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前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
全2,778件中 701~800件・8 / 28ページ
前編2-No.692 島津元久書状
島津元久が、鹿児島城の蔵に置く料足・銀・唐物・武具類について、自身に不慮の事態があった場合は、蔵を預かる北原新左衛門尉・福崎太郎次郎が法印実賢の誓文をもって福昌寺へ引き渡すよう命じた書状。両人に支障があるときは、その跡を相続する者が引き渡すことも定める。
前編2-No.693 直久安堵状
直久が蒲池左衛門次郎へ、忠節により蒲池郷本名内蒲生十三町と瀬高五町の知行に相違がないことを認め、一家中への振舞いや奔走への対応も伝えた安堵状。
前編2-No.694 なへくら久頼・長の玄林連署請文
なへくら久頼と長の入道玄林が連署し、志布志で預かった唐物その他の品について、求められた際には両人が誓文に基づき福昌寺へ残らず引き渡し、両人に万一のことがあれば後を継ぐ子にも履行させると請け負った請文。両名が花押を据える。
前編2-No.695 島津久豊証状
島津久豊が伊地知縫殿允へ、島津庄大隅方下大隅郡について、欠所が生じしだい宛行う旨を証した証状。
前編2-No.696 伊集院頼久譲状
伊集院頼久が、道忍の譲りに基づき、薩摩国伊集院内柿本門五段と岩屋谷五段を崇悟書記へ永代譲与し、違乱する子孫を否定した譲状。
前編2-No.697 某書下案
島津陸奥守宛の書下案。本文は『島津陸奥守殿被下案文』との掲出表示を中心とし、具体的な主文・発給者を確定できないため、推測せず概要を限定した。
前編2-No.698 某御教書
某が、前年九月以来島津元久が薩摩国の知行地を押領していることを不当として妨げを停止させ、亡父久哲の遺跡を惣領島津判官入道道徳が領掌することに相違ないと認めた御教書。
前編2-No.699 殉国名薮
殉国名薮の記事として、応永十年の軍事行動で新納実久方などに従い、山田・福永方面で戦死した人物を、所属・戦場とともに記す。細字の人名・地名には判読を要する箇所がある。
前編2-No.700 山田久興譲状
山田久興が、亡父忠経の譲状や関東御下知以下の証文に基づき、薩摩国谷山郡内山田・上別符両村の重代相伝所領を百王丸へ譲り、後日の証拠とした譲状。
前編2-No.701 福崎久重・北原氏純連署誓文
福崎久重と北原氏純が、預かった金・唐物・衣服等を管理し、公的な求めがあれば両人で誓約のうえ返却し、本人に不慮がある場合は後継者が履行することを連署して誓った文書。
前編2-No.702 島津恕翁譜
島津恕翁譜の記事として、福崎久重・北原氏純の連署誓文(No.701)を掲げ、その作成・提出関係を記録する。主文はNo.701に対応するため、重複する細部は避けて整理した。
前編2-No.703 島津恕翁譜
島津恕翁譜の記事として、山東・海江田方面の戦況を背景に、加江田本城の修築と阿多加賀守の地頭補任を記す。南面・細江などへ守備兵を配置し、伊東氏らの進出に備えた後、城郭と周辺交通路をめぐる攻防が続いた経過を述べ、領地防衛と在地支配を結び付ける。
前編2-No.704 島津恕翁譜
島津久豊が穂佐高城へ移り、池尻・白糸・細江の諸城へ勇鋭の士を配して守備を固めた経過を記す島津恕翁譜。伊東大和守祐堯方との対立から城郭戦が起こり、本田小太郎・綾縫殿助らが戦死した。複数拠点による防衛網の形成と、伊東勢の侵攻に伴う人的損害を伝える。
前編2-No.705 島津忠国系図
島津忠国について、初名を久、通称を又三郎、官途を修理亮・陸奥守とし、応永十年五月二日に穂佐高城で生まれ、母は伊東大和守祐堯の娘であったことを記す系図。
前編2-No.706 島津国史
応永十年、恕翁公が伊作氏を阿多郡田布施へ派遣し、同地を管領させたことを中心とする国史記事。田布施を拠点に阿多郡周辺の所領支配を整え、渋谷重頼ら在地勢力との提携・対立へ対応した。人員配置、所領の確保、軍事行動を通じて島津元久方が薩摩南部の支配を固める過程を示す。
前編2-No.707 島津元久書下
島津元久が伊作氏へ、薩摩国阿多郡の二階堂本知行である多布施の事を志により進置し、先例に任せて知行するよう命じた書下。
前編2-No.708 島津元久書下
島津元久が伊作氏へ、阿多・河辺・知覧の本知行について自ら大綱を存じて沙汰し、等閑なく扱うよう命じた書下。
前編2-No.709 島津元久安堵状
島津元久が執印豊前守へ、薩摩国阿多郡内五代院、指宿郡内石堂村、万徳上村入道跡について、当時忠節を致すなら祈所として相違ない旨を認めた安堵状。
前編2-No.710 島津元久宛行状
島津元久が渋谷弾正少弼へ、薩摩国鹿児島郡武之村と指宿郡内成河村を志により進置し、相談中の山北所領を知行する時は返給するとの条件を付した宛行状。
前編2-No.711 島津元久宛行状
島津元久が称寝左馬助入道へ、大隅国下大隅郡内の自坂上(木谷村を除く)と大称寝内郡本村を料所として宛行い、先例に任せて領知するよう命じた宛行状。
前編2-No.712 島津守久宛行状
島津守久が渋谷弾正少弼へ、薩摩国山門院西方と薩摩郡内荒河・羽嶋を、忠節を承ったことにより進置し、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。
前編2-No.713 島津元久契状
島津元久が渋谷弾正少弼と、天下の変事や三か国の不慮に際して一味同心し、互いに助力すること、讒言を信用せず、協議した条々を違えないことを契約した文書。
前編2-No.714 島津元久書状
島津元久が渋谷弾正少弼へ、播州方から山門西方・荒河・羽嶋を進められた旨を了承し、播州方に不慮の申し分があっても、自ら当該所領について協議すると伝えた書状。
前編2-No.715 島津国史
島津国史の記事として、応永十一年正月十一日に恕翁公が鹿児島郡本水田名所小坂本一町を崇鑑禅尼の冥福のため福昌寺へ寄進し、課役を免除したことを中心に、同集庵・輪岳公の菩提祈祷と福昌寺寺領の沿革を記す。
前編2-No.716 島津元久・久豊連署寄進状
島津元久と久豊が、鹿児島郡且過・同集庵の所領田畠を、先考輪岳禅定門の菩提祈祷のため福昌寺へ寄進し、万雑公事・諸役を停止した連署寄進状。坪付は別紙とする。
前編2-No.717 島津元久田畠坪付
福昌寺へ寄進された鹿児島郡郡本内の田畠坪付で、中津上・柿本・小坂本・坂本内本且過跡などの田地と、原崎山・柿本・且過敷地・染河などの萱分を列記する。
前編2-No.718 島津元久寄進状
島津元久が、重代所領である鹿児島郡郡本内水田名所小坂本一町を、崇鑑禅尼の菩提祈祷のため福昌寺へ永代寄進し、万雑公事・諸役を停止した寄進状。
前編2-No.719 島津元久書状
島津元久が鹿屋殿へ送った仮名書状。使者の派遣、境界をめぐる事柄、合戦の次第や薩摩方との協議について述べ、諸事の支援・相談を求める。仮名書きの細部は推測せず主要趣旨に限定した。
前編2-No.720 島津元久宛行状
島津元久が、薩摩国鹿児島郡河上村について、父上野入道の存生中はその知行を認め、後には嫡子三郎左衛門尉へ給恩所として宛行い、親類兄弟の違乱を禁じた宛行状。
前編2-No.721 山田久興奉書
山田久興が島津元久の命を奉じ、薩摩国谷山郡延命寺の寺務職について、元久の御判による沙汰に基づき末代まで領掌するよう河上三郎左衛門尉へ伝えた奉書。
前編2-No.722 島津元久寄進状
島津元久が、薩摩国谷山郡延命寺の寺家職を延命寺へ寄進し、末代まで相違なく寺務職を領掌するよう認めた寄進状。
前編2-No.723 島津久哲書下
島津久哲が伊作大隅守へ、薩摩国加世田別符内大浦村について、先例に任せて相違なく知行するよう認めた書下。本文の月表記は『卯月』。
前編2-No.724 調所忠恒伝
調所忠恒伝の記事として、応永十一年五月廿一日に税所検校らが守公神の年中祭式を定め、日代がこれを許し、検校らが連署したこと、調所書生忠恒がその作成に関与したことを記す。
前編2-No.725 大隅国目代在庁官人連署注文
大隅國衙の守公神年中祭礼について、祭日ごとに六前・百前・五十前などの御供・人供、酒・夜粥等の品目・数量を記し、曽野郡・重富本名・東郷・桑原・西郷等の郷・名田や、主神司・税所介等が担う調進・所役を割り当てた連署注文。末尾には目代法橋上人位、調所書生、厨家書生、田所検校、税所検校、惣検校らが連署する。本…
前編2-No.726 島津元久譜
島津元久譜の記事として、足利義満が薩摩・大隅・日向三州の闘乱停止を鎮西探題へ命じ、朝山師綱・重綱らを派遣し、大友親世も吉弘土佐入道を同行させ、島津元久と志布志で対面して奉書を渡した経過を記す。
前編2-No.727 足利義満御教書
足利義満が島津元久へ、一名字の者同士が絶えず合戦するのは不当であるとして確執を止め、和睦して忠節を尽くすよう命じた御教書。
前編2-No.728 島津元久譜
島津元久譜の記事として、三州和睦の上使との対面に際し、元久の館で三献の饗応を行い、大慈寺で和漢連歌の会を催したこと、その後上使が薩州へ向かい、各地を経て帰洛した経過を記す。献立も列記される。
前編2-No.729 足利義満安堵下文
足利義満が、日向・大隅両国の守護職について、島津陸奥守元久の領掌に相違ないことを認めた安堵下文。
前編2-No.730 伊集院頼久・為久連署寄進状
伊集院頼久・為久が、薩摩国伊集院廣濟寺の寺領として、西山・高別府・寺前田・大道・大窪鎮守田などの所領を寄進し、子孫による違乱を禁じた連署寄進状。
前編2-No.731 姫木忠通寄進状
姫木右馬助大中臣忠通□□が祈祷のため、桑東郷内澤津水口二反を守公神へ永代寄進し、忠通一類が違乱しないこと、毎年の御年貢を未進なく納めること、無沙汰の場合は寄進状に任せて沙汰を受けることを定めた寄進状。本文中の四角枠は原資料自体の空格として保持し、推測補完しない。
前編2-No.732 平重足契状
平重足が、天下の動向とは別に当地では一味同心し、互いに見継ぎ、流言・荒説の際にも支え合って永く安定を保つことを誓い、違背時には神罰を受けるとした契状。
前編2-No.733 島津元久書下
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国守護所本職について、先例を守って沙汰するよう命じた書下。
前編2-No.734 眞佛譲状
眞佛が重二に、薩摩国滝郡温田の水方二三郎丸一曲、国分の万徳新開・黒場西屋敷、東郷洲村内の所領、筑前国合屋目尾内山田・竹内屋敷、相模国落合郷内の野辺入道屋敷などを譲った譲状。これらは眞佛が重代相伝してきた所領であり、惣領の意向に背かず公事は先例に従うこと、重二に子がなければ兄弟の一人へ譲ることを条件と…
前編2-No.735 大友親世書状
大友親世が島津氏へ、幕府・探題の意向による朝山氏と吉弘土佐入道の派遣、和睦の成立、奥州・相良方の状況、京都の合戦が無事落着したことなどを報じ、今後の協調を伝えた書状。
前編2-No.736 島津元久禁制
島津元久が、薩摩国谷山郡宇宿村の福昌寺寺領で殺生を行うことを禁じ、親類・若党を含め違反を停止させ、境界付近へ入った鷹は放すよう命じた禁制。
前編2-No.737 島津元久名字状
島津元久が左衛門大夫藤原景親に『輔仁』の名を与えた名字状。本文は授与名・受給者・年紀を簡潔に記す。
前編2-No.738 島津恕翁譜
島津恕翁譜の記事として、伊作久義と別府氏の対立、久哲による新納実久への調停依頼、二階堂氏の立場、元久による田布施包囲へ至る経緯を記す。複数年にわたる軍事・婚姻関係を主要経過に限定した。
前編2-No.739 島津恕翁譜
島津恕翁譜の記事として、別府氏と鮫島氏が党徒の勢力を失って島津元久へ降伏し、元久の旗下に属したため、南方から凶徒の余党が絶えて平穏になったことを記す。
前編2-No.740 島津国史
島津国史の記事として、応永十二年冬の元久による田布施・年禮城攻撃、翌春の別府・阿多氏の救援と行貞の退城、田布施の掌握、元久の娘と伊作克久の婚姻および田布施譲与などを記す。後続の寺領記事は主要事項に限定した。
前編2-No.741 朝阿譲状
朝阿が、薩摩国祁答院上湯田内の東園・森田五反を、深い志により富光将監へ譲り、後日の証拠とした譲状。
前編2-No.742 朝阿譲状
朝阿が、薩摩国祁答院上湯田村内の中園・井かいら田一町をはじめ、道上・尾崎田・垣本など複数の田地を富光将監へ譲った譲状。No.741とは譲与地の異なる別文書。
前編2-No.743 島津元久・久豊連署寄進状
島津元久と久豊が、元久の重代相伝所領である鹿児島郡内の水田二町三段を且過同集庵へ寄進し、万雑公事・諸役を停止した連署寄進状。坪付は別紙とする。
前編2-No.744 島津元久寄進状
島津元久が、日向国龍興山大慈禅寺へ、島津庄大隅方串良院内岩弘名と日向方田浦条・尾見条を、仏法紹隆・天下安全・家門繁昌・兆民快楽のため寄進した寄進状。
前編2-No.745 薩摩泊野所当取帳
『とまりのふ分』の内訳として、こちかゑ・きたのふ分・ミや田口・いちのゝ田一反十を掲げ、『御ねんくのせに』『くわ代(くわしろ)』『わたのせに』『かわの分』に分けて、八百文・二貫・七百文・五十文・一貫・二百五十文・五百文などの負担額を列記した所当取帳。応永十三年六月十二日付。
前編2-No.746 山内寺院主某譲状
薩摩国山門院山内寺の寺社院主職・田畠等について、四至を示し、先祖師匠祐範以来の重代相伝所領を、器量ある子息最孫坊へ永代譲与し、子孫の知行を認めた譲状。
前編2-No.747 山内寺院主某譲状
山内寺の寺社院主職・田畠等について、先祖師匠祐範以来の重代相伝所領を子息最孫坊へ永代譲与し、子孫の知行を認めた譲状。No.746と同内容系統だが年紀の異なる別文書。
前編2-No.748 島津元久書下
島津元久が伊作氏へ、薩摩国阿多郡北方多布施内の所領を、五代・高橋を除いて志により進置し、先例に任せて領知するよう命じた書下。
前編2-No.749 伊作庄別符半分坪付注文
伊作庄別符内で伊作殿が知行する唐人原・唐坊・白貝方・内野・小湊・坂木・津貫などの坪付を計四十町として列記し、退治後に半分を配分することを定めた注文。
前編2-No.750 島津元久宛行状
島津元久が二階堂山城守へ、薩摩国阿多郡内観音寺と阿多内十町を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。十町の坪付は別紙とする。
前編2-No.751 渋谷重頼置文
渋谷重頼が、自身の後の所領は兄弟が複数いても器量を見定め、惣領一人へ一か所も残さず譲り、諸子へ分割した者は重頼の子孫と認めないと定めた置文。
前編2-No.752 渋谷重頼譲状
渋谷重頼が子息菊五郎丸へ、薩摩国入来院内清色北方・市比野村半分地頭職などの所領に加え、筑前・筑後・甲斐・美作・相模の所領を譲り、器量ある惣領一人への一括相続と諸子への分割禁止を定めた譲状。
前編2-No.753 島津存忠書状
島津存忠が伊作殿へ、先に申し合わせた意趣について今後は遺恨を残さないと誓い、偽りなら伊勢天照大神・八幡大菩薩の神罰を受ける旨を述べた書状。
前編2-No.754 殉国名薮
『殉国名薮』が応永十四年丁亥の枇山殿関係文書について、正文が伊作家文書中にあり、勝久譜にも収載される旨を注記した記事。
前編2-No.755 島津元久袖判沙弥成璇寄進状
沙弥成璇が、薩摩国指宿郡迫田村の水田三町と薗六か所を福昌寺末寺の迫田光明寺へ寄進し、大檀那陸奥守島津元久の袖判を得て万雑公事・諸役を停止した寄進状。坪付は別紙とする。
前編2-No.756 島津元久袖判沙弥成璇寄進状
沙弥成璇が、薩摩国谷山郡湯屋薗門付の水田一町を福昌寺塔頭へ寄進し、大檀那陸奥守島津元久の袖判を得て万雑公事・諸役を停止した寄進状。
前編2-No.757 沙弥成璇寄進坪付
沙弥成璇が福昌寺へ寄進する谷山郡福本村の田畠について、湯屋薗内水田・塩入・岩崎・嶋田・かうちゃう田の反別と年貢等を列記した寄進坪付。
前編2-No.758 島津元久譜
島津元久譜が、川北・宮崎・田嶋・木脇・川南・土持の諸氏や縣・岡富・財部の三勢力が元久へ帰服した後、元久が軍勢を率いて山東へ進み、伊東祐堯・久豊らと対陣したが、和議を受け入れ、久豊の長子虎寿丸の来謁後に薩摩へ帰陣した経過を記す。
前編2-No.759 島津伊久宛行状
島津伊久が幸久へ、水田一町を給分として宛行い、先例に任せて沙汰するよう命じた宛行状。
前編2-No.760 島津忠朝寄進状
島津忠朝が、薩摩郡内天辰谷口の三段を冠嶽山三所権現へ永代寄進し、朝廷・家門・弓箭・子孫・郷内の安穏と人々の快楽、息災延命・安全の祈祷を願った寄進状。
前編2-No.761 島津国史
『島津国史』が、応永十四年四月六日に久哲公が平佐城で六十一歳で没したこと、守護職と家宝の伝承、長子守久をめぐる総州家の衰退、元久と忠朝の平佐城攻防と忠朝の退城などを記す記事。異なる史料の没日異説も小字で注記する。
前編2-No.762 島津伊久系図
島津伊久について、貞和三年二月朔日生、応永十四年四月六日に六十一歳で没し、法号を久哲道観としたことを記す系図記事。
前編2-No.763 平田親宗譲状
平田親宗が田代宗次郎へ、日向国柏原保内原村を二十五貫文で譲り渡し、三年後の請戻し条件を置いた譲状。村は蒲生方の祈所として給付された所を親宗が買得したものと説明する。
前編2-No.764 島津忠朝立願文
島津忠朝が冠嶽山三所権現へ、世上がめでたく弓箭の運が開けたなら以前の本寄進を復し、さらに一所を寄進すると立願し、祈祷を求めた願文。
前編2-No.765 応永記
『応永記』が、応永十三年の田布施城没落、翌十四年の総州の死去、雍州による平佐城の接収、島津元久の大軍進攻と忠朝の退城を記す記事。
前編2-No.766 島津恕翁譜
島津恕翁譜が、島津伊久法師久哲の死後、二男忠朝が薩摩国平佐城に拠ったため、島津元久が守護の敵として軍勢を率いて同城を攻略し、忠朝方の碇山兵部太輔らを討ち取った経過を記す記事。
前編2-No.767 島津恕翁譜
島津恕翁譜が、将軍から度々上洛を命じられた島津元久が、応永十四年に伊集院頼久を先に京都へ派遣し、赤松殿の取り計らいで将軍へ拝謁させ、元久の屋形造営を準備させた経過を記す記事。
前編2-No.768 伊集院頼久譜
伊集院頼久譜が、島津元久の上洛準備のため頼久が先に上京し、宅地経営を計画して赤松殿へ元久の意向を伝え、将軍へ拝謁したうえで適任者を選び屋形を造営させた功績を記す記事。
前編2-No.769 島津忠朝立願文
No.764と同文の島津忠朝立願文。本文は同文のため省略され、冠嶽山三所権現へ弓箭成就時の本寄進回復と追加寄進を誓う内容である。
前編2-No.770 兼宗・経水連署状
兼宗・経水が新納越前守へ、屋形のため求めた薬が見つからないこと、屋形が市来へ入ること、山北で二十六日に軍事行動を予定することなどを報じ、堅固な祈祷を求めた連署状。
前編2-No.771 沙弥性慶譲状
沙弥性慶が、父自秀雄から譲られた薩摩国山門院市来崎村・同院東方・宮里名内の田畠、薗、屋敷などを嫡子秀幸へ譲与した譲状。子孫による領知を認める一方、所領の分限に応じて御公事を勤仕するよう定め、財産継承と公的負担を一体で規定する。
前編2-No.772 伊集院頼久寄進状
伊集院頼久が、薩摩国伊集院持丸名内邊牟木門の水田一町八段と郡新開一町四段を廣済寺へ寄進し、満家院の寺領が返付された時は塔頭延慶庵へ寄進すると定めた寄進状。違乱者は頼久の子孫ではないとする。
前編2-No.773 重継売券
重継が、薩摩国鹿児島郡荒田庄内の妙顕門・井出口二か所の田畠を百貫文で伊集院頼久へ売り渡し、三年後の請戻し条件を定めた売券。
前編2-No.774 清正売券
清正が、日向国北郷内のつつみ・釜川・廣瀬の田畠を百五貫文で枇山殿へ売り渡し、三年後の請戻しと、所領に問題があれば代替地を進めることを定めた売券。
前編2-No.775 平田玄親売券
平田玄親が、薩摩国知覧院内の長山・たう水・おとなり薗三か所を九十貫文で売り渡し、三年後の請戻し条件を定めた売券。目録では玄親の傍らに小字で親宗と比定する。
前編2-No.776 島津玄仲宛行状
島津玄仲が肥後左近将監入道へ、忠節により薩摩国内の屋久島・恵良部島を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
前編2-No.777 島津玄仲契状
島津玄仲が肥後左近将監へ、三か国の情勢がいかに変転しても立身を支え、大事の際に見捨てず、讒言や風説があれば直接問いただすと神々に誓った契状。
前編2-No.778 比志島義勝軍忠状
比志島義勝が、薩摩郡へ馳せ向かい平佐城で合戦し、凶徒を敗走させて同城を攻め落とした軍忠を注進し、遠国往復のため報告が遅れたことへの理解を求めた軍忠状。
前編2-No.779 島津玄仲契状
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
前編2-No.780 安養寺本尊銘
日向国島津院安養寺が応永十五年に造立されたことを記す本尊銘。後注は、都城郡元村早水境の堂山に安養寺門の地名が残り、本尊阿弥陀が川東村の大草氏隣家へ移されたと伝える。
前編2-No.781 島津国史
『島津国史』が、応永十六年春に島津元久が将来の幕府参向を見据えて留守を諸将へ託したこと、同年三月二日に九人が連署し、争いと讒言を避けて協力し、国を守り元久の帰還を待つことを神前で盟約した経過を記す記事。
前編2-No.782-1 指宿氏略系図
指宿氏について、能登守忠勝から郡司正忠・女子師犬・指宿郡司忠合・近江守頼忠・朝忠らへ至る系譜関係を図示した略系図。
前編2-No.782-2 平忠合譲状
近江守平忠合が子息平頼忠へ、父祖以来の証文に基づく薩摩国指宿郡五か名の重代相伝所領を譲与した譲状。
前編2-No.783 島津元久譜
島津元久譜が、元久の上洛決定後も山東に住む久豊への懸念が残ったため、在国の新納・佐多・北郷・樺山・山田・平田・上井・本田らが無二の忠功を誓う連判起請文を作成した経緯を記す記事。
前編2-No.784 山田玄威等連署契状
山田玄威ら九人が、島津元久の上洛中は一味同心して国を守り、匠作の不忠が明らかな以上は協力して退治し、讒言や争いが起きれば理非を確かめて処置すると神々に誓った連署契状。
前編2-No.785 島津元久譜
島津元久譜が、元久が鹿児島から日向油津へ赴いて久豊との疑念を解き、のち京都へ上って将軍家へ太刀・銭・麝香等を献じたこと、宴席で麝香や弓矢を分け、観世大夫の猿楽を催した経過を記す記事。
前編2-No.786 島津元久袖判息長為幸質券状
息長為幸が、北郷内の山下・布別府を二十六貫文で本物返しの質券として売り渡し、三年後は元金の有無に応じて請け戻すことを定め、島津元久が袖判した質券状。
前編2-No.787 島津久豊寄進状
島津久豊が霧島六所権現へ、念願どおり弓箭の運が開けて国務を拝領できたなら、知行地十町を寄進すると立願した寄進状。
前編2-No.788 足利将軍家御教書
左大臣源義量が通音西堂へ、東勝寺住持職について先例に任せて執務するよう命じた将軍家御教書。
前編2-No.789 山田玄威起請文
山田玄威が成村・久雨村の田数を十九町三反卅歩、寺社分を一町三反卅歩、段銭を十貫三百七十五文と申告し、虚偽があれば諸神の罰を受けると誓った起請文。
前編2-No.790 足利義持下文
足利義持が島津陸奥入道玄仲を薩摩国守護職に補任し、先例に従って沙汰するよう命じた下文。