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前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
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前編2-No.1587 文明記
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
前編2-No.1588 島津忠昌譜
島津忠昌譜所収の書状として、島津国久が新納越前守へ新春の祝意と今後の繁栄を述べ、近日の参会を望み、扇子を贈ったことを伝える記事。
前編2-No.1589 島津忠昌譜
文明十七年二月一日、祁答院勢が水引城と東郷・高城方面を攻め、守護方が籠城して反撃し、攻城側を川内宮内へ退却させた経過を記す譜記事。
前編2-No.1590 島津忠昌譜
同日、入来院又五郎が砥山城へ押し寄せて攻め落とそうとしたが降参・和談となって一旦退き、同月七日に城を領した経過を記す譜記事。
前編2-No.1591 島津忠昌譜
修理亮忠廉が庄内から平山へ帰り、二月十一日に鹿島内の川田城を攻めたが、川田飛弾守らが籠城して抵抗したこと、村田肥前守らの援軍と退却を記す譜記事。
前編2-No.1592 島津忠昌譜
文明十七年二月十九日、修理亮忠廉が入来山を越え、翌日に祁答院藺牟田城を攻めた際、城の崩落や戦闘により班目右京亮ら多数の死傷者が出た経過を記す譜記事。
前編2-No.1593 島津忠昌譜
同日、東郷右馬允が祁答院へ軍勢を発し、一木での合戦で双方に討死・負傷者を出したのち、祁答院方の援軍を受けて引き退いた経過を記す譜記事。
前編2-No.1594 島津忠昌譜
同日、加治木右衛門佐が横川から祁答院へ出軍して合戦となったが敗れ、一族の次民部少輔・彦二郎・鍋倉五郎らが討死した経過を記す譜記事。
前編2-No.1595 島津忠昌譜
文明十七年二月廿六日、東郷勢が高尾野で勝利し、穂北合人佐父子を討ち取ったことを記す短い譜記事。
前編2-No.1596 島津忠昌譜
同月晦日、修理亮忠廉が帖佐から帰陣したことを記す短い譜記事。
前編2-No.1597 文明記
二月一日以降、祁答院・東郷方が鹿児島へ進攻した戦況を記す。水引城、市来、伊集院周辺で島津忠昌方と攻防を重ね、村田肥前守・吉田治部少輔らが援軍を送った。城の奪還と再占領、部隊の退却を繰り返し、薩摩中央部の戦線が拡大した経過を追う。
前編2-No.1598 殉國名藪
文明十七年の郡山川田城攻めをはじめ、各地の戦闘で討死した者をまとめた殉死者記事。町田盛久・忠重、厚地半左衛門尉、鮫坂左衛門二郎、寺田平七、木下彦太郎らについて、戦場と没日を対応させて列記し、島津方家臣の戦死記録を残す。
前編2-No.1599 本田兼親譜
文明十七年三月三日以降、本田兼親が忠廉の催促を受けて上井城などの戦いに参加し、戦功・合戦と一族の動向、のちの戦死を記す譜記事。
前編2-No.1600 島津忠廉宛行状
島津忠廉が本田某の上井城退治での働きを賞し、敷称六町を宛行った宛行状。
前編2-No.1601 島津忠昌譜
文明十七年三月二十三日、加治木忠敏・吉田尾張守・本田又左衛門尉・正八幡宮社家らが同心して上井に陣を構え、後園・薩摩守重久・北郷氏らが出羽守久遠らを派遣し、城を四方から攻めた経過を記す譜記事。
前編2-No.1602 島津忠昌譜
上井城をめぐる攻防の末、城衆が同月十六日に降参し、その後の攻撃軍にも利がなかったことを記す譜記事。
前編2-No.1603 島津忠昌譜
同月二十一日、祁答院方の計略により東郷右馬允が帖佐から退き、その子松法師丸が立てられたことを記す譜記事。
前編2-No.1604 島津武久(忠昌)加冠状
島津武久(忠昌)の加冠について、文明十七年三月二十八日付で武久が判を据えた加冠状。
前編2-No.1605 文明記
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
前編2-No.1606 島津忠昌譜
文明十七年閏三月一日、修理亮忠廉が菱刈へ越山し、牛屎方面へ進んだ経過を記す島津忠昌譜。道秀父子と相良二郎五郎長輔・相良為續の内通を背景に、忠廉と長輔らが対面した。薩摩守方・北郷・樺山の三勢力が和議を整え、長期抗争を収束させようとした交渉過程を示す。
前編2-No.1607 文明記
文明十七年閏三月朔日以降、匠作が菱刈へ入り、道秀父子・相良長輔・次郎五郎らと交渉した経過を記す。伊東・北郷・樺山・東郷・鹿児島衆の内談を重ね、敵対していた三国の和与を進めた。交渉成立後、匠作が四月二日に和泉へ到着するまでを日次で追う和平交渉記事。
前編2-No.1608 文明記
同月十日、水俣で薩州方と相良氏が対面したことを記す短い文明記記事。
前編2-No.1609 平田兼宗書状
平田兼宗が山田殿へ、北郷方へ送った書状の趣旨、伊東・北郷方面の情勢や江州の難儀などを伝え、詳しい返書を求めた書状。
前編2-No.1610 島津武久書状
島津武久(忠昌)が山田殿へ、酒谷や北郷方へ送った書状、伊東飫肥の陣、北郷方の困難について知らせ、返報を求めた書状。
前編2-No.1611 島津忠昌譜
同月晦日、薩摩守重久が鹿島を発ち、四月二日に出水へ帰着し、同月十日に水俣で相良為續と対面したことを記す譜記事。
前編2-No.1612 島津忠昌譜
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
前編2-No.1613 島津忠昌譜
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
前編2-No.1614 文明記
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
前編2-No.1615 島津忠昌譜
文明十七年春、伊東方の山東・飫肥方面への進発と長雨・兵粮難、薩摩守重久・修理亮忠廉らによる都城方面の軍勢催促を記し、さらに竹田法印昭慶の医療と出陣をめぐる忠昌・伊東祐国・伊作式部太輔らの応酬を載せる長文譜記事。
前編2-No.1616 文明記
伊東方の飫肥進発と長雨・兵粮難、竹田法印昭慶の医療をめぐるやり取りを詳述する『文明記』記事。薩摩守重久・修理亮忠廉ら薩摩方が進軍して合戦を重ね、島津忠昌は鹿児島から船で出発し敷根へ着陣した。軍勢移動、補給、医療を含む長期戦の実態を示す。
前編2-No.1617 北郷敏久譜
文明十六年十一月、伊東祐国・伊作久逸・北原長門守らが新納近江守の飫肥城を攻めたため、北郷敏久が救援に赴いた経過を記す。越験山で敵軍を破って多数を討ち取り、包囲された城を救った。援軍の進路、決戦地、戦果を明記する北郷氏の戦功記事。
前編2-No.1618 島津氏家譜
文明十七年六月十二日、島津忠昌が鹿島を発して敷根へ着き、翌日末吉、さらに都城方面へ進んだ経過を記す島津氏家譜記事。薩摩守重久・修理亮忠廉・北郷讃岐守ら諸将を率い、伊東方との合戦に臨んだ。鹿児島から日向国境へ至る進軍日程と軍勢編成を示す。
前編2-No.1619 文明記
六月十三日、島津忠昌が末吉へ到着し、薩摩守重久・匠作・北郷讃岐守らと軍議した後、北郷方面へ先勢を派遣した経過を記す。諸将が伊東方の進出を迎撃し、複数の陣で攻防を重ねて敵を退け、北郷領の防備を回復した。
前編2-No.1620 島津氏家譜
同月二十日、島津忠昌方が飫肥の稲荷田に陣を構え、地形と伊東方の敵陣を見定めて諸隊を配置した合戦記事。薩摩守重久、北郷讃岐守、匠作、伊集院・入来院・新納諸勢が逆谷・河原方面で激戦を展開する。隊ごとの参戦者と多数の討死者を列挙し、戦場の配置と損害を詳述する。
前編2-No.1621 文明記
同月二十日、飫肥の武多・稲荷田周辺で島津忠昌方と伊東方が近接して布陣した戦闘を記す『文明記』。北郷・伊集院・入来院・新納など各隊が地形を利用して突入と退却を繰り返し、多数の討死者を出した。翌日に軍勢が逆谷へ移陣するまでを追い、前線の変化を具体的に示す。
前編2-No.1622 島津氏家譜
同月二十五日朝、島津忠昌方が逆谷から福島へ進発し、熊田原に陣を構えた後の軍事行動を記す家譜記事。二十九日に忠昌が末吉から福島へ到着し、式部太輔・薩摩守ら諸軍と七月二日以降も対陣・移陣を続けた。戦線整理後、同月八日に鹿児島へ帰着するまでの日程を追う。
前編2-No.1623 島津忠昌書状
島津忠昌が、先日の書状への丁寧な返事と伊地知周防守の文状を受け取ったことを謝し、当面は順逆を見極めて対処し、詳細は周防守から伝えると述べた書状。
前編2-No.1624 文明記
同月二十五日、逆谷から福島の熊田原へ陣を移し、二十九日に忠昌が福島へ入り、七月二日以降の対陣と城の受渡しを経て、同月八日に鹿児島へ帰った経過を記す文明記記事。
前編2-No.1625 島津久逸契状
伊作久逸譜中に載る契状。本文はNo.1561号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係のみを記録する。
前編2-No.1626 島津久逸譜
新納近江守忠続が日向国飫肥院に住み、一門でありながら不和が深まって伊東六郎左衛門尉祐国と結び、飫肥城を囲んだ経緯を記す。
前編2-No.1627 島津久逸譜
文明十七年六月二十一日、太守が飫肥陣の後詰として大軍を発したが、味方軍は敗北し、櫛間城へ退いたことを記す。
前編2-No.1628 島津久逸譜
同月十五日、守護方の軍勢が鬨の声と鼓を響かせて来着し、櫛間熊田原に陣取った。同月二十九日には太守忠昌も着陣し、攻撃が急になったことを記す。
前編2-No.1629 島津久逸譜
文明十七年七月二日に和議が成立し、翌三日に櫛間城を明け渡して、もとのように伊作へ移ったことを記す。
前編2-No.1630 某証状
季吉梅北殿の息女妙泉禅尼と、その母妙能禅尼の追善料足について、毎年の利分を定座・花堂の大衆用途へ充て、残余を住持が小破の修理に用いることを定めた証状。
前編2-No.1631 島津氏家譜
太守島津忠昌の帰陣後、祁答院方の帰属と処遇をめぐって薩摩守・修理亮らが評議した経過を記す。祁答院側には旧領から退去して福島へ移居させる一方、吉松を給付する案が示された。八月十五日、忠昌は谷山へ渡って諸将を召集し、条件不履行に備えた祁答院への発向を協議した。
前編2-No.1632 文明記
祁答院某が使者を鹿児島へ送り、飫肥出陣への謝意と今後の奉公を島津忠昌へ申し入れた経過を記す『文明記』。梅吉・伊賀守ら老名衆を介して処遇を交渉し、太守の命に従って本領を退去し福島へ移る条件が整えられた。代替として吉松を給付することで降伏・帰属を確定しようとした。
前編2-No.1633 島津忠昌書状
島津忠昌が菱刈左兵衛尉に、久しく音信が途絶えていることを惜しみ、以前どおりの関係を望むと伝えた。伊地知周防守への返答を明確にすれば今後も厚意を忘れないと述べる。
前編2-No.1634 島津武久書状
新納忠明譜中に載り、新納忠徳関係文書を正文とする島津武久書状。本文はNo.1610号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
前編2-No.1635 町田氏系図
町田氏の系図として、町田出羽守高久と左京亮頼本の名および系線を掲げる。
前編2-No.1636 島津忠昌譜
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
前編2-No.1637 文明記
文明十七年九月五日以降、匠作・村田肥前守らが祁答院山崎へ進軍した戦闘を記す。東郷・帖佐勢に加え、大村・黒木・中津川諸勢と合流し、古城・山崎・内山田方面で敵陣を攻略した。集落・陣所への放火と追撃を重ね、二十四日に各軍が帰陣するまでの作戦日程を追う。
前編2-No.1638 島津忠昌譜
同月二十一日、大村の陣を開いて入来方面へ退いた際、敵軍二、三百人が追撃したが、武略と勇気によって損害なく全軍が退却したことを記す。
前編2-No.1639 島津忠昌譜
同月二十二日、東郷方が山田に軍勢を集め、翌二十三日に祢答院河向の伏兵を追い払った。鶴田勢三百と帖佐勢らが交戦し、敵を退散させ、敵騎約十人を討ち多くを負傷させた。
前編2-No.1640 島津忠昌譜
同月二十四日、薩摩守・修理亮・右衛門祐がそれぞれ帰陣したことを記す。
前編2-No.1641 島津国史
文明十八年、忠昌が新納忠続を飫肥から志布志へ戻し、末吉・財部・救仁郷を与え、忠廉を櫛間・飫肥の領主とした。病後の身を案じられても、忠昌が公務と家の武威のため自ら出陣する意志を示したことを記す。
前編2-No.1642 本田兼親伝
文明十七年十二月朔日、武久が鳥取播磨介を使者として本田兼親に太守へ仕えるよう命じた。兼親は帖佐に属した事情を釈明し、忠廉の帰参と飫肥復帰を喜んで謝罪したため、五日に赦免され飫肥への帰還を命じられた。
前編2-No.1643 島津武久書状
島津武久書状。本文はNo.1644号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
前編2-No.1644 島津武久書状
島津武久が本田殿に、使者への返答を喜び、鳥取播磨介から聞いた事情を了承したと伝えた。伊東氏の飫肥出張に対し庄内・寄郡方面へ進発を命じており、疑念なく協力して軍功を励むよう求める。
前編2-No.1645 殉国名藪
文明十八年六月二十一日、岩切甲斐守寿信が伊東勢との野首の陣で戦死したことを記す。
前編2-No.1646 島津忠昌書状
島津忠昌が本田殿に、諸方の混乱で書状を送る暇がなかったことを述べ、城山や各地の動向を案じた。関係者と協議して方針を定め、軍勢や時勢の状況を絶えず報告するよう求める。
前編2-No.1647 島津忠昌書状
島津忠昌が本田殿に、横川の敵陣が後巻勢の奔走によって退散したことを喜び、今後も敵境へ進み帖佐方面から加勢する意向を伝えた。城内の人々の尽力をねぎらい、引き続き協力を求める。
前編2-No.1648 本田兼親伝
文明十八年、忠昌が自ら隈之城の賊を討ち、本田兼親は横川で軍を率いた。十月一日、忠昌が隈之城から兼親へ書状を送り、その軍務をねぎらったことを記す。
前編2-No.1649 島津忠昌書状
島津忠昌書状。本文はNo.1647号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
前編2-No.1650 本田兼親伝
本田兼親が横川にあって敵の後方を攻撃する策を立て、敵を敗走させた。十月五日、忠昌が再び書状を与えてその軍務をねぎらったことを記す。
前編2-No.1651 島津忠昌書状
島津忠昌書状。本文はNo.1647号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
前編2-No.1652 島津忠昌書状
島津忠昌が、前日の合戦で諸将が示した忠節と働きを比類ないものと賞し、その勇戦をねぎらうとともに、今後も状況に応じて尽力するよう伝えた書状。
前編2-No.1653 豊州島津忠廉譜
文明十八年、太守忠昌が日向国飫肥・福島を忠廉に与え、忠廉が帖佐を離れて新たな領地へ移ったことを記す。
前編2-No.1654 島津忠昌宛行状
島津忠昌が修理亮忠廉に、日向国飫肥院の南北一円と櫛間院一円を領知するよう宛行い、早く現地へ赴いて統治するよう命じた宛行状。
前編2-No.1655 島津忠廉書状
島津忠廉が本田兼親に、猶子・家の連続をめぐる事情と初太丸の扱いについて述べ、伊集院大隅入道らを介して意向を取りまとめ、今後の措置を相談した書状。
前編2-No.1656 本田兼親伝
文明十八年十一月、忠昌が隈之城に陣し、二十六日に東郷へ兵を遣わした。翌日の合戦で忠昌方が勝利し、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち、忠昌が帖佐へ向かおうとした経過を記す。
前編2-No.1657 島津忠昌書状
島津忠昌が、東郷へ派遣した軍が合戦に勝ち、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち取ったことを喜んだ。東郷を城のみの状態に追い込み、帖佐方面への進出や今後の処置を本田兼親に伝える書状。
前編2-No.1658 本田兼親譜
閏十一月二十六日、忠昌が本田兼親に書状を与え、兼親が誓書を提出したことを受けて、再び大隅国守護代に任じたことを記す。
前編2-No.1659 島津忠昌書状
島津忠昌が本田兼親に、弓矢をめぐる争いと過去の混乱について、今後は遺恨なく忠節に専念するよう求めた。兼親の意向を了承し、家中の秩序を固める方針を伝える書状。
前編2-No.1660 新納友義譜
文明十八年、忠昌が伯父忠続に末吉・財部・救仁郷を与えて飫肥と替え、久逸を伊作へ戻し、忠廉に豊州二郷を与えた。忠続が志布志へ移る際、友義が従ったことを記す。
前編2-No.1661 島津忠廉書状
本文はNo.1655と同文のため省略される。島津忠廉が本田兼親に、猶子・家の連続をめぐる事情と初太丸の扱いを述べ、伊集院大隅入道らを介して今後の措置を相談した書状。
前編2-No.1662 新納忠続譜
新納忠続が救仁院(志布志)のほか飫肥を与えられて二十九年間居住し、文明十八年に飫肥と末吉・財部・救仁郷を交換して、これらの所領を合わせ四十一年間知行したことを記す。
前編2-No.1663 知覧氏系図
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
前編2-No.1664 西藩野史
島津忠廉が上京して足利義尚や宗祇・飯尾氏ら文化人と交わり、和歌と古今伝授を学んだ経歴を記す。帰国後は伊作久逸との戦い、島津忠朝らの軍事行動に関与した。さらに忠昌による加治木攻略、平山忠康への串良給付までを述べ、京都文化の受容と領国での軍事・恩賞を一続きに描く。
前編2-No.1665 島津国史
『島津国史』が長享元年前後の改元と将軍家の動向を編年で記す。足利義尚の近江出陣、義政・義視・義材の継承関係、細川政元を含む幕府政務を述べる一方、島津忠昌が催した犬追物も収録する。中央政治の変動と島津領国の武家儀礼を同じ年次で対照する。
前編2-No.1666 島津忠昌書状
本文はNo.1659と同文のため省略される。島津忠昌が本田兼親に、過去の争いへの遺恨を捨てて忠節に専念し、家中の秩序を保つよう求めた書状。
前編2-No.1667 島津忠昌譜
長享元年二月晦日、竹田法印昭慶が船出して京都へ帰ったことを島津忠昌の譜中に記す。
前編2-No.1668 島津忠治系図
島津氏の御系図中に忠治の名を掲げる短い系図記事。
前編2-No.1669 沢永観契状
沢永観が土用鍋殿に、三郎丸の妹との契約を違えず、妨げがあっても三郎丸と一体となって取り立てること、俊道・俊久両代の所領を相違なく扱い、三郎丸と無二心に相談するよう誓約した契状。
前編2-No.1670 島陰雑著
『島陰雑著』所収の八幡大菩薩霊祠再興文で、日向国島津庄が高祖・島津忠久の薩摩・大隅・日向三州における権興の地であり、当社も忠久を基礎とすることを述べる。
前編2-No.1671 新納家伝重物目録
新納忠続が忠明へ伝える家伝の重物を列挙した目録。長光の太刀、山内藤源次の太刀、文書箱、絵、弓、大友政親から拝領した征矢、腹巻、甲などを記す。
前編2-No.1672 犬追物手組
延徳元年十一月二十六日の犬追物について、島津忠昌をはじめとする手組の構成員と、それぞれが射た犬の疋数を記録した一覧。
前編2-No.1673 犬追物手組
延徳元年十一月二十七日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を一覧にした記録。
前編2-No.1674 犬追物手組
延徳元年十一月二十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で記録した一覧。
前編2-No.1675 犬追物手組
延徳二年正月十八日の犬追物手組を記し、島津忠昌を中心とする参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
前編2-No.1676 犬追物手組
延徳二年正月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人が射た犬の疋数を記録した一覧。
前編2-No.1677 犬追物手組
延徳二年二月一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の成績を疋数で示した記録。
前編2-No.1678 犬追物手組
延徳二年二月六日の犬追物手組について、島津忠昌を中心とする参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
前編2-No.1679 犬追物手組
延徳二年二月十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を示した一覧。
前編2-No.1680 犬追物手組
延徳二年二月十四日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を列挙した記録。本文の一覧は冊子五百四十七頁から五百四十八頁へ続く。
前編2-No.1681 犬追物手組
延徳二年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
前編2-No.1682 犬追物手組
延徳二年二月二十一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で示した一覧。
前編2-No.1683 犬追物手組
上原氏文書に残る、飫肥で二度目に行われた延徳二年三月二十日の犬追物手組。島津忠昌ら少数の参加者と疋数を記す。
前編2-No.1684 島津忠昌譜
島津忠廉が犬追物を催した際、島津忠昌が数十里を遠しとせず、海陸を経て赴き射芸に参加したことを忠昌の譜中に記す。
前編2-No.1685 犬追物手組
延徳二年三月二十二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と各人の疋数を列挙した記録。
前編2-No.1686 犬追物手組
延徳二年三月二十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。