ARCHIVE DIRECTORY
前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
全2,778件中 501~600件・6 / 28ページ
前編2-No.498 ゃうおん本銭返状
ゃうおんが、重代相伝の水田四段を代銭八貫六百文で本銭返の質券に入れ、三年以内に元金を返せば土地を取り戻すことを定めた本銭返状。
前編2-No.499 島津元久書状
島津元久が、相国寺領三俣院の処置に手間取り上洛が遅れたことを陳謝し、酒匂新左衛門入道を使者として事情を説明させ、虎皮・豹皮・梅絵・料足を贈った書状。
前編2-No.500 島津元久段銭請文
島津元久が段銭の額を定め、来る十一月までの調進と三度の催促を命じ、未進の場合は田数を取り放つことを定めた段銭請文。
前編2-No.501 田代清久譜
田代刑部少輔清久の譜として掲げられ、前後の段銭関係文書に付された系譜・伝来上の注記を記す記事。
前編2-No.502 島津元久段銭請文
島津元久が段銭を来る十月中に調進させ、三度催促しても納めない場合の処置を定め、正八幡大菩薩・天満大自在天神に誓った段銭請文。
前編2-No.503 慶本奉書
慶本が刑部九郎を向嶋西方内藤野村の名頭職に補任し、仏神事・修理興行・年貢・公事などを先例どおり勤めるよう命じた奉書。
前編2-No.504 島津元久書状
島津元久が禰寝右馬助に、野々三谷城を去る六日に攻略したと伝え、敵方の動向を得た際は直ちに報告し、時を移さず出陣するよう求めた書状。
前編2-No.505 本田忠親契状
本田忠親が、公方のため大事の際には妻子に優先して奉公し、命令に従うことを誓い、違背すれば伊勢・八幡・諏訪の神罰を受けるとした契状。
前編2-No.506 今川了俊安堵状
今川了俊が指宿殿に、薩摩国指宿郡内の山河・嶋河を相伝の旨に任せ、従来どおり知行することを安堵した文書。
前編2-No.507 息長道辰沽却状
息長道辰が、重代相伝した弥勒寺領内柿木園の六段を代銭三十貫文で浜四郎太郎兼教へ永代売却し、子孫にわたる所有を認めた沽却状。
前編2-No.508 伊作庄別符半分坪付注文
伊作庄別符半分の坪付注文。本文は「たうほうのうち」を掲げ、「おうらはんふん」「やまたはんふん」、一か所を加えたことなどを列挙し、原本を提出した際に写しを作成して留めた旨を記す。本文年紀は「明徳三年閏十一月廿七日」だが、巻末目録は「明徳四年十一月廿七日」とする。
前編2-No.509 島津国史
応永元年、今川貞兼が都城方面を攻めたため、島津元久が北郷讃久方を救援した経過を記す国史記事。梶山・三俣・野々美谷・高城などで和田・高木氏らと交戦し、北郷久秀・忠通らが戦死した。伊地知又七郎や山田聖栄の記録も踏まえ、攻略後の城・領地処置までを追う。
前編2-No.510 島津元久譜
島津守久が父伊久の居城川辺城を攻めようとして平山に布陣した父子争いを記す。今川貞兼らが関わる中、島津元久は同族内戦への加担を拒み、守久方へ退陣を促した。元久が仲介によって衝突を避け、島津家内部の秩序を保とうとした経過を示す。
前編2-No.511 島津元久譜
島津元久譜として、伊久方の勢力が衰え川辺も孤立するなか、伊集院勢が警固の兵を襲撃し、伊久が川辺を離れて元久を頼り薩摩郡へ退いたことを記す。
前編2-No.512 島津元久譜
島津元久譜として、伊久が薩摩郡碇山城で本田忠親と渋谷一族への対策を協議したことを記す。今川貞兼を介した軍事行動、北郷・和田・高木氏らの動向、高城・梶山・野々三谷での戦闘と所領処置を連ね、渋谷方制圧と領国再編の過程を示す。
前編2-No.513 島津伊久譜
島津伊久と嫡子守久の不和から、守久が父の居城川辺を攻めるため平山に布陣した事件を記す。島津元久は父子どちらにも加担せず、守久へ軍を退くよう命じた。家督・所領をめぐる親子対立が武力衝突寸前となり、元久の介入で回避された経過を伝える。
前編2-No.514 島津元久譜
島津元久譜の記事で、No.510と同文のため本文を省略すると注記される。伊久・守久父子の川辺での対陣と、元久が加担を拒んだ事件を扱う。
前編2-No.515 島津元久譜
島津元久譜の記事で、No.511と同文のため本文を省略すると注記される。伊久方の衰退、伊集院勢による警固兵襲撃、伊久の薩摩郡退去を扱う。
前編2-No.516 島津元久譜
島津元久譜の記事で、No.511と同文のため本文を省略し、御譜中で重複するため除くべき旨を注記する。内容は伊久方の衰退と薩摩郡への退去に関する記事。
前編2-No.517 応永記
『応永記』が、島津元久・伊久と本田忠親の談合、渋谷一族への対応、今川貞兼を介した軍事行動を記す。北郷・梶山・伊東氏らの移動と、梶山城・野々三谷城・都城周辺の合戦を追い、諸勢力の合流と離反を伴う応永初年の戦線拡大を伝える。
前編2-No.518 北郷久秀譜
北郷久秀譜として、応永元年に今川貞兼方が梶山城を襲い、島津元久が救援に赴いたが御方が難儀し、北郷忠通が二月十七日、久秀が三月七日に戦死したこと、その夜に野々三谷城を攻略した経過を記す。
前編2-No.519 北郷氏系図
北郷義久を祖として、子の久秀(藤次郎)・忠通(又次郎)・知久(中務少輔)を示す北郷氏の系図。
前編2-No.520 北郷知久譜
北郷知久譜として、知久が当初出家を志して寺で喝食となったが、応永元年の梶山合戦で兄久秀・忠通が戦死したため、島津元久の養子となり加冠・命名を受け、宝刀鵜戸丸を拝領して家を継いだ経緯を記す。
前編2-No.521 殉国名薮
殉国者の記事として、明徳五年二月十七日の北郷忠通と三月七日の北郷久秀の戦死を掲げ、今川貞兼方による梶山城攻撃との関係や異説を注記する。
前編2-No.522 島津元久宛行状
島津元久が樺山源三郎久清に、日向国北郷の宮才名を関所勤仕の際に領知させ、ほかの給人分や同郷内の所領とともに先例どおり所務するよう命じた宛行状。
前編2-No.523 伊予守宛行状
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
前編2-No.524 今川了俊感状
今川了俊が清色美濃守に、前月五日の山門城で自ら太刀を振るい凶徒を討ち取った働きを賞し、上洛後にその功を報告すると伝えた感状。
前編2-No.525 島津元久宛行状
島津元久が樺山源三郎久清に、北郷北方内後交村の椎屋跡と野々三谷寺跡にある水田五町を給分として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
前編2-No.526 島津元久宛行状
No.525と同文のため本文を省略すると注記され、同文書が梶山氏二代音久の譜中にも収められていることを示す島津元久宛行状。
前編2-No.527 足利将軍家御教書
足利将軍家が今川伊予入道に、島津上総介伊久・又三郎元久を討伐するよう命じ、別添の事書に従って速やかに沙汰するよう伝えた御教書。
前編2-No.528 足利将軍家御教書
足利将軍家が、島津伊久・元久の討伐を今川伊予入道へ命じたので、その手に属して忠節を尽くすよう諸勢力に命じた御教書。
前編2-No.529 室町幕府事書
室町幕府が今川伊予入道に、島津伊久・元久の討伐、大隅・薩摩両国の地頭御家人への忠節催促、従わない者の名字・知行の注進、参陣後の忠節に応じた処遇を三か条で命じた事書。
前編2-No.530 島津恕翁公譜
島津元久が禅僧石屋を崇敬し、嘉慶元年に伊集院城外へ妙円寺を建立して開山とし、さらに応永元年に福昌寺を造営して石屋を住持とした経緯を記す。甑島での寺地選定や長谷場久純の宅地移転も述べる。
前編2-No.531 某名字書出
渋谷出雲彦太郎の実名を平重長と記した名字書出。
前編2-No.532 某名字書出
渋谷出雲彦六の実名を平重友と記した名字書出。本文の『全』によりNo.531と同日付の一連文書と確認できる。
前編2-No.533 島津元久宛行状
島津元久が岩元清左衛門尉に、島津庄日向方三俣院の相国領内にある下地五町を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
前編2-No.534 島津元久安堵状
島津元久が富山土佐介に、大隅国大禰寝院郡本の弁済職を由緒ある所領として安堵し、先例どおり領掌するよう認めた安堵状。
前編2-No.535 島津国史
応永二年の島津元久をめぐる政治・軍事情勢を記す国史記事。福昌寺領の設定を起点に、波見太郎、渋谷・北原・相良・本田諸氏、今川了俊との関係を述べ、梶山城・高城周辺の攻防、鹿児島と各城地・所領の支配が変化した長期的経過をまとめる。
前編2-No.536 島津元久寄進状
島津元久が、重代相伝の所領である薩摩国鹿児島郡長谷庭村門前の水田を福昌寺へ寄進し、万雑公事を免除して子孫・寺家が妨げないよう定めた寄進状。
前編2-No.537 島津元久禁制
島津元久が福昌寺に対し、寺山の竹木伐採、寺山および門前河での殺生などを禁じ、違反者を処罰すると定めた制札。
前編2-No.538 忠藤寄進状
忠藤が谷山郡山田村嶋屋内の牧田一段余を皇徳寺へ寄進し、寺の近所として寺領へ組み入れるよう定めた寄進状。
前編2-No.539 島津恕翁公譜
島津元久譜として、梶山で兄二人を失い寺で喝食となっていた北郷知久を還俗させ、加冠・命名して宝刀鵜戸丸を与え北郷家を継がせたこと、応永十七年に将軍足利義持から中務少輔に任じられたことを記す。
前編2-No.540 島津恕翁公譜
島津元久譜として、相良祐頼と北原氏が徳満城で争い相討ちとなったため両氏が対立し、北原氏の子が元久に援助を求め、元久が軍勢を派遣して相良勢を退け、隕幸一院を北原領とした経緯を記す。
前編2-No.541 島津守久書状
島津守久が御屋形に、田辺田村について当年の作付けが済んだ後は下地を相手方へ渡し、等閑なく処理するよう伝えた書状。
前編2-No.542 島津元久宛行状
島津元久が波見太郎に、求二郷内の岩切跡を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
前編2-No.543 犬追物手組
応永二年二月廿九日の犬追物について、伊東氏・島津一族・湯地氏・野村氏・鹿野屋氏などの射手を左右・組別に配した手組一覧。
前編2-No.544 犬追物手組
川上志摩家に伝わる応永二年二月廿九日の犬追物手組で、伊東氏・島津一族・稲津氏・野村氏らを組別に配置し、各人の担当数を記す。
前編2-No.545 赤松満政副状
赤松満政が島津元久に、五人が今回の戦功を披露され御書・御剣を与えられたことを伝え、元久の忠節を賞して今後も疎略なく取り計らうと述べた副状。
前編2-No.546 伊集院観了譲状
伊集院観了が、南郷内の門水田一町三段余と居屋敷・園一所を重代相伝の所領として伊集院久氏へ一期の間譲り、他者の違乱を禁じた譲状。
前編2-No.547 島津恕翁公譜
島津元久譜として、応永二年に伊久が高城攻略のため横峯へ布陣した際、元久が新納氏・和泉氏を遣わし、渋谷氏退治について山田・高牧・樋脇・前田・市比野・入来を経る軍事計画を示した経過を記す。
前編2-No.548 島津伊久譜
島津伊久譜として、伊久が応永二年八月十日に高城へ出陣し、横峯に陣を構えた経過を記す。元久は新納氏・和泉氏を介し、渋谷氏退治の進軍経路と軍勢配置を伝え、高牧で越年する長期陣の構想を示した。高城方面攻略の準備と父子の作戦連携を伝える。
前編2-No.549 島津伊久譜
島津伊久譜の記事として、大友殿への八月廿三日付返書を掲げ、今月十六日付書状が廿二日に到来したこと、本文を省略すること、元久の返書も同趣旨で伊久が判を据えたことを記す。
前編2-No.550-1 応永記
応永二年八月十日、島津伊久が高城・横峯へ出陣した後の軍事行動を記す。元久は新納・和泉諸氏と渋谷氏退治の進軍路・築陣を定め、高牧に陣を置いて越年した。翌段階の戦況と大友親世書状の到来までを追い、長期戦の準備を示す。
前編2-No.550-2 大友親世書状
大友親世が島津方に、今川氏の上洛・博多逗留、千葉氏の仲介による肥前小城への集結、小弐・菊池氏の動向、大内氏への連絡、赤松義弘と奥州方の合戦など九州情勢を報じた書状。
前編2-No.550-3 島津伊久書状
島津伊久が大友親世の八月十六日付書状へ返答した文書。今川氏の上洛を喜びつつ、三か国の反抗勢力、これまでの九州各地の合戦、肥州託麻原合戦を回顧し、島津元久方を取り巻く軍事情勢を報告する。大友方との情報共有と連携を求める。
前編2-No.550-4 応永記
応永記の記事として、奥州方から密かに同心する旨が伝えられ、上総介伊久が大いに喜び、元久の計略に沿って山田方面の軍事行動を進めたことを記す。
前編2-No.551 島津元久寄進状
島津元久が渋谷氏討伐に際して立願し、弓箭の本懐を遂げて対治できたなら、在国所領の田代二町を安養院へ寄進すると定めた寄進状。
前編2-No.552 足利義満御教書
足利義満が島津元久から硫黄二万五千斤が到来したことを神妙とし、返礼として浅黄糸の鎧一両と太刀一腰を遣わした御教書。
前編2-No.553 伊集院観了譲状
伊集院観了が南郷内の一所を重代相伝の所領として伊集院久氏へ譲り、永代の知行を認めた仮名譲状。
前編2-No.554 孝範契状
孝範の契状。本文はNo.6336文書と同文であるため省略すると注記され、内容本文は収録されていない。
前編2-No.555 島津国史
応永三年正月、島津伊久・元久方が樋脇城・前田城・市比野城を相次いで攻略した経過を記す。渋谷勢との戦闘、各城の守兵と援軍、周辺諸勢力の進退を追い、戦後の和議と所領処置、祭礼の実施までを掲げて軍事鎮圧後の秩序回復を示す。
前編2-No.556 島津伊久譜
島津伊久譜として、元久の計略に従い高牧で越年して渋谷方へ備えた経過を記す。翌年、樋脇・前田・市比野三城を攻略し、清敷城へ向かう薩摩・大隅・日向三州軍を動員した。渋川満頼の鎮西探題下向をめぐる連絡も収録し、城郭攻略と新探題への軍事協力を結び付ける。
前編2-No.557 応永記
『応永記』が応永三年正月、島津伊久・元久方による樋脇城・前田城・市比野城の連続攻略と吉永の本補を記す。渋川満頼が博多へ下着し、御教書を発した後の島津方の対応、大友氏など関係諸氏との和議・饗応にも及ぶ。軍事制圧後に幕府命令と交渉で秩序を整えた経過を示す。
前編2-No.558 島津恕翁公譜
恕翁公御譜中の記事として、高牧での越年陣から樋脇・前田・市比野三城の攻略、清色城攻撃の準備までを記す。渋川満頼が鎮西探題に就任して博多へ下着すると、島津伊久・元久方は久豊と忠朝を両家の使者として派遣する計画を立てた。戦後の探題接遇と島津両家の役割分担を示す。
前編2-No.559 島津恕翁公譜
恕翁公譜の記事として、今川播磨守が山東曽井に陣を構え、新納実久が島津方の軍勢を率いて対陣したが、上使の仲介で合戦を停止し、志布志で元久と対面して和議が成立し、双方が陣を解いたことを記す。
前編2-No.560 島津恕翁公譜
恕翁公譜の記事として、前鎮西探題今川了俊が九州の御家人に憎まれて仁政を行えず、帰京後も将軍家の意に合わず、領国遠江へ下向して蟄居したと記す。
前編2-No.561 有久・清久連署寄進状
伊集院有久・清久が、亡父景雲の追善のため、薩摩国伊集院内折原名にある田畠・薗・山野などの本領を廣濟寺へ寄進した連署寄進状。
前編2-No.562 阿蘇谷久治寄進状
阿蘇谷久治が、重代相伝の所領である薩摩国高城郡宮内五大院の薗一所を、毎月観音経八巻を読誦するため八幡新田宮へ寄進し、子孫も寄進状に従うよう定めた寄進状。
前編2-No.563 島津道哲預ケ状
島津伊久(道哲)が、薩摩国入来院内にある渋谷刑部少輔入道定順旧領を祈祷のため二階堂山城へ預け、先例どおり沙汰するよう命じた預ケ状。
前編2-No.564 島津道哲預ケ状
島津伊久(道哲)が、薩摩国東郷内にある渋谷薩摩入道重仏の本領地を祈祷のため伊作大隅守へ預け、先例どおり沙汰するよう命じた預ケ状。
前編2-No.565 島津元久契状
島津元久が伊作氏と、天下の大事には談合して忠節を尽くし、将来も水魚の交わりのように一味同心して相互に支援し、讒言や危害があっても契約に背かないことを誓った契状。
前編2-No.566 島津元久寄進状
島津元久が福昌寺の造営と寺家の必要に応じ、自らの知行地の山から材木等を徴用できると定め、現地で異議を唱える者は知行を認めないとして末代までの遵守を求めた寄進状。
前編2-No.567 渋川満頼書状
渋川満頼が伊作大隅守に、こちらで重大事が起きた場合には軍勢を率いて早々に国境を越えて来援するよう求めた書状。
前編2-No.568 皇徳寺霊用書状
霊用が皇徳寺方丈に、福昌寺普請のため皇徳寺領の人夫を徴発する件について、今後は公方から催促があっても出さないとの合意を確認し、末代の証拠として元久の花押を求めた書状。
前編2-No.569 島津元久宛行状
島津元久が鹿屋周防介に、山東で闕所が生じた際には三十町を給分として宛行うと約した宛行状。
前編2-No.570 島津久哲(伊久)名字書出
島津伊久(久哲)が武光三郎太郎に『伊兼』の名字を与えた書出。
前編2-No.571 武光伊兼所領注文
武光伊兼が知行していない薩摩國高城郡の庶子分について、吉枝名十九丁、本方徳名・上村万徳名各五丁、西尾寺・清水寺の務職免田、五大院の島地、宮里郷、武光名、つる王丸名などの田薗・島地・所職と、惣領職庶子跡・他人契約地等の権利関係を列挙し、御奉行所へ提出した所領注文。原資料に年月日の記載はなく、編者が伊兼…
前編2-No.572 宮里信正譲状
宮里信正が、薩摩国宮里郷内ひろつぼ三反大坪の所領を、はきの六郎太郎入道へ永代に譲り、子孫まで知行するよう定めた譲状。
前編2-No.573 宮里信正沽却状
宮里信正が、薩摩国宮里郷内ひろつぼ三反大坪を代銭二貫三百三十文で永代売却し、軍忠以下の勤仕は買主側が負担すると定めた沽却状。
前編2-No.574 島津元久定書
島津元久が福昌寺の四至境界を定め、東西南北の田縁・河・池・寺領などを境として列挙し、寺領の範囲を確定した定書。
前編2-No.575 島津元久寄進状
島津元久が、重代相伝の所領である薩摩国鹿児島郡坂本内池上の田畠を福昌寺へ永代寄進し、違乱者を子孫と認めず、万雑公事・諸役を停止すると定めた寄進状。
前編2-No.576 伊集院頼久・久勝連署寄進状
伊集院頼久・久勝が、養父母了公禅門・真光禅尼の追善のため所領を廣濟寺へ永代寄進し、頼久の加判を根拠に万雑公事を停止すると定めた連署寄進状。
前編2-No.577 島津国史
応永四年、島津元久が福昌寺の寺法を定めた記事に続き、義天と忠朝を島津両家の名代として博多方面へ派遣した経過を記す。両名は渋川満頼・今川了俊らと会見し、贈答・饗応を受けながら軍事と領国支配を折衝した。寺院制度の整備と鎮西探題への外交を同年の政策として示す。
前編2-No.578 島津元久定条々
島津元久が福昌寺建立の趣旨と寺法を定め、住持の相続、寺領寄進の保護、寺家への公事賦課禁止、代々の寺領寄進、定置した規則への違反禁止などを列記した定条々。
前編2-No.579 島津元久置文
島津元久が、京都での用務のため他者に預けている金・料足・唐物・内物などを、自身の死後はすべて福昌寺へ納めるよう定めた置文。
前編2-No.580 島津伊久譜
島津伊久譜の記事として、応永四年四月下旬に山北方・南方の諸将と多数の軍勢を動員して清色城を包囲し、険路を越えて柵を築き昼夜攻撃した末、兵粮・矢の尽きた城方の降伏を受けて攻略した経過を記す。
前編2-No.581 島津久哲書状
島津伊久(久哲)が永井殿の詳しい返事に謝意を示し、敵方の在所・布陣と退治の見通し、三郎の参着、薩州領に関する諸事への厚意について述べた書状。
前編2-No.582 応永記
応永記の記事として、応永四年四月下旬に山北・南方の軍勢が清色城を包囲し、険路を切り開き長大な柵を築いて攻撃したこと、城方が兵粮と矢を失って降伏し、通路免許を求めて開城した経過を記す。
前編2-No.583 島津恕翁公譜
島津元久が父伊久と協議して清色城攻撃を決め、自ら大軍を率いて出陣した記事。忠朝・新納実久・本田忠親ら山北・南方の諸将を召集し、各方面から進軍させて城を包囲する。渋谷方の拠点攻略に向けた島津家中の軍勢編成と作戦開始を記す。
前編2-No.584 島津恕翁公譜
渋川満頼が肥後二見へ下向した際、島津元久の名代新納実久が参候した経過を記す恕翁公譜。席次をめぐって実久と渋谷一族が対立し、探題の面前で緊張が高まった。酒宴の場で相良氏らが双方を仲介し、衝突を収めたことを述べ、諸氏の序列意識と接遇交渉の実態を伝える。
前編2-No.585 島津恕翁公譜
恕翁公譜の記事として、谷山郡司入道佛心とその一族に反逆の風聞があり、元久が警戒と地域防衛のため一族・被官の配置を改め、実久へ報告した経過を記す。
前編2-No.586 渋川満頼感状
渋川満頼が、島津元久から注進された島津美濃守の忠節を神妙と評価し、今後も忠功を尽くすよう命じた感状。
前編2-No.587 今川了俊書下
今川了俊が島津又三郎に、九州で敵方に与力する訴人らを探題方に属して取り締まり、忠節を尽くすよう命じた書下。
前編2-No.588 渋川満頼書下
渋川満頼が大内左京権大夫入道に、島津伊久(久哲)が申し立てた豊前国副田庄について、被官人の押妨をやめさせて下地を久哲方へ付し、異論があれば注進するよう命じた書下。
前編2-No.589 島津元久寄進状
島津元久が敵城および渋谷氏対治の立願として、在国司内の水田一町と薗一か所を、本意を遂げた際には正八幡宮へ寄進すると定めた願書形式の寄進状。
前編2-No.590 久清書状
久清が合戦へ出陣するにあたり、母と鬼房丸のことを相手に託し、二人を取り立てて一人前にしてほしいと繰り返し依頼した書状。編者注は久清を小松氏の祖とする。
前編2-No.591 佐多氏譜
佐多氏譜の記事として、武義が文和四年に生まれ、父忠直の戦死後に叔父備前守の養育で家督を継いだこと、禰寝氏に奪われた佐多城について応永四年に渋川満頼から安堵を受けたことを記す。
前編2-No.592 渋川満頼安堵状
渋川満頼が佐多豊後守に、大隅・薩摩両国の本領地について従来どおり知行・領掌し、相違がないことを認めた安堵状。
前編2-No.593 伊集院久氏寄進状
伊集院久氏(観了)が、重代相伝の所領である南郷内の水田と、はね田薗・田中薗・たたら口・ほうくわう薗・原薗の五か所を圓通軒へ永代寄進し、子孫の妨げを禁じた寄進状。
前編2-No.594 伊集院久氏寄進状
伊集院久氏(観了)が、重代相伝の所領である南郷内中薗門付の水田九反余と中薗・小畠などを圓通軒へ永代寄進し、子孫の妨げを禁じた寄進状。