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前編2の目録

旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。

全2,778件中 2201~2300件・23 / 28ページ

  1. 前編2-No.2187 島津国史

    天文二年、南郷で伊東勢と戦った島津忠朝方の攻防を記す国史記事。桑波田孫六・波田式部少輔らの働きと戦死、翌年の高城攻略、勝久方との対立、梶山・勝岡・山之口の攻略を諸記録・系図から集成する。南郷戦から庄内方面の城郭制圧へ至る戦線を追う。

  2. 前編2-No.2188 島津義久譜

    島津義久の通称・官位と、天文二年二月九日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。

  3. 前編2-No.2189 島津日新譜

    天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。

  4. 前編2-No.2190 貴久記

    天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。

  5. 前編2-No.2191 樺山玄佐自記

    伊作方が南郷城を奪取して永吉と改称したころ、樺山玄佐が忍んで山野を越え、伊集院大和守まで使者を送り、変わらぬ忠節を通じたことを記す。

  6. 前編2-No.2192 島津忠将譜

    天文二年三月二十九日、忠良が伊集院内南郷城を攻めた際、十四歳の忠将が従軍し、山左近を自ら討ち取ったことを記す。

  7. 前編2-No.2193 新納忠勝譜

    天文二年、遊行の他阿弥陀仏が志布志に滞在した際、新納忠勝らが和歌会を催し、その日の興趣を伝える懐紙を残した由来を記す。

  8. 前編2-No.2194 詠鶴契遐年和歌

    鶴を中心題として催された和歌会の懐紙。春・夏・秋・冬・恋・雑の各題ごとに、他阿弥陀仏、藤原安繼、喜阿、新納近江守忠勝、通法寺其阿、藤原忠重、壽獨阿、安房守藏信ら多数の作者名と詠歌を収め、参加者の交遊と題詠の構成を伝える。

  9. 前編2-No.2195 新納忠勝起請文

    新納忠勝が、龍成上人の処置に従って家督を継ぐ子一人以外に相伝せず、口外や異議を差し挟まないことを、梵天帝釈・八幡大菩薩・天満大自在天神などに誓った起請文。

  10. 前編2-No.2196 百手射手交名

    百手射に参加した射手の交名と成績表。新納久四郎入道宗心のもと、笠岩・鳴近・鳴四・鳴孫ら各射手について十射ごとの的中を印で記し、合計中数を算出する。続いて笠懸の射手名と成績も掲げ、家中弓術行事の参加者・技量を比較できる。

  11. 前編2-No.2197 他阿弥陀仏書状

    他阿弥陀仏が鳴津近江守に、進使僧の処遇への礼を述べ、申掠めの件を承知したこと、伝達のため穴賢と念を押した書状。

  12. 前編2-No.2198 小笠原光清書状

    小笠原光清が鳴津近江守に、滞留中の検見執行の理由を免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。

  13. 前編2-No.2199 笠懸射手交名

    笠懸射手九名の交名と、各人十射の的中状況・合計を黒白の丸印で記した成績表。

  14. 前編2-No.2200 宮里氏系図

    宮里孫九郎正勝が天文二年七月三日の薩摩百次合戦で太刀初めをし、その時は彦六左衛門尉と称したことを記す系図記事。

  15. 前編2-No.2201 庄内平治記

    八代長州の敗死後、落合刑部少輔兼佳が高城地頭となって北原方に属したため、北郷忠相方が攻略した経過を記す。内応工作で城内の協力者を得て夜襲を行い、高城を奪取した後、梶山・勝岡・山之口へ進出した。調略と奇襲による北原方拠点の連続制圧を示す。

  16. 前編2-No.2202 箕輪伊賀覚書

    鹿児島方面の合戦で新納勢が敗北し、敵方諸将が処刑・戦死した経過を箕輪伊賀が記す。相州家の危急を訴え、梅岳君・勝久らの動向を述べる一方、討伐された者の子が後年に召し出され、父祖の奉公を考慮して恩賞を受けた戦後処遇までを伝える。

  17. 前編2-No.2203 島津日新譜

    天文二年八月十四日、勝久が日新父子を討とうとする計画を園田五藤兵衛尉が告げたため、日新が永吉で兵を集め、敵路を防いで樺山右衛門・平田左馬助らを斬った戦闘を記す。

  18. 前編2-No.2204 島津忠将譜

    天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。

  19. 前編2-No.2205 小笠原光清書状

    小笠原光清が鳴津近江守に、検見・連々の願いについて免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。

  20. 前編2-No.2206 小笠原光清書状

    小笠原光清が鳴津近江守に、鵜戸参詣に伴う抑留・逗留の件と使者から聞いた事情を述べ、外聞に関わるため慎重な配慮を求めた書状。年紀は本文注記でも不詳。

  21. 前編2-No.2207 堀切十郎右衛門尉寄進状

    堀切十郎右衛門尉が、江子之尻五反のうち二反を道金禅門の後生菩提のため隅州楞厳寺へ寄進し、所有者へ代価を支払って後日の証文とした寄進状。

  22. 前編2-No.2208 小笠原光清書状

    本文はNo.2198の小笠原光清書状と同文のため省略される。滞留中の検見執行の理由を免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。

  23. 前編2-No.2209 新納忠勝起請文

    新納忠勝が、軍事・談合・検見などで主命に従い、家督を継ぐ子一人以外へ相伝せず、別心なく奉公することを、梵天帝釈・八幡大菩薩・天満大自在天神などへ誓った起請文。

  24. 前編2-No.2210 島津日新譜

    天文二年十二月、前非を改めた山田式部少輔が旧領復帰を請うた際、処罰を唱える意見に対して日新が漢高祖と丁公の故事を引き、後悔した者を許して領地へ戻したことを記す。

  25. 前編2-No.2211 大的日記

    大的の射手交名と各人の的中数を丸印で記した日記。鳴津近江守・孫四郎・駿河守らの成績を掲げる。

  26. 前編2-No.2212 北郷忠相譜

    伊東方の落合兼佳が高城に在城しながら北郷忠相へ内通し、天文三年正月十六日に忠相軍を潜かに招き入れたため高城を容易に奪取した。翌日、梶山・勝岡・山之口の諸城も放棄され、忠相が高城へ移った経緯を記す。

  27. 前編2-No.2213 山田氏系図

    山田氏十代の久親について、初名久義、通称三郎二郎、官途式部少輔を掲げる系図。

  28. 前編2-No.2214 南樵雪名字書出

    南樵雪が藤氏鳴津三郎二郎に実名「久義」を与えた名字書出。

  29. 前編2-No.2215 殉国名藪

    天文三年四月三日、執印三郎次郎公友が久體橋で戦死したこと、二十九歳で、同時に主従十二人が戦死したことを記す。

  30. 前編2-No.2216 殉国名藪

    天文三年八月十四日の永吉城攻防で、平田清宗・樺山氏・新納氏・三原氏・伊地知氏ら多数が戦死したことを、諸名とともに記す。

  31. 前編2-No.2217 越前島津忠長譜

    島津忠長が天文三年八月二十六日、赤松次郎と播州朝日山で戦って戦死したこと、享年三十四、法名高清であったことを記す。

  32. 前編2-No.2218 貴久記

    天文三年八月十四日、鹿児島方の多勢来襲を蘭田五藤兵衛が知らせ、貴久・忠良方が応戦した経緯を記す。新納勢を退け、多数を討ち取り、忠良自身も敵を斬ったとする。

  33. 前編2-No.2219 樺山玄佐自記

    貴久との約束から二年後、貴久の妹君を川上上州へ密かに移送した経緯を樺山玄佐が記す。妹君・乳母・従者らは伊作浜から舟で市来湊へ渡り、入来院領内では人目を避けて夜間に山路を越えた。途中の宿所、案内・警固に当たった者、身分を隠して川上方へ引き渡すまでの手順を具体的に伝える。

  34. 前編2-No.2220 島津勝久譜

    天文三年十月二十五日前後、末弘伯耆守ら家臣の動向を受けて勝久が鹿児島を去り福昌寺方面へ移ったこと、実久と連判衆の対立・乱入、鹿児島で七日間続いた放火により勝久が退去を余儀なくされた経緯を記す。

  35. 前編2-No.2221 島津貴久譜

    勝久が再び太守となった後、鹿児島で権力をほしいままにし、賢愚を分けず旧臣を遠ざけ讒佞の者を近づけたため国政が乱れたこと、実久方との抗争を経て都城・豊後油浜へ移った経緯を批判的に記す。

  36. 前編2-No.2222 島津勝久譜

    天文三年十月二十五日、末弘伯耆守・川上大和守ら勝久近臣と実久方の争いから、島津勝久が鹿児島を離れた経過を記す。翌年帰還した後も連判衆・実久方が乱入・放火し、統治を回復できず再び退去した。守護権威の失墜過程を示す。

  37. 前編2-No.2223 島津日新譜

    島津勝久の不正な賞罰と讒臣の登用が国を乱したことを、古今の君臣・治乱の故事を引いて論じる島津日新譜記事。川上昌久・竹内氏・小倉氏・山氏・末弘伯耆守らをめぐる家中事情に触れ、忠臣を用い小人を退け、聴言と賞罰を正すべきだと説く政治論。

  38. 前編2-No.2224 樺山玄佐譜

    天文三年、島津実久方が末弘伯耆守を谷山皇徳寺で討とうとした事件を起点に、樺山善久らの行動を記す。忠良・貴久方へ働き掛け、清水での襲撃を経て加治木方面へ進出し、北郷忠相・新納忠勝らとも連携した。実久方から貴久方へ戦線が広がる過程を示す。

  39. 前編2-No.2225 近衛植家書状

    近衛植家が恩谷軒に、進藤左衛門大夫の上洛時に受けた懇報と段子二端の到来を喜び、後音を期すと伝えた書状。

  40. 前編2-No.2226 三千院宮応胤親王書状

    応胤親王が鳴津相模守に、勅宣に基づく当山大講堂再建を三光坊に進めさせており、奉加に尽力すれば喜ばしいと依頼した書状。

  41. 前編2-No.2227 島津家老臣連署状

    島津家老臣らが、徳永隼人佐・今岡民部大輔らを通じて幕府側へ窮状を訴えた連署状。薩州方との対立で通航と軍事行動が妨げられている事情を述べ、安来殿らの取り成しによる上洛・将軍拝謁、幕府の援助と家中安定への沙汰を求める。

  42. 前編2-No.2228 今岡通詮書状

    今岡民部大輔通詮が薩州方との対立を背景に、上洛と流求国との往来、蓮嶋三宅和泉守の処遇を詳述した書状。軍事・航海をめぐる支障と関係者の動向を報告し、内容をしかるべき相手へ伝達するとともに、通行・交渉を進めるための援助を求める。

  43. 前編2-No.2229 島津家老臣連署状

    本文は前掲No.2227と同案文であるため省略され、別本もあることだけを注記する島津家老臣連署状。

  44. 前編2-No.2230 本田董親寄進状

    本田董親が正八幡宮へ三昧職に付属する水田一町を寄進し、社役を先例どおり勤め、子孫繁昌と武運長久を祈願した寄進状。

  45. 前編2-No.2231 北郷忠相日記(自天文元年二月至三年十二月)

    天文元年二月から同三年十二月までの北郷忠相方の行動を日付順に記した日記。北郷信濃守父子、山内豊前守、北原・新納・島津諸氏との使者往来・会合・饗応、神事への参列、軍勢移動、城郭の攻略・守備を連続して記し、軍事と日常政務の実態を示す。

  46. 前編2-No.2232 島津国史

    天文年間の忠良・貴久方と実久方・伊東氏らの抗争をまとめた国史記事。鹿児島、川上城、谷山、松山、梅北など各地の戦闘、城郭の攻守、家臣の離反・戦死を諸記録に基づき集成する。北郷忠相、川上昌久、北原・肝付・新納諸氏の帰属と戦線の変化を追える。

  47. 前編2-No.2233 殉国名藪

    天文四年四月三日、川上大和守昌久が死去し、高木左近・竹迫助左衛門・鍋倉筑後・宮野原助右衛門・肝付兼利ら五人が殉死したことを記す。

  48. 前編2-No.2234 島津勝久譜

    天文四年四月、勝久が鹿児島へ還った後、川上昌久ら家臣と実久方の抗争・連判を背景に市村への放火が七日間続き、勝久が防禦を失った経緯を記す。

  49. 前編2-No.2235 川上昌久譜

    勝久の不明な賞罰と讒臣登用を諫めた川上昌久ら忠義の士十六人の行動、讒言を拒んだこと、政道を正そうとして危難に遭った経緯を記す。

  50. 前編2-No.2236 川上久隅譜

    川上久隅の通称・官途・入道名を掲げ、父昌久の死後に川上城で勝久方の軍勢へ攻撃を加え、負傷しながら敵を退けた経歴を記す。

  51. 前編2-No.2237 川上受久譜

    天文四年、川上昌久が誅された際に受久も危難に遭い、隅州正宮辺へ逃れて身を隠した後、赦免・召還を受けて再び奉公した経緯を記す。

  52. 前編2-No.2238 貴久公記

    天文四年、貴久が人知れず鹿児島へ帰り、川上大和守らの動きとともに市中へ火が放たれ、煙が七日間絶えなかったことを記す。

  53. 前編2-No.2239 樺山玄佐自記

    樺山玄佐が島津貴久方の外交・移動を回想した自記。豊州方・北郷忠相との対面と和議、鹿児島本城・谷山方面の軍事行動、伊集院領通過と舟路の確保を記し、新納忠勝・本田・肝付諸氏へ使者を派遣して帰属・協力を調整した経過を示す。

  54. 前編2-No.2240 島津氏家譜

    天文四年十月十日、鹿児島東福寺城下の海浜から勝久が船出して帖佐へ向かい、鹿児島が実久の領有下となったこと、勝久の治国年数を記す。

  55. 前編2-No.2241 北郷忠相譜

    天文四年八月十四日、北郷忠相が新納領末吉・松山・梅北方面へ出軍し、伊東・北原方の援助勢力を攻め、各所を焼き払った戦闘を記す。

  56. 前編2-No.2242 庄内平治記

    伊東氏が領有した外城を北郷忠相方が攻め、松山・梅北へ兵を出して各所を放火し、敵方の拠点を圧迫した経緯を記す。

  57. 前編2-No.2243 谷山稲荷神社由緒書

    伯圓の代に谷山本城の寺山玉林坊から稲荷宮の籠を移し、神領として田三町ほどを寄附した由緒と、領主交替後も祭祀を継続する誓願を記す。

  58. 前編2-No.2244 庄内神柱神社修造棟札

    日州梅北村神柱神社の修造にあたり、国主・朝臣の武運長久、領内泰平、万民豊楽などを祈願した棟札。修造関係者と願文を記す。

  59. 前編2-No.2245 島津勝久宛行状

    本文には『勝久公御譜中』『正文在祢寝右近重永』との所在注記と年紀のみが掲げられ、宛行本文は収録されていない。

  60. 前編2-No.2246 島津義弘譜

    島津義弘の初名忠平、通称中務少輔・又四郎・兵庫頭、位階・官職と、天文四年七月二十三日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。

  61. 前編2-No.2247 島津氏家譜

    日新の出生年と天文四年当時の年齢、伊作での出生に関する家譜記事を掲げ、義弘出生記事との年代関係を注記する。

  62. 前編2-No.2248 島津忠良譜

    島津忠良に関する系譜記事として、幼名・通称・官途・入道名と、天文四年七月五日の出生、母方を掲げる。

  63. 前編2-No.2249 日置久参書状

    日置伊勢守久参が山田殿に宛て、使者から得た諸方の動静を報告した書状。北郷・肝付・伊地知・入来院諸氏との連絡状況、各家の返答、領地と軍勢をめぐる相談を詳しく申し送り、情勢に応じた出兵・交渉について山田方の判断と協力を求める。

  64. 前編2-No.2250 島津勝久書状

    島津勝久が入来院殿に、河辺衆が谷山へ攻め入り鹿児島勢百人を討ち、郡山宇良を破った戦況を報じ、市来浦方面の措置と出陣を求めた書状。

  65. 前編2-No.2251 島津勝久書状

    島津勝久が入来院殿に、逆乱のため人々が逃散する情勢と、実久方が郡山方面へ進出したことを伝え、忠節を尽くして軍事援助するよう求めた書状。

  66. 前編2-No.2252 島津勝久書状

    島津勝久が肝付越前守に、当地の衆をまとめて郡山・限城方面へ進めるよう求め、外部からの援勢も要請して今後の軍事行動を相談した書状。

  67. 前編2-No.2253 石谷梅久譜

    天文四年十月十日、実久方の軍勢が鹿児島へ乱入して村市を焼き、勝久が退去するなか、石谷梅久父子が密かに勝久を支援したことを記す。

  68. 前編2-No.2254 島津勝久書状

    島津勝久が肝付方に、女性をめぐる件について外聞を損なわぬよう配慮を求め、枇山殿・本田同前との調整や船の手配を依頼した書状。

  69. 前編2-No.2255 日州山之口的野正八幡宮棟札

    日州山之口的野正八幡宮の造営に際し、北郷主君島津忠相らの繁栄、領内の安穏、宝祚長久などを祈願した棟札。

  70. 前編2-No.2256 島津実久感状

    島津実久が河上上野守に、薩摩国串木野井荒河・市来院内河上の所領について、忠義に報いて抽賞し進め置く旨を伝えた感状。

  71. 前編2-No.2257 新納武久願文

    新納武久が国分宮で、所願成就の際には七年の大節供、社領の寄進、三年間の奉仕などを行うと誓った三か条の願文。本文には編年の誤りを注記する。

  72. 前編2-No.2258 庄内平治記

    天文四年十一月二十九日、北原氏が領する志和池へ兵二百人を遣わして城下町を攻め、敵首百五十を得たとする戦闘記事。

  73. 前編2-No.2259 北郷忠相譜

    天文四年十一月二十九日、北郷忠相が北原氏領の志和池城下町を破り、首五、生捕百五十人を得たことを記す。

  74. 前編2-No.2260 島津勝久書状

    島津勝久が亀山又六久運に、豊州・新納方に関係する人物の処遇や前言の真偽について意見を求め、当人を戻すよう要請した書状。

  75. 前編2-No.2261 新納忠勝聞書(天文四年)

    天文四年の政変と合戦を、新納忠勝が聞書形式で日を追って記録する。島津勝久・実久、新納・伊集院・北郷諸氏の帰属、各城の攻防、使者往来を列挙し、梅久・忠栄ら家臣の戦死と恩賞、城・所領の処置までをまとめて家中対立の実態を伝える。

  76. 前編2-No.2262 島津義弘譜

    天文年間、薩摩・大隅・日向三州の諸将が離合集散する中で起きた伊集院城攻防を記す。島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久父子らが対立し、北郷忠相・町田氏も関与した。城下戦と籠城、家臣の戦死、忠栄・梅久方の退去までを追う。

  77. 前編2-No.2263 島津国史

    天文五年前後の北原氏との戦いと伊集院城攻防を、複数の系譜に基づいて整理した国史記事。島津実久、北郷忠相、伊集院忠朗・忠栄・梅久、本田董親らの軍事行動、城郭の陥落、家臣の戦死と退去を照合し、諸家の帰属変化を示す。

  78. 前編2-No.2264 殉国名藪

    天文五年、北郷忠相の臣池袋源左衛門尉宗政が安永城攻撃で戦死し、同年八月には調所新五郎も戦死したことを記す。

  79. 前編2-No.2265 庄内平治記

    十二月七日、石谷伊賀守梅久らが石谷口から攻撃した際、肥後方の援軍と戦い、町田氏らが戦死したことを記す。

  80. 前編2-No.2266 北郷忠相譜

    天文五年二月二十五日、北原山田の兵が安永を攻めた際、北郷忠相方が防戦して勝利し、敵六十八人を斬った一方、池袋源左衛門が戦死したことを記す。

  81. 前編2-No.2267 谷山伊佐智佐社々領坪付

    薩摩国谷山郡和田名にある伊佐智佐社領について、祭田・五月五日神事料田など七か所の坪付と面積を列挙した文書。

  82. 前編2-No.2268 島津勝久書状

    島津勝久が肝付伴兵衛兼屋に、先に申した女性を船で送る件について、船の手配を急ぎ、早く迎え入れるよう求めた書状。

  83. 前編2-No.2269 某書状

    差出人某が肝付殿に新年の賀意を述べ、豊州新納殿の参会には出席できないため、代わって挨拶を伝えるよう依頼した書状。

  84. 前編2-No.2270 島津日新譜

    天文五年の伊集院城をめぐる島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久らの抗争を記す。夜襲、城下への放火、籠城戦、家臣の戦死を追い、忠栄らが城を退去した後の処遇と伊集院氏の系譜まで記して、城の争奪が一族の継承に及ぼした影響を示す。

  85. 前編2-No.2271 貴久公記

    天文五年、島津忠良・貴久方と実久方の戦いに伴う伊集院城攻防を記す。夜襲、城下への放火、籠城、伊集院氏家臣の戦死を追い、忠朗・忠栄・梅久らのうち忠栄らが退去した経緯と後裔の系譜を掲げ、敗戦後の伊集院氏の分裂と継承を示す。

  86. 前編2-No.2272 島津忠将譜

    天文五年三月七日、忠良が伊集院を攻めて放火した戦いで、忠将が十六人の兵とともに伊集院城で戦死したことを記す。忠将は十七歳。

  87. 前編2-No.2273 町田氏譜

    天文五年三月七日、貴久方が伊集院城を攻めた際、町田久用は伊集院忠朗・忠栄・梅久らと守城し、城中で戦死した。忠朗らは城を退き、石谷城へ移った後も反攻を試みたが、町田氏・伊集院氏の多くが戦死・離散した。町田氏庶流の継承、久用の子孫と所領の推移までを記す。

  88. 前編2-No.2274 町田氏庶流系図

    町田久用から治部少輔・中務少輔へ続く庶流の系譜を掲げ、久用が実久方として伊集院城を守り、天文五年三月七日に戦死したことを注記する。

  89. 前編2-No.2275 新納忠勝進退伺書

    新納忠勝が島津勝久に今後の身上処置を尋ねた伺書。豊州への渡海時期、居所と領地、旧領への入部、忠良方との和睦交渉、相州へ送る使者などを項目別に列挙し、自ら判断せず勝久の裁可を仰いで、帰属と行動方針を確定しようとする。

  90. 前編2-No.2276 近衛尚通書状

    近衛尚通が嶋津近江守へ短い書状を送り、別件の調整を依頼した書状。本文には、勝久が帖佐から真幸般若寺へ移った際の忠勝参上記事との関係を注記する。

  91. 前編2-No.2277 進藤長美書状

    進藤長美が嶋津近江守に、事態への対応を命じた旨を伝え、同封の書付を確認して用件を処理するよう求めた書状。

  92. 前編2-No.2278 島津氏家譜

    天文五年夏、勝久が真幸へ移り、北原氏を頼って般若寺に数年間滞在した後、庄内へ移ったことを記す。

  93. 前編2-No.2279 島津勝久譜

    天文五年夏、島津勝久が真幸へ移って北原氏を頼り、般若寺に数年居住したのち庄内へ移ったことを記す。前文と異同がある旨を注記する。

  94. 前編2-No.2280 田所検校四所宮造営茶番書上

    国分四所宮の造営に伴う茶番について、一番から七番までの担当者と殿舎・役目を列挙した書上。

  95. 前編2-No.2281 島津勝久宛行状

    島津勝久が入来院殿に、忠節への賞として薩摩国千臺郡内百次城の所領を宛行い、早く知行するよう命じた宛行状。

  96. 前編2-No.2282 島津勝久書状

    島津勝久が肝付方に、庄厳寺を介した相談と北原方との談合について述べ、条件が整えば父子を帰還させ、整わなければ別の措置を取る旨を伝えた書状。

  97. 前編2-No.2283 田布施池辺村諏訪社神鉢銘

    田布施池辺村の諏訪社に神鉢を奉納するにあたり、大願主島津忠良・貴久と権少僧都頼盛を記した銘文。

  98. 前編2-No.2284 足利義晴補任御教書

    将軍足利義晴が尚珊西堂を建長寺住持職に補任し、先例どおり職務を執行するよう命じた御教書。

  99. 前編2-No.2285 貴久記

    天文五年九月から十一月、伊集院忠朗を大将とする軍勢が大田原の柵や橋をめぐって夜襲・放火を行い、敵兵を討ち取った戦闘を記す。

  100. 前編2-No.2286 島津貴久・忠兼書状

    島津貴久・忠兼が肝付方に、雪花の瑞相や当時の情勢に触れ、誠意を尽くして公務に励むよう求めた書状。