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前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
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前編2-No.1 渋谷重勝寄進状
渋谷重勝が、清色北方馬渡瀬竹下にある名四郎作一段と手作二段を寿昌寺方丈へ寄進し、今後の違乱・妨げを禁じた寄進状。
前編2-No.2 蔵人頭日野時光奉口宣案
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、左衛門少尉藤原師久を従五位下に叙する旨を伝えた口宣案。
前編2-No.3 蔵人頭日野時光奉口宣案
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、従五位下藤原師久を従前どおり検非違使に任ずる旨を伝えた口宣案。本文にはNo.2と併せて師久公御譜中に載ると注記される。
前編2-No.4 島津氏久譜
当山国長・楡井頼仲・肝付兼重が薩摩・日向で争った経緯を背景に、島津氏久方の山田弥九郎らの戦闘、横山城・志布志松尾城の攻防、兼重と頼仲の最期を記す。末尾に、頼仲が自害前に書き残した位牌表・辞世の偈頌と和歌を掲げる。
前編2-No.5 博多ひいのかわ後家譲状
博多ひいのかわ後家が、薩摩国鹿児島の西田村後迫にある屋敷・田六反など三か所を上山衛門五郎へ譲り、後家が下向した際の奉公や他者による違乱の排除を求めた譲状。
前編2-No.6 治部大輔某書下
治部大輔某が臺明寺衆徒に対し、凶徒退治を速やかに成就させるため、とりわけ祈祷に精励するよう命じた書下。
前編2-No.7 島津氏久書下
島津氏久が西俣兵衛尉に、大隅国の反抗勢力を退治するため出陣するよう命じた書下。
前編2-No.8 島津氏久宛行状
島津氏久が田代次郎に、大隅国串良院弁分上条・立小野村と鹿屋院内高隈村の弁分を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
前編2-No.9 島津氏久宛行状
島津氏久が田代七郎入道に、大隅国串良院半分の地頭職を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
前編2-No.10 比志島範平軍忠状
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
前編2-No.11 比志島範平軍忠状
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
前編2-No.12 島津氏久書状
島津氏久が比志島某に、大隅国退治を来る二十五日に決行すると知らせ、準備を整えたうえで事前に参上し、諸事を相談するよう求めた書状。
前編2-No.13 島津氏久宛行状
島津氏久が比志島太郎に、大隅国肝付郡内木志良村の地頭弁分と羽見村地頭職を兵粮料所として宛行い、一族らへ分配して先例どおり知行し、軍功を励むよう命じた宛行状。
前編2-No.14 野田刑部左衛門軍忠状
野田刑部左衛門尉某が、岩屋城退治以来の諸合戦と三月の濱陣合戦での軍忠を申告した。弟の宮内右衛門尉兼弘が負傷し、島津氏久が同所で見知ったことを挙げ、注進と恩賞を求める。
前編2-No.15 建部清増軍忠状
大隅国祢寝又五郎建部清増が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方を攻め、若党大夫房が負傷し、城を破って頼仲ら一族・若党数十人を討ち取ったとして証判を求める。
前編2-No.16 祢寝重種軍忠状
祢寝重種が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方の城を攻め破り、一族・若党ら数十人を討ち取ったとして、後代の証拠となる一見状を求める。
前編2-No.17 一色直氏宛行状
右京大夫一色直氏が武光三郎に、薩摩国日置庄古恒跡の田地二十町地頭職を勲功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた宛行状。
前編2-No.18 一色直氏宛行状
右京大夫一色直氏が市来彦七郎に、薩摩国日置内恒吉名の田地六町と若松の田地六町の地頭職を勲功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた宛行状。
前編2-No.19 平重□寄進状
平重□が、佛法興隆・天下安平と子孫□・兆民快樂を願い、日向國南鄕下里永吉名内の水田伍段□を寶滿寺へ寄進した寄進状。水田伍段・子孫・差出人平重の後にある三つの□は原資料自体の空格であり、推測補完しない。
前編2-No.20 島津道鑑(貞久)・師久連署去状
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、子孫を含む第三者の違乱を禁じた連署去状。所領の落着後は日次公事を停止すると記す。
前編2-No.21 肝付兼氏譜
正平十二年、島山直顕が志布志城を取り、楡井頼仲が胡麻崎城へ逃れたのち、祢寝清種らが同城を包囲・攻略し、さらに松尾城を攻めて頼仲を自害に追い込んだ経緯を記す。続いて田代次郎・比志島太郎への所領宛行や、伴兼里による大慈寺塔頭龍護庵への寄進を掲げる。
前編2-No.22 伴兼里寄進状
伴兼里が、玄源禅門・龍岳禅門の追善のため、肝付郡内浦下方小串村の田地を四至境目とも先例どおり大慈寺開山塔頭龍護庵へ寄進し、子孫による違乱を禁じた寄進状。
前編2-No.23 酒勾貞阿出向証状
冒頭に『しまつのはんくハん□され候もんその事』とあり、酒勾貞阿がその文書を弥阿弥陀仏のもとへ預け置き、文書が御沙汰に入ったため受け取った後、用が済めば元どおり返すと証した。長方形の□部分は原資料に印刷された欠損・空白として、そのまま保持した。
前編2-No.24 島津氏久書下
島津氏久が吉田若狭守に、正八幡宮へ寄進された大隅国岩河村三分二について下地を知行させ、土貢は御供・祈足のため御供所へ進納するよう命じた書下。
前編2-No.25-1 牛尿氏某覚書
延文二年九月、島山直顕が日向六笠に籠城し、菊池武光が攻撃するとの風聞があるなか、島津師久が加治木へ出陣した経緯を記す。渋谷一族が加勢を装って九月晦日に加治木城へ入り、師久と合戦になったため、師久が左近将監高元へ合力を求めたとする覚書。
前編2-No.25-2 島津師久書状
島津師久が牛深左近将監に、加治木へ出陣しようとした際、渋谷一族が島山直顕への合力を口実に郡司・一族を誘い、九月晦日に城へ入って合戦となったことを伝え、援軍を求めた書状。東郷にも連絡済みと記す。
前編2-No.26 一色範親宛行状
刑部少輔一色範親が土持冠者に、島津時久が旧来知行していた日向国新納院地頭職を兵粮料所として宛行い、いっそう忠節を尽くすよう命じた宛行状。
前編2-No.27 肝付兼氏伝
正平十三年、島山直顕が六笠城、子の重隆が三俣城に拠ったところ、菊池武光が島津方と和して攻撃し、三俣城を陥落させ、直顕父子を敗走させた経緯を記す。
前編2-No.28 征西将軍宮令旨
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
前編2-No.29 島津氏久立願文
島津氏久が鹿児島諏方大明神に、本意を遂げたなら郡内の田地一か所、小笠懸百番、神馬一疋を進納すると誓った立願文。
前編2-No.30 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が弟の資忠に、大隅国本庄内財部院を永代に譲与し、御公事は惣領師久の支配と先例に従って勤仕するよう定めた譲状。本文注記は次号No.31と同一文書である可能性を示す。
前編2-No.31 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が弟の資忠に、大隅国本庄内財部院を永代に譲与し、御公事は惣領師久の支配と先例に従って勤仕するよう定めた譲状。No.30と同文の別伝本として収録される。
前編2-No.32 柿木原隆実軍忠状
柿木原隆実が、四月十四日の加治木院田間要害で中津峯河勘解由左衛門尉・国郡小太郎らと戦い、背中に傷を負った軍忠を申告し、注進・披露を求めた軍忠状。島津氏久が承認している。
前編2-No.33 島津氏久寄進状
島津氏久が、伊地知彦七の今度の合戦での戦功により願書の趣旨を認め、鹿児島郡伊敷村内の国引田一町を安養院へ寄進し、先例どおり領知して朝暮の祈祷を行うよう命じた寄進状。
前編2-No.34 伴兼世契約状
伴兼世が岸良雅楽介に、大隅国肝付郡内岸良村の弁済使職について阿仏の譲りを認め、親子間で相談した分限どおり知行し、違乱しないことを契約した文書。
前編2-No.35 島津氏久宛行状
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷村の地頭職を給分として宛行い、先例どおり相違なく知行するよう命じた宛行状。
前編2-No.36 征西将軍宮令旨
征西将軍宮が樺山源三郎久清の馳参を神妙と賞し、さらに軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
前編2-No.37 島津氏久安堵状
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷・下田両村の地頭得分のうち三分の二を給分として宛行い、相違なく知行するよう安堵した文書。
前編2-No.38 足利義詮御教書
足利義詮が一色入道から使者を通じて九州の情勢を聞き、深く案じていること、近日こちらから使者を遣わして詳細を伝えることを知らせた御教書。
前編2-No.39 足利義詮御教書
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。
前編2-No.40 島津道鑑(貞久)・師久連署去状
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、第三者の違乱を禁じた連署去状。本文はNo.20と同文のため省略される。
前編2-No.41 正八幡宮領家御教書
正八幡宮領家が、清直が御供所職を質券で売却して料田の御供を怠ったため職を収公したと伝え、買得人らから異議があれば名を注進させ、厳密に処置するよう命じた御教書。沙弥道順が奉じる。
前編2-No.42 執印某施行状
執印某が、質券で売却された御供所職について領家御教書の趣旨を執行し、権執印へ触れ、異議を申し立てる者があれば交名を注進させるよう命じた施行状。
前編2-No.43 島津氏久書下
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
前編2-No.44 島津氏久書下
島津氏久が姫木又次郎に、自方へ参じたことを受け、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
前編2-No.45 菊池武光禁制
菊池武光が大慈寺での濫妨・狼藉を禁じ、違反者は罪科に処すと定めた禁制。
前編2-No.46 伴基栄寄進状
伴基栄が、天長地久・国土安穏・万民快楽を祈って、日向国救仁院志布志条内の夏井・益倉村を大慈禅寺へ寄進した文書。
前編2-No.47 畠山直顕書下
畠山直顕が赤崎秦次に、大隅国岩河村内の本職などを元どおり領掌させ、いっそう軍忠を尽くすよう命じた書下。
前編2-No.48 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が松浦女房へ、薩摩国山門院内の三箇村・脇本村と河辺郡内嘉古村を譲り、女房の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
前編2-No.49 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が大輔局へ、薩摩国山門院内青木原村を譲り、大輔局の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
前編2-No.50 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が京女子へ、大隅国寄郡内西俣村を譲り、京女子の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
前編2-No.51 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が女子祖鑑房へ、大隅国本庄内岩河村南方を譲り、祖鑑房の一期後は氏久へ返付すると定めた譲状。
前編2-No.52 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が惣領師久へ示した所領相続の譲状。一族・子孫は惣領に同道して奉公すること、不忠者には所領を知行させないこと、男女の子孫を扶持することを条々に定める。道仏・道儀・乙寿丸、本田兼阿らの所領処分も明記し、惣領制の下で子孫が遵守すべき家法を示す。
前編2-No.53 北郷資忠譜
北郷家元祖資忠の譜として、延文四年四月五日に島津道鑑が大隅国財部院を資忠へ与え、その譲状写を後掲したことを記す記事。
前編2-No.54 島津道鑑譲状
島津道鑑(貞久)が弟の資忠へ大隅国財部院を譲り、道鑑の公事や惣領師久への支えに従って勤仕するよう定めた譲状。本文は既出文書と同文のため省略される。
前編2-No.55 島津氏久預ケ状
島津氏久が野崎太郎左衛門尉の忠節を受け、柏原保東方を兵粮料所として預け置き、先例どおり領知してさらに軍功を尽くすよう命じた文書。
前編2-No.56 太平記
『太平記』の記事として、一色範光が菊池武光との戦いに敗れ、九州からの帰京を図った経過を記す。讃岐国で兵船と軍勢を集める途中に範光が病没し、鎮西探題方の態勢が崩れた。九州諸勢力が宮方へ傾くなか、菊池勢が日向へ進攻したことまでを述べ、将軍方後退の連鎖を示す。
前編2-No.57 殉国名藪
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
前編2-No.58 正八幡宮長吏御教書
正八幡宮長吏が、闕所となった御供所職を器量ある者に奉行させ、質券で売却された土地への異議申立人を注進させ、延文三年九月四日の御教書に従って職を務め御供を全うするよう命じた御教書。
前編2-No.59 長谷場純阿・実純連署譲状
長谷場内五段と甘子木村内西牟田五段を兵庫允久純へ譲り、鶴一丸に本譲状を添え、公方役・地頭年貢を分限に応じて負担し、惣領と水魚の思いで末代まで知行するよう定めた連署譲状。
前編2-No.60 菊池武光書状
菊池武光が島津道鑑の書状を受け、前年春の書状を喜び、道鑑の子息の参上を待っていたが延期となったことを残念に思い、事情は使者に申し含めたと伝えた書状。
前編2-No.61 島津道鑑譜
島津道鑑の譜として、一色範光が敗北後に病没し、後任の細川繁氏も九州下向途上で没した経緯を記す。菊池武光による日向三俣城攻撃、畠山氏・小弐氏・大友氏・島津氏の動向を挙げ、鎮西探題の交替が続くなか九州諸勢力が宮方・将軍方の間で動いた情勢を示す。
前編2-No.62 正八幡宮領家御教書
正八幡宮領家が、栗野南里の当年年貢以下を催促するため預所使者を派遣し、未進を残さず納め、使者の在庄中の厨雑事や衣裳・草手なども先例どおり支給するよう命じた御教書。沙弥道順が奉じる。
前編2-No.63 島津氏久安堵状
島津氏久が、日向国救仁郷永吉東方比志田内の地頭屋敷二か所と法橋薗・江六薗各一か所について、鹿児島諏方大明神への寄進を確認し、先例どおりの知行を安堵した文書。
前編2-No.64 島津氏久譜
延文四年十月五日、島津氏久方が日向南郷へ進軍中に敗北した経過を記す譜記事。国合の戦いで佐多左馬助忠直・彦四郎・三郎四郎ら兄弟が戦死し、氏久は岩川・蓬原・救仁郷へ移動した。各地で援軍を求めながら安全な退路を探り、敗軍を収拾しようとした状況を伝える。
前編2-No.65 佐多氏譜
佐多氏の譜として、忠直が延文四年十月五日に島津氏久に従って日向南郷国合で戦死したこと、弟の彦四郎・三郎四郎も同時または知らせを聞いて敵陣へ馳せ入り戦死したことを記す。家の重宝・爪切丸大刀が敵に奪われたとも伝える。
前編2-No.66 島津氏久書下
島津氏久が得丸六郎五郎に、さらに忠節を尽くせば現在知行する土地に相違がないことを保証した書下。
前編2-No.67 島津氏久宛行状
島津氏久が得丸左近将監に、大隅国小原別符西方地頭分の柏原東方原田将監跡と、日向国救仁院内野与倉森を兵粮料所として宛行い、忠節を尽くすよう命じた宛行状。
前編2-No.68 島津氏久宛行状
島津氏久が田代新左衛門尉の格別の忠節に報い、大隅国鹿屋院の地頭・弁済使職を宛行い、さらに軍功を尽くすよう命じた宛行状。
前編2-No.69 伊集院道忍臨書状
伊集院道忍が大隅守に、『みつへのかんなかのまた名内のすいてんしもんしかい七反、井の木のまろ三反』、計一町と堀ノ内の一所について、知行を認めるよう取り次ぐことを求めた書状。
前編2-No.70 島津氏久書下
島津氏久が目弥四郎入道に、大隅国桑西郷内鏡原三段を凶徒の知行分であったことから兵粮料所として領掌させ、異議があれば改めて沙汰すると定めた書下。
前編2-No.71 太平記
『太平記』の記事として、延文五年八月十六日夜の味坂庄周辺の合戦を記す。宮方の菊池勢が将軍方へ夜討ちをかけ、西征将軍宮も負傷し、双方に多数の戦死者を出したのち、小弐勢は太宰府、菊池勢は肥後国へ退いた。
前編2-No.72 渋谷重門寄進状
渋谷重門が、薩摩国入来院楠本内坂口の在家・田畠を寿昌寺方丈通法和尚へ永代寄進し、違乱者があれば重門跡を知行させないと定めた寄進状。
前編2-No.73 畠山直顕契状
畠山直顕が島津氏久に、御所の御教書に応じて氏久が味方へ参じた以上、公私ともに力を合わせて凶徒を退治し、この方針に異議を存しないことを神仏に誓った契状。
前編2-No.74 肝付兼氏伝
肝付兼氏の伝として、正平十五年(延文五年)に兼氏が幕府方へ復帰し、六月十三日に畠山直顕と盟約したことを記す短い記事。
前編2-No.75 島津道鑑譜
延文五年、筑後味坂庄周辺で宮方と将軍方が衝突した合戦を記す島津道鑑譜。菊池勢の夜討ちで西征将軍宮が負傷し、新田・菊池・小弐・松浦・島津など諸勢に多数の戦死者が出た。菊池方の勝利後、双方が帰国するまでを追い、筑後川合戦の損害と軍勢構成を伝える。
前編2-No.76 島津道鑑下文
島津道鑑(貞久)が、本田兼阿跡の薩摩国山門院内葉成河地頭代官職を兼阿の孫・本田金太郎へ宛行い、先例どおり沙汰して知行するよう命じた下文。
前編2-No.77 本田兼阿譲状
本田兼阿の譲状。本文は既出文書と同文のため省略され、裏書として、兼阿の自筆であるため後日の証拠に島津師久が判形を加えたことを記す。裏書は延文五年九月六日付。
前編2-No.78 細川清氏施行状
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
前編2-No.79 島津氏久書状
島津氏久が祢寝右馬助に、税所の凶徒と同調する者が明らかになった情勢を伝え、八幡大菩薩・稲荷大明神にかけて信頼を示し、本末を固めて相談したいと述べた書状。
前編2-No.80 島津氏久寄進状
島津氏久が大慈寺へ、串良院内岩廣名の半分を寄進した寄進状。
前編2-No.81 島津師久下文
島津師久が薦野太郎次郎宗泰に、薩摩郡時吉名内の水田三町を給分として宛行い、別紙坪付と先例に従って知行するよう命じた下文。
前編2-No.82 一色範親感状
一色範親が土持八郎に、清瀬徳らが当井城へ攻め寄せた際に馳せ加わって合戦し、親類・若党が負傷したとの注進を賞し、今後も忠節を尽くせば恩賞を与えると伝えた感状。
前編2-No.83 島津道鑑代得貴申状
島津道鑑の代官得貴が九州御管領に、道鑑が右大将家以来代々相伝してきた文書の正文は下向の途上で難儀があるため、譜代相伝文書の案文一巻を正文と校合・封印し、鎮西で沙汰を受けられるよう急いで処置することを求めた申状。
前編2-No.84 島津氏久書下
島津氏久が祢寝次郎入道に、大隅国佐多村の庶子女子二人跡について、関東・六波羅の下文や施行状、現知行を示す文書を確認したうえで、相伝知行に相違がないことを保証した書下。
前編2-No.85 島津氏久寄進状
島津氏久が鹿児島の誠方大明神へ、求仁郷益丸名内の田地四町を寄進し、祈祷に精誠を尽くすよう求めた寄進状。坪付は別紙とする。
前編2-No.86 一色範親感状
一色範親が土持八郎に、三日の合戦で忠節を尽くしたとの貞綱の五日付注進を確認し、毎度の軍忠を賞して、さらに忠節を尽くすよう求めた感状。
前編2-No.87 島津氏久譜
島津氏久の譜として、守護方と島山方が互いの隙をうかがって戦い、帖佐萩峰城の野本秀安と溝辺城の本田重親が相互に城を囲み、和睦して退いたこと、氏久が加治木土器園の要害を夜襲して陥落させたことを記す。
前編2-No.88 足利義詮御教書
足利義詮が一色入道から使者を通じて九州の情勢を聞き、深く案じていること、近日こちらから使者を遣わして詳細を伝えることを知らせた御教書。本文はNo.38と同文のため省略される。
前編2-No.89 足利義詮御教書
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。本文はNo.39と同文のため省略される。
前編2-No.90 肝属兼氏譜
肝付兼氏の譜として、姶良・鹿屋周辺の諸勢力と城郭をめぐる抗争、島津氏久方と菊池武光ら宮方の動向、各氏族の離合集散と合戦の経緯を記す長文記事。姶良城・末次城・鹿屋城などの攻防と一族関係を詳述する。
前編2-No.91 島津道鑑代得貴申状
島津道鑑の代官得貴が、道鑑が鎮西で一貫して御方に属し、諸合戦で軍忠を尽くし多くの損害を被ったこと、寺社本所領の処置や恩賞・日向国守護職に関する経緯を述べ、道鑑の知行・権益を認める裁許を求めた申状。
前編2-No.92 島津道鑑代得貴申状
島津道鑑の代官得貴が、道鑑の譜代相伝文書の案文を正文と校合・封印し、鎮西で沙汰を受けられるよう求めた申状。本文はNo.83と同文のため省略される。
前編2-No.93 正八幡宮領帖佐村供田坪付注
正八幡宮領帖佐村の供田について、各田地の面積、所在、作人名などを仮名書きで列挙した坪付注。末尾に供田の合計や内訳を記し、れんねんが花押を据える。細かな田名・人名は判読留保がある。
前編2-No.94 斯波氏経軍勢催促状
斯波氏経が島津二郎右衛門尉に、菊池武光以下の凶徒を退治するため、一族とともに肥後国球磨郡から菊池陣へ発向し、忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。
前編2-No.95 斯波氏経書状
斯波氏経が島津安芸守に、鎮西の凶徒退治のため発向するよう命じ、準備を整えて下着を待つこと、船津某の来着を喜び、国中の働きを頼みにしていることを伝えた書状。
前編2-No.96 島津氏久預ケ状
島津氏久が称寝郡司に、大称寝院内の永吉および郡本地頭得分を兵粮料として預け置き、先例に任せて沙汰するよう命じた預ケ状。
前編2-No.97 島津国史
『島津国史』が康安二年の薩摩国池部城合戦を起点に、康安・貞治年間の道鑑公関係記事を編年で記す。大隅小四郎の戦功と斯波氏経の感状、関所・所領をめぐる処置、細川頼之・島津氏久・定山公ら一族の動向を収録する。軍功認定から所領支配へ展開する政治過程を示す。
前編2-No.98 島津道鑑書状
島津道鑑が大隅宗四郎に、今月六日付の書状を七日に受け取り、三原満兵衛入道の申状について返事をしたので披露するよう伝え、世上の不審事は使者から申し上げるとした書状。
前編2-No.99 斯波氏経感状
斯波氏経が大隅小四郎に、薩摩国池部城合戦で御方として負傷した忠節を神妙と賞し、今後もいっそう忠節を尽くすよう求めた感状。