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後編5の目録

旧記雑録 寛永3年~寛永15年の文書・記事です。

全1,340件中 301~400件・4 / 14ページ

  1. 後編5-No.301 北郷忠亮譜

    忠亮が都城から江戸へ赴き、寛永七年四月十八日の家光による家久桜田邸御成で拝謁し、太刀・袷を献上して白銀を拝領したこと、六月に暇を得て帰国したことを記す。

  2. 後編5-No.302 北郷久加譜

    久加が家久に従って江戸へ赴き、四月十八日の家光御成と同月二十一日の相国秀忠御成で太刀などを進献し、袷・白銀を拝領したこと、その後に帰国したことを記す。

  3. 後編5-No.303 伊勢貞昌覚書

    寛永五年頃から進めた家久桜田邸の御成門・主殿・寝殿・数寄屋・舞台などの作事と、寛永七年四月十八日の家光御成、同月二十一日の秀忠御成の次第を詳記する。建物寸法、障壁画・調度、茶席、能・饗応、役人配置、進物・拝領品までを網羅した伊勢貞昌の覚書。

  4. 後編5-No.304 島津家久書状

    御成の見舞いとして朱蝋燭二箱二百入・樽十荷を届けられたことへの礼を述べ、詳細は弾正から聞くよう伝え、心安く思うよう申し送った島津家久の書状。

  5. 後編5-No.305 島津家久書状

    近く帰国した折に詳しく申し伝える意向を述べ、土岐守の意向だけに任せないよう求めるなど、当面の取り計らいと心構えを指示した島津家久の仮名書状。

  6. 後編5-No.306 島津家久書状

    安芸守の意向だけに任せず十分に申し含めるよう求め、今回の仕合に満足していること、自身も暇を待って近く帰国することを知らせ、花を折り返し贈った島津家久の仮名書状。

  7. 後編5-No.307 島津家久書状

    藤次郎が若くして不慮に死去したことを夢のようだと嘆き、遺族の悲嘆と後の弔いを案じ、豊後守にも触れて慰問した島津家久の仮名書状。

  8. 後編5-No.308 島津家久書状

    豊後守が安元へ赴いた労苦をねぎらい、子息藤次郎の不慮の死を聞いて意外の仕合に驚いたことを述べ、詳しい弔意は使者から伝えるとした島津家久の書状。

  9. 後編5-No.309 島津朝久一流系図

    島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。

  10. 後編5-No.310 島津家久書状

    新年の祝儀として国頭を通じて届いた贈物に礼を述べる。家久は正月に国元を発って江戸に滞在中であり、四月十八日と二十一日の家光・秀忠御成が滞りなく済んだことを知らせ、詳細は使者を国頭へ遣わして伝えるとした書状。

  11. 後編5-No.311 島津忠元光久書状

    江戸での逗留を終えて無事帰国することを喜び、出立時に秘蔵の馬を残し置いたことへの礼を述べ、次回参府の折に面談すると伝えた島津忠元・光久の書状。

  12. 後編5-No.312 島津家久譜

    寛永七年七月朔日、徳川家光が能の席で島津家久を召し、御座所で見物させた。家久は拝謝後、土井利勝へ書状を送り、厚遇への謝意を伝えたことを記す。

  13. 後編5-No.313 土井利勝書状

    前日の能で将軍家光が満足した旨を承知したと伝え、家久の書状内容は将軍へ申し上げ、詳しくは対面時に述べるとした土井利勝の返書。

  14. 後編5-No.314 勘定所達書

    未進を理由に知行を召し上げる際の永代返還なしの代銀基準を定める。上地は高一石につき二十匁、中地十七匁、下地十二匁とし、現地役人が等級と坪ごとに札を付して差し出し、手心を加えることを禁じた達書。

  15. 後編5-No.315 某覚書

    分国内の諸士知行物成を年内に処理する方針と、船役負担・借銀返済について協議した覚書。二千石を一単位に自船を負担し、五百石取四人の共同船では四十人乗り・十二端の船を建造、船子賃・飯米を含め銀四貫百目、石高一石につき二匁一分八厘と試算する一方、既存出銀への追加は困難とし、借銀返済を優先する方針を記す。

  16. 後編5-No.316 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    西丸の秀忠御座近くで豊島刑部・井上主計らが関係する不慮の事件が起こり死者が出たこと、大名・小名が急ぎ登城し、混雑のため黄門も徒歩で入城したことを知らせた島津久元・伊勢貞昌の連署書状。

  17. 後編5-No.317 島津家久譜

    琉球の楽童が四月十八日と二十一日の御成で音楽を奏し、将軍らの上覧に供したこと、八月二十七日に城間親雲上と楽童らが琉球へ帰る際、家久が中山王へ謝礼の書簡を送ったことを記す。

  18. 後編5-No.318 島津家久書状

    四月十八日・二十一日の御成に備え、琉球楽童を速やかに江戸へ派遣したことに謝意を表す。楽童が御前で音楽を奏して終日の宴を盛り立てたことを喜び、帰国する一行に謝状を託し、本朝の品々を別紙目録とともに贈った書状。

  19. 後編5-No.319 伊勢貞昌書状

    御成のため琉球から楽童五、六人を伴い、薩摩から江戸まで無事に引率して将軍御前で奏楽させた城間親雲上の功労を称える。海陸の長途を越えた働きを希世の名誉と賞し、再会を期した伊勢貞昌の書状。

  20. 後編5-No.320 島津家久譜

    寛永七年九月十日、将軍家光が十四日に西丸で島津家久へ茶を賜う意向を示し、森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署奉書によって登城を命じたことを記す。

  21. 後編5-No.321 土井利勝外三名連署書状

    翌十四日に西丸で将軍から茶を賜うため、心得て登城するよう命じた森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署書状。

  22. 後編5-No.322 土井利勝書状

    家久の書状を拝見し、翌日の登城は必ず取りやめ、養生を第一にするよう勧めた土井利勝の書状。家久の申し出は将軍へ詳しく申し上げると伝える。

  23. 後編5-No.323 某覚書

    比志島宮内の改易前後に、反抗・野心を疑われた者たちから同心を求められたが、道理に合わないため一貫して拒んだと述べる弁明の覚書。鹿児島の人数、町への配置、上洛時の進言、密事の注進、船での逃亡情報など複数の案件を列挙し、自身の忠節を説明する。

  24. 後編5-No.324 児玉利昌譜

    児玉利昌が正月三日に鹿児島を発し三月九日に江戸へ着いたこと、比志島宮内少輔国隆が民を害し、保福寺での謹慎後も乱を企てて種子島へ流され、なお徒党を求めたため誅殺された経緯を記す。九月二十四日の徒党状況の申告や子の出家にも触れる。

  25. 後編5-No.325 山川霧島神社再興棟札

    山川郷霧島神社の再興を記念した棟札。大檀那を藤原朝臣家久、地頭を鎌田出雲守とし、庄屋黒木主左衛門尉、願主・正祝有馬右近祐純直、権祝・大工・鍛冶らの名を列記する。

  26. 後編5-No.326 土井利勝書状

    前日に家久から書状を受け取ったが帰宅が遅く返事が延びたと断り、茶を進められた件について家久の意向を承知したこと、上野介らが申し上げた内容をさらに伝えるとした土井利勝の書状。

  27. 後編5-No.327 島津家久書状案

    久しく便りをしていなかったため使者を遣わし、皆が無事であることを喜ぶ。春も近く、自身もほどなく帰国して花の時分を楽しむ意向を述べ、扇などを贈り、弾正や母へも伝えるよう求めた島津家久の仮名書状案。

  28. 後編5-No.328 島津家久譜

    家久の夫人亀寿が初秋から病床に伏し、十月に死去したため、家久が深く悲しみ、持明彰窓庵主の影前に和歌一首と序文を供えて冥福を祈ったことを記す。

  29. 後編5-No.329 島津家久書状案抄

    No.331の一部と同文であるため本文を省略した、家久による亀寿追悼書状案の抄録。

  30. 後編5-No.330 島津義久譜

    島津義久の娘で家久の簾中となった亀寿について、元亀二年四月二十六日生、寛永七年十月五日没、享年六十、法号を持明彰窓庵主・興国寺殿と記す系譜記事。

  31. 後編5-No.331 島津家久書状案

    夫人亀寿が初秋から病み、十月五日に死去したことを悼む長文の追悼書状案。病状を案じて使いを遣わした経緯、火葬と仏前供養、深い悲嘆を述べ、和歌「あたし世の雲かくれ行神無月/しくるる袖のいつはりもかな」を添える。

  32. 後編5-No.332 徳川秀忠御内書

    鷹野見廻りとして小袖三領・道服二領が届いたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとした徳川秀忠の御内書。

  33. 後編5-No.333 山川諏方大明神棟札写

    山川郷諏方大明神社の造営を記す棟札写。大檀那藤原朝臣家久の息災延命・武運長久を祈り、地頭鎌田出雲守、庄屋、願主・正祝、権祝、大工・鍛冶らを列記する。

  34. 後編5-No.334 島津家久書状案

    No.331と同文であるため本文を省略した、島津家久による亀寿追悼書状案。

  35. 後編5-No.335 和漢聯句

    寛永七年十一月二十七日に催された和漢聯句。懐旧を発端に、月・雪・梅・春秋・旅・仏法・忠孝など多様な題を和句と漢句で連ね、家久・貞昌・久元ら多数が参加した。末尾に各参加者の句数を記す。

  36. 後編5-No.336 某覚書条書

    琉球へ派遣する川上又左衛門尉・菱刈伴右衛門尉に付ける人数、京都で調達する銀子、帖佐弥左衛門尉の知行召上げ、比志島宮内少の嫡子の屋久島での出家、種子島にいる宮内少の女性と子二人の移送、息女を吉利下総守へ預けることなどを指示した覚書条書。

  37. 後編5-No.337 某覚書

    将軍の御成に備え、座敷・書院・数寄屋の普請、進上する太刀・腰物・脇差・馬、舞台での猿楽と装束、接待役、床に掛ける三幅対、琉球産の白糸・紅糸、料理用まな板の寸法まで細かく定めた覚書。

  38. 後編5-No.338 某条書

    御成に伴う借銀を補うための出物、女房衆の唐物・金糸入り衣装の禁止、留守中の奉公、年頭の出仕と贈答、振舞の品数、石高に応じた木綿・小袖の着用などを定めた倹約・服制の条書。

  39. 後編5-No.339 島津家久譜

    徳川家光が鷹狩で得た鶴を島津家久へ下賜したことを記す家久譜の記事。使者名は伝わらず、続く酒井忠世書状をその証拠として掲げる。

  40. 後編5-No.340 酒井忠世書状

    家久からの見舞いをありがたく思うこと、安房守の所へ出向いていて面会できなかったことを詫び、前日に将軍の鷹の鶴を拝領した家久の満足を喜び、後日参上すると伝えた酒井忠世の書状。追而書で十日朝の召寄せにも触れる。

  41. 後編5-No.341 沢永澄書下

    正宮武内四所之宮の修理に必要な品々を大工主膳正へ渡すよう、宗代坊と桑幡左馬佑に命じた沢永澄の書下。本文では五か条の内訳が省略されている。

  42. 後編5-No.342 伊勢貞昌書状

    子のない伊勢貞昌が、前年に江戸でおたつが産んだ家久の子を養子に迎えたいと願い、家久の内意と許可を得て決着したことを喜ぶ。家久の子女が多く将来の知行負担も増すため、子のない家へ養子を配する先例として伊集院・根占家にも触れ、詳細を福屋五郎兵衛尉に託した書状。

  43. 後編5-No.343 蔵人藤原共綱奉口宣案

    源光久を薩摩守に任ずる旨を記した口宣案。上卿を徳大寺中納言とし、蔵人右中弁藤原共綱が奉じた。

  44. 後編5-No.344 明正天皇宣旨

    従五位下源朝臣光久を薩摩守に任ずるよう命じた明正天皇の宣旨。権中納言藤原朝臣公信が奉じる。

  45. 後編5-No.345 蔵人藤原共綱奉口宣案

    源光久を従五位下に叙する旨を記した口宣案。上卿を徳大寺中納言とし、蔵人右中弁藤原共綱が奉じた。

  46. 後編5-No.346 島津光久叙従五位下位記

    源光久を従五位下に叙した位記。叙位の制書本文に続き、公家・官人を多数列記し、右中弁藤原共綱らが奉行したことを記す。

  47. 後編5-No.347 某覚書条書(島津家久カ)

    側近に遠慮なく意見する者がいるか、従来の談合が維持されているかを問い、鹿児島で安芸守・下野守・弾正の屋敷へ落書が投げ込まれた件を報告する。さらに各奉行の職務遂行、家老への態度、役人中の怠慢や身びいきを調べるよう求めた覚書条書。

  48. 後編5-No.348 島津家久譜

    寛永八年正月三日、家久が年頭の拝礼のため将軍家光の広間出御に参上し、太刀を献じたことを記す。酒井阿波守忠行が取次ぎ、諸侯も席次に従って拝謁した。

  49. 後編5-No.349 島津光久譜

    島津光久の女子が寛永八年正月六日に生まれ、ほどなく死亡したことを記す光久譜の記事。

  50. 後編5-No.350 島津家久書状案

    祈念の品として贈られた小袖一重を喜び、寒さの続く江戸で着用すると述べる。互いの無事や兄弟が懐かしがっていること、松千代からも文が届いたことを伝え、住まいの移転・整備らしき事柄にも触れた島津家久の仮名書状案。

  51. 後編5-No.351 鎌田政勝譜

    家久の十男・鎌田政勝について、政由・政昭・政道・正信・松千代丸・筑後蔵人などの名、寛永二年六月十三日の誕生、母、鎌田治部政統の養嗣となったこと、伊集院家との養子関係や滑川居住に関する考証を記す系譜記事。

  52. 後編5-No.352 伊東祐昌起請文

    命じられた意向を誠実に守り秘密を漏らさないこと、主家・領国に逆心する者が親子親類であっても同心せず報告することを誓った伊東祐昌の起請文。天罰霊社起請事として多数の仏神を勧請し、違背すれば子孫まで神罰を受けるとする。

  53. 後編5-No.353 島津家久譜

    二月、秀忠が隅田川辺で鳥銃により得た白鳥を内藤外記を介して家久へ与え、家久が登城して謝したこと、二十一日に山里の数寄屋で家久が正客を務めたこと、二十二日に駿河蜜柑一箱を拝領したことを記す家久譜の記事。

  54. 後編5-No.354 殉国名藪

    北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。

  55. 後編5-No.355 島津家久譜

    二月十二日、秀忠が使番を通じて御鷹と鳥二羽を家久へ与え、家久が西丸へ参上して謝したこと、十八日には病気の家久へ内藤外記を介して枝柿一箱を見舞いとして贈ったことを記す家久譜の記事。

  56. 後編5-No.356 島津家久譜

    能登の総持寺裏五庵の一つ妙高庵の塔堂が薩摩へ赴いた際、残る四庵主が伊勢貞昌へ書状を送った経緯を記す。前年に家康が定めた曹洞宗法度に従って旧規を改め、福昌寺を薩摩・大隅・日向三州の宗録とすることなどを伝えた家久譜の記事。

  57. 後編5-No.357 如窓庵全達外三名連署書状案

    曹洞宗法度に背く私意による出世を戒め、妙高庵の輪次職と色衣許可を説明する。福昌寺を三州の曹洞宗宗録とし、江湖興行・首座任命・本寺登山瑞世の手順を守らせ、違反僧には処罰を加えるよう求めた四庵主連署の書状案。

  58. 後編5-No.358 某書状案(島津家久カ)

    蔵人が下向した折に迎えたこと、ある人物が近ごろ体調を崩していること、自身は元気であることなどを伝え、相手を気遣った島津家久とみられる仮名書状案。

  59. 後編5-No.359 島津家久書状案

    ある役目を引き受ける件は少しも差し支えないので安心するよう伝え、上様の体調が良いことにも触れた島津家久の短い仮名書状案。

  60. 後編5-No.360 島津家久書状案

    使者を迎え、ほどなく自分も下向して慰めたいと述べる。新造の娘たちの寂しさ、長い旅と老いへの心情を詠歌を交えて語り、幼い者たちを案じ、弾正や袋へも伝言した島津家久の仮名書状案。

  61. 後編5-No.361 島津家久書状

    改年の祝儀として遠路から使者を寄越したことを喜び、相手方が無事であることを重ねて祝い、自身も変わりなく過ごしているので安心するよう伝えた島津家久の書状。

  62. 後編5-No.362 島津家久書状

    北郷讃岐守忠能が死去したとの早打ちの知らせに驚き、長く患っていたとの知らせもなかったため不慮の出来事であるとして、北郷出雲守の落胆を察し弔意を伝えた島津家久の書状。

  63. 後編5-No.363 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。

  64. 後編5-No.364 北郷時久一流系図

    北郷時久入道一雲から忠虎・忠能・忠亮へ続く北郷家の系統と、その周辺の式部太輔久直・次郎左衛門久定・外記忠長・筑後忠顕らについて、生没年・年齢・光久との続柄などを付記した系図。

  65. 後編5-No.365 島津家久譜

    三月二十二日に秀忠から使者を通じて御鷹の雁二羽を賜り、家久が謝した記事に続き、北郷忠能の人物と都城支配を論評する。忠能が幼くして孤児となり専横に育ち、賞罰を誤り忠臣を殺害・追放して北郷家を傾けたため、死後、家久が嗣子忠亮へ数条の教訓を川上久国・仁礼景親を介して示した経緯を記す。

  66. 後編5-No.366 島津家久袖判条書写

    北郷忠亮に、聖賢の道を学び賞罰を明らかにして家を長く保つこと、北郷家が島津家にとって重要であることを説く。忠能代の悪行に加担した者の追放・処罰、死罪・知行没収時の鹿児島への報告、鹿児島屋敷への移住などを命じた家久袖判の条書写。

  67. 後編5-No.367 島津家久書状案

    相手の体調がまだ十分でないことを案じ、検校に祈念を頼み、薬と併せて回復を祈る。又三郎・又十郎・越後守の任官が決まったこと、まもなく暇を得て帰国する見込みも伝えた島津家久の仮名書状案。

  68. 後編5-No.368 島津家久書状案

    四月に暇が出れば五月には帰国すると伝え、帰国後の犬追物に備えて犬を用意し、三十日ほど稽古させるよう求めた書状案。子どもたちは初めてなので馬の扱いが難しいとして、弾正にも準備を伝えるよう指示する。

  69. 後編5-No.369 島津家久譜

    三月二十九日、家光が家久嫡子又三郎忠元の四月一日元服を命じたことを記す。元服当日、又三郎は松平姓と光久の名を賜り薩摩守・侍従従四位下となり、家久は大隅守、忠直は式部大輔、忠紀は玄蕃頭となった。献上・拝領、酒宴、西丸で秀忠から刀剣を賜った経過も詳記する。

  70. 後編5-No.370 拝領物目録

    光久元服の日に将軍家光と大御所秀忠から家久父子へ下賜された刀剣の目録。家光から光包の脇指・守家・包永・元重の刀、秀忠から左文字の脇指・刀、国綱・長光の刀が、それぞれ家久・光久・忠直・忠紀へ与えられたことを列記する。

  71. 後編5-No.371 島津光久譜

    寛永八年四月一日、光久が江戸城で元服し、家光から松平姓と「光」の一字を賜って松平薩摩守光久と称し、侍従・従四位下に任じられたことを記す。父家久が従三位中納言であるため五位を経ず直ちに従四位下へ進み、前年の従五位下文書は官位順序を整えるため追給されたものと説明する。

  72. 後編5-No.372 蔵人藤原俊完奉口宣案

    従五位下源光久を侍従に任ずる旨を記した口宣案。上卿を西園寺中納言とし、蔵人左中弁藤原俊完が奉じた。

  73. 後編5-No.373 蔵人藤原俊完奉口宣案

    従五位下源光久を従四位下に叙する旨を記した口宣案。上卿を中院大納言とし、蔵人左中弁藤原俊完が奉じた。

  74. 後編5-No.374 明正天皇宣旨

    従五位下薩摩守源朝臣光久を侍従に任ずるよう命じた明正天皇の宣旨。正二位行権大納言源朝臣通村が宣し、中原師生が奉じた。

  75. 後編5-No.375 島津光久叙従四位下位記

    源光久を従四位下に叙した位記。中務卿智忠親王の宣、小槻孝亮の奉行に続き、公家・官人を列記し、中原師生・藤原共綱らが制書を施行したことを記す。

  76. 後編5-No.376 島津忠紀譜

    忠紀は元和八年、島津忠清の娘を母として生まれ、早世して継子のなかった又四郎久敏の猶子となった家久の実子である。寛永八年四月一日、光久の任官時に玄蕃頭・諸大夫従五位下となり、秀忠・家光から刀剣を拝領し、太刀・銀・衣服を献上した。

  77. 後編5-No.377 島津久元譜

    寛永八年四月一日、家久嫡子又三郎の元服に際し、島津久元が理髪役を務めたことを記す。元服後、家久は久元と伊勢貞昌に刀を与え、二人は太刀・銀・衣服を献上して謝意を表した。

  78. 後編5-No.378 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    光久の元服が前年から延期されていたが、大御所秀忠の内意により四月一日に江戸城本丸で実現したと報告する。光久が薩摩守・四位侍従、家久が大隅守、忠直が式部大輔、忠紀が玄蕃頭となり、刀剣を拝領した慶事を国元へ知らせた連署書状。

  79. 後編5-No.379 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    加治木大隅守と川上式部太夫について、家久の意向に従い旧名・官名を改めるよう求める。国中の飢饉に際して米価の高騰で民衆が苦しまないよう値段を抑え、命令に背いて高値で売る者を処罰する方針も伝えた。

  80. 後編5-No.380 島津家久書状案

    むもしの病について占いを行い、霊魂の障りがあるとの結果を受けて祈念を申し付けたと伝える。毘沙門などへの祈りで再発しないよう願い、弾正にも詳しく伝えて安心するよう諭した仮名書状案。

  81. 後編5-No.381 島津家久書状案

    母の病を聞いて驚いたが、すでに快復したことを喜び、家中の者も無事であると伝える。詳しいことは上方へ赴いた際に申し上げるとした家久の返書で、本文には寛永六年とする朱書注記がある。

  82. 後編5-No.382 島津家久譜

    大御所秀忠が内藤外記を使者として、御鷹の獲物三十羽を家久に下賜し、家久がすぐに登営して拝謝したことを記す。

  83. 後編5-No.383 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    光久付きの駕籠舁・挟箱持の選定と上京、子どもや岩崎姫の健康、琉球関係の京都借銀、書籍の損傷、国境争論など多数の案件を報告・指示する。寺院住持の選定、遊行上人への対応、帖佐長右衛門夫妻の帰国奉公についても命じた連署書状。

  84. 後編5-No.384 以心崇伝書状

    光久が江戸城で元服し、薩摩守と家光の偏諱を拝領したことを祝う。併せて島津家で代々用いる通字について「家」「久」のどちらと考えるべきか検討を求められ、別紙に所見を書き付けて送った崇伝の書状。

  85. 後編5-No.385 島津光久譜

    寛永八年四月一日、光久が江戸城で元服し、松平氏と将軍家光の「光」の字を賜って松平薩摩守光久と称したことを記す。

  86. 後編5-No.386 島津家久譜

    四月二十三日、大御所秀忠が御鷹で捕らえた水鳥を永井監物を使者として光久に下賜し、光久が登営して拝謝したことを記す。

  87. 後編5-No.387 酒井忠行書状

    翌晩の伺候を求められたことに答え、養生に努めているが病状がまだはっきり回復していないため出席できず、伊勢兵部にも事情を伝えたと述べる。後日改めて召し寄せられた際に伺う意向を示した酒井忠行の書状。

  88. 後編5-No.388 島津家久書状

    きくもしの体調不良を案じ、油断せず祈念を続けるよう求め、母や妹にも伝えるよう頼む。むもしの健康を喜ぶ一方、家久自身も病んでいたが前日から少し良くなったと知らせた仮名書状。

  89. 後編5-No.389 伊地知重政書状

    先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。

  90. 後編5-No.390 島津家久譜

    四月、遊行三十五世上人が巡国修行で日向国志布志に来訪したため、家久が饗応し、所々で休息場所を用意させた。時宗寺院の堂・客殿や道路・渓橋も修復させたことを記す。

  91. 後編5-No.391 遊行卅五世他阿伝書

    報恩・孝行を儒仏共通の教えとして説き、時宗開祖一遍の出自と修行、熊野での霊告を記す。遊行上人が家久の許可を得て薩摩・大隅・日向を巡行し、末寺・堂客殿・道路・橋を再興した功徳を後代へ伝えるため書き残した伝書。

  92. 後編5-No.392 島津家久書状

    せいゑもんから国元が無事と聞いて安心し、病気が流行しているので薬を怠らないよう勧める。母や家族へよろしく伝えるよう頼み、夏中にも暇を得て帰国したい意向を述べた仮名書状。

  93. 後編5-No.393 島津家久書状

    四月二十日付の書状が五月八日に届いたことを述べ、きくもしがたびたび訪ねていること、翌九日の振舞と十一日の能の後に暇が出る見込みを伝える。妹と又五郎の病気を案じ、近日中に詳しい知らせを送るとした仮名書状。

  94. 後編5-No.394 琉球人進上物注文

    琉球人から進上させる品として、練芭蕉布百端、中華尺・大尺各五、竹心香五脚、香箱類百袋、珍しい貝鳥、伽羅、巻物、蘇鉄などを列記する。蘇鉄は大きな鉢に植え、日光へ献上し後代まで残るものとするよう求め、高麗由来の品も進上候補とした注文。

  95. 後編5-No.395 島津家久譜

    家久が国内にない品を明国から求めるため銀百貫目余を琉球へ渡し、川上又左衛門忠通を奉行として派遣した。忠通が現地で便宜よく任務を果たした功により知行百石を与えられ、琉球在番奉行はこの時に始まったと記す。

  96. 後編5-No.396 伊勢貞昌書状

    琉球・唐との取引奉行を務めた川上忠通と、航海中に公銀を救出した町田勘解由へ各知行百石を加増し、留守奥方に勤める東郷肥前守へ年米三十石を与えるよう伝える。父子で奉公する家々への扶持、上知行に伴う知行米半減の共通扱いも指示した伊勢貞昌の書状。

  97. 後編5-No.397 某覚書

    庄内北郷氏について、年頭礼や公儀への連絡の遅延、祝儀使者の手配不足、内之浦の殿役未履行などを列挙する。公儀と領内を別扱いし、仁礼蔵人の妻の祈祷を頼む使者を善財坊へ取り次がなかった事例などを挙げ、北郷領の役人・統治慣行を問題視した覚書。

  98. 後編5-No.398 島津家久譜

    五月十日、大御所秀忠が内藤外記を使者として鮎の鮮魚を家久に下賜し、家久が常範を通じて拝謝したことを記す。

  99. 後編5-No.399 島津家久書状

    病気の弥九郎に薬の種類を変えて手当てしたが亡くなったことを深く悼む。幼少から召し使い頼もしく思っていた人物で、旅の苦労の中でも国元を思っていたであろうと述べ、両親にも諦めるよう伝えてほしいと頼んだ家久の書状。

  100. 後編5-No.400 島津家久書状

    母が無事であることを喜び、使者も健康で気遣いの行き届いた者だったと述べる。国元では疱瘡が流行しているため薬を怠らないよう勧め、まもなく帰国して詳しく話すと伝えた家久の返書。