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後編5の目録

旧記雑録 寛永3年~寛永15年の文書・記事です。

全1,340件中 1201~1300件・13 / 14ページ

  1. 後編5-No.1201 榊原職直書状

    贈られた肴への礼を述べ、子の左衛門佐にも肴を与えられたことを感謝する。当城はまだ落着していないが、一同油断なく務めており、詳しい状況は島津下野守・三原左衛門佐から報告すると伝えた書状。

  2. 後編5-No.1202 松平行隆書状

    自身の病はほどなく平癒する見込みと述べ、家久の体調を案じる。一揆勢が籠城する城について松平伊豆守・戸田左門が到着して慎重に処置し、島津下野守・三原左衛門佐とたびたび協議していると報告した書状。

  3. 後編5-No.1203 牧野成純書状

    当地にはなお別条がなく、松平伊豆守・戸田左門が万事を指揮しているため近日中に一揆を退治できる見込みと報告し、委細は両人から伝えるとした書状。

  4. 後編5-No.1204 林勝正書状

    使札への礼を述べ、去る朔日の戦況はすでに報告したとおりで、その後は別条がないと伝える。島津下野守・三原左衛門佐が派遣され、今後変事があれば両人を通じて連絡するとした書状。

  5. 後編5-No.1205 石谷貞清書状

    山田民部少輔が来訪して書状を受け取ったことを述べる。薩摩勢を当地へ派遣する希望について、江戸の上意により軍勢は天草まで差し出して置くべきであり、松平伊豆守・戸田左門も当地の家老衆へその旨を伝えたと報告した書状。

  6. 後編5-No.1206 戸田氏鉄書状

    当地の古城がまだ落ちておらず、築山・井楼・竹束などの仕寄を油断なく進めていると報告する。薩摩側の人数を派遣する案はもっともだが、松平伊豆守と相談し、必要時にはこちらから知らせるとした書状。

  7. 後編5-No.1207 細川光利書状

    見舞使者と琉球酒一壺・鰹塩引二つへの礼を述べ、自身の煩いはなお残るものの、各隊の仕寄が間もなく整う見込みと報告する。府内からの飛脚による諸大名の帰国や、水口・小笠原一門の当地到着も伝えた書状。

  8. 後編5-No.1208 松平忠重・伊東祐久連署書状

    両名が当城の番を命じられて二、三日前に着船したことを知らせる。城外に潜む一揆勢を山狩するよう松平伊豆守・戸田左門から指示があり、薩摩勢を差し越すとの意向を承知し、家久の病状も案じた連署書状。

  9. 後編5-No.1209 牧野成純外二名連署書状

    家久の病状と疲労を案じ、養生を第一とするよう勧める。当地では仕寄が過半まで進み、急ぐ状況ではないこと、薩摩勢を領内の出水まで出して置く件を承知し、万事を島津下野守と相談すると伝えた三名連署書状。

  10. 後編5-No.1210 細川忠利書状

    将軍の機嫌がよいこと、自身は正月二十三日に暇を得て二十六日に島原へ着いたことを報告する。家久の病気再発を案じ、キリシタン籠城側に変化はなく、現在は諸手を待ちながら仕寄を進めていること、薩摩殿にも暇が下りたことを伝えた書状。

  11. 後編5-No.1211 天草立軍衆賦

    天草へ立てる軍勢を出水・米之津などで改めて数え、島津下野守・豊後守・北郷佐渡守らの配下、浮衆船奉行・兵粮渡衆などを区分して人数を列記し、総人数一万一千二百六十八人と集計した軍勢賦。

  12. 後編5-No.1212 島原出陣諸賦頭書

    島原出陣に備える諸賦の頭書。屏・鉄炮・弓・鑓、馬乗衆・陸衆・外城衆、軍粮・兵粮・船、奉行・番手・人足、道具や贈答品まで多数の項目について数量・担当・配置・運送方法を詳細に定める。

  13. 後編5-No.1213 島津久元書状

    薩州様が大坂から日向筋を下り、鹿児島を経て獅子島へ渡海し、松平伊豆守に有馬出張の可否を尋ねる予定を伝える。伊豆守は現地の軍勢が多いため有馬への出張は不要で、天草を見回る程度がよいとの意向であり、その段取りを相談した書状。

  14. 後編5-No.1214 川上久国・三原重庸連署書状

    阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況…

  15. 後編5-No.1215 石谷貞清書状

    近ごろ家久の病状がひときわ悪いと聞いて案じ、養生を第一にするよう勧める。当地の状況については島津下野介から詳しく報告するため、書中では省略するとした書状。

  16. 後編5-No.1216 松平定頼書状

    無事に暇を得て帰国することを祝し、海陸の道中安全を願う。島原の情勢については注進を受け次第出向くことになると見込み、島津家久の病状がいよいよ快方に向かったと聞いた喜びも伝えた書状。

  17. 後編5-No.1217 林勝正書状

    家久の病状を案じ、養生を勧める。攻城側は築山を設け、石火矢・大筒で城を攻撃して城中が大いに苦しむ様子であり、松平伊豆守・戸田左門の指揮によって近く落城するだろうと報告した書状。

  18. 後編5-No.1218 戸田氏鉄書状

    家久が本復したかを案じ、当地の詳しい様子は島津下野守から順次報告すると述べる。薩摩側の人数を天草・出水まで出して置いたとの連絡を承知した書状。

  19. 後編5-No.1219 細川忠興書状

    改年の祝儀として贈られた小袖十領への礼を述べ、先に贈った道具・茶入・香合の仕上げや利休本に基づく袋の仕様を説明する。家久の腫物を案じ、島原城内は物資が尽きて落城が近いこと、薩摩勢が出陣することなども伝えた長文書状。

  20. 後編5-No.1220 木下延俊書状

    現地の様子を知るため見舞いの使者を送り、自身は上使衆の指図がないうちは家久のもとへ参上できず迷惑に思うと述べ、後便を期した短い書状。

  21. 後編5-No.1221 島津家久書状

    島津光久が暇を得て有馬へ向かうことを喜び、島原への加勢人数は足りていると松平伊豆守から島津下野守へ伝えられたため、上使への見舞いと到着待ちを指示する。宛所の病を案じ、所用を済ませて早く帰国するよう求めた書状。

  22. 後編5-No.1222 島津家久書状

    島津光久が暇を得て有馬へ向かうと聞いた喜びを述べる。宛所が留守居として江戸にいるため万事に念を入れるよう求め、弾正殿の病が治まったなら所用を聞いたうえで早々に下国させるよう指示した書状。

  23. 後編5-No.1223 亀井茲政書状

    一揆追討のための出陣を慰労し、遠隔地のため戦況を承知していないが諸将が出陣した以上は間もなく決着すると見込む。自身は雲州松江城番を命じられ、正月二十八日に到着して城と各受持口を油断なく管理していると報告した書状。

  24. 後編5-No.1224 戸田氏鉄書状

    先刻の訪問に感謝し、仕寄場へ出ていて対面できなかったことを残念に思うと述べる。当地に籠居している間、用があれば命じてほしいと伝えた書状。

  25. 後編5-No.1225 島津家久遺言状

    公儀への奉仕を第一とし、多くの子の処遇に差が生じても互いに救い合って家を守ること、欲心を慎むこと、殉死を止めること、中納言としての位牌形式を上方へ照会すること、位牌の脇に五人を置くことなどを定め、辞世を添えた遺言状。

  26. 後編5-No.1226 松平信網書状

    島津光久が帰国して久しぶりに家久と対面できたことを祝し、家久の病状を案じて養生を勧める。当地の攻城はまだ決着していないが、仕寄道具がほぼ完成し、手順が整い次第取り掛かると報告した書状。

  27. 後編5-No.1227 松平信網書状

    先日の訪問時は仕寄場へ出ていて対面できなかったことを詫び、光久の無事帰国と家久の養生を喜ぶ。当地はなお未決着だが、仕寄道具がほぼ整い、準備が整えば攻撃を始めると伝えた書状。

  28. 後編5-No.1228 細川忠利書状

    二月十九日付の書状を受け、口之津にいた船へ送った書状が届いたことを確認する。島津家久の病状が再び重く、ひどく疲れていると聞いて案じ、現地の様子は使者から説明するとした書状。

  29. 後編5-No.1229 清水氏年代記

    島原・天草一揆への薩摩勢派遣を記す年代記。島津家久の病気と島津光久の江戸滞在、総勢一万一千二百六十八人の編成と諸隊の人数、出水・米之津までの出陣、島原落城による帰陣、光久の江戸出立・有馬到着などを記録する。

  30. 後編5-No.1230 尚豊書状

    長く病気である家久の快気を願い、見舞いのため金武按司を派遣する。肥前での戦いに対し薩摩国から援軍が出陣したことを慰労し、後便を期した琉球国司尚豊の書状。

  31. 後編5-No.1231 島津光久譜

    尚豊書状に付された張紙・宛書部分として、島津光久への進上名と二月二十三日付、琉球国司尚豊の署名を記す譜記事。

  32. 後編5-No.1232 尚豊書状

    尚豊は、家久の長期逗留を朝夕案じ、近頃はいよいよ快気しているだろうと見舞う。見舞いの進物と使者を送り、家久が肥前表に陣を構えたこと、これに際して薩摩国から加勢が出陣したことを伝え聞き、その労苦を察すると述べる。詳しくは金武按司が申し述べるとする。琉球国司尚豊から黄門家久尊公宛。寛永十五年二月二十三日…

  33. 後編5-No.1233 島津家久譜

    島津家久が病勢を増し、治療の効なく二月二十三日に鹿児島城で六十三歳で死去したことを記す。慈眼院花心琴月大居士の諡号、福昌寺への埋葬、殉死者九名、徳川家光から能勢小十郎を通じた白銀五百枚の香典などを載せる譜記事。

  34. 後編5-No.1234 島津家久詮号印下状

    島津家久の院号を「慈眼院」とすることについて、醍醐三宝院から許可された旨を記した詮号・院号の印下状。

  35. 後編5-No.1235 島津光久祭文

    父・島津家久の病と死去、葬儀に至る経過を漢文で述べ、その徳業・統治・武功を称え、父を失った悲嘆と追慕を表す。供物を捧げ、福昌寺での法会・追善に際して霊前へ奉告した長文の祭文。

  36. 後編5-No.1236 北郷久直譜

    寛永十五年正月、北郷家臣の津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興ら三百人が先手として出水・米津へ進み、原城落城を聞いて帰陣したことを記す。二月二十三日の島津家久死去後、島津光久が江戸に留守の間、久直が分国中の諸役人へ下知を加える任を命じられたとする譜記事。

  37. 後編5-No.1237 島津久元外三名連署書状

    島津家久が二月二十三日に死去したため、役務中の長野殿・酒匂殿を船に乗せ、少しも遅延なく早々に帰宅させるよう命じた四名連署の書状。

  38. 後編5-No.1238 戸田氏鉄書状

    二月二十四日付の書状を拝見し、大隅様(島津家久)が二十三日に死去したとの知らせに弔意を示す。詳しい返答は山田氏部へ伝えたため省略するとした戸田氏鉄の返書。

  39. 後編5-No.1239 仁礼某差出

    有馬春之城の本丸へ乗り込み敵三人と槍を合わせたことを、入来源左衛門・肱岡右近、三原大蔵太輔・西郷壱岐守らの立会・証跡を挙げて証明した仁礼左近将監の戦功証文。

  40. 後編5-No.1240 市来某差出

    寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、新納加賀守・市来五兵衛尉の立会を示して証明した市来八左衛門尉の差出。

  41. 後編5-No.1241 新納忠清差出

    寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、市来八左衛門尉・市来五兵衛尉の立会を示して証明した新納加賀守忠清の差出。

  42. 後編5-No.1242 市来某差出

    寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、新納加賀守・市来八左衛門尉の立会を示して証明した市来五兵衛尉の差出。

  43. 後編5-No.1243 大口衆合戦太刀打・手負・首注文

    寛永十五年二月二十八日の原城本丸攻撃における大口衆の戦功を列挙した注文。槍働き、首級、太刀打ち、負傷、戦死などを人名ごとに記し、福崎新兵衛尉・仁礼左近・三原大蔵・松下源五左衛門尉ら証跡人も付記する。

  44. 後編5-No.1244 上原某差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬原城の本丸塀に取り付いたことを、市来五兵衛尉を証跡人として記した上原佐太右衛門尉の戦功証文。

  45. 後編5-No.1245 三原某差出

    有馬春之城の本丸へ乗り込み、敵二人と槍を合わせ、さらに鉄砲で敵を討ったことを、入来源左衛門・肱岡左近・仁礼左近・西郷壱岐守・長瀬新兵衛らの立会・証跡を挙げて証明した三原大蔵太輔の戦功証文。

  46. 後編5-No.1246 新納某差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬原城の塀を乗り越えて城内に入り、鉄砲を用いたことを、出水衆の山内左近将監・村尾源左衛門尉の立会によって証明した新納佐左衛門尉の差出。

  47. 後編5-No.1247 平田某差出

    有馬春之城の本丸石垣に取り付き、塀を越えて城内で首一つを取ったことを、是枝喜右衛門・井尻三郎右衛門の証跡を挙げて届けた平田弥左衛門の戦功証文。

  48. 後編5-No.1248 木村某差出

    有馬春之城の本丸石垣に取り付き、塀を越えて城内へ入ったことを、伊地知杢右衛門尉が承知しているとして届けた木村平右衛門尉の差出。

  49. 後編5-No.1249 川田某・木佐貫某連署差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取り、木佐貫半右衛門尉を首主、川田弥左衛門を合討者として、坂元四郎兵衛・福崎覚兵衛を証跡人に挙げた連署の戦功証文。

  50. 後編5-No.1250 福崎某・坂元某連署差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを、木佐貫半右衛門尉・川田弥左衛門尉を証跡人として記した福崎覚兵衛・坂元四郎兵衛尉連署の差出。

  51. 後編5-No.1251 高尾野衆合戦太刀打・手負・首注文

    原城本丸攻撃における高尾野衆の戦功を列挙した注文。槍働き、分捕り、首級、弓・鉄砲による働き、負傷などを人名ごとに記し、三原大蔵太夫・平山七兵衛ら証跡人も付記する。

  52. 後編5-No.1252 高尾野衆中失衆注文

    高尾野衆の失衆を列挙した注文。牧田主馬允・前田少兵衛尉・山口納右衛門尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉らを挙げ、原城攻撃での射撃・首級処理や働きに関する注記を添え、宮原又左衛門・税所助兵衛が証した。

  53. 後編5-No.1253 蒲生衆合戦太刀打・手負・首注文

    寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸攻撃における蒲生衆の戦功を列挙した注文。首級、槍、太刀打ち、負傷、鉄砲などの働きを人名ごとに記し、市来方左衛門をはじめ多数の同心衆を載せる。

  54. 後編5-No.1254 是枝某等討取首注文

    寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬春之城の本丸で討ち取った首級を列挙した注文。是枝喜右衛門尉が田中九兵衛を討ち取った例など、首主・討取相手・同道者を組み合わせて記す。

  55. 後編5-No.1255 福崎某・村尾某連署実見証文

    二月二十八日の有馬春之城攻撃で、大野監物が本丸石垣に登り、塀を乗り越え、長刀で敵一人を討った場面を実見したとして、福崎新兵衛・村尾源左衛門が二月二十九日に連署して証明した実見証文。

  56. 後編5-No.1256 宮原某・村尾某連署実見証文

    二月二十八日の有馬春之城攻撃で、平山七兵衛が本丸石垣を約三間登り、塀を乗り越え、敵一人と槍を合わせて槍下に突き伏せた場面を実見したとして、宮原与左衛門・村尾源左衛門が二月二十九日に連署して証明した実見証文。

  57. 後編5-No.1257 三原某差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬春之城の本丸石垣を乗り越えた旨を記す差出。本文の見える範囲が短く、以後の戦功内容・署名・宛所は判読を保留する。

  58. 後編5-No.1258 有村某差出

    二月二十八日の有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で撃ち、さらに敵二人と槍を合わせたことを、大口衆・鹿児島衆・高尾野衆の証跡人を挙げて、有村掃部助が二月二十九日に届けた戦功証文。

  59. 後編5-No.1259 日高某外三名連署差出

    四人で先手を務めて有馬春之城本丸の塀に取り付き、塀越しに槍を合わせようとしたが、日高十兵衛・有馬久右衛門らが石打ちに遭い、槍を合わせられなかった経緯を記し、鹿児島衆の実見を証跡とした四名連署の差出。

  60. 後編5-No.1260 大重某差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣に取り付き、塀を乗り越えて城内で首一つを討ち取ったことを、伊地知杢右衛門尉を証跡人として、大重伝左衛門が二月二十九日に届けた差出。

  61. 後編5-No.1261 村尾某差出

    二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣・塀を越えて城内で槍を合わせ、須木衆今村休右衛門尉を槍下で射止め、須木衆堀添十郎兵衛尉が首一つを取ったことなどを証跡とともに報告した村尾源左衛門の差出。

  62. 後編5-No.1262 寺師某差出

    有馬原城の高さ三間ほどの石垣を登って塀に取り付き、市来八左衛門尉が槍で突き落とされたところを助け、貴島八左衛門尉へ引き渡したことを、上原佐太右衛門尉の証跡を挙げて届けた寺師与左衛門の差出。

  63. 後編5-No.1263 有馬某差出

    寛永十五年二月二十八日、有馬春之城本丸の塀を乗り越え、城内で敵一人と槍を合わせたことを、平山七兵衛・山本左近将監・大口衆壱岐兵左衛門らの証跡書物を根拠として、有馬九郎左衛門が二月二十九日に届けた差出。

  64. 後編5-No.1264 伊地知某差出

    寛永十五年二月二十八日未刻、有馬春之城本丸へ乗り込み、敵一人を槍で討ち取ったことを、出水衆指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉の立会を挙げて、伊地知杢右衛門尉が二月二十九日に届けた差出。

  65. 後編5-No.1265 田中某差出

    二月二十八日、有馬春之城本丸の塀内で敵二人に遭い、一人の槍を奪い、もう一人と槍を合わせて負傷させ、槍下で仕留めたが首は取らなかったことを、三原五郎兵衛の後日証跡を根拠に届けた田中五右衛門の差出。

  66. 後編5-No.1266 宮原某外三名連署実見証文

    二月二十八日、有馬春之城本丸の高さ三間ほどの石垣を登り、塀を乗り越えて敵三人と槍を合わせ、その一人を槍下に取り伏せた福崎新兵衛尉の働きを実見したとして、宮原某ら四名が二月二十九日に連署した証文。

  67. 後編5-No.1267 出水衆合戦太刀打・手負注文

    二月二十八日の有馬原城本丸合戦について、出水衆の参戦者を挙げ、槍傷・刀傷・矢による負傷、敵首の取得など各人の戦功と被害を分類して記した注文。

  68. 後編5-No.1268 加久藤衆等合戦太刀打・手負注文

    伊地知杢右衛門尉に続いて有馬原城本丸へ乗り込んだ加久藤衆らについて、太刀打・槍働き・負傷・敵首などを各人別に列挙し、寺領衆の働きもあわせて記した合戦注文。

  69. 後編5-No.1269 市来某等合戦太刀打・手負・首注文

    二月二十八日の有馬原城本丸攻めに参加した薩摩方諸衆を広く列挙し、乗入れ・太刀打・槍働き・鉄砲・手負・討死・首取得などの戦功と被害を人別・組別に整理した大部の注文。三月朔日付で、二十三葉をもって巻を終える。

  70. 後編5-No.1270 村尾某実見証文

    二月二十八日、有馬春之城本丸で須木衆今村休右衛門と槍を合わせ、左手に槍傷を負いながら敵を槍下に取り伏せ、須木衆堀添十郎兵衛が首を取ったことなどを、同行者の実見に基づき三月朔日に証明した文書。

  71. 後編5-No.1271 有馬某実見証文

    二月二十八日辰刻、有馬原城本丸攻略の際、友野七郎と藤井助四郎が石垣際へ先に進み、敵の投石を受けて三間ほど下へ落ちた場面を実見したとして、有馬久右衛門が三月朔日に提出した証文。

  72. 後編5-No.1272 友野某実見証文

    二月二十八日辰刻の有馬原城本丸攻略で、有馬久右衛門らが石垣際へ先行し、敵の投石を受けて石垣下へ落ちた場面を実見したとして、友野七郎が三月朔日に提出した証文。

  73. 後編5-No.1273 藤井某実見証文

    二月二十八日辰刻の有馬原城本丸攻略で、友野七郎・有馬久右衛門らが石垣際へ先行し、敵の投石を受けて石垣下へ落ちた場面を実見したとして、藤井助四郎が三月朔日に提出した証文。

  74. 後編5-No.1274 松平定行書状

    有馬表がなお静謐に至らない状況を踏まえ、家中の役目・人員配置や江戸への急派、相続・諸手当などについて指示し、遅滞なく処置するよう求めた松平定行の書状。

  75. 後編5-No.1275 松平定行書状

    大隅守の死去を悼み、薩摩守の心中を察して弔意を伝えるとともに、事情により自ら伺えないことを述べ、中納言の長患いにも触れて見舞いと自愛を求めた松平定行の書状。

  76. 後編5-No.1276 島津光久譜

    島津家久が天草警固と有馬への援兵を派遣し、寛永十五年正月朔日および二月二十八日の原城攻撃で諸士が戦い、敵首およそ二百級を挙げ、死傷者も出たこと、島津光久が賊徒掃討を江戸の執政へ報告したことを記す譜記事。

  77. 後編5-No.1277 松平信網書状

    先月二十七日の原城本丸攻めと翌二十八日の残党追討により一揆を討ち果たしたことを報じ、共同出兵の戦功をねぎらうとともに、戦後処置や進上物などに関する意向を伝えた松平信綱の書状。

  78. 後編5-No.1278 三原重庸・伊勢貞昌連署書状

    有馬表からの帰途、市来湊・向田を経て京泊から出船しようとしたが風雨で延期した事情を知らせ、江戸年寄衆への御遺物として腰物・後鳥羽院歌絵紙・定家筆古今集などを進上する是非を、家のため十分相談するよう求めた連署書状。

  79. 後編5-No.1279 島津久元外四名連署条書

    進貢船の謝恩渡唐時に日本の武具を渡さないこと、切支丹宗旨を禁ずること、他国人が領国の水手に紛れて琉球へ渡るのを取り締まること、八重山・宮古島へ来着した南蛮人を拘束することなどを定めた五名連署の条書。

  80. 後編5-No.1280 立花忠茂書状

    中納言の死去を聞いて驚き、薩摩守の心中を察して弔意を表し、香典として銀五十枚を贈るとともに、使者の用向きを薩摩守へ取り次ぐよう依頼した立花忠茂の書状。

  81. 後編5-No.1281 立花某書状

    黄門の死去に弔意を示し、薩摩守後見について伊勢兵部少輔の尽力を求めたうえで、有馬一揆が二月二十七・二十八日に鎮圧されたこと、自身も戦闘で鉄砲傷を負い療養中であることを詳しく報じた書状。

  82. 後編5-No.1282 新納忠清書状

    寺原早介重幸が家久死去の際に殉死を願ったが止められ、その志により後の御供を許されたこと、七周忌に島津久慶から追悼歌の短冊を受け、現在も所持することなどを伝えた新納忠清の書状。

  83. 後編5-No.1283 島津久慶追悼詠草

    頓翁宗悟居士の七周忌に際し、「時しりて花も涙や濺らむ/鳥はこころの有かほになく」と詠み、故人を追悼した島津久慶の詠草。

  84. 後編5-No.1284 土井利勝外二名連署書状

    書状を受け取り、松平伊豆守と相談した事柄について応答するとともに、大隅守死去への弔意を述べ、遠路のため使者を立てたと伝えた土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋の連署書状。

  85. 後編5-No.1285 島津久慶・鎌田政統連署書状

    大隅守死去後の薩摩守の家督・国政処置と江戸参府を見込み、幕府上使の下向もあり得るため内々に備えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。上使対応の具体的な道中・船・供人手配は続くNo.1286に記される。

  86. 後編5-No.1286 島津久慶・鎌田政統連署書状

    能勢小十郎から、幕府上使が薩摩へ下向するとの連絡を受け、道中の馬、乗船、京都以西の供人、差し支えがある場合の代替要員、随行人数などを早急に整えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。

  87. 後編5-No.1287 島津光久譜

    徳川家光が島津家久の訃報を聞き、能勢小十郎を通じて香奠の白銀五百枚と奉書を島津光久へ贈ったこと、光久がすでに江戸を出発していたため、小十郎がこれを薩摩まで携行したことを記す譜記事。

  88. 後編5-No.1288 土井利勝外二名連署書状

    大隅守の死去が将軍へ伝わり、薩摩守の心中を察して香奠銀五百枚が下されたこと、その上意は能勢小十郎が口上で伝えることを知らせた土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋の連署書状。

  89. 後編5-No.1289 山口直友書状

    呂宋船が長崎へ帰着したとの注進を受け、京泊に着いた「ばたん舟」がどの船か、どのような荷物を積むかを詳しく調べ、将軍の命として早飛脚で速やかに報告するよう求めた山口直友の書状。

  90. 後編5-No.1290 島津光久譜

    島津家久が病中に光久への家督相続を幕府へ願い出たのち死去し、光久が三月十七日に鹿児島を発って江戸へ参府、五月に土井利勝邸で所領相続を命じられ、将軍への拝謁・献上を経て家督を継承した経緯を詳述する譜記事。

  91. 後編5-No.1291 島津久元譜

    島津久元が寛永十五年三月に出発し、寛永十七年五月に帰国したことを簡潔に記した譜記事。

  92. 後編5-No.1292 島津久元譜

    島津久元の末子又五郎久近が若くして没したため、玉龍山内に休外院を建立し、国和和尚を開山として位牌を安置し、子孫が永く祭祀を続けるため茶湯料地を寄進した経緯を記す譜記事。

  93. 後編5-No.1293 島津久元室寄進状

    休外院の永代茶湯料として、郡山東俣・鹿児島田内西之園門などの田地を合わせて百三十三斛分寄進し、家中の支配が変わっても子孫が返地・再配分せず守るよう定めた島津久元室の寄進状。

  94. 後編5-No.1294 島津久慶・鎌田政統連署書状

    薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者…

  95. 後編5-No.1295 伊勢貞昌書状

    道中で、黄門死去に伴う幕府上使として能勢小十郎が江戸を三月十二日に発ち、大坂を同十八日に出船したとの報を受け、すでに細島へ着船した可能性を見込み、急ぎ飛脚で知らせるとともに、自身の大坂への航行予定を伝えた書状。

  96. 後編5-No.1296 松平信綱・戸田氏鉄連署書状

    先に申し入れた逃亡者の皆吉長右衛門尉・芦塚権右衛門は二十四、五歳ほどで、北郷式部の弟のもとにいるとの情報を伝え、詮議して召し捕り、小倉または大坂の奉行所へ送り届けるよう命じた松平信綱・戸田氏鉄の連署書状。

  97. 後編5-No.1297 松平信網・戸田氏鉄連署書状

    島原にある大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶため、小笠原壱岐守・久留島丹波守・下曾祢三十郎から受け取り、大坂町奉行へ引き渡すこと、船数と船の大小を報告することを命じた連署書状。

  98. 後編5-No.1298 川上久国外二名連署覚書

    琉球中でキリシタン宗門を厳禁して改めを徹底し、キリシタン・異国人を摘発すること、唐人や人口を帳面で把握すること、不審な旅人を調べて無断の逗留・渡航を防ぐことなどを命じた連署覚書。

  99. 後編5-No.1299 下曾祢信由外二名連署書状

    島原の大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶ件について、十~十二反帆ほどの船二十四、五艘と予備四、五艘を用意するよう求めた下曾祢三十郎ら三名の連署書状。

  100. 後編5-No.1300 島津光久書状

    中納言登城の際に供奉する歩行衆の人数を尋ね、財部伝右衛門に託した馬具を家老衆から川上五次右衛門へ渡す手配を伝え、伊勢兵部の帰着後に詳しく相談するとした島津光久の書状。