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前編2の目録

旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。

全2,778件中 2401~2500件・25 / 28ページ

  1. 前編2-No.2386 島津勝久譜

    島津勝久が都城を去って豊後国へ赴き、沖浜に居住したことを記す。

  2. 前編2-No.2387 島津義忠(勝久)書状

    義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。

  3. 前編2-No.2388 島津勝久譜

    島津勝久が名を義忠と改めて豊後国へ移り、沖浜に居住したことを記す。

  4. 前編2-No.2389 庄内平治記

    天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて河南を押領したため、伊東義祐方が北郷忠相へ援軍を求めた合戦を記す『庄内平治記』。島津忠広も長倉方を支援し、清水城周辺で両軍が攻防を重ねた。各勢の布陣と進退を追い、長倉兄弟が敗北して地域支配を失うまでを詳述する。

  5. 前編2-No.2390 庄内平治記

    天文九年頃、伊東氏に背いた長倉上総介・能登守兄弟が島津忠広へ援軍を求めた事件を記す。北郷方を含む諸勢の出陣、清水城周辺での攻防、双方の戦死者と部隊の退却を追い、伊東領内の内紛が島津・北郷勢の軍事介入へ発展した経過を示す。

  6. 前編2-No.2391 瀬戸口伊豆入道覚書

    伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。

  7. 前編2-No.2392 新納忠勝寄進状

    新納忠勝が龍源寺に、国福嶋院市来の水田六段・田五段を寄進し、毎月の忌日に孝養を営むよう定め、後日の証として寄進状を出した。

  8. 前編2-No.2393 島津貴久袖判忍岳申状

    島津貴久が、元久創建の福昌寺再興に関し、宇宿の旧地と寺領を寄せて伽藍を復興させる旨を示した文書。本文には御譜未収録との注記がある。

  9. 前編2-No.2394 島津貴久袖判忍岳申状

    島津貴久の花押を据えた再興命令と、福昌寺再住忍岳の申状を併載する。元久創建後に荒廃した福昌寺へ旧地・寺領を寄せ、伽藍再興と大檀越としての功績を記した。

  10. 前編2-No.2395 島津忠朝譜

    島津忠朝の系譜と事績をまとめ、忠広方と伊東義祐方の戦争を記す。長倉上総介・能登守兄弟をめぐる争いから忠広方が出陣し、清嶽・鬼山などで戦闘を重ねた経過、島津貴久らの仲介を含む交渉を追い、最終的に伊東方との講和へ至ったことを示す。

  11. 前編2-No.2396 北郷忠相譜

    天文九年、伊東義祐が長倉上総介・能登守兄弟を討つため北郷忠相へ援兵を求めた経過を記す。忠相方は川南へ出陣して長倉方と戦ったが、戦後の処置をめぐって伊東方と不和になった。援軍派遣が両氏の関係悪化へ転じた過程を示す。

  12. 前編2-No.2397 伊東義祐書状

    伊東義祐が北郷氏に、長倉能登守らの謀心を挙げ、勝敗の理由を問い合わせるとともに、兄上の意向に従って忠節を尽くすよう求めた書状。

  13. 前編2-No.2398 島津実久公帖

    島津実久が薫首座を薩摩国感応寺の住持職に任じ、先例に従って寺務を執行するよう命じた公帖。

  14. 前編2-No.2399 島津貴久起請文

    島津貴久が梵天・帝釈・四大天王以下の諸神仏に誓い、偽りがあれば神罰を受けると述べた起請文。川上武蔵守受久の譜に収められる。

  15. 前編2-No.2400 犬追物手組

    島津貴久が川上武蔵守に示した犬追物の手組で、相模守入道以下の射手を各組に分け、騎射の順序と役割を定めた。

  16. 前編2-No.2401 犬追物手組

    犬追物の射手を左右の組に分け、本田民部少輔・嶋津武蔵守・相模守入道らの順番と射数を定めた手組。

  17. 前編2-No.2402 犬追物手組

    嶋津上野入道・武蔵守以下を左右に配置し、各人の射数を記した犬追物の手組。

  18. 前編2-No.2403 犬追物手組

    相模守入道をはじめとする射手を左右の組に分け、各人の射数を定めた犬追物の手組。

  19. 前編2-No.2404 犬追物手組

    三郎左衛門尉・相模守入道らを左右に配置し、射数を定めた犬追物の手組。

  20. 前編2-No.2405 犬追物手組

    相模守入道・嶋津尾張守らを組み合わせ、射手ごとの射数を示した犬追物の手組。

  21. 前編2-No.2406 犬追物手組

    相模守入道・嶋津上野入道らを左右に分け、各射手の射数を定めた犬追物の手組。

  22. 前編2-No.2407 近衛植家書状

    近衛植家が島津貴久に、久しく音信が途絶えたことを残念とし、短い書状ながら今後も連絡を取り合いたい旨を伝えた書状。

  23. 前編2-No.2408 河上惟久起請文

    河上惟久が島津貴久に、犬追物の秘説を他言せず、国内の神々にかけて背かないことを誓い、違反時には神罰を受けるとした起請文。

  24. 前編2-No.2409 北郷忠相譜

    北原氏と伊東氏が高城攻略を企てたため、北郷忠相方が勝岡・梶山・山之口へ軍を展開した合戦記事。北郷久利ら諸将の配置、城兵の反撃、敵勢との突撃戦、双方の討死者を記し、高城を守るため複数の口・城を連動させた防衛戦と軍功を詳述する。

  25. 前編2-No.2410 庄内平治記

    天文十年四月、北郷忠相方の兵が志和地の縄瀬を焼き、伊東・北原両軍と高城周辺で戦った経過を記す。島津豊後守忠広ら関係諸将の布陣、敵陣への突撃、城方の防戦を追い、各隊の戦死者を列挙して攻撃と反撃の規模を伝える。

  26. 前編2-No.2411 庄内平治記

    同月二十六日、北郷忠相が兵を志和地へ出し、伊東・北原方との戦闘で五十二人が戦死したことを記す。

  27. 前編2-No.2412 殉国名藪

    天文十年六月、北郷次郎右衛門久利が高城での伊東・北原両軍との戦いに参加し、戦死したことを記す。日付は十六日または二十六日との異説を併記する。

  28. 前編2-No.2413 殉国名藪

    天文十年、島津忠広の臣日置美作守が伊東義祐勢との戦いで討死したことを記す。日付を九月三日または三月三日とする異説や、同族新納氏の戦死者も挙げる。

  29. 前編2-No.2414 忍岳証状

    福昌寺住持忍岳が、薩之龍山は長谷場氏の名字の地であり、同家の僧が寺に在住する際には扶助を与える由緒であることを証明した証状。

  30. 前編2-No.2415 樺山玄佐譜

    天文十年、北郷・禰寝・伊地知・蒲生・祁答院・入来院諸氏が島津貴久方に加わった動向を記す。樺山玄佐は生別府方面へ出陣して敵勢と交戦し、多数を討ち取った後、城と周辺要地の守備を固め、諸氏の軍勢を貴久方の防衛網に組み込んだ。

  31. 前編2-No.2416 樺山玄佐自記

    天文十年、北郷・伊地知・廻・敷根・上井・蒲生・祁答院諸勢が生別府へ進軍した戦闘を樺山玄佐が記す。城方との攻防、敵兵の討取り、味方の戦死を列挙し、損害を出しながら守備兵を配置して城と交通路の防備を維持した経過を伝える。

  32. 前編2-No.2417 庄内平治記

    天文十一年二月十二日、北郷方が志和地・水流・縄瀬などの麦作を荒らし、瀬之越まで侵入して双方が矢戦を交えたことを記す。

  33. 前編2-No.2418 庄内平治記

    天文十一年閏三月三日、北郷方が森田・西栫などの麦作を刈るため出陣し、両軍が戦った経過を記す。敵勢を退け、霧島方面まで追撃した。

  34. 前編2-No.2419 庄内平治記

    同月晦日、島津忠広が肝付領蓬原を攻めるため北郷左馬介らに出陣を命じたが、二家の勢がそろわず敗走し、園田将監らが討たれたことを記す。

  35. 前編2-No.2420 島津国史

    天文十一年以降の北原・本田・北郷諸氏の抗争をまとめる国史記事。溝辺玉利・高松城・生別府の戦闘、養子縁組による同盟と離反を追い、島津忠広・種子島時堯らの動向を記す。諸氏が最終的に島津貴久方へ帰属していく過程を示す。

  36. 前編2-No.2421 北郷忠相譜

    天文十一年二月十二日、北原方が志和地・水流・縄瀬の麦作を刈り、瀬之越へ乱入したため、北郷方と矢戦になったことを記す。

  37. 前編2-No.2422 島津日新(忠良)譜

    天文十一年三月、日新公と貴久が薩摩兵を率いて大隅へ渡り、樺山の生別府から加治木城を攻めようとしたが、大雨と増水のため軍を退いた経過を記す。

  38. 前編2-No.2423 樺山玄佐譜

    天文十一年春、北原氏が本田氏討伐を図る一方、島津忠良・貴久方が生別府へ進軍した経過を記す。樺山玄佐・善久らが北原方と戦い、城を攻めたが、大雨で軍勢・兵糧の維持が困難となり、攻撃を中止して撤収した戦況を追う。

  39. 前編2-No.2424 箕輪伊賀覚書

    天文十一年三月、樺山安藝守の隅州小濱の城へ南方勢が攻め寄せたため、日新公・貴久方が援軍を発し、北原方と対陣した経過を記す。

  40. 前編2-No.2425 貴久公記

    天文十一年三月、島津忠良と貴久が伊勢守・樺山氏らの軍勢を率いて大隅方面へ進み、北原方との合戦に臨んだ経過を記す。敵味方に死傷者が生じる中、豪雨で進軍と攻城の継続が困難となり、部隊をまとめて帰陣した判断と損害を伝える。

  41. 前編2-No.2426 樺山玄佐自記

    天文十一年春、北原方の侵攻を受けた溝辺・高松城方面の戦闘を樺山玄佐が記す。本田・加治木・帖佐・上野廣原諸勢の配置、城への攻撃と救援、各隊の戦死者を列挙し、城を維持できず退却するまでの大隅中央部の戦況を具体的に示す。

  42. 前編2-No.2427 島津貴久譜

    種子島時堯父子の不和をめぐり、島津貴久が伊勢守を将として派遣し、軍船で種子島へ渡らせた経過を記す。交渉によって父子を和解させ、軍勢を帰還させた。

  43. 前編2-No.2428 箕輪伊賀覚書

    種子島父子の争いに際し、貴久が新納伊勢守を大将として二百余騎を船で派遣したことを記す。交渉で父子を和解させ、軍勢は無事帰帆した。

  44. 前編2-No.2429 喜入忠房伝

    天文十一年、梅岳君貴久が生別府から帰還した後の領内の動向と、喜入忠房の奉公・進退を記す。伊集院方との関係や谷山方面への移動にも触れる。

  45. 前編2-No.2430 貴久公記

    天文十一年三月二十三日、種子島父子の争いを鎮めるため、貴久が新納伊勢守を大将として軍勢を派遣した経過を記す。父子の和解後、軍船は帰帆した。

  46. 前編2-No.2431 北郷忠相譜

    天文十一年閏三月、北郷忠相方が北原領の森田・西栫、山田・木野・牛谷の作毛を荒らして敵の兵糧基盤を攻撃した経過を記す。鹿野屋・蓬原方面で北原・志和池勢と激戦となり、双方に多数の死傷者を出した略奪・野戦の実態を伝える。

  47. 前編2-No.2432 北郷久隆譜

    天文十一年六月十八日、豊州家が平坊へ出軍して忠相に援兵を求めたため、北郷久隆が二百人の兵を率いて平坊へ出張し、軍務に従った。

  48. 前編2-No.2433 庄内平治記

    天文十一年六月十八日、平坊へ出軍した豊州家の求めに応じ、忠相方の北郷久隆が二百人の兵を率いて援軍に赴いたことを記す。

  49. 前編2-No.2434 庄内平治記

    天文十一年八月、北原方の高城攻撃を防ぐ戦いで馴松太郎介らが戦死したことを記し、戦死地や日付に異説がある旨を付記する。

  50. 前編2-No.2435 北郷忠相譜

    天文十一年七月四日、北郷忠相が志和池へ出兵し、三口に分かれて北原方と戦った経過を記す。白坂下総守や粟野地頭の滋谷兵庫頭ら諸将の配置・戦功を挙げる一方、各口で生じた多数の戦死者も列記し、志和池方面の合戦規模と北郷方の損害を伝える。

  51. 前編2-No.2436 北郷忠親譜

    天文十一年八月、伊東・北原両氏が高城を襲ったため、北郷忠親が都城から出兵し、小山宝光山から敵陣を攻めて勝利した。

  52. 前編2-No.2437 庄内平治記

    天文十一年八月二日、忠相方が北原領の木野・牛谷・楠牟礼の作毛を荒らし、追撃してきた北原勢と戦った。高城方は味方を返して敵を討ち、多数の首級を得た。

  53. 前編2-No.2438 庄内平治記

    北郷忠相が高城、忠親が都城を本営として伊東・北原方に備えた戦いを詳述する。敵情を探る斥候を出し、有田加賀・白坂下総守らの兵を伏せて敵を誘引した。激戦の末に北原方を退け、多数を討ち取り、両城の防衛に成功した。

  54. 前編2-No.2439 箕輪伊賀覚書

    天文十一年十一月二十七日、日新公・貴久が樺山安藝守範久に、小濱城へ近邦の凶徒がたびたび来襲する状況を受けて守備と処置を命じ、所領給与と忠節を約した。

  55. 前編2-No.2440 貴久公記

    凶徒がたびたび城下へ来襲したため、日新公・貴久が樺山安藝守に城の守備を命じ、所領を与えて勝久旧領の回復と忠節を求めた経過を記す。

  56. 前編2-No.2441 樺山玄佐自記

    負傷した樺山安藝守の今後を、島津忠良・貴久、喜入式部太輔らが評議した経過を記す。生別府の番役を誰が担うか、安藝守の所領をどのように配分するか、家臣を誰に付属させるかを定め、神社への奉納も行って、戦傷者の家と軍役を再編した。

  57. 前編2-No.2442 島津貴久起請文

    島津貴久が本田紀伊守らに、互いに隔心なく相談し、他者の讒言を受け入れず、諸家の出頭時にも忘却せず、無二の奉公を求めることなどを神々に誓った起請文。

  58. 前編2-No.2443 酒式次第

    天文十一年十一月二十日に島津貴久のもとで行われた酒宴の式次第。初献から三献までの酒肴、配膳順、給仕役、献上者を定め、川上・北郷・豊後・敷根・種子島・入来院など各所・諸家からの献物を順に列挙して、家中儀礼の序列と役割分担を示す。

  59. 前編2-No.2444 島津貴久宛行状

    島津貴久が奉公の賞として、大隅国小濱名六町、城村怒久見田、西郷、小田名、加治木郷日木山名など、合計四十四町を宛行い、領知するよう命じた。

  60. 前編2-No.2445 新納安千代丸(忠充)願文

    新納家の衰微を嘆いた安千代丸が、家の再興を神明に祈り、所領の米百石を神徳安千代丸へ分けて進献することなどを願い誓った願文。

  61. 前編2-No.2446 島津国史

    天文十二年、種子島へ漂着した異国船から鉄砲と火薬調合の技術が伝わった経過を記す。種子島時堯が鉄砲を買い取り試射し、篠川小四郎・織匠に製造を命じた。技術が紀伊へ渡り、堺商人や和泉橘屋又三郎を介して国内へ普及したことを伝える。

  62. 前編2-No.2447 北郷忠相譜

    大永三年以来伊東方に奪われていた三俣・山田方面で、忠相が北原方と協力して領地を回復し、伊東勢を退散させた経過を記す。

  63. 前編2-No.2448 庄内平治記

    天文十二年正月二十四日、北郷忠相が伊東方の守る山田城を攻め、北原氏の旧領回復を図った戦いを記す。出陣前に霧島へ戦勝を祈誓し、白坂左衛門尉・釘村伊豫守らを配して城を包囲・攻略し、城主らを退けて山田城の支配を回復した。

  64. 前編2-No.2449 庄内平治記

    北原氏の旧領であった山田城を、北郷忠相方が包囲して伊東勢から奪取した経過を記す。白坂左衛門尉・釘村伊豫守らが城の守備・攻撃に当たり、周囲を封鎖しながら城兵を攻め、援軍を防いで攻略した。城の旧支配と新たな帰属を併せて示す。

  65. 前編2-No.2450 庄内平治記

    伊東方が瀬平に陣を取り、城戸や逆茂木を設けて防戦したため、忠相方が夜間に攻撃して陣を破り、鵜戸山方面まで追撃した戦いを記す。

  66. 前編2-No.2451 日向記

    天文十二年三月二十八日、伊東義祐が豊州方の鵜戸烏帽子形城を四方から包囲・攻撃した戦況を記す。下田隠岐守・薩摩坊頼運ら城方が抵抗し、伊東勢は直ちに攻略できなかった。攻城側・守備側の武将の働きと双方の損害を具体的に伝える。

  67. 前編2-No.2452 殉国名藪

    本文は『天文十二年癸卯』との年紀のみを掲げる。前後記事から具体的な人物・事件を補完せず、原資料の記載範囲を保持する。

  68. 前編2-No.2453 北郷忠相譜

    天文十二年五月九日、忠相が数千の兵で志和池城を攻め、柳川原口・安永・山田方面から進撃して城兵と戦った。勝岡・山之口方面の戦功も記す。

  69. 前編2-No.2454 北郷忠親譜

    天文十二年五月、北郷忠親方が北原領の志和池城を攻めた合戦記事。黒丹後・有田加賀らが火矢を射かけて城内へ進入し、伊東・北原方の城兵と交戦した。敵が退散して城を占領した後、攻城で功を挙げた将兵へ褒賞を与えた経過を記す。

  70. 前編2-No.2455 北郷久厚譜

    天文十一年八月二十日の高城小山合戦で久厚が戦功を挙げ、翌年五月十一日の志和池城攻略でも尽力したため、忠親から感状と所領を与えられた。

  71. 前編2-No.2456 北郷忠親宛行状

    北郷忠親が又五郎に、高城合戦で抽んでた戦功と志和池城攻略での忠節を賞し、所領を宛行った文書。

  72. 前編2-No.2457 北郷久文譜

    天文十二年五月、忠相が志和池城を攻略した後、北郷久文を同地の地頭職に任じたことと、その後の久文の動向を記す。

  73. 前編2-No.2458 庄内平治記

    天文十二年五月九日、北郷忠相が周辺諸城の兵を集めて志和池城を包囲した戦いを詳述する。柳川原口・安永・山田諸衆が火矢を射かけ、城内へ突入した。伊東・北原方の援軍を撃退して城を占領し、攻城で功を挙げた将兵へ褒賞を与えた。

  74. 前編2-No.2459-1 勝岡諏訪大明神由来

    勝岡諏訪大明神の勧進由来を述べ、野々三谷から伊東方へ渡った際の安永氏の奉祀と、のちに城の鎮守として崇めた経緯を記す。

  75. 前編2-No.2459-2 勝岡諏訪大明神棟札

    勝岡諏訪大明神について、野々三谷の知行と本所への還着、伊東代の造立、本地の奉安を記し、天文十二年正月十八日に還宮した旨を記す棟札。

  76. 前編2-No.2460 日向記

    伊東方の鵜戸烏帽子形城攻撃をめぐり、豊州忠広への援軍要請、油津からの出船と東海への着岸、修理大夫義鑑との対面、帰津までの経過を記す。

  77. 前編2-No.2461 島津貴久書状

    島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。

  78. 前編2-No.2462 島津国史

    天文十三年夏の動向と、山田忠廣が梅岳君の攻市を援助して功を挙げ、所領を賞与された経緯を、系図・旧譜の異同を考証しながら記す。

  79. 前編2-No.2463 島津忠将一流系図

    島津忠将一流の女子・男子と婚姻・子孫関係を系図形式で示す。天文十三年生まれの女子や入来院・北郷家との縁組を記す。

  80. 前編2-No.2464 日向記

    天文十三年正月二十六日、伊東義祐が飫肥へ入り、忠廣が山東の兵を集めて対処した。大友義鑑への使僧派遣と永慶寺滞在、調停不成立後の帰国を記す。

  81. 前編2-No.2465 日向記

    天文十三年二月、島津忠廣方が鬼ヶ城をめぐって伊東勢と戦った経過を記す。賀久・上原兵部少輔・吉武与四郎らと、水尾・日向山東方面の軍勢が城戸で攻防し、二月十二日と二十四日の出陣・交戦を追って、城の守備と伊東方の再攻撃を伝える。

  82. 前編2-No.2466 瀬戸口伊豆入道覚書

    鬼ヶ城をめぐる島津忠廣方と伊東勢の攻防を、瀬戸口伊豆入道が回想した覚書。新納忠勝、上原式部、武蔵守忠隅らの配陣、城戸・逆茂木の突破、伏兵と援軍の投入、矢合わせを伴う接戦から撤退までを追い、攻城側の戦術と損害を具体的に記す。

  83. 前編2-No.2467 年代記

    天文十三年甲辰四月二十二日に大地震があったことを記す年代記事。

  84. 前編2-No.2468 庄内平治記

    伊東弥勝方が水谷に陣を置き、鬼ヶ城を攻撃した戦いを記す。北郷忠相方は武蔵守忠隅・新納忠勝らを通じて守備兵を支援し、各地から兵を集め、城戸・町・馬場方面で敵の進入を防いだ。攻城側の布陣と城方の救援・防戦を具体的に伝える。

  85. 前編2-No.2469 庄内平治記

    鬼ヶ城攻防の続編。北郷忠相方は少勢の城兵を励まし、あえて伊東勢を城近くへ引き寄せ、伏兵と射手を配置して側面・城内から攻撃した。敵の攻勢を崩して退却させ、追撃によって鬼ヶ城を確保した経過を記し、寡兵での防御戦術を示す。

  86. 前編2-No.2470 島津貴久書状

    島津貴久が音書への謝意を述べ、替わりのない交誼を喜び、日谷山への移動と参会の都合を知らせた書状。

  87. 前編2-No.2471 足利義勝補任御教書

    足利義晴が普門寺住持職について、先例に任せて執務するよう命じた補任の御教書。目録標題は『足利義勝』だが、本文署名は『左大臣義晴』と読める。

  88. 前編2-No.2472 島津貴久書状

    島津貴久が本田紀伊守に、珠玄の来訪が延引していることを案じ、今月中の来訪を頼むとともに、相手方の情勢や来月の対面予定を尋ねた書状。

  89. 前編2-No.2473 島津貴久譜

    天文十三年夏、山田加賀守忠廣の所領処置と肝付忠功との関係を発端に、入来院重聡ら周辺勢力が介入した経過を記す。所領をめぐる交渉が諸氏の離合集散を招き、各地への出陣と戦闘へ発展して、島津貴久方の領国統制問題となったことを示す。

  90. 前編2-No.2474 貴久公記

    天文十三年、肝付忠勤の動向を契機として郡山周辺に生じた争乱を記す。入来院・伊集院・蒲生・加治木・本田など複数勢力の帰属と軍勢移動を追い、島津貴久方が使者・出兵によって敵味方を整理し、防戦と鎮定を進めた対応をまとめる。

  91. 前編2-No.2475 箕輪伊賀覚書

    天文十三年夏、山田忠廣が大隅国内の市成庄を貴久へ差し出したこと、その後、肝付忠勤の志を理由に同地が与えられたことなどを記す。

  92. 前編2-No.2476 箕輪伊賀覚書

    入来院石見守重聡らが郡山庄へ進出したことから始まる争乱を、箕輪伊賀が回想した覚書。伊集院・蒲生・加治木・本田諸氏がそれぞれ軍勢を動かす中、貴久方の忠臣らが城・要所を防ぎ、敵勢の侵入を退けて地域を鎮定した経過を記す。

  93. 前編2-No.2477 北郷忠相施入状

    北郷忠相が、天文九年以来の戦功、とくに高城脚井小山合戦で伊東・北原方の軍勢を破ったことを述べ、長田門を高稱寺へ施入して末代までの不変を約した施入状。

  94. 前編2-No.2478 島津日新起請文

    島津日新が伊地知鏡右衛門に、相互の合意と協力を守り、大小の神祇に誓って疎略なく行動することを約した起請文。

  95. 前編2-No.2479 島津貴久書状

    島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。本文はNo.2461と同文のため省略される。

  96. 前編2-No.2480 島津貴久起請文

    島津貴久が伊地知式部大輔に、世間の雑説にかかわらず疎略にせず、凶事には助け合い、相互の権利を守ることを大小の神祇に誓った起請文。

  97. 前編2-No.2481 島津貴久起請文

    島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。

  98. 前編2-No.2482 島津貴久譜

    島津貴久が幼名虎寿丸の時に島津勝久の嗣子となった後、勝久が前約を変えたため家中が混乱した経緯を記す。島津忠良・実久ら一族の関与、貴久の家督継承を支持・反対する諸勢の対立を追い、太守の地位と国政主導権をめぐる争いの発端を示す。

  99. 前編2-No.2483 瀬戸口伊豆入道覚書

    瀬戸口伊豆入道が、天文十三年十一月二十四日の出来事を起点に、自身と瀬戸口一族の奉公を回想した覚書。島津貴久方として伊東勢との城郭攻防へ加わり、味方の戦死と撤退を経験しながら忠節を続け、戦後に功を認められた経過を記す。

  100. 前編2-No.2484 島津国史

    『島津国史』が、天文十四年の伊東義祐による飫肥侵攻を中心に、水之谷など周辺城郭の攻防を記す。島津忠廣・北郷忠相らの防戦、島津貴久の対応、本田薫親や伊集院氏など国人衆の帰属・出兵を追い、日向南部の戦線が変化する経過をまとめる。