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前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
全2,778件中 1501~1600件・16 / 28ページ
前編2-No.1490 島津国史
文明六年、島津久逸(円室公)が元服して又三郎を称し、伊作家の家督を継いだことを記す。梶原氏を含む一族・家臣との関係、伊作家の系譜、所領支配の由来と継承を整理し、久逸が一門の当主として成立した後の家中構成を示す国史記事。
前編2-No.1491 島津忠昌譜
文明六年正月十一日、島津忠昌が十二歳で元服し、その後に守護職の譲りを受けたことを記す系譜記事。
前編2-No.1492 島津立久書状
島津立久が和田殿に、長野への礼の処理、重久郡田城輪での行動や水手の手配などについて指示し、速やかな対応を求めた書状。
前編2-No.1493 島津立久譜
文明六年四月一日に島津立久が四十三歳で没し、法名を玄忠、号を節山としたことを記す系譜記事。
前編2-No.1494 島津立久譜
島津立久の子女とその母、婚姻、子孫、寺院住持などを列挙し、伊作久逸をはじめとする一族の系譜を記す記事。
前編2-No.1495 村田経安・平田兼宗連署状
村田経安・平田兼宗が、薩州から進上された節山の三か国相続に関する契約状二通と、小十文字の太刀をあわせて進上する旨を記した連署状。
前編2-No.1496 行脚僧雑録
薩摩を行脚した僧の見聞を基に、国内各地の城郭・地名・領主・家臣・寺社を地域別に列挙した雑録。各城や郷をどの氏族が支配し、どの家臣・寺院が関係したかを由緒とともに記しており、中世薩摩の地域構成、在地勢力の配置、寺社との結び付きを検索できる地誌的記事。
前編2-No.1497 犬追物手組
文明六年八月二十三日の犬追物について、島津氏一族と家臣を組別に配し、各人の得点を記した手組。
前編2-No.1498 室町幕府奉行連署奉書
室町幕府奉行が島津又三郎に、琉球渡海船の事情を引き続き糺明しつつ、渡唐を命じられた泉州・堺の船を厳重に管理して支障なく渡海させるよう命じた連署奉書。
前編2-No.1499 取竜書状
取竜が平田・村田両氏に、翌春の渡唐船への対応、幕府から催促された硫黄の保管と坊津での引き渡し、上使への対応を依頼した書状。
前編2-No.1500 犬追物手組
文明六年十月十八日、肝付での参会時に行われた犬追物について、参加者を組別に配し各人の得点を記した手組。
前編2-No.1501 皇徳寺監寺寮可葺次第
皇徳寺監寺寮の葺修理に必要な茅・縄などの資材と数量、負担の割当を記した次第。
前編2-No.1502 島津国史
文明七年に行われた犬追物を起点として、伊作久逸・新納忠続ら島津一族の動向を記す。高城をめぐる北原氏・相良氏との抗争、諸勢の出陣と城郭支配の変化を追い、武家儀礼の開催と並行して家中・国衆間の軍事的緊張が高まった情勢をまとめる。
前編2-No.1503 殉国名藪
文明七年六月二十七日、指宿三郎四郎朝忠が薩州国分と伊作の戦いで討死したことを記す記事。
前編2-No.1504 池田氏年代記
文明七年八月十五日、向島内野尻村で噴火が起こったことを記す年代記記事。
前編2-No.1505 島津国史
文明八年以後の薩摩・大隅・日向三州の軍事情勢を記す。清水・曽於郡勢による宮内・東郷攻撃に対して島津久逸・伯耆守豊久・新納忠続・北郷敏久らが反撃し、加世田城・都城をめぐって出陣・攻城・退却を重ねた経過を追う。
前編2-No.1506 文明記
文明八年の合戦次第として、鹿児島松尾坂・吉田長龍寺口・牛尿道場口・菱刈濱河など各地の勝敗と戦死者数を列挙した記事。
前編2-No.1507 新納忠続譜
新納忠続が救仁院のほか飯肥を二十九年間領有し、文明八年に守護の命で飯肥と末吉・財部・救仁郷を交換したことを記す系譜記事。
前編2-No.1508 殉国名藪
文明八年三月、指宿城攻めや鹿児島松尾坂の戦いで五代筑前守・福崎入道・飯肥平二郎・松元四郎左衛門らが戦死したことを記す記事。
前編2-No.1509 殉国名藪
文明八年九月十二日、時任源八左衛門義昭が日州三俣院の戦いで四十二歳にして戦死したことを記す記事。
前編2-No.1510 沙弥崇音譲状
沙弥崇音が大隅国祢寝院佐多村内の田地・薗を二郎左衛門清康へ譲り、子孫へ相伝して他人の妨げを受けないよう定めた譲状。
前編2-No.1511 坪付
友久が田部三河介に、下ふるかわ・中ふるかわ・はしの口・屋敷内などの田地を段・坪単位で列挙して示した坪付。
前編2-No.1512 琉球王尚円書状
琉球王尚円から島津御屋形御奉行所への書状。本文はNo.1489と同文のため省略され、年は不詳と注記される。
前編2-No.1513 北郷敏久譜
文明八年六月二十一日、北郷敏久が島津立久から都城を再び与えられ、安永から都城へ移り、守護方の城衆から城を受け取ったことを記す系譜記事。
前編2-No.1514 北郷氏庶流系図
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
前編2-No.1515 島津国史
文明九年の薩隅日情勢を、帖佐・加治木勢による宮内侵攻とその撃退を中心に記す。島津久逸・忠廉、新納忠続、北郷敏久、季久・国久ら一族諸勢の布陣と城郭攻防を追い、相互の同盟・離反が変化する中で島津家中の軍事対立が拡大した経過をまとめる。
前編2-No.1516 島津友久等連署契状
島津友久・久逸・国久らが、天下の情勢が変化しても一味同心し、家中の無事を保ち、凶害の企てがあれば互いに知らせることを誓約した連署契状。
前編2-No.1517 島津武久融契状
島津武久を中心に一族が、情勢の変化にかかわらず同心し、家中の無事と相互扶助を守ることを神仏に誓った契状。
前編2-No.1518 豊州島津系図
豊州島津系図として、島津久豊の三男秀久の出生、帖佐瓜生野での居住、文明九年八月六日の死去と法号などを記す系図記事。
前編2-No.1519 足利義政御内書
足利義政が島津又三郎に、渡唐船の正使・副使らが帰朝するまで在国中の扶持を怠りなく行うよう命じた御内書。
前編2-No.1520 島津氏家老連署寄進状
島津氏家老の村田経安・平田兼宗が、薩摩郡千畑名の荻原内水田五反を神事領として寄進した連署寄進状。
前編2-No.1521 調所恒房伝
調所恒房伝として、紀了清が帖佐郷平山村の領家職を得て平山氏を称したことや、その子孫・所領移転などを記す伝記記事。
前編2-No.1522 紀定清証文
紀定清が帖佐平山城をめぐる伊集院氏との戦闘と在地諸氏の由緒を証言した文書。平山氏・武満氏らの所領、合戦後の移住と家系の推移を述べ、城と周辺所領の支配関係がどのように変化したかを書き付けて進上した。
前編2-No.1523 島津国久寄進状
島津国久が天辰周防入道浄慶の菩提のため、山門院西方内の水田松本三段などを野田感應寺へ寄進した寄進状。
前編2-No.1524 足利義政御内書
足利義政が島津陸奥守から代始の礼として太刀行安一腰・銭二万疋を受領し、返礼に太刀光忠一腰を贈った御内書。
前編2-No.1525 足利義政御内書
足利義政が島津陸奥守から京都静謐に関する太刀一腰・銭一万疋を受領し、返礼に太刀正恒一振を贈った御内書。
前編2-No.1526 伊勢守貞宗書状
伊勢守貞宗が島津又三郎に、京都静謐の際に他者が占有した五条町樋口間の屋地について、早く申請して還補を受けるよう勧めた書状。
前編2-No.1527 室町幕府奉行連署奉書
室町幕府奉行が島津陸奥守に、清水寺建立の勧進を大隅・薩摩・日向三か国へ触れ知らせるよう命じた連署奉書。
前編2-No.1528 蔵人甘露寺元長奉口宣案
中御門中納言を上卿として、蔵人左少弁藤原元長が奉じ、修理進藤原武久を陸奥守に任ずる口宣案。
前編2-No.1529 島津国史
『島津国史』が、文明十二年の島津久逸・忠廉・新納忠続ら一族と家臣の盟約を記す。家中の一味同心と国要への対応、渡唐船の警固・運航をめぐる命令、伊作・村田・平田氏らの役割を挙げ、領国内政治と対外交通を同時に処理した状況を示す。
前編2-No.1530 布施英基書状
布施英基が島津陸奥守に、使者の上洛に際して船を用意することや航行上の手配について依頼した書状。
前編2-No.1531 島津武久書状
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
前編2-No.1532 島津久逸契状
島津久逸が村田経安・平田兼宗に、世上が変転しても御屋形武久を一途に仰ぎ、公私の事を相談して隠し事をせず、互いに協力することを誓った契状。
前編2-No.1533 藤原久範契状
藤原久範が、互いに隔意なく身上の大事を相談し、内外の事を隠さず同心し、困窮の際にも支え合うことを誓った契状。
前編2-No.1534 足利義政御内書
足利義政が島津陸奥守から受領した太刀一腰国光・銭一万疋への返礼として、太刀一振を贈った御内書。
前編2-No.1535 某坪付
たつはミの門・たつはミ・宮との門・まへた・修正田・佛性田・後迫・よこい場などの田地と面積を列記し、梶山殿へ示した坪付。
前編2-No.1536 島津友久等連署契状
島津友久・国久・久逸・忠廉・忠続ら一族が、家中や国が動乱に巻き込まれた際は武久を中心に一味同心すると誓った連署契状。親疎に偏らず相談し、公私の案件や讒言を隠さず共有し、相互に支援することを定める。分裂期の島津一族が意思決定と忠節の原則を確認した文書。
前編2-No.1537 島津武久起請文
島津武久が、一族を親疎で選別せず同心し、国政の成敗や家中の相談を旧規に従って行い、急事には互いに助け、公私の情報を隠さないことを神名に誓った起請文。
前編2-No.1538 島津武久起請文
島津武久が、一族を深く尊重して大小の事を相談し、親類の志を受け入れ、成敗や重要事項を互いに隠さず協議することを、諸神を列挙して誓った起請文。
前編2-No.1539 島津国史
文明十二~十三年の琉球国船・使者の来航と取扱いをまとめる国史記事。幕府奉書に基づく接遇、福昌寺での保護と拝謁、島津武久・布施下野守・飯尾大和守らの対応を記し、渡唐船の警固を含む航海・外交上の手続が整えられた経過を示す。
前編2-No.1540 年代記
文明十三年に琉球国の文船が着岸したことを記す年代記記事。
前編2-No.1541 入来院天福寺至林霊供田請取状
天福寺の至林が、古春の御霊供田として寄進された田を確かに請け取り、八月以後の一食を怠らず勤めることを約した請取状。
前編2-No.1542 木場重著譲状
木場但馬守重著が、志への謝意として私領の小原内の水田などを種田圖書へ譲り、今後も奉公に励むよう述べた譲状。
前編2-No.1543 島津武久契状
島津武久が村田肥前守に、三か国が変転しても父重豊以来の厚い志を踏まえ、今後も忠節を尽くし、内外の重要事を隠さず相談するよう誓った契状。
前編2-No.1544 室町幕府奉行連署奉書
室町幕府奉行の布施英基・飯尾元連が島津陸奥守に、尋ね物の注文に関する探索を進め、詳細は陳外郎から伝える旨を命じた連署奉書。
前編2-No.1545 渋谷重豊請文
渋谷重豊が、三か国が変転しても従前どおり忠節を尽くし、心中を村田へ申し入れ、讒言や凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った請文。
前編2-No.1546 島津武久契状
島津武久が入来院又五郎に、三か国が変転しても父重豊以来の厚誼を保ち、一族として重要事を相談し、内外の事を隠さず相互に支えることを誓った契状。
前編2-No.1547 渋谷重聡起請文
渋谷重聡が、三か国の変転時にも親類への忠節を守り、外部の事を隠さず、讒言・凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った起請文。
前編2-No.1548 島津武久加冠状
島津武久が建部忠清の加冠を行ったことを示す加冠状。本文には建部忠清が重豊の初名である旨の注記がある。
前編2-No.1549-1 西牟田武利覚書
西牟田武利の記録を基に、新納是久・忠祐父子らが梅北周辺の戦闘で戦死した経過を詳述する覚書。伊東祐充・北郷忠相ら関係勢力の動向、戦死者の遺骸を埋葬した場所を記し、古書に残る人名と後世の伝承を照合して事件の記憶を伝える。
前編2-No.1549-2 伊地知季安考
伊地知季安が梅北城と新納氏の系譜・戦死記事を諸記録から比較考証した記事。新納是久・忠祐、島津忠國、北郷忠相らの年代、人名、親族関係、所領の記載を突き合わせ、伝承間の異説や矛盾を指摘して、人物比定と事件の年代を再検討する。
前編2-No.1549-3 鬼束常心系図
御記録所所蔵の『都之城鬼束常心系図』写本の巻端にある、久保友元の識語と伝来を記した系図記事。
前編2-No.1550 正八幡宮供所職補任状
正八幡宮の権執印紀朝臣景照が、大法師永音を御供所職に補任した補任状。本文年紀は文明十三年十二月十八日、巻末目録は文明十四年十二月十八日と記す。
前編2-No.1551 島津忠廉宛行状
島津忠廉が本田某の上井城退治での働きを賞し、敷祢六町を進め置いた宛行状。
前編2-No.1552 室町幕府奉行連署奉書
室町幕府奉行が島津一族に、渡唐船の警固を日向国中津浦まで先例どおり厳重に行い、遅滞なく実施するよう命じた連署奉書。
前編2-No.1553 足利義政御内書
足利義政が島津陸奥守に、参洛に向けた奔走を評価し、光通蔵重に関する措置を速やかに命じ、伊東大和守の件も処理するよう伝えた御内書。
前編2-No.1554 島津武久起請文
島津武久が肝付方に、天下の形勢が変転しても二心なく相談し、互いを見捨てず、讒言・凶書があれば隠さず知らせることを神々に誓った起請文。
前編2-No.1555 笠懸日記
文明十五年八月廿一日に二宮新田八幡大菩薩神前で行われた笠懸について、射手や役割を列記した日記記事。
前編2-No.1556 島津忠廉譜
豊州家二代忠廉譜として、文明十五年八月廿一日の笠懸に参加した忠廉と一門・家臣らの名、役割、系譜上の注記を列記する記事。
前編2-No.1557 島津忠廉書状
島津忠廉が一乗院衆に、訪問・面会を願い、東郷での用務や大藤金剛の見聞などを伝えて今後の相談を求めた書状。
前編2-No.1558 西藩野史
文明十六年前後、伊作久逸・新納忠続らが伊東祐国・北郷忠相方と戦った軍記。飫肥・福島・櫛間・高城を転戦し、島津忠廉・伊作祐安ら諸将の出陣、援軍、戦死、敗兵の撤退を追って、日向南部から庄内へ広がった戦線の推移を詳述する。
前編2-No.1559 島津国史
文明十六年、伊東方との戦いで新納忠続・久治、伊作久逸らが飫肥・伊作・北郷方面を転戦した経過を記す。各城の包囲・防戦、兵糧不足、援軍到着、敗走後の再進軍を追い、島津忠廉・北郷敏久らを含む諸勢が日向南部で戦線を維持した状況を示す。
前編2-No.1560-1 犬追物手組
文明十六年三月九日の犬追物について、第一の手組に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
前編2-No.1560-2 犬追物手組
文明十六年三月九日の犬追物について、下手に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
前編2-No.1561 島津久逸契状
島津久逸が新納忠続との間で、世上が変転しても互いに二心なく同心し、重要事を相談して忠節を尽くし、和睦や凶書なども隠さず知らせることを誓った契状。
前編2-No.1562 島津氏譜
文明十六年の薩摩・大隅・日向三州大乱を記す島津氏譜記事。伊作久逸・新納忠続らの対立に対し、島津忠昌が治部少輔・伊勢守・近江守らを介して仲裁し、近江守の移封、所領・兵糧配分を調整したが、諸勢の不満が収まらなかった経過を追う。
前編2-No.1563 島津久逸書状
島津久逸が、御屋形への書状を若い使者に持たせたこと、取次を頼むこと、長年の名字に関する指示は書状で知らせてほしいことを伝えた書状。
前編2-No.1564 島津久逸書状
島津久逸が、飫肥と当地の間に生じた雑説について永徳寺芳蔵主へ問い合わせ、御屋形への請札や年来の名字に関する取りなしを依頼した書状。
前編2-No.1565 文明記
文明十六年、三か国の分裂を背景に伊作久逸・新納忠続側が島津忠昌へ訴えた内容を記す。忠昌は近江守・治部少輔・伊勢守らの使者を介して仲裁し、所領移転と和睦条件を調整したが、双方が譲らず交渉が不調に終わり、対立が継続した。
前編2-No.1566 都城円福寺阿弥陀像銘
日向国島津院円福寺の阿弥陀如来造立について、文明十六年六月十五日の年紀、信心大願主、僧寶秋ら奉加者を刻んだ仏像甲板の銘。
前編2-No.1567 島津忠昌書状
島津忠昌が村田経安に、伊東方との和睦・仲介を依頼し、飫肥で兵糧を蓄え難い事情や桂らの取次、国人の進状について伝えた書状。
前編2-No.1568 殉國名藪
文明十六年の田野・飫肥・三俣方面における伊東方と新納・島津方の戦闘を日付順にまとめた殉死者記事。入佐孫六、伊東祐国、新納忠続、西牟田三河守、佐多忠山らの出陣・戦死を戦場と対応させ、連続する合戦で生じた人的損害を記録する。
前編2-No.1569 島津忠昌譜
文明十六年十月廿六日、島津忠昌が軍勢を発し、北郷・樺山・肝付・平田・村田らが陣営を構えたこと、その後の押寄せと戦況を記す譜記事。
前編2-No.1570 文明記
文明十六年十月廿六日、少数の手勢から始まった出陣で新納・北郷・樺山・祢寝・肝付・平田らが合流し、坂上や熊田原などに陣を取った経過を記す文明記記事。
前編2-No.1571 島津忠廉契状
島津忠廉が本田某に、弓矢の成り行きにかかわらず近隣の事を相談し、和議や雑説が生じた際は直ちに知らせ、雑務も早急に伝達するよう誓約した契状。
前編2-No.1572 島津忠昌譜
文明十六年十一月十四日、福島の大馬場・惣門口で合戦し、長井宋女・曲田甚太郎らに戦死者を出しながら敵を退け、新山城に陣営を置いた経過を記す譜記事。
前編2-No.1573 島津忠昌譜
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
前編2-No.1574 文明記
霜月十四日の犬馬場・惣門口合戦と十七日の郡本陣衆の戦闘を日を追って記す。島津忠昌方と伊東祐国・新納近州方の布陣、長井宋女・曲田・山田・肝付諸氏の動き、双方の戦死者を列挙し、近江守の退移と新山城への再布陣までを追う。
前編2-No.1575 島津忠昌譜
文明十六年十二月三日、伊作式部大輔方が南郷城へ押し寄せ、城壁を切り崩して攻撃した経過を記す。山田・早崎・堀口諸氏を含む守兵が抵抗し、双方に戦死者が出た。危急を受けた和泉隠岐守が近江守へ急使を送り、援軍を求めた。
前編2-No.1576 島津忠昌譜
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
前編2-No.1577 島津忠昌譜
島津忠昌が家中へ守護方への参陣を命じたが従わない者があり、敵方が城を攻撃した経過を記す。忠福・和泉隠岐守・伯州末弘十郎三郎らが守備し、入田・片野坂氏を含む諸勢が各所で戦闘した結果、戦死者と退却者を出した。家中分裂下の防城戦を伝える。
前編2-No.1578 島津忠昌譜
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
前編2-No.1579 文明記
師走三日から続いた南郷城攻めを城内外の視点から詳述する。酒谷・和泉・北郷・樺山・伊集院・入来院・片野坂諸勢の布陣、飫肥・庄内へ通じる道の争奪、戦死・退却を記し、夜間の攻防後に敵陣も退いて戦闘が一段落した経過を追う。
前編2-No.1580 義岡豊久譜
義岡伯耆守豊久の出生と経歴を記し、文明十六年十二月廿二日に飫肥城へ押し寄せた敵二千騎余に三百余騎で応戦して戦死したこと、享年六十四と法号を伝える譜記事。
前編2-No.1581 志和池忠豊譜
文明十六年十二月廿日、忠豊が郎従三百余人を率いて日向飫肥へ向かい、逆谷籠に陣した敵勢と戦い、忠福らとともに応戦するなか戦死したことを記す譜記事。
前編2-No.1582 佐多忠山譜
文明十六年冬、島津久逸が新納近江守忠続の所領である日向飫肥南郷城を攻めた際、佐多忠山が久逸方へ加勢して戦死したこと、享年四十四と法名を記す譜記事。
前編2-No.1583 島津国史
文明十七年正月以降、島津忠昌方と伊作・北原・祁答院・入来院・伊集院など諸勢の同盟・離反を追う国史記事。鹿児島方面を含む各城への出兵、包囲、救援、和議交渉が長期に続き、忠廉・国久・北郷敏久・樺山長久らの帰属変化が戦況を左右した経過を記す。
前編2-No.1584 島津忠昌譜
鹿児島をめぐる雑説と対立が収まらず、島津相模守忠幸・薩摩守重久らが参越して拠点を築いた経過を記す。祁答院・北原長門守・菱刈孫三郎方と緊張が高まり、築城・軍勢配置と使者交渉を繰り返して、武力衝突を避けながら鹿児島支配を調整した。
前編2-No.1585 島津忠昌譜
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。
前編2-No.1586 文明記
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。