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前編2の目録

旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。

全2,778件中 2101~2200件・22 / 28ページ

  1. 前編2-No.2087 肝付兼演宛知行目録

    帖佐院内の邊河、加治木内の中之脇など、肝付兼演に宛てられた知行地を列記した目録。

  2. 前編2-No.2088 殉国名藪

    大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。

  3. 前編2-No.2089 島津大中譜

    大永七年四月十五日、島津勝久が鹿児島を出て伊作へ退き、同月十九日に剃髪したことを記す。

  4. 前編2-No.2090 島津日新感状

    日新が冨松左京亮・野村兵部少輔に、従来の忠勤を賞し、神妙大慶であるとして、今後も相談しながら頼みとする旨を伝えた感状。

  5. 前編2-No.2091 貴久記

    伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。

  6. 前編2-No.2092 樺山玄佐自記

    島津実久方の働きかけで勝久が心変わりし、忠良・虎寿丸との後継合意が崩れた経過を記す樺山玄佐自記。新納・伊集院・加治木・帖佐諸勢が勝久方と忠良方に分かれて動き、勝久は鹿児島へ帰還した。忠良方が退避した後に反撃へ転じるまでを追い、守護家内部の政変を具体的に伝える。

  7. 前編2-No.2093 長谷大蔵覚書

    虎寿丸一行が小野から加世田方面へ移り、伊集院勢の追跡を避けて潜伏・退避した経路を記す覚書。直林寺下・木場・田布施などの通過地、案内人、宿所、所持品の扱いを具体的に挙げる。長谷氏・和田氏ら関係者の支援を含め、逃避行の実務をたどれる。

  8. 前編2-No.2094 島津勝久譜

    大永七年四月十五日、勝久が守護職を忠良の長子虎寿丸へ譲り、自ら伊作へ移住し、同月十九日に剃髪したことを記す。

  9. 前編2-No.2095 島津勝久譜

    帖佐城没落後、日新(忠良)が遁世の身でありながら加治木城主伊地知周防介父子の謀叛を知り、大永七年五月六日にその地へ向かったことを記す。

  10. 前編2-No.2096 島津勝久譜

    島津実久が守護職を狙い、勝久と虎寿丸父子の約束を変えさせたうえ、大永七年五月十一日に忠良領の日置・伊集院城を攻め、同夜に陥落させたことを記す。

  11. 前編2-No.2097 島津勝久譜

    大永七年六月二十六日、実久の奔走によって勝久が再び鹿児島へ入部したことを記す。

  12. 前編2-No.2098 島津勝久譜

    大永七年七月二十三日夜、日新が伊作城を陥落させ、会稽の恥を雪いだと記す。

  13. 前編2-No.2099 島津大中譜

    大永七年六月二十一日、実久の偽計によって勝久が再び鹿児島へ入り守護となり、伊作へ戻る意思を失ったことを記す。

  14. 前編2-No.2100 島津忠兼寄進状

    島津忠兼が、三州太守・島津修理大夫として息災延命、武運長久、国家治斉、諸願成就を祈り、新田正八幡宮へ水田三町を寄進した寄進状。

  15. 前編2-No.2101 島津日新譜

    大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。

  16. 前編2-No.2102 島津貴久譜

    大永七年六月二十一日、島津実久の軍勢が日新領の伊集院・日置両城を攻め落とした経過を記す。忠良方の将兵は園田氏宅などへ潜伏して抵抗・連絡を続けたが、城を維持できず退避した。落城後の部隊分散と貴久方の再起準備を伝える。

  17. 前編2-No.2103 町田氏系図

    町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。

  18. 前編2-No.2104 隈江匡久書状

    隈江匡久が山田安藝守に、二十三日夜からの相州伊作城方の動き、斬り取った人数、三日間の軍勢の動向などを尋ね、油断なく報告するよう求めた書状。

  19. 前編2-No.2105 樺山信久譜

    島津勝久が虎寿丸(貴久)へ国を譲った後の政変を、樺山信久の立場から記す。島津忠兼・肝付越前守らの動向、加治木・伊作・鹿児島方面の戦闘、村田越前守らとの関係を追い、信久一族が対立する勢力間で帰属を選び奉公を継続した経過を示す。

  20. 前編2-No.2106 樺山玄佐自記

    樺山信久が島津勝久の御座へ奉仕し、加治木・鹿児島方面の戦闘に関わった経過を玄佐が記す。村田越前守ら家臣の処遇を調整し、島津忠良方との関係を踏まえて、新納・本田・北原諸家の所領と帰属を再編した政治・軍事上の対応を伝える。

  21. 前編2-No.2107 調所恒房伝

    大永七年十一月、清水城主本田董親・志布志城主新納忠勝らの社壇造営や所領争いを、調所恒房が自ら奔走して調停し、長年にわたり国衙の職務を担ったことを記す。

  22. 前編2-No.2108 樺山玄佐自記

    戦後に美濃守が出家し、新納・本田・北原らの所領や正宮社家の処置が進められたものの、諸家の境界がなお不通であったことを記す。

  23. 前編2-No.2109 貴久公記

    大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。

  24. 前編2-No.2110 島津忠勝願文

    島津忠勝が正八幡宮へ奉納した長文願文。兵乱・火災・飢饉などの災厄を鎮め、国家安泰、武運長久、子孫繁栄、所願成就を祈る。神職・社家による祭祀と奉幣を重んじ、神威への敬意と、願いがかなった際に報恩奉仕する決意を述べる。

  25. 前編2-No.2111 島津忠勝願文

    島津忠勝が正八幡宮へ、神威による国家・社家の安泰、兵乱・災害の鎮静、子孫繁栄と所願成就を祈って奉幣した願文。神職・神官・社家の平穏も祈願対象に含める。No.2110と同日同標題ながら別番号で収録され、同時に奉納された二通の一つと確認できる。

  26. 前編2-No.2112 正八幡宮社家覚書

    勝久・本田氏らをめぐる清水の処置、正興寺や八幡宮領の水汲み・社役、宮内社家の権益と旧例について申し立てた覚書。

  27. 前編2-No.2113 島津国史

    享禄元年、伊東氏の攻撃を受けた忠勝を北郷忠相らが援け、新納氏を破って梅北城まで追撃したこと、忠勝の戦功と北郷忠相への恩賞を記す。

  28. 前編2-No.2114 西藩野史

    享禄元年以後の伊東・新納・北郷・島津諸勢の戦争を年代順に詳述する。北郷忠相・樺山美濃守・新納忠勝らの出陣、各城の攻防と諸将の戦死を追い、島津勝久の鹿児島復帰、忠良方との対立・和睦を経て領国内の勢力関係が変化した経過を示す。

  29. 前編2-No.2115 島津日新書状

    本文ではNo.2082と同一と注記された日新書状。攝津守に殺生禁断の趣旨を重ねて申し、従前どおりの承認・協力を求めた内容である。

  30. 前編2-No.2116 島津勝久譜

    享禄元年、忠兼が名を勝久と改めたことを記す。

  31. 前編2-No.2117 島津勝久補任状

    島津勝久が薙刈杢助に、加官のことを早く承知し、任官を受けるよう命じた補任状。

  32. 前編2-No.2118 島津日新譜

    忠兼が前年に再び鹿児島へ入り守護位に就いた後、享禄元年に勝久と改名したことを記す。

  33. 前編2-No.2119 伊集院与左衛門覚書

    伊集院与左衛門が、伯囿方との御談合、谷山・川邊方面の敵情、伊東・新納両軍の動き、追撃と戦死者などについて報告・回想した覚書。

  34. 前編2-No.2120 北郷忠相譜

    享禄元年五月朔日、新納忠勝が日向中之郷内で伊東勢と戦い、冷水・小鷹原方面の陣を攻めたことを記す。

  35. 前編2-No.2121 庄内平治記

    新納忠勝と伊東氏の抗争を記す『庄内平治記』記事。伊東勢が冷水・小鷹原方面に伏兵を置いたのに対し、新納方の要請を受けた北郷忠相が援軍を派遣して合流し、黒坂・横尾を経て梅北城戸口まで追撃した。津介忠次・池袋肥後らの戦死や両軍の損害、北郷方の戦功を具体的に伝える。

  36. 前編2-No.2122 殉国名藪

    享禄元年五月朔日の冷水合戦で、新納讃岐守忠救ら新納方の一族・家臣が戦死し、北郷忠相が救援を差し向けたことを記す。

  37. 前編2-No.2123 北郷忠相譜

    新納忠勝と伊東勢の合戦で、北郷忠相が援兵を送り、冷水・黒坂・横尾・梅北城方面で伊東方を退けた一方、新納・北郷方にも多数の戦死者が出たことを記す。

  38. 前編2-No.2124 島津勝久宛行状

    島津勝久が北郷左衛門尉の軍忠に報い、大隅国財部院を宛行った書状。

  39. 前編2-No.2125 杉与重書状

    杉興重が島津忠朝に、国内の鉾楯を鎮めるため早急に無事の調停を進めるよう求め、詳しい事情は傳芳院から伝えると述べた書状。

  40. 前編2-No.2126 大内義興書状

    大内義興が島津忠朝に、国内騒乱の調停について意向を伝え、詳しくは杉興重から申し述べるとした書状。

  41. 前編2-No.2127 大内義興書状

    大内義興が新納近江守に、近年の対立を和らげ和睦を整えるよう求め、詳しくは杉興重から伝えるとした書状。

  42. 前編2-No.2128 島津勝久書状

    島津勝久が、小宰相殿・顕娃殿への用件を申し入れ、先方で万事適切に取り計らうよう求めた書状。

  43. 前編2-No.2129 島津勝久宛行状

    島津勝久が菱刈大和守の忠節に報い、薩摩国牛尿院内の青木・長尾両名を宛行った書状。

  44. 前編2-No.2130 某書状

    忠朝が天界寺の衣鉢侍者に、往還の折の対面と書状・贈物への礼を述べ、前皇の紹介状に対する返答を進上し、椀一束を贈った書状。

  45. 前編2-No.2131 大内義隆書状

    大内義隆が島津忠朝に、日向安国寺を渡唐の副使にする件について了承と意見を求め、詳しくは陶安房守・杉三河守から伝えるとした書状。

  46. 前編2-No.2132 島津忠朝書状

    島津忠朝が、当国の鉾楯を鎮めるための書状と傳芳院を通じた懇切な働きかけに感謝し、勝久が本意を遂げて無事となることを望んだ書状。

  47. 前編2-No.2133 島津忠朝書状

    島津忠朝が、国内騒乱の鎮静に心を添え、たびたび芳翰と懇切な取り次ぎを寄せた京兆方へ謝意を述べ、今後の助力を求めた書状。

  48. 前編2-No.2134 島津忠朝書状

    島津忠朝が、当家の騒乱が収まらず伊東祐督方との関係も不安定であることを述べ、佐伯の成敗や傳芳院を介した働きかけについて理解と支援を求めた書状。

  49. 前編2-No.2135 島津国史

    享禄二年正月、祁答院重武が帖佐本城・新城を陥れた事件を起点に、島津忠相・本田董親・樺山幸久らと新納忠勝・祁答院方が戦った経過を記す。城の奪回をめぐる攻防で島津忠幸らが戦死し、帖佐周辺の支配が動揺したことを伝える。

  50. 前編2-No.2136 島津勝久譜

    享禄二年正月二十二日、祁答院重武が帖佐本城・新城を奪い、翌日に山田城も陥れたため、勝久方が攻め返して加治木を確保したことを記す。

  51. 前編2-No.2137 年代記

    享禄二年正月二十二日に祁答院重武が帖佐本城・新城を奪い、翌日に山田城を攻め落としたが、その後祁答院・蒲生方が加治木で敗れたことを記す。

  52. 前編2-No.2138 伊地知季安考

    大永七年の記録や系譜を引き、伊地知父子が帖佐・加治木周辺で戦った時期と、新城地頭職・伊地知氏の由緒を考証する。

  53. 前編2-No.2139 伊地知重政自記

    伊地知重辰が新城方として敵陣を切り通し戦死したこと、父子の戦死で一族が離散し、系図も失われた経緯を記す。

  54. 前編2-No.2140 島津忠将譜

    享禄二年正月二十二日、十歳の忠将が忠良の山田城攻めに従軍し、これを初陣としたことを記す。

  55. 前編2-No.2141 殉国名藪

    享禄二年正月二十二日の帖佐新城攻防で伊地知重辰らが戦死したことを、村田氏系図など複数の系譜記事を引いて考証する。

  56. 前編2-No.2142 大島氏系図

    大島忠明の子忠次が十六歳で戦死したことや、菱刈方との戦いで敵を討ち、忠次の首を取り返した家臣の働きを記す。

  57. 前編2-No.2143 島津勝久書状

    島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。

  58. 前編2-No.2144 宗吉書状

    宗吉が奈良原に、加治木での奉公について謝意を述べ、遅滞した事情を察して今後も心底からの働きを続けるよう求めた書状。

  59. 前編2-No.2145 新納忠勝証状

    新納忠勝が三州動乱の和融に関する裁許・使僧派遣へ謝意を表し、今後も無極の配慮と傳芳院を通じた取り計らいを求めた証状。

  60. 前編2-No.2146 岩出輔共・東郷重随連署証状

    岩出輔共・東郷重随が牧田吉右衛門尉に、篠原口合戦で一階堂大和守を射た忠功を認め、子孫まで相違なく扱うと証した連署状。

  61. 前編2-No.2147 隈江匡久書状

    隈江匡久が本田彦河守に、忠朝との交渉や鹿児島方面の情勢、伊東勢が籠城したとの風聞を伝え、今後の連絡を求めた書状。

  62. 前編2-No.2148 島津貴久書状

    島津貴久が攝津介に、加世田へ移る意向、市来野から来た栗毛馬の扱い、串木野方面で敵十人ほどを討ち取った戦況を伝えた書状。

  63. 前編2-No.2149 島津日新書状

    日新が攝津守に、市来衆が串木野に現れたことと五か所の動向を伝え、境界での立場や今後の対応を尋ねた書状。

  64. 前編2-No.2150 空山日々記

    本文では『享禄二年空山日々記』の標題のみが掲げられ、本文内容は収録されていない。

  65. 前編2-No.2151 某書状

    吉松の伊東勢との合戦で遠州三か所へ切り込み、敵百四十五人を射殺して退け、清水・姫木方面の城衆を動員して警戒を続けた戦況報告。

  66. 前編2-No.2152 樺山玄佐自記

    島津忠朝が家国の騒乱を鎮めるため薩摩・大隅・日向三か国の和平を構想し、新納忠勝、祢寝孫次郎、肝付三郎、本田紀伊守らと交渉した経緯を記す。島津勝久の帰参条件と諸家の処遇を調整し、一族・国衆間の対立を収束させようとした政治工作を伝える。

  67. 前編2-No.2153 隈江匡久書状

    隈江匡久が本田因幡守に、祢寝氏を介した交渉や大寺美作介の派遣について述べ、今後の取り計らいを求めた書状。

  68. 前編2-No.2154 隈江匡久書状

    隈江匡久が山田安藝守に、祢寝・肝付両家への使者派遣、船津での会見・渡海準備などを伝え、急ぎの対応を求めた書状。

  69. 前編2-No.2155 空山日記

    享禄二年六月十一日以降の島津忠良・貴久方の軍事・外交を日次で記す。隈江匡久、本田紀伊守、山田安藝守らの使者派遣、指宿・市来・串木野・清水方面の軍勢と物資の移動を追い、祢寝・肝付・豊州方との贈答・交渉内容を具体的に記録する。

  70. 前編2-No.2156 隈江匡久書状

    隈江匡久が豊州方との贈答と船便の運航状況を報告し、祢寝・肝付・新納・大村諸方との交渉を記した長文書状。使僧の往来、贈物の受け渡し、各家の返答や態度を具体的に伝え、情勢に応じた今後の交渉方針について指示を求める。

  71. 前編2-No.2157 空山日記(島津忠治代寄合座)

    本文は『空山日記』の標題に続き、本文が別番号文書の後半と同文であるため省略すると注記する。

  72. 前編2-No.2158 隈江匡久書状

    隈江匡久が山田安藝守に、名乗りの件は十分に勘案するよう求め、境界での滞留、音信、披露の扱いについて伝えた書状。

  73. 前編2-No.2159 庄内平治記

    享禄二年十一月二十八日、北郷忠相と本田氏が春山原で合戦し、本田方の兵五十余人を討ち取ったことを記す。

  74. 前編2-No.2160 北郷忠相譜

    享禄二年十二月二十八日、北郷忠相が春山原で本田氏と戦い、首五十二級を得たことを記す。

  75. 前編2-No.2161 伴久兼契状

    伴久兼が、世間がどのように変転しても互いに違背せず、合議して凶事に対処し、相互扶助を守ることを神仏に誓った契状。

  76. 前編2-No.2162 菱刈重副書状

    菱刈重副が肝付方に、求められた馬の手配や先月以来の事情を伝え、今後も従前どおり相談・協力するよう求めた書状。

  77. 前編2-No.2163 北郷忠相譜

    享禄三年、本田氏と祁答院氏らの軍勢が郡城・高城方面で交戦し、北郷忠相方が救援・防戦にあたった経緯を記す。

  78. 前編2-No.2164 庄内平治記

    本田方が郡城を奪回しようと攻めたため北郷忠相が援兵を送り、城兵とともに撃退したこと、その後の西城・屏涯などの攻防を記す。

  79. 前編2-No.2165 殉国名藪

    享禄三年の諸合戦で、山口重昌・北郷忠眞・井上半左衛門らが戦死し、島津忠明が大口城攻めで戦死したことを月日別に記す。

  80. 前編2-No.2166 新納忠勝証状

    新納忠勝が日向国内蔵之條山の所職について、有馬仁充の子孫まで相違なく安堵すると証した証状。

  81. 前編2-No.2167 島津勝久宛行状

    島津勝久が河上上野介の忠節を賞し、薩摩国市来院内の河上名十二町と牛江三町を先例どおり知行させた宛行状。

  82. 前編2-No.2168 大島氏系図

    大島出羽守有久を起点に、忠福・忠明ら大島氏の系譜と、太守忠国に仕えた由緒、所領・戦歴を記す。

  83. 前編2-No.2169 大島氏系図

    大島忠福・忠明父子と次郎四郎忠次らの系譜、忠次が大口城で捕らえられた後の経緯や子孫関係を記す。

  84. 前編2-No.2170 足利義晴補任御教書

    足利義晴が普門寺住持職について、先例どおり寺務を執行するよう命じた補任御教書。

  85. 前編2-No.2171 島津勝久書状

    本文はNo.2143の島津勝久書状と同文のため省略される。奈良原帯刀允の子弥六左衛門の討死を忠節として悼み、奉公を求めた書状。

  86. 前編2-No.2172 島津国史

    天文元年前後の高城をめぐる島津忠朝・忠相方と伊東・北原・祁答院・本田諸氏の争いをまとめた国史記事。各氏の系譜を参照しながら、城の守備、援軍の派遣、攻撃と退却を追い、日向・大隅境界で複数勢力が結び付きと対立を変えた経過を示す。

  87. 前編2-No.2173 東郷重朗書状

    東郷重朗が肝付方に、久しく無音であった事情と通路の確保、今後の進退・協力について申し入れた書状。

  88. 前編2-No.2174 島津尚久系図

    島津尚久の字・通称と出生、母方、父忠良の法師名などを記した系図記事。

  89. 前編2-No.2175 島津勝久書下

    島津勝久が顕娃左馬允に、鹿児島郡築山の土地を大明神へ寄進したことを認め、後日の証拠として執務するよう命じた書下。

  90. 前編2-No.2176 島津勝久書下

    島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場を平等王院へ寄附した先例を認め、沙汰するよう命じた書下。

  91. 前編2-No.2177 島津勝久書下

    島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場の寺領境界と歴代の寄進を確認し、従前どおり執務するよう命じた書下。

  92. 前編2-No.2178 殉国名藪

    享禄四年四月・六月の合戦で、入来院上総介、東郷重貞、寺尾重次らが戦死したことを記す。

  93. 前編2-No.2179 島津日新等連署起請文

    島津忠良・貴久・忠朝、伊集院忠朗らが父子・一族間の合意を守ると誓った連署起請文。互いの知行・所領を侵さず、重要事項を協議し、軍事・家政で相互に協力することを定め、違反時には梵天帝釈・八幡大菩薩など諸神仏の罰を受けると誓約する。

  94. 前編2-No.2180 島津貴久書状

    島津貴久が遠江守に、前日の勝利を受けて出陣を求め、先日の談合内容に従って速やかに来るよう促した書状。

  95. 前編2-No.2181 樺山信久譜

    天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。

  96. 前編2-No.2182 殉国名藪

    天文元年十月、吉利忠将とその弟大野忠友が薩州中郷松嶋で戦死したことを記す。

  97. 前編2-No.2183 吉利氏系図

    吉利氏の忠将・久起らの親子・兄弟関係、出生、戦死、法名を掲げる系図。

  98. 前編2-No.2184 北郷忠相譜

    北郷忠相が伊東義祐・北原氏による高城攻略計画を察知し、周辺諸城の守備を強化した合戦記事。敵軍の攻撃を城兵と援軍で撃退し、退却する伊東・北原勢を追撃して北之石山城の防備を突破した経過を記し、忠相方の情報収集と反撃の成功を伝える。

  99. 前編2-No.2185 庄内平治記

    伊東義祐ら三侯院方が梶山・山之口など高城周辺を押領しようとしたため、北郷忠相方が迎撃した合戦を詳述する『庄内平治記』。伊東勢の布陣に対して伏兵を置き、敵を誘い出して追撃した。双方の戦死者と首級、八代長州勢の反撃までを記し、高城をめぐる作戦と戦果を示す。

  100. 前編2-No.2186 入来院氏一家文書

    薩摩郡平佐城退治に際し、入来院重朝が清色城堀口井手の地を松林寺同宿中へ寄進した一家文書。平重副・樺山融久・山口木工左衛門尉らが関係し、城中の安穏と武運長久を祈念して、寄進地の守護・祭祀と妨害排除を寺側に依頼する。