊が島津氏久に、筑後国守護職を京都へ所望していることを伝え、先例に従って沙汰するよう求めた挙状。
前編2-No.314 島津氏久譜
島津氏久譜として、九州探題今川了俊が島津氏久を招いた際、双方の警固兵が緊張して一触即発となったこと、贈答・饗応と面会、少弐冬資殺害後の九州情勢、氏久が危険を察して退去した経緯を詳述する記事。
前編2-No.315 今川了俊書下
今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が凶徒方へ加わった以上、いっそう忠節を尽くせば賞すると伝え、一揆同心して忠節を尽くすよう命じた書下。
前編2-No.316 足利将軍家御教書
足利将軍家が、島津周防五郎左衛門尉範忠の播磨国布施郷公文職について、亡父忠兼が貞和二年六月二十一日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
前編2-No.317 足利将軍家御教書
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷地頭職に関する岩間四郎の件について、亡父忠兼が貞和五年七月二日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
前編2-No.318 足利将軍家御教書
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷下司職などについて、亡父忠兼が観応二年正月二十四日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
前編2-No.319 今川了俊感状
今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
前編2-No.320 今川了俊書下
No.315と同文のため本文を省略した別伝。今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が凶徒方へ加わった以上、一揆同心して忠節を尽くすよう命じた書下。
前編2-No.321 今川了俊感状
No.319と同文のため本文を省略した別伝。今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
前編2-No.322 山田聖栄自記
山田聖栄自記として、九州探題から島津氏久方へたびたび出された参会・警固・談合の命令と、下向や参会が延引したことをめぐる探題との緊張を記す記事。
前編2-No.323 山田聖栄自記
山田聖栄自記として、今川了俊・九州探題との交渉と島津氏久の参会をめぐり、使者の派遣、対面時の応対、城門・警固・宿所の備え、内談の進め方などを説いた記事。
前編2-No.324 伊作島津久義譜
伊作久義が南方別府某を攻めて鵜塚に陣を構えるが、兵力不足のため進退できず、島津元久の制止で撤陣したこと、続いて田布施二階堂某を元久と攻め、降伏させて市来へ没落させたことを記す記事。
前編2-No.325 渋谷定円書状
沙弥定円が書状の趣旨を了承し、相手の京都からの下向と加世田別符の拝領を祝うとともに、辞退を考えていた使節役を引き受け、施行案文を留め置いて正文を返進した旨を伝えた書状。
前編2-No.326 伊作庄別符半分坪付注文
伊作庄別符半分について、唐房・津貫・大浦・山田などの半分、地頭所領・宮寺・田地、伊作殿の知行分などを列挙した坪付注文。永和元年十月一日に記された。
前編2-No.327 伊作氏系図
伊作家三代の親忠から久義・犬若丸・勝久へ至る系譜関係と各人の通称・官途を示した系図。
前編2-No.328 島津伊久書状
島津伊久が、奥州(島津元久)の上洛が決まったとの報を受け、元久が上洛すれば在国の諸事が難しくなるとの懸念を述べ、進水平入道に詳しい意見を託して率直な返答を求めた書状。
前編2-No.329 島津久豊譜
島津久豊の通称・官途を掲げ、永和元年に鹿児島で生まれ、母は佐多三郎左衛門尉忠光の娘であったことを記す記事。
前編2-No.330 大友親世書状
大友親世が、京都での礼などへの対応を伝えるとともに、筑後で菊池武朝方と戦い、溝口合戦で多数を討ち取ったこと、山鹿・菊池方の拠点を攻めて山中に陣したことなどを報告し、相手方の近況を尋ねた書状。
前編2-No.331 宮内大輔今川三雄挙状
No.121と同文のため本文を省略した別伝。宮内大輔今川三雄が、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、子息による代官でも差し支えないとの仰せを披露するよう依頼した文書。
前編2-No.332 沙弥道種譲状
沙弥道種が、重代相伝の私領である大隅国祢寝院佐多村内の田園を子息別当丸へ永代譲与した譲状。竹原田二段六十歩などの坪付を掲げ、関東御下文・六波羅御施行・鎮西御下知・守護御奉書・手継以下の証文を副え渡す。永和二年三月一日、沙弥道種(花押)。
前編2-No.333 めうゑん書下
めうゑんが、羽島浦内の横洲の「しをへ」の件について、国府殿から命じられた分のほかに申し出があっても支障はない旨を、知行給付に従って申し渡した書下。後日の証文として天授二年三月二日付で作成し、めうゑんが花押を据える。
前編2-No.334 島津師久譜
島津師久が薩摩郡碇山城に居住し、串木野・羽島・荒川・隈城・宮里・高江・山門院などを領したこと、渋谷氏との戦いで高江峰城を攻め、激戦の末に永和二年三月二十一日に戦死したことを記す記事。
前編2-No.335 島津国史
島津師久死後の薩摩国情勢をまとめた長文国史記事。今川了俊による軍事・統治上の指示、島津久哲・渋谷重頼・伊集院久清らの帰属と行動を追う。守護職と所領をめぐる対立が薩摩郡・伊集院方面の戦闘へ発展し、使者交渉と和議によって一時収束するまでを記す。
前編2-No.336 肝属兼氏譜
今川了俊が満範を州郡へ派遣して兵を募らせ、人吉・真幸方面へ進軍させた経過を記す肝付兼氏譜。相良前頼らへの対応を進める一方、兼氏が出兵要請に応じなかったため、了俊は禰寝久清らを介して参陣と軍功を繰り返し催促した。探題による軍勢動員と肝付氏の消極姿勢を示す。
前編2-No.337 今川了俊書状
今川了俊が、薩摩国の一跡や所々の安堵に関する処置、伊集院禅門方との協議、越州の進退への助力などについて意向を伝え、京都の疑念を招かぬよう早い対応を求めた書状。
前編2-No.338 今川了俊挙状
今川了俊が渋谷虎五郎に、掃部允への任官希望について京都へ申請する旨を約した挙状。
前編2-No.339 今川了俊書下
今川了俊が伊集院大隅入道に、島津氏久が心変わりした後も忠節を尽くす請文を差し出したことを受け、派遣した今川兵部大輔満範の手に属して戦功を挙げるよう命じた書下。
前編2-No.340 今川了俊書下
今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が心変わりした後も忠節を尽くす請文を差し出したことを受け、派遣した今川兵部大輔満範の手に属して戦功を挙げるよう命じた書下。
前編2-No.341 今川満範書状
今川満範が、土持方との合戦と敗軍、その在所をめぐる事情を伝え、宮大殿とも相談して協力・奔走するよう求め、詳しい事情は土持方の代官から伝えるとした書状。
前編2-No.342 今川満範書状
今川満範が、三か国の人々の多くが味方するとの報を受けて球磨郡人吉へ到着したことを伝え、速やかな軍事行動と合戦の相談を求め、関係者へ送る文書の案文を添えた書状。
前編2-No.343 今川満範書状
今川満範が、三か国の人々の多くが味方するとの報を受けて球磨郡人吉へ到着したことを伝え、速やかな軍事行動と合戦の相談を求め、関係者へ送る文書の案文を添えた書状。
前編2-No.344 相良前頼書状
相良前頼が、三か国の多くが味方するとの状況を受け、今川満範が大将として当地へ下着したことを伝え、公私のため協力するよう促すとともに、西方や相手方の情勢を尋ねた書状。
前編2-No.345 野辺盛久書状
野辺盛久が加治木殿へ、先に送った書状と九州探題から届いた御内書・案文の扱いを確認し、早急な返書を求めた書状。今川満範が球磨へ到着したとの軍事情勢を伝え、今後の軍勢合力と作戦上の対応を相談する。探題文書の伝達、現地情報、協力要請が一通にまとめられている。
前編2-No.346 沙弥実覚書状
沙弥実覚が、今川満範が球磨へ到着し、その使者大合良勘解由左衛門尉が当地へ来て御教書と大将の書状を届けたことを伝え、陣への注進と返事を求めた書状。
前編2-No.347 今川了俊書下
今川了俊が島津美濃守に、味方として忠節を尽くせば本領を安堵し、特別の軍功があれば恩賞を与えると約した書下。
前編2-No.348 今川了俊書下
今川了俊が島津美濃守に、味方として忠節を尽くせば本領を安堵し、特別の軍功があれば恩賞を与えると約した書下。別系統の家譜に載る同文の重出。
前編2-No.349 今川了俊書状
今川了俊が、禰寝久清の請文が届いたことを喜び、詳しい指示を今川満範へ伝えたこと、大隅・薩摩国の処置や球磨平定後の合力について相談するよう求めた書状。
前編2-No.350 今川満範書状
今川満範が、使者を介して探題方への吹挙などを伝え、渡海したとの報に反して到着しないことを案じ、探題方との談合と軍勢の派遣を求めた書状。
前編2-No.351-1 指宿忠勝譲状
指宿忠勝が、多年の軍忠により安堵されて知行してきた薩摩国指宿郡惣地頭職を嫡子将忠へ永代に譲り、子孫まで譲状の趣旨に従って知行するよう定めた譲状。
前編2-No.351-2 指宿忠勝略系図
指宿忠勝(能登守)から正忠(郡司)へ続く父子関係を示した簡略な系図。
前編2-No.352 今川満範書状
今川満範が、探題からの内書と疑問点を伝え、相良前頼が真幸まで到着したことを報じ、一揆の軍勢が寄せる前に速やかに軍事行動を取るよう肝付氏へ求めた書状。
前編2-No.353 今川了俊書状
今川了俊が、野部城での合戦や薩州方の軍事行動を聞いたことを伝え、まず出陣して協力するよう島津氏久へ求め、相良前頼らにも連絡した旨を述べた書状。
前編2-No.354 島津氏久宛行状
島津氏久が田代肥前守に、大隅国串良院内の本知行分を失った場合には新たな所領を宛行うとし、先例に従って沙汰するよう定めた宛行状。
前編2-No.355 足利義満御内書
足利義満が島津氏久へ、九州探題から届いた内書などを送り、西方合戦の勝利を祝した御内書。肝付親頼・兼氏ら国中の諸勢力と十分に相談し、大隅国の軍事と統治に当たるよう求める。幕府が探題報告を基に島津氏へ地域秩序の維持を期待したことを示す。
前編2-No.356 今川了俊書状
今川了俊が、島津氏久・伊久が忠節を誓って参陣するなら安堵を取り計らうと伝え、渋谷清敷にも一族と同心して参陣し、下向する久庵主に同行するよう求めた書状。
前編2-No.357 伊作庄別符半分坪付注文
No.326と同文のため本文を省略した別伝。伊作庄別符半分について、村々・地頭所領・宮寺・田地や伊作殿の知行分などを列挙した坪付注文。
前編2-No.358 今川満範書状
今川満範が禰寝氏に、肥後合戦に関する久多良木の書状と和泉への注進について伝えた返書。本文が短く細部に欠落・判読留保がある。
前編2-No.359 今川了俊書状
今川了俊が大塚左近将監に、島津氏久の非法に関する御教書が守られない状況下で池尻に同陣した忠節を評価し、弓矢・天下のための功として恩賞を取り計らうと伝えた書状。
前編2-No.360 今川了俊書状
今川了俊が多禰島氏に、肝付城の鎮静に協力した忠節を高く評価し、境界の処置には遠方からの援助が難しいため来月まで待つよう伝えた書状。
前編2-No.361 北郷義久譜
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
前編2-No.362 山田聖栄自記
北郷祐山兄弟が本領を確保して庄内南郷の都城を取った頃からの攻防を叙述する『山田聖栄自記』の記事。相良・伊東方が都城へ迫り、島津氏久が志布志から天ヶ峯に陣取って救援した経過を記す。二月十九日頃の合戦に際し、平田重親は甥の氏親に、自身は討死するので生きて又三郎殿に仕えるよう諭した。重親は討死し、氏親は七…
前編2-No.363 島津氏久宛行状
島津氏久が大姶寝伊勢介に、大隅国大禰寝院郡本村内の大姶良次郎秀義跡の田地一町・薗一所を闕所として料所に宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。
前編2-No.364 肝属兼氏譜
天授三年、島津氏久と世子久豊が都城救援を企て、肝付兼氏へ加勢を求めたことから始まる肝付氏の譜記事。北郷・本田・伊東など諸勢力が天ヶ峯・蓑原周辺で交戦し、進軍・退却・戦死が相次いだ経過と勝敗を追い、都城をめぐる広域戦の展開を記す。
前編2-No.365 島津国史
天授三年前後の南九州争乱を詳述する国史記事。島津氏久・久豊方と北郷・肝付・伊東・相良・本田諸氏が同盟と離反を繰り返し、都城周辺の諸城・陣地で交戦した。各隊の進軍・退却、武将の戦死、勝敗の転換を追い、戦後に忠功を認定して恩賞を与えるまでを一連の軍事過程として記す。
前編2-No.366 北郷義久譜
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
前編2-No.367 北郷義久譜
天ヶ峯から平長谷へ陣を移した島津氏久方の戦闘を記す。財部勢が援軍として加わり、新納実久・本田重親らが部隊を編成して一揆軍の陣へ攻撃した。敵味方の隊列、先陣・後陣の動き、戦況の転換と勝敗を追い、救援軍の指揮系統を示す。
前編2-No.368 山田聖栄自記
山田聖栄が平長谷・天ヶ峯周辺の決戦を詳細に記した自記。島津氏久・北郷義久方と伊東・相良方の軍勢配置、各隊の進退、本田重親・新納実久ら武将の一騎打ち、負傷・戦死を挙げ、隊列が崩れた後の追撃と戦場収拾までを具体的に描く。
前編2-No.369 山田聖栄自記
山田聖栄自記として、渋谷典厩が伊集院隅州との関係を通じて使者を送り、出陣・国一揆への参加や庄内方面への進軍について相談し、約束と人質をめぐって交渉したことを記す記事。
前編2-No.370 子督譲状
子督が祖超御房に、薩摩国国府庄内宮里名の田五反を一期分として譲与し、妨げなく知行するよう定めた譲状。天授三年二月九日、子督(花押)。
前編2-No.371 殉国名薮
『殉国名薮』として、永和三年三月朔日の合戦で北郷彌二郎基忠が今川了俊方に属して戦死したことと、その軍歴・名乗りに関する注記を記す記事。
前編2-No.372 今川了俊書状
今川了俊が渋谷虎五郎の注進を了承し、菊池肥前守以下の凶徒を蠣打で討ったことを伝え、肥後対治のため今川兵部大輔とともに忠節を尽くせば本領知行を保障すると述べた書状。
前編2-No.373 今川了俊書状
今川了俊が渋谷清色虎五郎に、時機が整ったので速やかに姿を現し、今川兵部大輔とともに忠節を尽くすよう命じ、本領知行を保障すると述べた書状。
前編2-No.374 征西将軍宮令旨
征西将軍宮が、軍忠を尽くしたとの報告を聞き召して殊に神妙であると賞し、一品親王の令旨を左少将が伝えた文書。
前編2-No.375 島津伊久宛行状
島津伊久が本田左近蔵人兼久に、山門院西方内にある祖父兼阿の跡の村々と散在田園などを、証文と先例に従って知行するよう命じた宛行状。
前編2-No.376 土持栄勝軍忠状
土持栄勝が、都城陣での宿直と合戦、姫木城没落時の出陣、飲肥・櫛間への在陣や庄内への随行などの軍忠を列挙し、後日の証拠となる御判を求めた軍忠状。
前編2-No.377 今川了俊書下
今川了俊が渋谷虎五郎に参陣に関する指示を伝え、本領知行分は従前どおり相違ないと保証した書下。
前編2-No.378 今川了俊書下
No.377の今川了俊書下と同文であるため本文を省略した文書。渋谷虎五郎の参陣に関する指示と本領知行分の保障を内容とする。
前編2-No.379 島津氏久譜
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
前編2-No.380 今川満範書状
今川満範が土持左近将監に、春から十二月二日まで飲肥・志布志・都城以下の諸方を同心させた忠節を賞し、その詳細を上申すると伝え、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
前編2-No.381 島津氏久寄進状
島津氏久が祈祷所として、日向国救仁郷比志田村内の毘沙門堂敷地と免田畠を毘沙門堂持住玄祐庵主禅師へ寄進し、先例どおり知行するよう定めた寄進状。
前編2-No.382 島津氏久書状
島津氏久が姫木十郎に、守護代に対する一所懸命の忠節を書き入れたことを伝え、詳細は対面して申し聞かせるとして、その働きを喜んだ書状。
前編2-No.383 田畠取帳
天授三年の濱田村などの田畠を記録した土地台帳。田・畠の所在、地目、反別、作人・名請人を小区画ごとに列挙し、同一人物が複数地を耕作する状況や分散した保有関係を示す。村内の耕地構成、土地利用、年貢負担者を一筆単位で検索できる取帳。
前編2-No.384 島津氏久書下
島津氏久が大始良左近将監の長年の忠節を認め、大始良村内で現に知行する地頭得分を給分として認定し、今後も忠節を続ければ本領として相違なく知行できると定めた書下。
前編2-No.385 武光心賢譲状
武光心賢が新兵衛尉兼我に、薩摩国高城郡本方得名の惣領職・弁済使職、宮里郷の田地園、薩摩郡別符前田地四段などの所領・所職を証文とともに譲り、永代知行と女子・後家分の後日の継承を定めた譲状。
前編2-No.386 島津国史
島津国史として、永和四年に今川満範が島津伊久を召した経緯、伊久による根占氏関係の所職・所領安堵、今川了俊を介した島津久哲の豊後国井田郷回復交渉、肥後託摩原での菊池武朝との戦いなどを記す記事。
前編2-No.387 島津伊久譲状
島津伊久が伊作女房に、薩摩郡内羽島、永吉光富名内の園・水田、中津町一町、延時名内の薗、山門院内青木原村などの田園を一期分として譲り、妨げなく知行するよう定めた譲状。
前編2-No.388 今川了俊軍勢催促状
今川了俊が、軍勢への遅参が続く薩摩国の地頭御家人らに対し、日を置かず馳せ参じるよう触れ知らせることを命じた軍勢催促状。
前編2-No.389 今川了俊奉書
今川了俊が大友式部丞に、島津伊久が本領と主張する豊後国井田郷について、以前の命令が実行されていないのは不当であるとして、速やかに下地を伊久の代官へ引き渡し請取状を提出させるよう命じた奉書。
前編2-No.390 島津氏久安堵状
島津氏久が惣弁済使伊勢介に、大隅国大禰寝院の惣弁済使職と郡本村の田畠以下について、父道日の譲状どおり領掌に相違がないことを安堵した文書。
前編2-No.391 大日本史
『大日本史』後亀山天皇紀の記事として、天授四年(北朝永和四年)九月、征西将軍懐良親王が菊池武朝・左近将監・清原親善らと今川貞世を託摩原で破ったことを記す。
前編2-No.392 新納久吉伝
『新納久吉伝』の記事として、新納久吉が島津元久の名代として肥後へ出向き、将軍方に属して白川の戦いで討死したと伝える。
前編2-No.393 伊地知季安考
伊地知季安が、永和四年九月の今川了俊・菊池武朝による託摩原合戦で新納久安・久吉が討死したと考証し、久吉を島津元久の名代とする伝承は誤りで氏久の名代、久安は伊久の名代であろうと論じた記事。
前編2-No.394 応永記
『応永記』に載る島津伊久から大友殿への案文として、肥州託摩原の合戦で舎弟三郎左衛門尉と新納左近将監が伊久の目前で討死したことを忠節の証として記す記事。
前編2-No.395 山田聖栄自記
山田聖栄自記として、碇山金吾が島津上総介の名代、新納将監が島津元久の名代となり、二人とも肥後白川合戦で将軍方に属して討死したと伝える記事。
前編2-No.396 殉国名薮
『殉国名薮』として、永和四年の託摩原・白川などの戦いで討死した碇山久安・新納久吉らの事績を、他史料の記述や年代注記とともに列挙する記事。
前編2-No.397 沙弥道種譲状
沙弥道種が別當丸に、大隅国禰寝院南俣内の池縁薗、馬門田・桶渡・嶋田河原の小薗など、相伝の私領である田薗を関東下文・六波羅施行・鎮西下知以下の証文とともに永代譲与した譲状。