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後編5の目録

旧記雑録 寛永3年~寛永15年の文書・記事です。

全1,340件中 1001~1100件・11 / 14ページ

  1. 後編5-No.1001 神尾元勝書状

    家久の快気を喜び、江戸城本丸作事のため差し出された節のない松の角材二千本について、年寄衆の披露を経て材木奉行が相違なく受け取り、材質もよいため作事に使用すると報告した書状。

  2. 後編5-No.1002 島津家久覚書

    近頃は物事を聞いて考え、自身の心地も少しよいため、近く訪ねて話したいと伝えた短い仮名覚書。特別な用件はないとしつつ、対面を望む。

  3. 後編5-No.1003 某覚書

    国分移転の始末、薩州への下向時期、隠居と居所、又八郎らの上洛、東之丸・肝付甚三郎の縁組、式部太輔に付ける人物、加治木役人など、今後協議すべき案件を箇条書きにした覚書。

  4. 後編5-No.1004 島津光久譜

    隠居と居所、薩州下向、国分移転、式部太輔に付ける人物、東之丸・肝付甚三郎の縁組、又八郎上洛、加治木役人などの検討事項を列記した記事。前文書の議題を整理・再掲する。

  5. 後編5-No.1005 島津光久書状

    「光久公御譜中」の記事。前年冬に父・島津家久が病臥した際、光久は江戸にいて見舞えなかった。寛永十四年二月、家久は平田盛右衛門純正を介し、島津家伝来の愛染明王像・摩利支天像・鷹之巣の御刀・鳥利作の太刀・光忠作の腰刀を光久へ譲った。愛染明王像は弘法大師作で「谷渡愛染」と呼ばれ、源頼朝が所持したのち信濃深…

  6. 後編5-No.1006 島津光久書状

    家久の喉の痛みと食事の回復を案じ、平田盛右衛門尉から詳しい病状を聞いたうえで、愛染明王・摩利支天の尊像、鷹之巣の小刀・真利の太刀・光忠の刀の譲渡に深く謝意を述べる。城中での誕生、久志本式部少輔の滞留と治療、にんにく灸などについても詳しく報告・相談した書状。

  7. 後編5-No.1007 島津忠朗譜

    島津忠朗譜に収められた、前号No.1006と同文の島津光久書状。本文は重複のため省略され、同じ日付・差出人・宛所のみを掲げる。

  8. 後編5-No.1008 島津忠朗譜

    島津忠朗が寛永十四年三月に人質として江戸へ赴き、同十五年冬に帰国を許され、その後も三度江戸へ人質として赴いたことを記す系譜記事。

  9. 後編5-No.1009 島津光久書状

    家久の喉ににんにくを置いて灸をしたとの報告を受け、その後の病状と食事の進み具合を案じる。快気を祈って愛宕の円福寺に七日間の護摩修行を依頼し、札守を進上したこと、久志本式部が江戸に滞留できることになった喜びを伝える書状。

  10. 後編5-No.1010 島津光久書状

    将軍が正月二十一日から病気となり、大名らが登城して見舞っていること、いったん回復した後も毎日の見舞いに戻ったこと、西丸山里での能や国元大名からの使者進上について報告する。病状が変われば追って知らせるとした書状。

  11. 後編5-No.1011 鮫島宗尭請取状

    東之丸の姫君の歯黒祝いに際し、弾正奥方へ給付された鳥目五十貫文を確かに受け取り、収納したことを証する請取状。

  12. 後編5-No.1012 仁禮某請取状

    姫君の兄弟が歯黒をした祝いとして進上された鳥目三十貫文を、姫君方で確かに受け取ったことを証する仁禮六左衛門の請取状。

  13. 後編5-No.1013 松平定綱書状

    将軍の病状が回復し、本丸・二之丸へ出御して近く目見えもある見込みであることを知らせる一方、家久の病状を案じる。久志本式部が滞留して薬を相談しているため、追って平復するだろうと見舞った書状。

  14. 後編5-No.1014 島津家久書状

    前年夏の江戸からの帰国祝いとして、琉球国主から使者と焼酎三壺・肴二壺を贈られたことに謝意を表し、江戸と国元が平穏であると伝える。病中のため印判を用いたとの追書を伴う書状。

  15. 後編5-No.1015 伊達忠宗書状

    伊達忠宗の家督相続祝いとして、遠路からの使者、太刀一腰、馬一疋分の銀三十枚、小袖十領を贈られたことに謝意を表す。また家久が病気のため参勤を延期したと聞き、養生を勧めた書状。

  16. 後編5-No.1016 茂庭良綱書状

    伊達忠宗が越前守の家督を命じられた際、島津家久から使者を受け、自身にも書状と太刀一腰・馬一疋・小袖三領を贈られたことに深く謝意を表し、披露を頼んだ書状。

  17. 後編5-No.1017 土井利勝外三名連署書状

    薩摩領内でも新銭を鋳造したいとの家久の願いに対し、今後は国ごと・所ごとに命じる予定であり、改めて沙汰があると回答する。詳細は伊勢兵部少輔へ伝えたとする老中四名の連署書状。

  18. 後編5-No.1018 島津家久譜

    将軍徳川家光の病気に際し、家久が見舞いの使者を江戸へ送り、老中から奉書を受けたこと、その後も再び使者を派遣したことを記す系譜記事。関連奉書の写しと運搬者も注記する。

  19. 後編5-No.1019 土井利勝外三名連署書状

    将軍の病気を案じて見舞いの使者を送った家久に対し、その心遣いを将軍が喜んでおり、病状は快方に向かっているため安心するよう伝える。詳しくは使者が説明するとした老中四名の連署書状。

  20. 後編5-No.1020 島津家久書状

    春のうちに訪ねて来てほしいと望み、自身の腫物は少しずつよくなり、やがて治るだろうと伝える。珍しい品を送るので見てほしいことや、どのような花を入れるのか見たいことなどを仮名書きで述べた書状。

  21. 後編5-No.1021 島津家久書状

    新年の祝意を述べ、相良権兵衛尉を派遣し、祝儀として太刀一腰と馬一疋を進上した書状。病気のため印判を押したとの追書を伴う。

  22. 後編5-No.1022 川上久国外二名連署書状

    幕府が薩摩での新銭鋳造を当面延期し、従来どおり古銭を使用するよう命じた経緯を詳しく報告する。阿部忠秋・松平信綱との折衝、古銭廃止時の損失見込み、国元で古銭を流通させる方法、平田狩野介の派遣などを協議した三名連署書状。

  23. 後編5-No.1023 島津光久書状

    国元からの書状を受け、家久の腫物が再び腫れ、出血や痔病もあるとの病状を深く案じる。一方、将軍は回復して城内へ出御していること、雨天のため大名らの目見えが取りやめになったことを報告した書状。

  24. 後編5-No.1024 飛鳥井雅宣書状

    しばらく書状を送らなかったことを詫び、家久が病気であると聞いて病状を案じ、きっと快気するだろうと見舞う。こちらには特段の変わりがないため安心するよう伝えた書状。

  25. 後編5-No.1025 相良頼寛書状

    中納言家久の病状が快方に向かうことを喜び、江戸での薩州関係の用向きについて今後も指南を受けたいとして、家久への取り成しを依頼する。飛脚のしるしとして南部酒二樽を贈った書状。

  26. 後編5-No.1026 愛甲廉次書状

    道連れを求めたのは二夜三日の参籠願いのためだったが、無理に引き留められると思って別の理由を述べたことを詫び、上様の定める参詣が済めば自身も無事に下向すると伝えた書状。

  27. 後編5-No.1027 僧秀應書状

    愛甲廉次が黄門家久の長患いを案じ、身代わりとして二夜三日の禅定参籠を願い出たことを報告する。俗人が籠内へ入り幣を置く異例の行為と神火の扱いについて、関係者へあらかじめ注意を促した花林寺座主秀應の書状。

  28. 後編5-No.1028 島津家久書状

    船旅が無事で、この頃には参府しているだろうと述べ、自身の腫物はまだ治っていないが日ごとに平復する見込みなので安心するよう伝えた短い書状。

  29. 後編5-No.1029 土井利勝外四名連署書状

    将軍の病状を尋ねるため再び使者を送った家久に対し、将軍がその心遣いを喜び、近日快復していると回答する。また家久の病気には久志本の薬が効いているものの喉痛が続くため、油断なく療養するよう将軍の意向を伝えた五名連署書状。

  30. 後編5-No.1030 島津家久譜

    前年冬から病床にあった家久が江戸へ使者を送り、寛永十四年四月の参勤延期を願い出たこと、将軍徳川家光が病状を承知しており、無理をせずゆっくり養生するよう命じたことを記す記事。老中五名の連署奉書を掲げる。

  31. 後編5-No.1031 土井利勝外四名連署書状

    病気のため四月の江戸参勤が難しいとして使者を送った家久に対し、将軍は病状を以前から承知しているため心配せず、ゆっくり養生するよう命じたことを伝える五名連署書状。

  32. 後編5-No.1032 土井利勝書状

    将軍の病状を案じて重ねて使者を送った家久の配慮を将軍が喜び、日々回復しているため安心するよう伝える。また家久の四月参府延期も了承され、十分に療養するよう将軍の意向を伝え、鷹一羽の贈答にも謝意を述べた書状。

  33. 後編5-No.1033 酒井忠勝書状

    家久が病気のため四月参府を延期したことを了承し、ゆっくり養生するよう伝える。久志本式部の薬で吐逆・咽気は治ったが、腫物には外科薬も必要であり、気力と食事の回復を見ながら治療を続けるべきだと詳しく助言した書状。

  34. 後編5-No.1034 酒井忠勝書状

    将軍が回復して城内や牛込方面へ出御しているため安心するよう伝える一方、家久にも久志本式部の薬を続け、長患いによる衰弱から本復するまで養生するよう勧める。伊勢兵部との相談を了承し、国元からの鷹一羽にも謝意を述べた書状。

  35. 後編5-No.1035 島津家久譜

    典医久志本式部少輔が薩摩で家久の病気を療治し、帰国を望みながら長く滞在したこと、一定の効果を得たため閏三月二十九日に薩摩を辞して江戸へ向かったこと、その後家久が北郷佐渡守久加を江戸へ遣わして謝意を表したことを記す記事。

  36. 後編5-No.1036 島津家久書状

    前年から薩摩に滞在して治療した久志本式部少輔を、病状にいくらか効果が見えたため上洛させること、家久の腫物は前の患部が開口した一方で別の箇所にも腫れが生じたことを報告する。謝礼のため近日北郷佐渡守を派遣すると伝えた書状。

  37. 後編5-No.1037 島津光久書状

    国分民部少輔が使者として参上した際に家久の書状を拝受したことを述べ、病中の家久に対する敬意と謝意を伝えた光久の書状。

  38. 後編5-No.1038 島津家久書状

    本文ではNo.1040と同文であるため省略すると明記された家久書状。北郷忠直への近況照会、又八郎の到着と交代帰国、家久の腫物と療養、久志本への謝礼使者派遣を内容とする。

  39. 後編5-No.1039 北郷忠直譜

    家久の病気により久志本式部少輔が鹿児島へ下向したこと、その時北郷忠直は江戸に在府しており、家久から忠直へ書状が与えられたことを記す記事。続けてNo.1040の書状を掲げる。

  40. 後編5-No.1040 島津家久書状

    北郷忠直の無事を尋ね、又八郎が現地へ到着すれば交代して帰国する見込みを伝える。自身は腫物から毎日膿が出て未だ治癒せず療養中であり、久志本式部への謝礼として北郷佐渡守を派遣したことも知らせた書状。

  41. 後編5-No.1041 島津家久書状

    式部への応対や自身の体調について母へ近況を伝え、暑い時節の心遣いに触れつつ、庭の花が散って菫だけが残り寂しいと述べた私的な消息文。

  42. 後編5-No.1042 細川忠利書状

    四月朔日付の家久書状が二十三日に届いたと報じ、将軍は直ちに本復する状態ではないものの重い懸念はないと伝える。家久の病状と今後の療養を案じ、久志本が将軍の病気のため江戸へ戻った後に変事があれば知らせるよう求めた書状。

  43. 後編5-No.1043 細川忠利書状

    細川忠利が大山参詣のため当地へ来た勝軍院を通じて家久の病状を尋ね、見舞いとして太刀一腰・馬代金子一枚・越前絹二百把・蝋燭千挺・南部酒三荷・白鳥二羽を贈った書状。

  44. 後編5-No.1044 鍋島勝茂書状

    三月に江戸へ参府した勝茂が、将軍の病状は快方に向かう一方で養生のため表向きの出御がなく諸大名の目見えが延期されていると伝える。前年冬以来病気の家久を案じ、近況を知らせるよう求めた書状。

  45. 後編5-No.1045 鍋島勝茂書状

    未だ直接の音信がない家久に書状を送り、前年冬以来の病気を案じて現在の容体を尋ねる。使者の取次ぎを依頼し、太刀一腰・馬一疋・越前絹五十把・南部酒一荷・塩鱈などを見舞品として贈った書状。

  46. 後編5-No.1046 島津氏掟書覚

    元和五年十二月二十六日に大橋へ人身売買を禁ずる制札を立てたことを前提に、それ以前の売買に関する争いは裁定せず、以後の争いは命令どおり処理する旨を定めた覚書。

  47. 後編5-No.1047 高山盛明書状

    長く無沙汰したことを詫び、将軍の病状が次第に快方へ向かったことを喜ぶ。また家久にも治療の効果が現れて久志本式部少輔を帰したと聞き、引き続き養生するよう勧め、島津留守や川上将監とも連絡していると伝えた書状。

  48. 後編5-No.1048 島津家久譜

    家久の病気が治らず喉にも腫物ができて痛んだため、京都の外科医を招くことになり、老中が京都所司代板倉重宗へ連絡した結果、慶祐法印が五月二十日に薩摩へ到着したことを記す記事。後掲の老中奉書に接続する。

  49. 後編5-No.1049 板倉重宗書状

    家久の書状を受け、腫物治療のため慶祐法印が早速薩摩へ到着して療治していると承知したこと、ほどなく平癒するだろうと期待しつつ油断なく養生するよう述べた見舞書状。

  50. 後編5-No.1050 島津光久書状

    慶祐の下向に対する礼状を老中へ送り、家久の病状に大きな変化がないことを承知したと伝える。京都での療養案について諸老中・医師の意見を照会した結果、現時点の上洛は困難と判断し、将軍の回復や牛込への遊山の様子も報告した書状。

  51. 後編5-No.1051 伊勢貞昌書状

    志岐小左衛門尉の知行について、薩摩では三百石を与えられたが肥後では四百石余との申告があったため、家久の意向を確認して四百石とするか検討するよう指示した。未確定なら当面三百石とし、親類関係による連判回避にも触れた書状。

  52. 後編5-No.1052 土井利勝外三名連署書状

    外科医慶祐が五月二十日に薩摩へ到着し腫物を治療しているとの報告を受けた。先に久志本式部を派遣し、さらに京都から外科医を下向させるよう板倉重宗へ依頼した経緯を確認し、家久の丁重な礼に将軍が満足した旨を伝えた四名連署書状。

  53. 後編5-No.1053 金武朝貞書状

    前年夏、野村大学助が使者として下向した際に家久側の書状を受け取ったことに礼を述べる。唐船がまだ帰帆していないため、近日帰着すれば吉報を知らせると約した金武朝貞の書状。

  54. 後編5-No.1054 島津家久書状

    たびたび娘への返事もできていないことを詫び、自身の体調に変化がないこと、江戸からの便りがまだ届かず、式部の暇や将軍への拝謁についても聞こえてこないため皆が待っていることを母へ伝えた消息文。

  55. 後編5-No.1055 土井利勝外三名連署書状

    家久が病気のため四月の参勤を見合わせた件について、将軍が心配せずゆっくり養生するよう命じたことを改めて伝える。家久が礼使を送り、緞子三十端を献上したことを披露したところ、将軍がその丁重さを喜んだと報じた四名連署書状。

  56. 後編5-No.1056 島津忠興譜

    島津忠興が寛永十四年六月十一日に江戸で没し、享年三十九、法名を青蓮院宗誉原隆居士といい、新知恩寺に葬られたことを記す記事。

  57. 後編5-No.1057 近衛信尋書状

    見事な焼物二種の贈答に礼を述べ、病中の家久からの返書を読んだことを伝える。久志本の治療で多少効果が出たことを喜ぶ一方、喉の腫物を案じ、養生を第一にして吉報を待つと述べた書状。

  58. 後編5-No.1058 馬場利重書状

    六月二十一日付の書状を拝見し、二十五日に島原で申し渡す予定の件について、三原左衛門佐と行き違いで面会できなかったため、詳細は三原から伝えるとして要点のみを知らせた書状。

  59. 後編5-No.1059 島津光久書状

    国司の使者として海を渡った労をねぎらい、香餅二箱・綿子二十把・太平布二十疋・焼酒二甕が届いたことに礼を述べ、返礼として太刀一腰と馬一疋を贈った書状。

  60. 後編5-No.1060 細川忠利書状

    将軍の病状が日ごとに良くなっているので安心するよう伝え、別紙で経過を報告した。家久の腫物も平癒に向かうことを願い、見舞いとして当地の魚三種と酒十樽を使者に持たせた書状。

  61. 後編5-No.1061 細川忠利書状

    将軍の発作時の手足の冷え、頭重、発熱、脈拍、食事量、驚きやすさ、睡眠、保温などを項目ごとに詳しく報告する。姫君が龍虎円を服用して快復し、以後発作が起きていない例にも触れた医療報告書状。

  62. 後編5-No.1062 島津久通書状

    家督・知行を自身へ付属させるとの案について、河内守息女との婚姻を通じた当家相続が既に定まっていることや、二家を兼領すれば私欲と疑われることを理由に辞退の意向を詳述し、関係者への伝達と理解を求めた書状。

  63. 後編5-No.1063 島津家久条書

    長患いのため政務を任せている国元の重臣に対し、評定所の案件遅延、私的な付き合いを国政より優先する風潮、借銀処理、蔵入地での百姓離散、訴訟処理で小身者の意見が届かないこと、老中衆の過度な寛容などを改めるよう指示した条書。

  64. 後編5-No.1064 酒井忠勝書状

    家久が将軍へ琉球布を献上し、当番の阿部忠秋が披露したところ、将軍が喜んだと伝える。忠勝自身にも三端が贈られたことに礼を述べ、炎暑の折に家久が本復したかを尋ねて養生を勧めた書状。

  65. 後編5-No.1065 長床坊書状

    薩摩中納言家久の病気平癒祈祷として小百味三座を勤め、御札と供物を送ったこと、宝前で早期快復を祈ることを伝える。百味料として銀三十六匁を受領した旨も記した書状。

  66. 後編5-No.1066 某願文

    島津家久の平癒・息災長命・身体堅固・吉祥不退を願い、大隅正八幡宮で無言・断酒による七日参籠と「二千堂参」を立願した願文。

  67. 後編5-No.1067 土井利勝書状

    家久が将軍へ琉球布を献上し、阿部豊後守が披露したところ首尾よく受納されたと伝える。利勝自身にも同布三端が贈られたことに礼を述べ、病中かつ遠路からの厚意を謝した書状。

  68. 後編5-No.1068 馬場利重・榊原職直連署書状

    前年夏、琉球を通った唐船から南蛮人四人・日本人二人が上陸して捕らえられ、そのうち南蛮人二人・日本人一人が長崎へ送られた経緯を報告する。尋問で伴天連であると白状したため、残る者も到着次第送るよう求め、長崎奉行から江戸へ注進するとした連署書状。

  69. 後編5-No.1069 末次平蔵献書状

    琉球から送られた南蛮人二人・日本人一人が長崎へ到着したことを受け、残りの者が乗る船も着き次第長崎へ差し遣わすよう依頼する。三人の処置や奉行への報告について返答した書状。

  70. 後編5-No.1070 島津久通譜

    病中の島津家久が島津久通を江戸へ派遣し、久通が家久の病状と徳川家への忠節を伝え、伽羅十斤を献上した経緯を記す。将軍から家久の養生を勧める言葉と自筆判の内書、衣服などを受け、九月十九日に江戸を発ち十月上旬に鹿児島へ帰着した。

  71. 後編5-No.1071 土井利勝書状

    相国が春と同様に寸白を患い灸治を受けたものの、近日はかなり快方に向かっていると伝える。諸侯が見舞いに参上する必要はないとの意向を知らせ、詳細は伊勢兵部少輔から伝えるとした書状。

  72. 後編5-No.1072 榊原職直・馬場利重連署書状

    琉球の跡船で来た南蛮人二人・日本人一人を長崎で受け取り、穿鑿のうえ当地で死罪に処す予定だと伝える。前後して捕らえた南蛮人四人・日本人三人の所持品を使者へ渡し、この件を江戸へ言上するとした連署書状。

  73. 後編5-No.1073 甲斐重政書状

    八月三日に長崎へ着き、呂宋から来た伴天連や異国居住の日本人をめぐる捕縛・尋問の状況を長崎奉行へ報告したことを伝える。船の購入や渡航経路を厳しく調べ、浦々で不審な船売買を警戒するよう求めた書状。

  74. 後編5-No.1074 榊原職直・馬場利重連署書状

    日向国秋月長門守領で捕らえられた八人と、先に薩摩側から送られた者を照合して尋問した結果を知らせる。船の購入経緯などを追及し、右馬頭家老衆宛書状の転送と返事を求めた連署書状。

  75. 後編5-No.1075 甲斐重政書状

    長崎奉行から九州諸大名へ回す書状を飛脚で送るよう命じられたため、同心二人に船を仕立てて進上させたと報告する。秋月領の捕縛者を待ちながら、拷問を受けた八人の供述や、先に来た南蛮人の伴天連一人が責め死にしたとの情報も伝えた書状。

  76. 後編5-No.1076 伊勢貞昌書状案

    藩内で自分たちを悪く申し立てる企てがあるとの風聞をめぐり、関係者が霊社の起請文を提出して否定した経緯を詳述する。根拠のない取沙汰を共同で退け、関係者に事情を承知してもらうよう求めた書状案。

  77. 後編5-No.1077 島津氏掟書

    洋中で異国人へ船を売ること、南蛮人との船その他の売買、南蛮船の受入れを禁じる。異国・他国の破損船は荷物を保全して三司官へ報告し、領内の船商売も役人の届出を要すると定め、違反時は五人組等を処罰するとした掟書。

  78. 後編5-No.1078 伊勢貞昌書状

    加治木の「御懐様」が養生のため帰り、その後相手方の地へ赴いたことを国分十右衛門尉から聞き届け、薩州様にも報告した旨を伝えた書状。

  79. 後編5-No.1079 島津家久書状

    久しく便りをしていなかったため母を案じて書き、家久自身は格別のことなく過ごしていると伝える。折久の見舞いを喜び、当地では操りが慰みになっていること、早く会いたいことを述べた仮名書状。

  80. 後編5-No.1080 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    伊地知周防守を吉松の地頭に任命したことを知らせる。川田家に男子がいないため早急に地頭を定めたとして、川田殿の内儀にもこの旨を伝えるよう求めた連署書状。

  81. 後編5-No.1081 島津家久書状

    その後無沙汰にしているが、病状はいまだ良くないと伝える。一方で祈念・立願を数多く申し付けており、ほどなく本復するので安心するよう述べ、国元の新しい動きは後便で詳しく知らせるよう求めた書状。

  82. 後編5-No.1082 島津家久書状

    病気見舞いとして遠路から使者を寄越し、さらに立願文を送ったことを喜ぶ。さまざまに養生しており、次第に快方へ向かう見込みなので安心するよう伝えた書状。

  83. 後編5-No.1083 島津家久譜

    本文書はNo.1070の記録と大略同文であるとの注記。島津久通の江戸派遣、家久の病状と忠節の伝達、伽羅献上、将軍の内書・贈答品受領と帰国に関する記事を指す。

  84. 後編5-No.1084 徳川家光御内書

    家久の病状がなお良くないことを案じ、長患いなので十分な保養が肝要だと諭す。見舞いの使者と伽羅十斤の献上を喜び、詳しくは土井大炊頭が述べるとした将軍家光の御内書。

  85. 後編5-No.1085 土井利勝外三名連署書状

    家久の書状を受け、島津図書頭を通じて将軍の病状を案じたことと伽羅十斤の献上を披露したと伝える。将軍は家久に療養を怠らないよう命じ、病中の厚意を喜んで御内書を遣わしたこと、将軍自身も日々快方に向かっていることを知らせた連署書状。

  86. 後編5-No.1086 土井利勝書状

    家久が病気のため参府を延期し、島津図書を通じて伽羅十斤を将軍へ献上した件を報じる。酒井忠勝が披露し、将軍は家久の厚意を喜んで自筆判の御内書を遣わしたこと、将軍の病状も安心できる様子であること、国元からの品にも礼を述べた書状。

  87. 後編5-No.1087 島津家久書状

    本文はNo.1089と同文のため省略されている。帰国後の見舞いへの礼、養生のため居所を替える計画、仮屋の普請と庄内側との相談に関する家久書状を指す。

  88. 後編5-No.1088 北郷忠直譜

    寛永十四年七月に北郷忠直が帰国し、家久が忠直宅へ移って養生するため造営・修補が行われたことを記す。家久は見舞いを喜び、仮屋を新築して近日移る予定であり、北郷次右衛門を庄内へ遣わして普請を相談させると忠直へ伝えた。

  89. 後編5-No.1089 島津家久書状

    帰国後に高田橋甚左衛門尉を見舞いとして遣わしてくれたことを喜ぶ。病状を考えて養生のため居所を替え、相手方の新しい仮屋を少し普請して近日移る予定であること、庄内へ北郷次右衛門を遣わして普請を相談させることを伝えた書状。

  90. 後編5-No.1090 馬場利重・榊原職直連署書状

    長崎にいる南蛮人の子・母および養子関係の父母らを天川行きの戻り船に乗せるため、沿岸で船を出して途中下船させないよう命じてほしいと依頼する。船は九月二十日に長崎を出帆させる予定だと伝えた連署書状。

  91. 後編5-No.1091 島津久元覚書

    両殿から与えられた条書を守ることを前提に、家中諸士・百姓への統治、後見役や家老衆との相談、家中の融和と風聞の抑制、外城・役人の配置、神社仏閣、狩猟・武具検分、軍馬・兵具、借銀返済など、光久の政務運営上の心得を列挙した覚書。

  92. 後編5-No.1092 細川忠興書状

    家久からの音信に礼を述べ、喉の病のため江戸から典薬衆を呼ぶと聞いて病状を案じる。長い江戸滞在や帰国途上の冷え、痰・咳などが原因ではないかと推量し、十分な養生を勧め、病中なので家久自身に返書を書かせないよう求めた書状。追而書では小粒の山椒を所望した。

  93. 後編5-No.1093 寺沢広高書状

    家久が病気見舞いに参上しようとしたが土井利勝の意向で中止した件を了承する。加藤左馬助の死去と子息式部少輔の相続、関東の大水・大風による栗橋・東海道の交通障害、酒井雅楽頭屋敷の火災など、江戸周辺の近況を報告した書状。

  94. 後編5-No.1094 島津家久書状

    病気見舞いとして具志川按司を遣わし、前年春以来滞在させたことに礼を述べ、近頃は少し快方に向かっているので安心するよう伝える。返礼として当地焼の茶入と茶碗を贈った書状。

  95. 後編5-No.1095 細川光利書状

    八月二十四日付書状と沈香三斤の贈答に礼を述べ、家久の病状が夏頃より少し良くなったことを喜ぶ。将軍と薩摩守の無事を伝え、病中の返書の負担を避けて便りを控えていたこと、越中守からの使者や詳細は島津弾正大弼が伝えることを記した書状。

  96. 後編5-No.1096 島津久慶外二名連署書状

    家久周辺の内密な案件について、黄門様・奥方・野州老らへの対応、出仕や儀礼の手順を相談し、関係役人と連携して急ぎ処置するよう求めた連署書状。対象となる女性・屋敷内の事情や役割分担には難読箇所が多い。

  97. 後編5-No.1097 稲葉一通書状

    遠路の使札と巻物入りの箱を贈られたことに礼を述べ、家久の病状が少しずつ快方に向かうと聞いて喜ぶ。自身も前年以来の病で外出できず養生中であると伝え、家久の回復を願う。

  98. 後編5-No.1098 島津家久願文

    病気平癒のため、法花嶽薬師へ知行百石を寄進し薬師の法三万座を修すること、又八郎を名代として三之宮へ参詣し馬を寄進すること、鵜戸への名代参詣、会木にある頼朝墓の再興、清水の墓所に守りを立てることを誓願した。

  99. 後編5-No.1099 島津家久譜

    十月二十九日、徳川家光が病床の島津家久を見舞うため、上使新庄右近大夫を薩摩へ派遣し、御内書と鷹の鶴を贈った。阿部忠秋・松平信綱・酒井忠勝・土井利勝の奉書も添えられ、仁礼主計頼充が護送し、上使はのち江戸へ帰ったと記す。

  100. 後編5-No.1100 徳川家光御内書

    徳川家光が、長く患っている島津忠恒(改名後の家久)の容体を案じ、寒気に向かうので十分に保養するよう命じる。見舞いとして新庄右近を派遣し、鷹の鶴を贈ったこと、詳細は土井大炊頭が述べることを伝える御内書。