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後編4の目録
旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。
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後編4-No.1 島津家久譜
慶長十年正月、島津忠恒が年頭の祝儀として徳川家康へ太刀一腰と馬代黄金二枚を使者に託して献上し、本多正純を通じて受納されたことを記す。使者の姓名は伝わらず、豊臣秀頼への使者を務めた町田久幸と同人であった可能性を注記する譜記事。
後編4-No.2 本多正純書状
本多正純が島津忠恒へ、徳川家康に進上した年頭祝儀の太刀一腰と馬代黄金二枚が披露され、首尾よく受納されたので安心するよう伝えた書状。馬代については上意のとおり、奏者番衆が裏判を加えた折紙を添えて送付している。
後編4-No.3 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪道澄が島津義久へ、新年を祝し、年頭祈祷の護摩を結願して巻数と守りを送った書状。義久の上洛予定を喜び、徳川家康が近日江戸を発ち、徳川秀忠も二月頃に出発して将軍宣下を受ける見込みであることを知らせている。
後編4-No.4 白山神領知行目録
薩摩国出水郡知識庄村内の白山神領について、川端の上田一段三畦十八歩を牧助九郎、同所九畦二十四歩のうち上田六畦十四分を染川甚左衛門尉の名請として掲げ、それぞれの石高と合計三石一升を記した知行目録。
後編4-No.5 島津竜伯義久書状
島津義久(龍伯)が樺山権左衛門尉へ、新年を祝い、自身は三月頃の上洛を予定していると伝えた書状。島津義弘(惟新)の身上について何らかの取り沙汰がないかを尋ね、その事情が自らの上京にも関わるため、現地の様子を密かに聞き合わせて詳しく報告するよう求めている。
後編4-No.6 島津惟新義弘書状
島津義弘(惟新)が樺山久高へ、久高が望んだ肩衝について、山口殿の内覧前なので直ちに他所へ出せず、下向時に相談すると回答した書状。在京衆の普請での辛労をねぎらうよう頼み、山口殿宛書状を添えて適任者に太刀を持参させること、詳細は伊勢平左衛門尉が伝えることを述べる。
後編4-No.7 徳川家康御内書
徳川家康が島津義久から音信として唐墨二挺と唐折敷二十枚を贈られたことを喜び、受領の礼を述べた御内書。
後編4-No.8 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津義弘へ、新春を祝い、前年冬の書状と緞子五巻の贈答に感謝した書状。義弘が上洛するなら蹴鞠をたびたび催したいと述べ、一軸と元日の自詠を送り、義弘の歌を拝見したいと希望している。
後編4-No.9 近衛竜山前久書状
近衛前久(龍山)が島津義弘へ、東山辺を遊行しているとの風聞を退け、禁裏から古今伝受に関する下問を受けて出京している事情を説明した書状。鷹・馬や鷹狩の話題、薩摩で心安く暮らしたいとの希望を述べ、以前義弘から得た黒犬が死んだため、よく働く犬二疋を所望している。
後編4-No.10 山口直友書状
山口直友が島津義弘へ、改年を祝い、太刀一腰と馬一疋の贈答を受けたことに礼を述べた書状。徳川家康への披露と御礼を約し、義弘から依頼された件は大将へ申し入れて実現するよう努めること、上洛後に面会して詳しく相談したいことを伝える。
後編4-No.11 島津家久譜
島津義久(龍伯)が病気と老齢のため上洛を延期したので、島津忠恒が代わって薩摩を発ち、家老らを伴って三月に大坂へ到着した経緯を記す譜記事。本多正純・山口直友の書状で上洛を促されたこと、徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を発ったとの福島正則の報知を掲げる。
後編4-No.12 福島正則書状
福島正則が島津忠恒へ、前年の使者に会えなかったことを詫び、新年の祝意を伝えた書状。徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を出発したことを知らせ、上方で用向きがあれば遠慮なく申し越すよう述べている。
後編4-No.13 島津家久譜
島津忠恒が町田勝兵衛尉久幸を使者として豊臣秀頼へ年頭の祝儀を進上し、秀頼から黒印の返書を受けたことを記す譜記事。進上品は太刀一腰・馬代銀子十枚・段子十巻で、使者の町田久幸は秀頼に対面し、返礼として太刀一腰・馬代銀子十枚・段子五巻を受けた。
後編4-No.14 片桐且元書状
片桐且元が島津忠恒へ、町田久幸を通じて豊臣秀頼へ献上された太刀・馬代銀子・段子を披露し、秀頼が殊に喜んだことを報告した書状。自分にも贈られた太刀と段子への謝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定であることを知らせている。
後編4-No.15 片桐貞隆書状
片桐貞隆が島津忠恒へ、年頭祝儀として豊臣秀頼へ献上された太刀・馬・段子を片桐且元と相談して披露し、秀頼が喜んで町田少兵衛に対面し黒印を渡したことを報告した書状。貞隆自身への太刀・馬・段子の贈答にも謝意を示し、忠恒の上洛後に面会したいと述べる。
後編4-No.16 山口直友書状
山口直友が島津義久(龍伯)へ、新年の祝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定なので安心するよう知らせた書状。前年に比志紀へ事情を申し入れたことに触れ、今年は義久自身が上洛するのが望ましいと勧め、申し入れが少ないことを疎遠のためと思わず、家康・義久との関係は深いと述べている。
後編4-No.17 樺山久高譜
慶長十年三月二十四日、徳川家康・秀忠父子が伏見へ上洛した際、島津忠恒(家久)の参覲が遅れ、樺山久高が憂慮して奔走したが、到着後は遅参の咎めなく家康・秀忠から厚遇されたことを記す譜記事。その後、忠恒は大御所への御目見と四月二十五日の参内供奉を済ませ、帰国命令を受け難波から船出した。久高も国分・帖佐まで…
後編4-No.18 某覚書
文書二十一通、別の文書三十二通、巻物六つを列挙し、慶長十年二月二十七日に町田勝兵衛尉が鹿児島へ持参したことを記した覚書。
後編4-No.19 樺山紹劍自記
樺山久高が、慶長十年の将軍上洛時に島津忠恒の京都到着が遅れたため奔走したこと、到着後に大御所への御目見が無事済み、四月二十五日の参内供奉にも加わったことを記した自記。忠恒が京都で高い評価を受けて帰国し、久高も鹿児島・国分・帖佐へ供奉したのち、前年以来の労苦を終えて帰郷した経過を詳述する。
後編4-No.20 本田正親書状
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
後編4-No.21 本多正純書状
本多正純が島津忠恒・島津義弘へ、両名から示された「山敷」に関する内意と一つ書を詳しく承知したと答えた書状。山口直友と相談して徳川家康へ上聞に達しており、さらに上意を得たうえで改めて状況を知らせると述べ、詳細は山口直友と使者の口上に委ねている。
後編4-No.22 島津家久譜
島津忠恒が三月十八日に伏見へ上り徳川家康に拝謁し、献上品を差し出して大小の宝刀を賜ったこと、翌十九日には徳川秀忠にも拝謁したことを記す譜記事。家康・秀忠への献上品の詳細や宝刀の刀工は伝わらない。
後編4-No.23 島津忠恒家久書状
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
後編4-No.24 北郷久加譜
北郷三久が島津忠恒を平佐の館へ招いて盛膳を献じた際、二歳の北郷久加が初めて忠恒に拝謁したことを記す譜記事。奏者は鎌田出雲守政近であった。
後編4-No.25 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が島津忠恒へ、先に送った犬追物の聞書には不備があるので直して改めて送ると伝えた書状。病状は前日より軽くなったことを知らせ、忠恒の出船は順風なら急ぐよう勧め、前日に命じられた事柄が慰めになるだろうと述べている。
後編4-No.26 島津家久譜
徳川秀忠の官位昇進を翌日に控え、島津忠恒が出仕したいものの正式な装束を持参していないため、長袴で出仕しても礼を失わないか山口直友を通じて本多正純へ問い合わせたことを記す譜記事。編年について、付紙や義弘書状を根拠に慶長十年の記事として収めた旨の注記がある。
後編4-No.27 本多正純書状
本多正純が山口直友へ、徳川秀忠の官位昇進に伴う島津忠恒の出仕について、正式な装束がなくても長袴で出仕するのがもっともであるとの上意を伝えた書状。
後編4-No.28 島津家久書状
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風に恵まれて予想より早く上洛できそうだと報じた書状。鹿児島の留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求め、前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出したと述べる。唐人の訴えは通事だけに任…
後編4-No.29 島津家久譜
島津忠恒が飛鳥井雅庸に師事して蹴鞠の技芸を学び、冠・纓・色袴および桐鳳凰の紋などに関する免許状を得たことを記す譜記事。
後編4-No.30 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、忠恒から申し入れられた兄弟の契約について、忠恒の特別な執心を受けて認めたことを伝えた書状。弟にとっても名誉ある先例となるので、契約を軽く考えるなら神明に背くことになると述べ、誠意を誓っている。
後編4-No.31 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、懇書を受け取った礼を述べ、前日の訪問で親しく意見を交わせたことを喜んだ書状。適切な時期に蹴鞠を催すので、忠恒が来訪すれば本望であるとして再会を願っている。
後編4-No.32 飛鳥井雅庸書状
No.30の飛鳥井雅庸書状と同文であるため、本文では省略されている。島津忠恒との兄弟の契約を認め、契約への誠意を神明に誓う内容。
後編4-No.33 島津義久書状案
島津義久(龍伯)が、春に上洛する予定だったが再び病気となり、養生しても効き目がなく延期せざるを得ない事情を述べた書状案。あわせて歌題の読み仮名や題数、季題・無季題の扱いを問い、飛鳥井家の年頭歌会で用いる祝意の題についても注記と教示を求めている。
後編4-No.34 近衛信尹書状
近衛信尹が島津忠恒へ、近くにいながらまだ対面できていないことを残念に思うと伝え、軽少ながら羅衣二襲を当日の祝儀として贈った書状。
後編4-No.35 慶長九年・十年公用出物控
本田氏に伝わる慶長九年・十年の公用出物を、日付ごとに銭・米・石高などの数量で記録した控。慶長九年八月から十年三月までの個別支出と、二年分の銭五貫百九十二匁などの合計を掲げ、石高に応じた負担額も算出している。
後編4-No.36 山口直友書状
山口直友が島津義弘へ、島津忠恒の上洛について、琉球出兵の準備を優先するため当面は上洛不要との徳川家康の意向を本多正純から伝えられたと報告した書状。上洛を延期し、琉球の軍事行動に専念するよう求めている。
後編4-No.37 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
後編4-No.38 島津竜伯書状案
島津義久(龍伯)が山口直友へ、上洛を望んでいたが病気と老衰で実現できず、世間から仮病と見られることを深く憂えた書状案。神仏に偽りがないことを誓い、今後は島津忠恒に配慮してほしいこと、自身も徳川家に異心がないことを取り次ぐよう求めている。
後編4-No.39 島津家久譜
徳川家康が慶長十年四月七日に将軍職を辞して徳川秀忠へ譲り、同月十五日に秀忠が征夷大将軍に任じられ、牛車で参内したことを記す譜記事。
後編4-No.40 島津常久譜
島津忠恒の上洛に供奉した又吉常久の旅程を記す譜記事。三月二十四日に日置の私宅を発って京泊に着き、二十七日卯刻に出帆、同日晡時に肥前樺島へ到着した。その後、長門・周防を経て安芸へ進み、四月七日には伊予国津和で繋船した。島津忠恒が萩原法師秀玄を使者として、前日上覧に供した子昂(趙孟頫)の真蹟を常久へ返し…
後編4-No.41 島津家久書状
島津忠恒が又吉某へ、船中を見舞わなかったことを詫び、預かっていた趙孟頫の筆跡を返送した書状。見事な書であると賞賛し、使いとして遣わす入道にぜひ酒を勧めてほしいと頼んでいる。
後編4-No.42 島津常久譜
島津忠恒の上洛に供奉した又吉常久が、四月十二日に海路で摂津大坂へ着き、十四日に忠恒と川舟で淀川を上って伏見へ到着した経過を記す譜記事。忠恒の旅館へ到着を祝ったのち、樺山久高の旅宿へ招かれ、盛膳と酒でもてなされた。
後編4-No.43 島津家久起請文案
島津忠恒が将軍への忠勤を誓った起請文案。将軍に背いて疎意を抱かないこと、縁者・親類とも無断で密談しないこと、法度を堅く守ること、逆心を企てる者を知れば直ちに通報することなどを条項として掲げ、違反すれば神罰を受けると誓う。
後編4-No.44 西洞院時直書状
西洞院時直が島津忠恒へ、使者と見事な唐巻物を贈られたことに感謝した書状。忠恒の疲労を考えて訪問を控えたこと、薬五色を見せたこと、うち『しゅてんとうし』は今はなく秋頃がよいことを伝える。老父の西洞院時慶が上洛した折に、道正を通じて進上することなどを述べている。
後編4-No.45 殉国名藪
本出源右衛門親商の家臣である神田藤兵衛が、主人親商の死後、その跡を慕って慶長十年四月二十日に殉死したことを記す記事。
後編4-No.46 島津忠恒書状
島津忠恒が北郷次郎へ、見舞いの使者を早々に差し上げたことを喜び、徳川家康(大御所)の命により当年の関東下向が延期され、諸事も体面よく決着したので安心するよう伝えた書状。音信として届いた銀子三十両に礼を述べ、詳細は使者に含めている。
後編4-No.47 徳川家康御内書
徳川家康が島津義久へ、遠路から使者を遣わし、伽羅十両と銀子百枚を贈られたことを喜んで受領した御内書。
後編4-No.48 島津家久譜
島津忠恒が四月二十六日に牛車で朝廷へ参内し、徳川秀忠の列に加わって供奉したことを記す譜記事。
後編4-No.49 伊藤某書状
伊藤左馬頭某が島津忠恒へ、参内供奉を祝い、豊臣秀頼は小さな唐犬の女犬を所持しているが男犬がいないため、忠恒が所持していると聞いた男犬を秀頼へ進上するよう勧めた書状。追伸では、忠恒が唐犬を三、四匹所持すると聞き、他へ遣る予定がなければ自身にも一匹譲ってほしいと求める。
後編4-No.50 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、忠恒の格別な熱意に応じて、装束等の着用を許可したことを伝えた書状。着用することはとりわけ名誉ある先例になると述べている。
後編4-No.51 島津家久譜
四月二十八日、島津忠恒が徳川秀忠に供奉して禁中へ参内し、今上天皇および親王家に拝謁したことを記す記事。
後編4-No.52 伊勢貞知書状
伊勢貞知(友枕斎如芸)が伊勢兵部少輔に対し、公方の参内供奉と親王への礼を祝し、太刀一振を一度に持参すべきか、伝奏衆の意向や禁中での仕合に配慮しつつ照会し、伏見通行の折に参上して取り次ぐ旨を伝えた書状。
後編4-No.53 山口直友書状
山口直友が島津忠恒に、在京の大名衆へ上意として仰せ出された条目の写し一通を送って閲覧を求め、今後詳しい沙汰があれば追って報告すると述べた書状。
後編4-No.54 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒(家久・陸奥守)に、下向の道筋を早急に知らせるよう求めた書状。平左衛門尉からの先月二十日付書状が五月二日に到着し、将軍・右大将への御目見が済み、腰物・脇指に関する拝領もあったことを祝う。船中を急がせた肝煎りにも満足を示し、右大将が下向する際には忠恒らも関東へ供奉するため、ほ…
後編4-No.55 島津常久譜
島津常久の動向をまとめた譜記事。五月四日の端午祝礼で単衣二領を賜ったこと、十四日に町田勝兵衛尉とともに福島左衛門大夫を訪ねて贈物を届けたこと、十八日に伊勢貞昌の案内で本多上野守へ太刀・馬代・段子を進上したこと、六月朔日に警衛のための宅地を与えられたことなどを記す。
後編4-No.56 徳川秀康書状
徳川秀康が島津忠恒からの書状と太刀一腰・馬一疋・段子十巻・鉄炮などの贈物に礼を述べた書状。病気のため自由が利かず、印判を用いて返書したと付記する。
後編4-No.57 島津家久譜
五月十四日の朝、古田織部正重勝が島津忠恒を茶に招いたことを記す記事。茶室の結構や幽趣、供された珍味、名画・古器などの鑑賞内容を挙げ、続く覚書を参照する。
後編4-No.58 古田重勝数寄座覚書
古田重勝の茶会における座敷・道具・料理・菓子などを列挙した数寄座覚書。床の豊干図、棚の茶器、振舞の膳、重箱、釣舟、中立後の茶入・茶碗・水指など、茶事の構成を具体的に記録する。
後編4-No.59 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領が届いたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
後編4-No.60 島津家久譜
五月十八日、山口直友が島津忠恒に、翌日上様から茶を賜るとの命を知らせ、本多正純の書状で上意が伝えられたことを記す記事。直友と和久甚兵衛尉が来訪し、巣鷹の児鷹を賜ったため、忠恒が登城して謝した。
後編4-No.61 山口直友書状
山口直友が島津忠恒に、翌日に上様から茶を賜るとの上意を本多正純の書状で知らせ、和久甚兵衛尉に届けさせた書状。あわせて上様から巣鷹の児鷹を賜ったため、それも持参させたと伝える。本文単独では上様の実名は確定しない。
後編4-No.62 島津家久譜
五月十九日、島津忠恒が召しに応じて伏見城の営所へ登り、徳川秀忠から手ずから点茶を賜ったことを記す記事。茶亭で珍膳・茶碗・茶壺・名器・名画などを拝見し、退出後に登城して茶の礼を述べた。
後編4-No.63 島津竜伯書状
島津竜伯(島津義久)が島津惟新(島津義弘)に、枕山権左衛門尉を市成へ遣わす件を聞いたこと、徳右衛門尉派遣への謝意、鷹一そうの扱い、宮内原の鞍掛、石漕舟の手配などを返答した書状。追而書では、屋久島から鳩を二羽取り寄せ、一羽は目を患って死んだが、もう一羽は昼夜によく鳴き、雨の際に外へ出して羽を伸ばす様子…
後編4-No.64 島津義久詠草
島津義久による雨乞いの歌。山をめぐる雲から雨が落ち、大御田・小田の早苗を潤してほしいとの願いを詠む。
後編4-No.65 島津惟新書状
島津惟新(義弘)が陸奥守(島津忠恒)へ、五月五日付書状の到着を報じ、忠恒の御前での仕合を喜び、鹿児島・国分の無事を知らせたうえ、公方の下向に伴う忠恒の帰国を待望した書状。さらに、人質の上洛が準備不調で延期されたものの、六月十一日に出立し、京泊から出船する予定であると伝える。
後編4-No.66 島津竜伯書状
島津竜伯が島津忠恒に、自身の体調と上京の遅延について報じた書状。祐乗法印の養生で気分はやや軽くなったが膝痛と疲労が増したこと、出立を急がせていること、高野山千日籠りの立願に関する事情などを述べる。
後編4-No.67 島津竜伯書状
島津常久譜に収める島津竜伯書状。本文はNo.66と同文であるため省略されており、日付と差出人・宛所のみを掲げる。
後編4-No.68 島津常久譜
六月二十九日、島津常久が和久甚兵衛尉の案内で伏見城へ登り、大樹徳川家康に拝謁して太刀一腰・馬代五百疋などを献上したことを記す記事。退出後は太守の旅館へ報告し、宿所では身分を問わず多くの者から祝意を受けた。
後編4-No.69 山口直友書状
山口直友が、島津忠恒の在洛中の御前での待遇が申し分なく、関東下向も不要とされ帰国を許されたことを伝えた書状。忠恒が献上した刀は本多正純の取り成しで納められたと報じ、御前の様子は伊勢兵部少輔から聞くよう述べる。
後編4-No.70 小林家孝書状
小林家孝(民部少輔)が島津義弘(惟新)に、島津忠恒(少将・奥州様)が入洛後、徳川家康(大御所)から江戸下向を差し止められ、種々の厚い上意を受けたことを祝した書状。忠恒が豊臣秀頼へ礼を述べ、御前で良い待遇を受けたことにも触れる。また、忠恒が大鷹の巣鷹を拝領したことを喜び、伏見不在のためその鷹を見られな…
後編4-No.71 島津義久書状案
島津義久が山口直友に、伏見滞在中の島津忠恒への厚い配慮と上意に謝した書状案。忠恒が七月十九日に帰着し、内書の内容を詳しく伝えたこと、度々の懇意や鶏の拝領に深く感謝していることを述べ、改めて使者を立てるとする。
後編4-No.72 児玉実相後譜
慶長十年七月、児玉実相が島津忠恒の伏見からの帰国に随行したことを記す記事。船中で島津義久の重病を知り、正八幡と霧島神に平癒を祈って、回復後には馬・刀を奉納すると誓願した。
後編4-No.73 児玉実相願文
児玉実相が島津義久の病気平癒を願って立てた願文。大隅正八幡へ月毛の駒を献じ七日参籠すること、霧島へ刀を奉納することを船中で誓っている。
後編4-No.74 島津義弘書状
島津義弘が近衛前久とみられる人物へ、久しく書信できなかったことを述べ、年始の祝儀として太刀一腰・馬一疋を受けた礼と、以前からの懇意への感謝を伝えた書状。島津忠恒(奥州)の無事帰国を喜び、扇十本を贈り、詳細は伊勢平左衛門尉が説明するとしている。
後編4-No.75 島津家久譜
将軍家が島津忠恒に、翌年の江戸城築城用の垣石を運ぶ大船三百艘を建造するよう命じた記事。忠恒は帰国後に準備を整え、本多正純・山口直友の相談を受け、三原諸右衛門尉らに造船を担当させ、費用として黄金三百五十枚を受領した。
後編4-No.76 鎌田政近書状
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
後編4-No.77 島津忠恒書状
島津忠恒が、忙しく訪問できなかったため夜に伺って面談したいと述べた書状。下向前で取り乱しているので短時間でも会いたいこと、使者では済ませにくい用件があること、大坂まで出向くことについても追って連絡すると伝える。
後編4-No.78 島津常久譜
島津常久が飛鳥井雅庸から駿鞭の免状を受けた礼として、頴娃長左衛門尉と伏見から京都へ赴き、白銀二十両を献じた記事。七月十七日には太守島津忠恒から、その夜に常久の宿所を訪ねて対談したいとの書状を受けた。
後編4-No.79 島津忠恒書状
本文はNo.77と同文のため省略された島津忠恒書状。七月十七日付で、訪問・面談や下向前の用件を伝える内容である。
後編4-No.80 島津常久譜
七月十七日戌刻、島津忠恒が島津常久の宿所を訪れ、樺山権左衛門尉・伊勢兵部少輔・町田勝兵衛尉らと酒食をともにした記事。翌十八日に忠恒が伏見から大坂へ向かう際に常久も供奉し、二十日に博多へ出航した船を川舟で追ったが、命により大坂へ戻り、翌日伏見へ帰着した。
後編4-No.81 樺山久高・鎌田政近連署感状
樺山久高と鎌田政近が田中伊豆守に、前年以来の長い在京勤務に加え、物方の代官として引き続き留まることを承諾した忠勤を賞した連署感状。今後恩賞を与えるとの上意を伝え、引き続き疎略なく勤めるよう命じる。
後編4-No.82 島津家久譜
島津忠恒が伏見で徳川家康に拝謁し駿馬一匹を拝領したのち、七月十九日に伏見を辞して領国へ向かった記事。樺山久高と伊勢貞成が供奉し、鎌田政近は命により樺山久高に代わって伏見に残留した。
後編4-No.83 飛鳥井雅胤書状
飛鳥井雅胤が島津忠恒に、もっとゆっくり滞在すると思っていたのに急に帰国したため残念であると述べた書状。蹴鞠一巻を整えて進上するとし、当地で用事があれば申し付けるよう伝える。
後編4-No.84 山口直友書状
山口直友が島津忠恒に、前日に和久甚兵衛を遣わしたこと、豊臣秀頼への礼が無事済んだだろうと推察していることを伝えた書状。出船の様子を知りたいが当番中のため書状で問い合わせ、無事の帰国報を待つと述べる。
後編4-No.85 山口直友書状
山口直友が甚兵衛に、本多上野から島津少将宛ての書状を送るので確実に届け、返書を受け取って持参するよう命じた書状。すでに出船していれば安全な便で届け、鎌田政近へ渡してもよいとし、呉国向けの法度に関する書状らしいと伝える。
後編4-No.86 島津惟新書状
島津惟新が島津忠恒に、下向を喜び、積もる相談事を一庵と協議するよう求めた長文書状。翌年の江戸普請と忠恒の江戸出府、役務・銀子・船の準備、海上の風波などに触れ、上方や領国で必要な用事があれば知らせるよう述べる。
後編4-No.87 島津家久譜
福州から琉球へ帰る船が逆風で肥前平戸領へ漂着し、領主松浦法印が駿府・江戸へ報告した記事。琉球が薩摩の附庸であるため、本多正純が松浦法印と小笠原一庵に奉書を下し、島津忠恒へ事情を伝えて対応させた。
後編4-No.88 本多正純書状案
本多正純が小笠原一庵へ、平戸に漂着した琉球船について松浦法印から注進があったので、船の荷物を受け取り上方へ送るよう命じた書状。積荷には注文の多い薬種が含まれるため、注意して取り扱うよう求めている。
後編4-No.89 本多正純書状案
本多正純が松浦法印に、漂着した琉球船への対応を指示した書状案。唐人に書状を与えて琉球へ送り返し、航海中の扶持を支給すること、前年の漂着者送還への礼がない旨を琉球へ伝えること、積荷を小笠原一庵へ渡して相談することを命じる。
後編4-No.90 福島正則書状
福島正則が島津忠恒に、伏見で暇乞いできなかったことを詫び、馬・太刀・沈香、塩硝三百斤・伽羅五両などの贈答に礼を述べた書状。忠恒の名馬拝領と島津義久の回復を祝い、江戸普請用の石船三百艘や船材木の準備を急ぎ、翌年三月中に上せるよう勧めている。
後編4-No.91 島津常久譜
島津常久譜の記事。八月七日、鎌田政近の使者が、朝鮮人の女性を質人として乗せた船が大坂に着岸したと報じた。続いて、常久の座上の壁にいた手飼いの青鷺を大樹の鷹師与右衛門尉が持ち去り、西牟田辺右衛門・税所久右衛門が追跡して負傷させたため、鷹師衆との騒動となり、両名が追放された経緯を記す。八月九日の質人の伏…
後編4-No.92 本多正信書状
本多正信(佐渡守)が島津忠恒(羽柴陸奥守)に、当将軍の春の上洛に際して忠恒も上着し、首尾よく務めたことを祝した書状。先に鎌田出雲守と申し合わせた筋目について、双方が相違なく協議を続けることを喜ぶ。江戸御証人衆が当地へ下ることに伴う宿所などの準備について、大久保相模守・土肥大炊頭と相談するよう伝え、本…
後編4-No.93 島津竜伯書状案
島津竜伯が進藤大蔵入道に、御所様が関白職を与えられたとの知らせを受けて祝意を伝えた書状案。太刀一腰・馬一疋・綾子二巻を進上するので、適切に披露してほしいと頼む。
後編4-No.94 島津家久譜
漂着した琉球船への対応について、松浦法印が島津忠長と比志島国貞へ詳細な書状を送ったことを示す導入記事。続く書状本文を受ける位置づけである。
後編4-No.95 島津家久譜
島津忠恒が船で到着し鹿児島へ入った正確な日は伝わらないが、史料上の事情から八月中旬頃であろうと考証する記事。
後編4-No.96 松浦鎮信書状
松浦鎮信が比志島紀伊守と島津図書入道に、琉球船漂着について上方から届いた返書と下知を送り、早く確認して対応するよう求めた書状。船の荷物を九月中旬までに江戸へ進上する必要があるため、荷物を速やかに上せる準備を依頼する。
後編4-No.97 山口直友書状
山口直友が島津義弘(惟新)に、本助丞方が上着し、一人を添えて下着させたこと、本多佐渡守・同上野介が披露して首尾が良かったことを喜んだ書状。和久甚兵衛が先に述べた琉球人の渡海が済んだかを問い、上様へ礼を申し上げさせることを最優先とする。まだ渡海していなければ、御人数を相渡すよう先方へ重ねて伝え、それで…
後編4-No.98 山口直友書状
本文はNo.97と同文のため省略された山口直友書状。琉球人の渡海・帰国と将軍への礼、使者派遣などについて指示する内容である。
後編4-No.99 島津義久書状案
島津義久が、砂糖一壺を贈り、相手から届いた合薬や白藤などの贈物に礼を述べた書状案。焼物の小壺を川野猪右衛門尉に持たせたこと、白藤が初秋に見事に咲いたこと、自身は重病から少し快復したものの歩行や起居に他力を要する状態であることを伝える。
後編4-No.100 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津忠恒の昇進を祝い、使者と太刀一腰・馬代黄金十両が届いたことを喜び、詳しくは本多正信から伝えるとした御内書。