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後編5の目録

旧記雑録 寛永3年~寛永15年の文書・記事です。

全1,340件中 501~600件・6 / 14ページ

  1. 後編5-No.501 島津久元書状

    伊勢貞昌と島津久元が、四月朔日に薩州様に男子が誕生し、黄門様も大いに満足したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じ、神仏への祈念について談議所と協議するよう求めた連署書状。

  2. 後編5-No.502 島津家久譜

    寛永九年四月二日に島津家久が江戸へ到着し、翌日に上使の酒井忠世・土井利勝が家久邸を訪れて長途をねぎらい、十日に家久が登営して例幣を献じ、島津久元も拝謝し、家久が兵糧米を拝領した経緯を記す家久譜の記事。

  3. 後編5-No.503 中島津久元・伊勢貞昌連署書状

    伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月二日の江戸到着、翌三日の酒井忠世・土井利勝の来訪、備前宰相の疱瘡死去で四日から十日へ延期された将軍家光への謁見、兵糧三千俵拝領の経緯を報じ、加治木の子供たちの疱瘡を案じた連署書状。

  4. 後編5-No.504 島津家久譜

    四月十二日、将軍徳川家光が島津家久に白銀一万葉(枚か)を賜ったこと、それが徳川秀忠の遺物として家光へ進上された黄金三十万枚を在府諸侯に分与したもので、二月に国元にいた家久にはこの時に賜られたと記す家久譜の記事。

  5. 後編5-No.505 中島津久元・伊勢貞昌連署書状

    伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月十日の謁見と米の拝領、十二日の銀子一万枚拝領を報じ、薩摩側の借銀返済と国の潤いになると評価した。また、国元の出銀について福屋五兵衛と談合するよう伝え、琉球へ遣わす銀子のため大阪両蔵奉行へ約八百貫目の借銀を命じたことを述べた連署書状。

  6. 後編5-No.506 島津家久譜

    寛永九年四月十三日、将軍徳川家光が東照神君徳川家康の十七回忌により日光山へ参詣し、島津家久の名代として薩摩守島津光久も参詣したこと、同月二十日に家光が江戸城へ還御したことを記す家久譜の記事。

  7. 後編5-No.507 某条書

    薩摩領内の知行物成の「ならし」と船役・出銀をめぐり、平田狩野介・東郷藤兵衛尉らとの談合事項を列記した条書。五百石取四人を合わせた二千石・四十人乗り・十二端関船について、船の仕立て、加子賃・飯米を銀四貫百目(高一石につき二匁)とする試算、自船・借船・船の惣置を検討する。さらに琉球口の商売と銀調達・出銀…

  8. 後編5-No.508 島津久元書状

    島津久元が、加治木からの使者木脇三右衛門を帰国させること、新納織部佑の子将野介の鹿児島移住希望等の情報、国絵図の取り寄せ、惟新様に殉じた御供衆の氏名・知行高・道号を調べて妙円寺に石塔を建てる計画などを、喜入摂津守・川上左近将監へ報じた書状。

  9. 後編5-No.509 児玉利昌譜

    寛永九年、島津家久が江戸へ向かった際に児玉利昌が再び従い、二月十八日に鹿府(鹿児島)を出発し、四月二日に江戸へ到着したことを記す児玉利昌譜の記事。

  10. 後編5-No.510 島津久元譜

    天下の士・商人は身分の貴賤を問わず五十歳以上で乗輿が許可されるとし、島津久元も五十歳を越えて老衰し騎馬が不自由であったため、江戸で永井監物に乗輿を請い、許可と書簡を得たことを記す久元譜の記事。

  11. 後編5-No.511 永井白元書状

    永井監物白元が島津久元に、先に述べたとおり五十歳以上の者は上下とも乗物を許されると伝え、久元が五十九歳以上であるなら案紙どおりの書状を本丸目付・西丸目付へ各一通持ち込み、相談すると述べた書状。

  12. 後編5-No.512 島津家久・光久起請文前書案

    島津家久・光久が将軍徳川家光に差し出した起請文前書の案。将軍への忠勤、上意に背く者とは縁者・親類でも同調しないこと、法度遵守、逆心企図の披露、疑いを受けた際の迅速な糾明を誓い、違反時には伊豆・箱根・霧島・開聞等の神罰を蒙るとしたもの。

  13. 後編5-No.513 島津家久書状

    島津家久が江戸から島津忠興へ、国元が息災であることを喜び、光久が自身の名代として日光へ参詣したこと、留守中の諸事に油断なく当たるよう伝えた。また、加藤豊後守との『出合』の件は未決着であり、出水が境目であるため下々まで警戒させること、自身の帰国許可、尾張大納言らの動静、刑部大輔の疱瘡等を述べた書状。

  14. 後編5-No.514 島津忠興書状

    島津忠興が、江戸から飛脚が到着して静謐と家久の屋敷の無事が伝えられたこと、家久が将軍から度々使者を遣わされ、銀子一万枚を拝領したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じた。また、将軍家光が前月十三日に日光へ参詣し、二十日に機嫌よく還御したと伝えた書状。

  15. 後編5-No.515 島津光久譜

    寛永九年五月十三日、島津光久の女子が誕生したこと、母は家村重治の女で、後に入来院石見重頼の室となり、承応二年十一月二十日に早世したことを記す光久譜の記事。

  16. 後編5-No.516 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元と伊勢貞昌が、国分様の遺骨を高野山へ送る件が死後三年にもかかわらず遅延しているため、家久が早期実施を命じたこと、高野山での儀式を龍伯・惟新と同様に整え、金剛寺関係者や鎌田源左衛門尉・五代勝左衛門尉らの供奉を検討すること、国分様の寺・知行・物成・銀子の処理を国元で協議するよう伝えた連署書状。

  17. 後編5-No.517 伊勢貞昌披露状

    伊勢貞昌が、肥後の加藤氏をめぐる処分に関連して、島津側が大人数を動員すれば幕府や世上の疑いを招くおそれがあると警告し、酒井雅楽頭・井伊掃部頭の内意にも動員指示はないことを根拠に、屋敷から人を出さず慎重に対応するよう上申した披露状。

  18. 後編5-No.518 児玉利昌譜

    寛永九年、肥後侯加藤忠広の処分と改易をめぐり流言が多発し、島津家久が兵を備えようとしたため、伊勢貞昌に事状を察させ、貞昌が過大な兵力動員を控えるよう上申したことを記す児玉利昌譜の記事。

  19. 後編5-No.519 島津家久譜

    六月朔日、在府の諸大名が登営し、加藤忠広の子・豊後守の不臣謀略と父子に対する糾問結果が告げられたことを記す。子は死一等を減じて金森出雲守に預けられ飛騨国へ配謫され、父忠広は肥後国を没収され、羽州庄内で酒井宮内大輔に預けられて一万石を賜った。さらに家久に薩摩・肥後国境の妨行を禁ずる命令が下ったとする家…

  20. 後編5-No.520 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広父子の糾問・配謫と肥後国改易の経緯を国元に報じ、肥後国内の騒動に乗じた掠奪や往還を厳禁し、肥後からの逃亡者を受け入れないよう指示した。また山田民部少輔を出水に在宿させ、地頭不在の大口へ鹿児島から見回役を遣わすよう求めた連署書状。

  21. 後編5-No.521 喜入忠続・川上久国連署条書

    喜入忠続と川上久国が、唐へ渡す多額の銀子調達を新納加州老・最上土州老を通じて三司官に談合させ、冠船交易時の商人への銀子二分運上、七島衆の唐交易と私的銀取引の禁止、七島・徳之島・沖永良部等からの借銀、市来和泉守を介した連絡、上船改めや琉球の身分層・町人への運上を定めた条書。

  22. 後編5-No.522 島津光久書状

    島津光久が、自方の男子誕生祝いとして遠路を使者が早々に訪れ、太刀一腰・馬一匹を贈られたことへ喜びと謝意を述べ、重ねて祝辞を申すとした書状。

  23. 後編5-No.523 島津家久書状

    島津家久が、島津光久の男子誕生祝いに使者と太刀一腰・馬一匹が届いたことを喜び、加藤忠広父子の『無分別之企』による罪科と、父の出羽国、子の飛騨国への配謫を報じ、詳細は帰国時に直接話すと述べた書状。

  24. 後編5-No.524 島津家久書状

    島津家久が島津忠紀に、島津光久の男子誕生祝いの使者と太刀一腰・馬一匹が届いたことへ喜びと謝意を述べ、詳細は下野守久元が伝えるとした書状。

  25. 後編5-No.525 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、受取人側の繁栄と息災を喜び、使者への満足を述べた。また、加藤氏の一件についていろいろと心を配ったが事態が決着して安堵したこと、母・妹にも同様に伝えること、近く帰国して話すと述べた書状。

  26. 後編5-No.526 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元と伊勢貞昌が、当年琉球へ文官二人・武官一人の勅使が渡来するため、屏風・扇子・茶壺・食籠・鞍鐙等の進物を軽い使者に持たせ、川上又左衛門尉を通じて三司官へ内々に渡すよう指示した。勅使へ直接贈れない場合は唐人衆への褒賞に回し、詳細は伊東勘解由が伝えるとした連署書状。追而書では伊勢貞昌が病後の手の震…

  27. 後編5-No.527 島津家久書状

    本文がNo.531と同文であるため省略された島津家久書状。No.531によれば、種子島への『くらいり』に関する三こんの太夫の件を遠方ゆえ鹿児島方で取り計らったこと、家中に別儀がないこと、詳細を下野守久元から伝え、左近殿にも知らせるよう述べた仮名書状。

  28. 後編5-No.528 島津家久譜

    島津家久が六月十一日に袖判の教書を発し、諸士が所領の分限に応じて武具を蓄え、急な出陣にも対応できる備えを整えるよう命じたこと、以後の出陣準備・武具点検関係の書記がこの教書を基礎としたことを記す家久譜の記事。

  29. 後編5-No.529 島津家久袖判条書

    島津家久が、軍役の知行高に応じた負担を厳守し、二百石以上の者は具足・馬・鞍道具を常備して書き上げ、検者の点検を受けること、家内の奢りより軍備を優先すること、百石取や無足衆でも馬を用意して騎乗奉公する者には知行を与えること、馬上での無礼・嘲弄を重科とすること等を定めた袖判条書。

  30. 後編5-No.530 島津家久譜

    島津家久が種子島左近大夫忠時の室・息女へ仮名書状を与え、忠時一族の代々の奉公と忠勤を賞したこと、忠時が家蔵の硯・茶壺を献上したことなどを踏まえ、種子島中の公領四千石を忠時へ与えたと記す家久譜の記事。

  31. 後編5-No.531 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、種子島への『くらいり』に関する三こんの太夫の件を遠方ゆえ鹿児島方で取り計らったこと、家中に別儀がないこと、詳しくは下野守久元から伝えるため左近殿にも知らせ、今後も精勤するよう述べた書状。No.527は本書状と同文として省略されている。

  32. 後編5-No.532 島津久元・伊勢貞昌連署条書

    島津久元と伊勢貞昌が、家中の乗馬を五百騎と定め、四百十一騎が有分、御蔵入から五十騎を仕立て、残る八十九騎の不足を補うことや、高二百石以上を常時乗馬とすることを示した条書。先備・二番備・三番備・左右備、馬廻・使番、外城小給人の配賦を定め、乗馬の差物・馬具・腹巻、軍役衆の船賦、琉球からの合力銀、御座船、…

  33. 後編5-No.533 島津氏出陣賦

    寛永九年六月の島津氏出陣賦。第一番から第五番までの部隊ごとに出陣時の指揮者・相付衆・家臣名を列挙し、弓・鉄砲・鑓・騎馬の数量、旗本や供衆、各組の編成を定めた大規模な軍役・動員名簿。

  34. 後編5-No.534 水野勝成外四名連署書状

    水野勝成ら五名が島津家久に、加藤忠広の領国召上げに伴い加藤家中の者が退去するため、彼らが薩摩領内へ来た場合には宿を貸して休ませても差し支えない旨を伝えた連署書状。追而書では家久父子の無事を承知したことも述べる。

  35. 後編5-No.535 細川忠利書状

    細川忠利が島津家久に、加藤忠広旧領への入国命令を受けて江戸を発つ予定、城の受取り・掃除・上使到着・国境警備等の手配を報じた。また加藤忠広が出羽庄内で酒井宮内大輔預け、その子豊後守が飛騨で金森出雲守預けとなったこと、幕府上使・目付衆の出立予定や肥後国内の引継ぎ要員を詳報した書状。

  36. 後編5-No.536 某覚書

    加藤忠広父子の改易・配謫と肥後引継ぎに関する覚書。加藤右馬頭の早打、忠広父子への処分申渡し、忠広の出羽庄内・豊後守の飛騨への移送、幕府上使・目付衆の江戸出立、熊本・八代等の城番や案内役の配置を列記し、細川忠利が署判して喜入摂津守・樺山美濃守へ送ったもの。

  37. 後編5-No.537 某条書写

    伊勢貞昌・島津久元が、将軍出陣時に即応する薩摩家中の軍役・出陣準備について命じた条書写。関ヶ原・大坂両陣等を参照し、五百石につき乗馬一疋、二百石取は主従八人、六・七百石衆の余高を二百石未満の者へ寄高とすること、父子が各々乗馬する場合の装備を定める。また、後家・幼少者の番代、軍役道具の提出と検者の点検…

  38. 後編5-No.538 某条書写

    大坂陣当時は他国の軍役事情に不案内で概略の賦役にとどまり、現在は御供銀が過分で毎年出銀させているため、軍役奉公のあり方を改めて相談するよう命じた条書写。また御蔵入から乗馬五十騎と昇四百二十本を定め、幟差は知行高に応じさせるとした。

  39. 後編5-No.539 細川忠利書状

    細川忠利が島津家久に、豊前では田地の三分の一ほどが早損となり、前年の風害以来飢饉の様相が続いていることを報じ、薩摩の状況も案じた。また江戸城二丸・西丸への移徙、長崎奉行の長崎下向予定、細川三斎の無事と療養、六月二十日の着船などを伝えた書状。

  40. 後編5-No.540 島津家久譜

    六月二十四日、将軍家光が上使斎藤左源太を通じて大和瓜二籠を島津家久へ与え、家久が拝戴後に登営して謝意を表したことを記す家久譜の記事。

  41. 後編5-No.541 新納忠清書状

    新納忠清が、加藤忠広改易後の肥後情勢を探るため現地へ人を遣わし、熊本城受取衆が未確定であること、竹中采女正の使者、城内の掃除・普請、蔵米、加藤右馬允や城明渡しをめぐる風説、隣国からの偵察、情報収集者への日当銀などを逐条報告し、調査費用の銀子支給を求めた書状。

  42. 後編5-No.542 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、相手方の『うらかた』の内容を詳しく聞いて喜び、祈念を怠らず、月待・日待を行い、愛宕・伊勢・八幡などへ祈請すれば末永く長久であると伝えた。局や『たねむしふくろ』、秋之守方にも祈念を勧めるよう求めた書状。

  43. 後編5-No.543 島津久元書状

    島津久元が、家久の指示を谷山孫右衛門尉・国分帯刀長に伝えさせ、帯刀長の馬の件を処置するよう命じた書状。併せて、肥後の有力者が剃髪して退去し熊本城が無事に渡される見込み、肥後への諸国衆の動員・人質や家臣配置、伊勢貞昌の病状と後任・奉公人選、惟新供衆の名簿などを詳報した。

  44. 後編5-No.544 某覚書

    肥後に置かれた目付と薩摩側の関係をめぐる覚書。九州諸方から肥後目付へ音信があるなか、薩摩は私曲なく直接関与しない方針を示し、薩摩で調えた焔硝を舟で運んだ件について、他国者の入国には案内が必要であるための手続で秘密の企てではないと説明するよう定め、取次・口上・対応方法を指示した。

  45. 後編5-No.545 島津家久譜

    寛永九年七月八日、徳川家光が使番を通じて御鷹の雲雀を島津家久へ与え、家久が直ちに登営して恩賞への謝意を表したことを記す家久譜の記事。

  46. 後編5-No.546 島津家久・光久麾下人数注文

    島津家久・光久麾下の出陣人数注文。鉄砲・弓・槍、外城鉄砲衆、騎馬・旗役、手廻・道具持・台所・進物方・茶湯方・兵具玉薬方などの役別人数を列記し、一備二千六百八十一人、乗馬を除く総人数五千三百六十二人として両備の編成を示した。

  47. 後編5-No.547 新納忠清書状

    新納忠清が有村隼人に、肥後からの風説を出水経由で聞いたため、事情を念入りに聞き合わせるよう命じた機密書状。熊本周辺の動向、百石までの者が馬に乗って退去するとの風聞、秋月勢の出立などを報じ、他言せず読後は火中に投ずるよう求めた。

  48. 後編5-No.548 大野久武書状

    大野久武が、佐土原へ人を遣わして確認した軍勢の通過状況を相良左助へ報告した書状。加藤右馬頭・伊東氏・秋月氏らの出立、乗馬五十四、五騎および八十七騎、旗五十六本・鉄砲四百挺・弓三十張・槍四百本、夫雑約四千人という兵力と道具の数量を伝える。

  49. 後編5-No.549 島津家久譜

    寛永九年七月十八日、島津家久が五月十八日に没した喜入大炊久正入道紹嘉の生前の忠貞を偲び、その忌日に六字名号を冠した三十一文字の和歌を詠み、冥福を祈ったことを記す家久譜の記事。

  50. 後編5-No.550 島津家久詠草

    島津家久が、忠勤と和歌を好んだ喜入大炊入道紹嘉の死を悼み、阿弥陀の六字名号を各歌の句頭に置いて六首を連ねた詠草。花・夕霞・子規・有明の月・忍草・白雪などを用い、紹嘉の面影と後世の冥福を詠む。

  51. 後編5-No.551 天寧寺某請取状

    天寧寺が、東郷肥前守から音信として送られた小判金八両を確かに受け取り、国元へ書状で礼を述べるとした請取状。仁礼右近将監の使者である伊東志摩丞宛。

  52. 後編5-No.552 島津家久譜

    七月二十三日、大口の宰新納忠清が川上久国・喜入忠続へ書状を送り、肥後から帰った者の報告として、熊本城・八代城を収公する幕府上使が七月二十一日に到着したことを伝えたとする家久譜の記事。後掲No.553の書状内容を要約する。

  53. 後編5-No.553 新納忠清書状

    新納忠清が、熊本へ置いた情報収集者の帰還報告として、幕府上使が七月二十一日に熊本へ到着し、同日川尻に一宿して翌日に八代へ向かったこと、多人数を伴ったことを伝えた。上使が薩摩境を通る場合に案内役を務めるため、携行させる兵具の数量について指示を求めた書状。

  54. 後編5-No.554 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。

  55. 後編5-No.555 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、肥前守がこのほど到着して『たうらい』を聞いたこと、油断なく習い事を行い、来年の家久の帰国を待つよう述べた。また品を先に送り、近く近況を祝い直すため改めて使者を遣わすと伝え、女房衆にも心得させるよう求めた書状。

  56. 後編5-No.556 殉国名藪

    『殉国名藪』の記事。寛永九年七月二十七日、谷山兵八が兼家の臣として殉死したことを記す。

  57. 後編5-No.557 江田兼吉差出

    江田兼吉が、小姓一人を奉公に出すことの可否を伺い、騎士一人に付属させる鎧・鉄砲・弓矢・指物、夫丸・小姓・馬取、鞍道具・馬などの装備と供廻りを列記した差出。

  58. 後編5-No.558 島津氏軍役賦

    島津氏の軍役賦。知行高や役格の区分ごとに、騎士・主従・小姓・甲持・馬取・指物持・夫丸などの人数と、馬・鉄砲・弓・槍・鞍道具等の負担基準を表形式で定めた。

  59. 後編5-No.559 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が、前日十日に西之御丸で豊嶋和部殿が小姓衆と争い三人が死亡した事件を報じた連署書状。城が取り囲まれ、黄門様が乗物を降りて徒歩で入城した状況を伝え、異常な事態を嘆いた。

  60. 後編5-No.560 喜入忠続条書

    喜入忠続が琉球三司官へ示した条書。家久の江戸在府と将軍家での首尾、前年に新納・最上を介して行った唐交易交渉、借銀返済のための銀子送付、返済不調時の知行召上げ、冠船渡海、鹿二十頭の送付、加藤忠広父子の改易・流罪を伝えた。

  61. 後編5-No.561 島津氏軍役賦

    東国への出陣を想定した島津氏軍役賦。第一備から第五備まで、各隊の大将・組頭・騎馬武者と付属人数、鉄砲・弓・槍・旗などを詳細に配当し、総人数二千八百九十九人、鉄砲三百六十七挺、弓百六十二張、槍二百三十三本等の合計を掲げる。

  62. 後編5-No.562 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。

  63. 後編5-No.563 新納忠清・最上義時連署条書

    新納忠清・最上義時が、琉球から唐へ渡る進貢船・冠船等の運用について定めた連署条書。御借銀返済、船数と往復時期、船主・勘使の選定、銀子・荷物・糸の管理、漂着・破船時の処置、唐への渡航者の統制などを詳細に指示した。

  64. 後編5-No.564 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が、琉球の冠船参候に伴う黄門様の座席・贈答、琉球銀子の取扱い、種子島殿への知行加増と軍役、茶入・藤堂殿関係の品、種子島への蔵入四千斛の処置などを指示した連署書状。

  65. 後編5-No.565 島津家久書状

    島津家久が、重陽の祝儀として小袖二領と染物を贈られたことに謝意を表し、末永い祝意を述べ、詳しくは対面の際に申し上げるとした礼状。

  66. 後編5-No.566 島津家久袖判条書

    島津家久が国政の心得を示した袖判条書。国家のための意見は遠慮せず言上すること、老中衆の行儀、口論裁決の公平、南蛮宗の禁制と宗徒摘発、町役人による証拠収集と拘禁手続、百姓身分に関する法度などを定めた。

  67. 後編5-No.567 島津家久譜

    島津家久譜の記事。寛永九年九月八日、家久が通常どおり拝謝し、公が千石大和守を介して美濃柿一筥を家久に賜ったことを記す。

  68. 後編5-No.568 島津家久書状

    中山王が島津家久へ、王子の死去を悼んで弔意を述べ、家久の悲嘆を推察し、香奠として銀子三十枚を進上した書状。

  69. 後編5-No.569 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が、茶入への礼として種子島にある御蔵入を残らず与える旨を西村越前が進上・披露し、首尾よく受け入れられたことを伝え、詳細は西村越前から知らせるとした連署書状。

  70. 後編5-No.570 島津家久譜

    島津家久譜の記事。伊達政宗・前田利常らと大御所の一周忌をめぐり相談したこと、十月十日に家臣島津久慶へ、細川忠利の肥後拝領を祝う使者として翌年早々に赴き、贈物は喜入忠続と協議するよう命じたことを記す。

  71. 後編5-No.571 島津家久書状

    島津家久が、細川忠利の肥後拝領を祝う使者として島津久慶を派遣すると伝え、正月早々の出立と進物の相談を命じた書状。鉄砲百挺を贈るため、からくりの調整や薬の用意を念入りに行うこと、家久自身は正月に帰国する予定であることも述べる。

  72. 後編5-No.572 島津氏軍役賦

    島津氏の軍役賦。乗馬衆・陸衆・鉄砲衆・弓衆・長刀衆・外城衆・船頭水手・鹿児島騎馬衆などの人数と、鉄砲玉・硫黄・塩焔等の軍需品、鉄砲・弓・鎧・長刀・具足の数量を表形式で掲げ、外城から指し出す諸所も列記した。

  73. 後編5-No.573 某覚書

    軍役・城備えに関する覚書。先手・二番手の主取、留守居、馬廻衆、船手主取、百石当たりの人役、要地への配置、出水・菱刈衆、法度、幟と鉄砲小指、乗馬数、加治木方人数、蔵入使、兵糧、町人への役負担、普請具の用意などの検討項目を列記した。

  74. 後編5-No.574 某覚書

    軍勢編成の覚書。大将を兵庫頭殿とし、その六百六十七人をはじめ、安芸守・下野守・中務少輔・喜入摂津守・川上因幡守・三原左衛門佐らの人数を列記し、合計千八百十三人とする。

  75. 後編5-No.575 島津家久条書

    島津家久が、世上への配慮と諸人の風評、宗門に関する沙汰、他国との相談や江戸の落書、礼儀、図書頭新八郎の出立・病気、江戸にいる家臣間の情報共有、来客応対などについて心得を命じた条書。

  76. 後編5-No.576 島津家久譜

    島津家久譜の記事。十一月二十七日に公から御鷹の雁三羽を賜ったこと、同年十一月に江府滞在中、薩摩・大隅・日向諸郡の田地の広狭や旱魃・砂石による不均衡を改めるため、相良主助長信・平田大久宗知らに公平な検分を命じたことを記す。

  77. 後編5-No.577 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が、駿河大納言徳川忠長の処分について報じた連署書状。忠長が高崎へ移され、付属の者五人が同行し、家臣の知行・屋敷が召し上げられたことなどを伝え、今後の処置と世上の評判を案じた。

  78. 後編5-No.578 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が追而書で、徳川忠長の行儀が改まることを期待して甲州郡内に置かれていたものの、悪行を理由に諸大名が登城し、忠長が高崎へ移され、家臣の知行・屋敷も召し上げられた経過を詳報した連署書状。

  79. 後編5-No.579 島津家久書状

    島津家久が、聖家衆の談合によって光明真言五壇の護摩が修されたことを喜び、祈祷への謝意と一門の息災を述べた書状。本文の日付は十一月十三日と読め、修正版インデックスの十一月十八日と相違する可能性がある。

  80. 後編5-No.580 松倉重次書状

    松倉重次が島津家久へ、先の使者への厚遇に礼を述べ、自領で預かっていたオランダ人関係者が逃走したため、島津領内での捜索や琉球・島原への照会に協力を得たことを謝した書状。今後、彼地へ人を派遣することにも触れる。

  81. 後編5-No.581 山田某外二名連署覚書

    熊本方面の城郭・軍備・人員を探った情報覚書。城内外の区画、堀・門・番所、騎馬・陸衆・町人等の人数、図面作成、江戸からの飛脚、横目衆六十人の巡回、秋月氏の福島到着予定、海老原源助による聞き合わせなどを報告した。

  82. 後編5-No.582 某条書

    検地実施の心得を定めた条書。検地の到着通知、郡・村境の確定、地頭衆との協議、検地法の統一、曲事や賄賂・依怙・脅迫の禁止、検地衆の馳走や算者の不正防止、違反者の処罰、竿頭衆による承認などを命じた。

  83. 後編5-No.583 島津家久譜

    島津家久譜の記事。寛永九年十一月十八日、公が御使番を介して果子を島津家久へ賜り、家久が例のとおり拝謝したことを記す。

  84. 後編5-No.584 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで近況を伝えた書状。江戸では猿引や鼓・太鼓などの慰みもなく、春には下国して花の下で酒を酌みたいと述べ、近日中の暇と帰国を待つ心情を記し、母や妹らへの伝言を託した。

  85. 後編5-No.585 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、思いがけず長い滞在となったが、春には暇を得てまもなく下国できる見込みであると伝えた書状。国元の無事を喜び、『たんもし』『ひこ』らしき人物が使者として当地にいることにも触れる。

  86. 後編5-No.586 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、正月の支度と進物を急ぎ、品々をよく見合わせるよう述べた書状。常の進物では整わないため、鉄砲・銃身・引金付近を吟味し、新左衛門らしき人物へ渡すよう指示した。

  87. 後編5-No.587 島津久元外三名連署覚書

    島津久元ら四名が連署した検地覚書。検地中の夫役の扱い、当日算用の夜間確定、祈願所・菩提所と寺社の別帳、山林・屋敷の扱い、名子の選定、未進・相続・離散者の処置などを定めた。

  88. 後編5-No.588 島津久元外三名連署覚書

    島津久元ら四名が連署した検地覚書。検地村の相談、先年の検地法、名寄帳・京判による面積確定、耕作放棄地・未進地・荒地・屋敷・相続地・逃散百姓の扱い、分付帳の記載、弁済不能者の処置などを詳細に指示した。

  89. 後編5-No.589 飛鳥井雅宣書状

    飛鳥井雅宣が、歌題集や歌書の書写・進覧について島津家久に返答した書状。明題集など多数の資料、来春の上洛時の口伝、御会等の歌詠を一覧して東仁左衛門尉へ渡すことなどを述べる。

  90. 後編5-No.590 細川忠利書状

    細川忠利が肥後熊本への入国と領国受取の状況を報じた書状。幕府の命による江戸出立、熊本到着、旧領・新領の家臣配置、筑前方面への使者、島津家からの使者・贈物への謝意などを述べる。

  91. 後編5-No.591 飛鳥井雅宣歌道伝授状

    飛鳥井雅宣が島津家久へ、歌道の門弟契約、出題の権限などを一家の重事として伝授し、従来の例に従って守るよう命じた歌道伝授状。

  92. 後編5-No.592 伊勢貞知書状

    伊勢貞知が、歳暮の礼として門跡へ昆布一折と樽一荷を進上し、三井寺で受け取ったことを伝えた書状。自身も小袖一領を拝領したことに謝意を述べ、年内の参上を約した。

  93. 後編5-No.593 寛永九年高帳写

    寛永九年の高帳写。島津氏家臣・役人・外城担当者を知行高順に列記し、各人の石高、役職・官途・配置先を記す。高禄層から百石前後までの多数の家臣、人数合計、出水・阿久根・水引・各外城の衆中や軍役人数も収録する。

  94. 後編5-No.594 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家久が寛永九年から翌十年正月まで江戸に在府し、将軍徳川家光への年賀儀礼を行ったこと、正月二日に中山王へ使者・太刀・馬代・方物を贈り、明皇帝の冊封使船渡来を祝賀したことを記す。

  95. 後編5-No.595 島津家久書状

    島津家久が中山王へ、明皇帝から王位を授ける冊封使船が当年渡来することを祝し、太刀一腰・馬一疋・白銀五百両と別紙記載の方物を贈った書状。詳細は使者に口上させるとした。

  96. 後編5-No.596 島津家久書状

    島津家久が中山王へ新年を祝い、自身はなお江戸に在府するが春夏の間には帰国する予定と伝えた書状。明の冊封使船渡来と王の昇位を祝し、在国なら馳走すべきところ不在を詫び、太刀一腰・馬一疋・宇治茶一壺を贈った。

  97. 後編5-No.597 島津家久書状

    島津家久が武部大輔へ年始を祝い、祝儀として太刀一腰と馬一疋を贈り、今後の慶事を重ねて祈った書状。

  98. 後編5-No.598 島津家久書状

    島津家久が仮名書きで、小袖・袴の贈物への謝意、関係者の無事、近日中の暇と下向、白鶴の羽の送付などを伝え、詳しくは使者に託した書状。

  99. 後編5-No.599 島津家久譜

    島津家久譜の記事。台徳院殿の仏殿落成に際し、一門・大小名が分に応じて金石の燈籠を献じ、家久も尊前へ石燈籠一基、仏殿唐門外右方へ金燈籠一基を献じたことを記す。

  100. 後編5-No.600 猿渡某・時任某連署請取状

    猿渡城之介・時任右京亮が本田与八郎へ出銀の皆済を認めた連署請取状。高百五十四石九斗六升を基礎に、米・鳥目の銀換算を記し、銀二百三十二匁四分四厘を受領した。