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前編2の目録
旧記雑録 延文2年~天文23年の文書・記事です。
全2,778件中 2001~2100件・21 / 28ページ
前編2-No.1987 島津忠朝書下
島津忠朝が寺社の衆徒に発した統制命令。訴訟の濫発、破戒、呪詛など寺社内外の争いを慎み、僧侶として規律を守るよう命じるとともに、郡郷の繁栄と島津方の軍容・勝運を祈る勤行を怠らないよう求め、宗教秩序と領国安泰を結び付ける。
前編2-No.1988 北郷忠相譜
樺山氏代々の居城だった野々美谷城を北郷忠相が領し、大永三年十一月に伊東・北原勢の攻撃を受けた経緯を記す記事。
前編2-No.1989 庄内平治記
北郷忠相の領地となった野々美谷城を伊東尹祐・北原方が攻撃した経過を記す。守兵は城に籠もって射撃戦を続けたが、援軍が届かず兵糧も欠乏し、包囲の長期化で抗戦が困難となって落城した。城の帰属変化と庄内周辺の勢力争いを具体的に伝える。
前編2-No.1990 島津勝久譜
大永三年十二月七日、島津勝久が伊地知氏・吉田氏を将として鹿児島から月野へ軍勢を発し、七百三十八人が戦死したことを記す記事。
前編2-No.1991 新納忠勝願文
新納忠勝が、大永三年以来続く兵乱で一族・家臣が相次いで戦死したことを神前に訴えた願文。敵方の平定、残る家臣の安全、家運の再興と今後の軍利を祈り、忠勝自身が神仏へ奉仕して報恩することを誓って戦争終結への願いを示す。
前編2-No.1992 殉国名藪
大永三年十一月八日、北郷右衛門尉尚久が野々美谷城をめぐる伊東・北原勢との戦いで討死したことを記す記事。
前編2-No.1993 島津忠朝書状
島津忠朝が新納忠勝に、串良院の処置と安千代殿の進退、志布志衆への対応を伝え、協力を求めた書状。
前編2-No.1994 殉国名藪
大永四年九月十九日、島津季久の子・六郎三郎忠吉が肝付兼興との戦いで討死したことを記す記事。
前編2-No.1995 田布施常珠寺鐘銘
薩摩国田布施村の常珠寺で大鐘を鋳造し、寺の再興と衆生の救済、国土安穏を願った鐘銘。
前編2-No.1996 隈江匡久・中野歳信連署状
隈江匡久と中野歳信が島津忠朝に、乱の収束と使僧による交渉、今後の関係維持について申し入れた連署状。
前編2-No.1997 新納忠勝裏書
新納忠勝が肝付兼興に、串良の扱いと双方の協議、所領・軍事上の取り決めについて伝えた裏書。
前編2-No.1998 北原久兼書状
北原久兼が肝付兼興に、贈答への謝意を述べ、鹿児島・高山・新城などをめぐる調停と今後の相談を求めた書状。
前編2-No.1999 庄内平治記
『庄内平治記』が、北郷忠相と伊東尹祐・北原勢の対立を軸に、新納氏・本田氏を含む諸勢の動きを記す。庄内周辺の城攻め、援兵の動員、籠城側の兵糧欠乏、退却する敵への追撃を追い、複数の城と街道をめぐる戦況の変化をまとめる。
前編2-No.2000 隈江匡久・中野歳信連署状
正本でNo.1996と同文のため本文を省略した、隈江匡久・中野歳信連署状。乱の収束と使僧による交渉について述べる。
前編2-No.2001 島津国史
本田親尚が本田兼親を島津勝久に讒訴して所領を収公させたことや、清水隼人城など本田氏一族の動向を記す記事。
前編2-No.2002 殉国名藪
大永五年、田代肥前守清隆が田代氏の家勢を支え、頴娃勢の侵攻を防いで戦死したことを記す記事。
前編2-No.2003 島津運久書状
島津運久が一乗院方に、加養・供給の件について謝意を述べ、渡海する者への配慮を求めた書状。
前編2-No.2004 祁答院嵐浦書状
祁答院嵐浦が島津忠朝に、以前の命令への対応、北原久兼・金吾らとの連絡、鹿児島周辺の情勢について報告した書状。
前編2-No.2005 伯耆武顕書状
伯耆武顕が肝付兼興に、親族関係や縁組、家中の結束について述べ、今後も厚意を寄せるよう求めた書状。
前編2-No.2006 島津忠兼書状
島津忠兼が摂津守に、世情不穏に備えて武具を用意し、武具を持つ人数や兵力を整えるよう求めた書状。
前編2-No.2007 島津忠朝書状
島津忠朝が北原伊与守に、伊東氏を中心とする党派の動きと国中の不安を述べ、従来どおり忠節を尽くすよう求めた書状。
前編2-No.2008 島津忠朝書状
島津忠朝が田所勘解由左衛門尉に、近年の弓矢・争乱と奉公の状況を述べ、忠節を尽くすよう求めた書状。
前編2-No.2009 島津忠朝書状
島津忠朝が臼杵長景に、伊東方への対応と援助の必要を述べ、協力して策を進めるよう求めた書状。
前編2-No.2010 島津忠朝書状
島津忠朝が、相州嫡男虎寿丸への相続、島津忠兼の伊作院隠居、鹿児島城と新納・北郷方の動向について報告した書状。
前編2-No.2011 島津忠朝書状
島津忠朝が土持右馬頭に、伊東方の企てと来秋の蜂起への警戒を伝え、これまでの助力に謝意を示して今後の支援を求め、薄板一端・花瓶一対を贈った書状。
前編2-No.2012 島津忠朝書状
島津忠朝が本庄・木上・臼杵・北原の四名に、国内の争乱と伊東方の隠謀を知らせ、常春院に詳情を託して援助を求めた書状。
前編2-No.2013 島津忠朝書状
島津忠朝が、先方の父以来の懇切を忘れていないと述べ、使僧を御老中へ派遣したので先例どおり取り次ぐこと、国中の戦乱が続くなか今後も変わらぬ交誼を求めた書状。
前編2-No.2014 島津忠朝書状
島津忠朝が大友方に、これまでの扶助への謝意と今後の支援を求める意向を伝え、太刀などの進物を贈って披露を依頼した書状。
前編2-No.2015 樺山信久譜
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。
前編2-No.2016 樺山玄佐自記
世間騒動のなか、本田因幡守の娘婿方である太郎左衛門尉と本田三河守広久が結び、大永五年九月二日に清水隼人城と小濱生別府城を同日に奪取したことなどを記す。
前編2-No.2017 島津忠興譜
島津忠興が大永五年十月九日に没し、法号を隆岳興公としたことを記す記事。
前編2-No.2018 北原右並・臼杵長景連署状
北原右並・臼杵長景が島津忠朝に、使節への礼を述べ、境目の争いについて伊東方へ助言し、なお乱れが続けば改めて相談すること、定恵院が説明すると伝えた連署状。
前編2-No.2019 大友義鑑書状
大友義鑑が島津忠朝に、境目の件で使僧を受けたことへの謝意を述べ、伊東方への助言のため定恵院を派遣し、太刀一腰・織物一端を贈った書状。
前編2-No.2020 島津国史
大永六年の島津勝久と忠誉の盟約、後柏原天皇から後奈良天皇への代替わりを記す国史記事。曽於郡をめぐって本田親尚と北郷忠相らが争い、忠相が同郡を占領した経過を追う。その後の領地配分、家臣の帰属、婚姻関係、梅岳君・本田紀伊守董親の動向までを収録し、政治再編を示す。
前編2-No.2021 島津忠兼誓状
島津忠兼が島津忠誉に、弓矢の儀や諸事で互いに頼み、雑説が生じた際は申し開きをし、自身一代は疎略にしないことを神仏へ誓った誓状。
前編2-No.2022 隈江匡久・中野歳信連署状
隈江匡久・中野歳信が、番城の守備と出動時期、境目の敵情を毎日偵察することを指示し、白清水・真幸方面の情勢を伝えた連署状。
前編2-No.2023 島津忠朝書状
島津忠朝が北原伊与守・臼杵民部少輔に、境目の争いについて伊東方へ助言してもらったことに謝意を述べ、今後の相談と定恵院による詳説を求めた書状。
前編2-No.2024 島津忠朝書状
島津忠朝が大友方に、太刀二腰・織物一端を受けた礼と、伊東方への助言に対する謝意を述べ、返礼の進物を贈った書状。
前編2-No.2025 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、本田紀伊守が伯耆方へ礼に赴いたことを伝え、清水の番に人衆を立てることや翌月の番役について指示した書状。
前編2-No.2026 樺山玄佐自記
大永六年四月、島津忠良が鹿児島から生別府へ渡り、十四歳の千代鍋を元服させて太郎と称させ、虎寿丸の弟として遇するよう命じ、奉公を誓わせたことを記す記事。
前編2-No.2027 樺山玄佐譜
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
前編2-No.2028 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、伊東方・北郷方・都城から使者が相次いだこと、清水の番役、姫木・下大隅・曽於郡の動向を知らせ、世情を見聞するよう求めた書状。
前編2-No.2029 北郷忠相譜
本田氏の領する曽於郡の土卒が本田方に背き北郷方へ応じたため、北郷忠相が大永六年五月二十日に兵を進め、新納氏も加わって城を落とし、曽於郡を領有した経緯を記す記事。
前編2-No.2030 庄内平治記
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
前編2-No.2031 伊地知季安考
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
前編2-No.2032 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、北郷方の離反に備えて都城攻撃を準備し、城戸が開かれて双方の衆が合流した状況や、末吉へ寄った人衆の動向を伝えた書状。
前編2-No.2033 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、末吉・肝付方面と三俣の急変を知らせ、豊州方の参会、伊地知・梶原・池袋方による垂水攻撃、境目への足軽派遣を伝えた書状。
前編2-No.2034 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、梶山殿・三河殿の来訪を伝え、十三日の出動に備えて年齢層を問わず人衆を立てるよう求め、油断を戒めた書状。
前編2-No.2035 島津日新譜
島津忠昌の三子から忠兼(勝久)が家督を継いだ経緯を述べ、忠兼の人物と政道を厳しく批判する島津日新譜記事。忠兼・実久・忠良・北郷忠相らの対立によって家中と国中が動揺したことを記し、守護の賞罰・人材登用の誤りが政争を拡大したとの評価を示す。
前編2-No.2036 本田親安伝
『本田親安伝』に、大永六年七月廿三日、管領大内義興が杉三河守に書状を持たせ、島津忠兼へ働き掛けたことを記す記事。続くNo.2037にその書状本文を収める。
前編2-No.2037 大内義興書状
大内義興が本田三河守に、近年匠作との関係が不安定だと聞いたので旧来の筋目を守ることが肝要であり、詳しくは杉三河守が伝えるとした書状。
前編2-No.2038 琉球国世主書状
琉球国世主が島津方からの音信と武具二種を喜び、返礼として北絹十端・素糸十斤を贈り、披露を求めた書状。
前編2-No.2039 島津忠良証状
島津忠良が一乗院に、田布施内十穀園の門について本物を返して請け取るまで一乗院の所領とする旨を認めた証状。
前編2-No.2040 北郷氏庶流系図
北郷持久・辰久・敏久から久隆(源左衛門信濃)へ至る北郷氏庶流の系譜関係を示した系図。
前編2-No.2041 島津勝久書状
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
前編2-No.2042 島津忠兼書状
島津忠兼が三郎左衛門尉に、疎略の意はないと釈明し、庄内の情勢について若年の自分へ今後も思案と指導を加えるよう求めた書状。
前編2-No.2043 肝付兼興書状
肝付兼興が、北郷・新納両家の和平調停、豊州方の末吉滞留、伊東勢の越山、救仁郷境目の風説などを報じ、通路が整えば使節を送るとした書状。
前編2-No.2044 島津忠良書状
島津忠良が一乗院に、虎寿丸の登山に際して厚い配慮を受けたことへ謝意を述べ、自ら参上して礼を申し述べたいと伝えた書状。
前編2-No.2045 神柱宮再興勧進
日向国南郷益貫村の神柱宮再興を目的とする勧進文。神祇の霊徳と鎮座の由緒を説き、荒廃や災害で損なわれた社殿・祭祀を復旧する必要を訴える。勧進沙門が地域の領主・住民へ広く寄進を求め、施財を神恩と現世・後世の利益に結び付ける。
前編2-No.2046 臼杵長景書状
臼杵長景が島津忠朝方に、伊東方への使節と返書、鹿児島への披露、北原伊与守が大内方の援軍として芸州へ出張したことなどを報じた書状。
前編2-No.2047 大田氏系図
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
前編2-No.2048 本田兼親伝
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
前編2-No.2049 島津忠兼書状
本文ではNo.2051と同文のため省略された島津忠兼書状。No.2051は本田因幡守に曽於郡の地頭職を預け、郡の運営と忠節を求める内容である。
前編2-No.2050 島津忠兼書状
島津忠兼が河田氏に、料所である大迫十五町のうち半分を宛行い、忠節を尽くすよう命じた書状。
前編2-No.2051 島津忠兼書状
島津忠兼が本田因幡守に、頼み入れる旨として曽於郡を宛行い、忠節を尽くすよう命じた書状。
前編2-No.2052 島津忠兼書状
島津忠兼が肝付兼演に、虎寿丸らが来訪して心配はなく、肝付方が出頭する運びなので、確かな奉公を頼むとした書状。
前編2-No.2053 島津忠兼書状
島津忠兼が、吉田で敵が対峙しているとの報により援軍を率いて向かう予定だったが、敵が退いたとの注進で延期し、鹿児島へ同行する意向を伝えた書状。
前編2-No.2054 島津忠兼書状
島津忠兼が肝付兼演に、金吾との合意、伊集院での参会と鹿児島への同行、虎寿丸を呼び寄せたことを伝え、境目の番を堅固にするよう頼んだ書状。
前編2-No.2055 殉国名藪
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
前編2-No.2056 島津貴久譜
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
前編2-No.2057 琉球国世主書状
本文ではNo.2038と同文のため省略された琉球国世主書状。音信と武具への返礼として北絹・素糸を贈る内容である。
前編2-No.2058 島津忠良証状
本文ではNo.2039と同文のため省略された島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
前編2-No.2059 島津忠良証状
本文ではNo.2039と同文のため省略された別伝本の島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
前編2-No.2060 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
前編2-No.2061 島津勝久書状
本文ではNo.2041と同文のため省略された島津勝久書状。北郷信濃守に金吾・祐脩らとの協力を求め、忠節を頼み入れた内容である。
前編2-No.2062 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に、勝利を祝して一層の用心を勧め、急な山東への命令や鷹を捕らえたことなどについて述べた書状。
前編2-No.2063 貴久御記
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。
前編2-No.2064 樺山玄佐自記
大永六年、島津忠良が桑波田氏の奉公に報いて南郷を与えたことから、勝久が忠良の勢力拡大に驚き伊集院へ赴いた経過を記す。両者の協議で貴久・虎寿丸を勝久の養子とする約束が進み、所領給与を契機に守護家の後継問題が動いた。
前編2-No.2065 島津勝久譜
大永六年初秋、島津実久が太守勝久に背いたことから始まる家中対立を記す。島津忠良が調停・軍事介入し、新城・本城をめぐって両勢が動く中、岩永寿斎・伊集院氏らが使者となって条件を調整し、勝久と実久の関係修復を試みた経過を追う。
前編2-No.2066 島津日新譜
島津勝久が太守であった時期、帖佐城主邊川筑前守の謀叛を発端として、新城をめぐる争いと忠良らの移動・対応の経緯を記す。
前編2-No.2067 川上氏支流系図
川上氏支流について、忠直・忠真・八郎三郎・筑前守らの系統、名乗りや続柄を列記した系図記事。
前編2-No.2068 島津忠兼書状
本文ではNo.2052と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、虎寿丸らの来訪と人質方の出頭を踏まえ、確かな契約を頼むと伝えた内容である。
前編2-No.2069 島津忠兼書状
本文ではNo.2054と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、三吾との合意、伊集院での対面と鹿児島同行、虎寿丸を呼び寄せたことなどを伝えた内容である。
前編2-No.2070 隈江匡久書状
隈江匡久が山田安藝守に冬毛の皮を求め、初千代方の蒲生・邊川・佐多らの動向、北郷・北原方の和融が未成立であることを報じ、番城の用心と三夜留の準備を命じた書状。
前編2-No.2071 島津忠兼書状
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
前編2-No.2072 樺山玄佐自記
大永六年霜月二十八日の宮内社頭焼失後、加治木の統治が絶えたため、新たな領地・守備配分を行った経過を記す樺山玄佐自記。新納・北郷・吉松・本田・北原氏らに拠点防衛を分担させ、横川や越前守領などを処置した。火災を契機に島津勝久方が地域支配を再編した具体策を示す。
前編2-No.2073 新納忠元譜
新納忠元が大永六年某月三日に生まれ、幼名を安萬丸、次郎四郎、中務刑部大輔、のち武蔵守と称したこと、母が袮寝周防守久友の娘であったことを記す。
前編2-No.2074 樺山信久譜
大永六年、島津忠兼が忠良一族へ国政を委ねようとした時期の樺山信久の動向を記す。信久は虎寿丸を後継者として支え、肝付三郎五郎・本田紀伊守・樺山助太郎らと諸家の帰属、領地配分、奉公条件を協議し、新体制への移行を調整した。
前編2-No.2075 島津国史
大永七年二月、樺山信久と梅岳君(島津忠良)側の盟約、肝付兼演らの起請を中心に、守護家と領主層の帰属変化をまとめた国史記事。伊集院・加治木・帖佐をめぐり、島津勝久方と忠良方が対立し、諸氏が同盟・離反した経過を諸系図・旧譜から集成する。守護権力再編の基礎史料。
前編2-No.2076 樺山信久契状
樺山信久が肝付三郎五郎に、三か国がどのように変動しても二心なく相談し、互いに申披くべきことを誓った契状。
前編2-No.2077 町田忠如書状
町田忠如が町田中務少輔に、伊作へ帰宅するよう促し、以前の奉公を今後も変わらず評価するとして帰参と忠節を求めた書状。
前編2-No.2078 貴久記
大永七年二月十八日、伊集院・谷山での動きにより少数で移動した勝久らが福昌寺大廣東堂へ入り、虎寿丸や忠良側との関係が展開したことを記す。
前編2-No.2079 樺山信久契状
樺山信久が相州様に、世上がいかに転変しても二心なく頼り、助成を受けたうえは自然と和議に背く者を取り締まると誓った契状。
前編2-No.2080 島津忠良契状
島津忠良が樺山信久に、世上がいかに転変しても二心なく頼り、助成を受けたうえは和議に背く者を取り締まることを誓い、日本国大小神祇に起請した契状。
前編2-No.2081 肝付兼演契状
肝付兼演が石坂氏に、三か国がどのように転変しても二心なく、相互に申し合わせて和議を害する者を排することを誓った契状。
前編2-No.2082 島津日新書状
日新が攝津守に、殺生を禁断する期間の趣旨を重ねて申し、誠仲陽の御慶賀とともに従前どおりの承認・協力を求めた書状。
前編2-No.2083 樺山玄佐自記
島津勝久・虎寿丸をめぐる政局で、肝付兼演・越前守らが忠節を示し、日新(忠良)と樺山信久らが鹿児島・伊作方面で協力関係を整えたことを記す。
前編2-No.2084 島津日新譜
大永七年三月中旬以後、島津勝久が福昌寺から退き、伊集院・加治木・帖佐諸勢が動いた情勢を記す。島津忠良は軍事・交渉で対応しながら家中の混乱を収めようとし、四月十九日に剃髪して日新と称した。出家後も貴久を支える政治的立場を示す。
前編2-No.2085 調所恒房伝
大永七年三月二十二日、国老の平田職宗・肝付兼演・梶原景豊・池袋宗政・村田経董らが調所恒房へ国衙領内の坪付を授けたことを記す。
前編2-No.2086 島津家老臣連署坪付
島津家老臣の村田経董ら五名が調所恒房に、国衙領内の皇地・鍛治薗など複数の田地を列記して与えた連署坪付。