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後編4の目録
旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。
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後編4-No.500 島津家久譜
飯隈山の先達職が近年欠けていたため、島津家久が前年に聖護院雑務坊へ旧式どおりの補任を願い、翌年その希望が認められて旧務へ復したことを記す系譜記事。
後編4-No.501 伊勢貞知書状
慶長十三年九月十一日、伊勢貞知が比志島紀伊守に、飯隈山別当先達職をめぐる南光坊との異論を説明し、家久の以前からの願いを受けて新宮が同意し補任されたことを喜び、家久から新宮へ礼を述べるよう求めた書状。
後編4-No.502 本多正信書状
慶長十三年九月十五日、本多正信が島津家久に、重陽祝儀として進上した呉服五領が披露され御内書が出たこと、自身に贈られた小袖三領(染物二領・薄板一領)への謝意を述べた。また、惟新へ雁一、家久へ羹喰一を贈り、山口駿河守からも伝達させると述べた書状。
後編4-No.503 島津家久書状
九月二十四日、島津家久が成正院に、高野山の蓮金院・廻向院の整備が進んだとの堀小左衛門の報告を喜び、引き続き尽力するよう求め、暇ができ次第の下向を待つと伝えた書状。
後編4-No.504 島津惟新義弘・同家久連署氏寺草創記文案
慶長十三年十月四日、島津惟新と家久が高野山に氏寺を創建した由来を記す文案。成正院頼真に寺地を求めさせ、大僧正政遍の協力で院地を得て白銀を投じ、新寺・祇園社・仏像・堂宇等を整え、子孫代々の菩提所とした。
後編4-No.505 島津惟新・同家久連署氏寺草創記文案
慶長十三年十月四日、島津惟新・家久が高野山の氏寺創建の経緯と菩提所としての永続を記した文案。本文はNo.504と同文で、善集院主宛。
後編4-No.506 島津惟新・同家久連署氏寺草創記文案
慶長十三年十月四日、島津惟新・家久が高野山の氏寺創建の経緯と菩提所としての永続を記した文案。本文はNo.504と同文で、蓮金院主宛。
後編4-No.507 島津惟新・同家久連署氏寺草創記文案
慶長十三年十月四日、島津惟新・家久が高野山の氏寺創建の経緯と菩提所としての永続を記した文案。本文はNo.504と同文で、廻向院主宛。
後編4-No.508 島津惟新・同家久連署氏寺草創記文案
島津惟新・家久が高野山の氏寺創建の経緯と菩提所としての永続を記した文案。本文はNo.504と同文で、文殊院主宛。
後編4-No.509 細川幽斎藤孝書状
慶長十三年十月十一日、細川幽斎が島津家久から段子三端・唐扇二本を贈られたことに謝意を述べ、龍伯・惟新の健勝を喜び、自身も元気であると伝え、翌春上洛時には必ず立ち寄るよう求めた書状。
後編4-No.510 島津紹益・比志島国貞連署知行目録
慶長十三年十月二十八日、島津紹益と比志島国貞が、隅州根占田代村内の浮免五石九斗八升三合を御牌所として宝光寺へ寄附し、名寄帳は別紙にあるとした知行目録。
後編4-No.511 井尻菜指出
慶長十三年十一月朔日、井尻常陸坊が、慶長三年の高麗番船で戦死した久兵衛尉の従者や甚六らについて、帰朝後に上洛・下国して勤めた期間、主従人数、奉公日数を列挙して提出した指出。
後編4-No.512 島津義久書状案
十一月九日、島津義久が青厳寺検校増福院に、宿坊の改替が本意でないことを承知した上で、回向院以下の先例と島津家の高野山参詣が中絶した経緯を後証の文書として整え、山上で糺明するよう求め、金扇子と油煙を贈った書状案。
後編4-No.513 葛西某外三名連署銀子入目注文
慶長十三年十一月十日、高野山で集めた銀子と作事の支出を列記した入目注文。廻向院・蓮金院・国分寺などからの銀子を合算し、蓮金院造立の大工賃、材木、障子・畳・建具、飯米酒などに充てた数量と残銀を示す。
後編4-No.514 成正院頼真外二名連署蓮金院作事注文
慶長十三年十一月十日、成正院頼真らが伊勢兵部少輔・本田源右衛門尉に提出した蓮金院本堂の作事注文。本堂・護摩堂・客殿・会所・湯殿等の間取り、障子・板戸・畳・天井・仏壇・建具などの数量と配置を詳細に記す。
後編4-No.515 青厳寺法印政遍書状
十一月十日、青厳寺法印政遍が島津惟新に、旧来の願所を弟子に再興させるため新地を得て造営を進めていること、成正院の建院も希有の善縁であることを述べ、今後の寺役や登山時の対応を約した書状。
後編4-No.516 国老用人記
国老用人記の記事。慶長十三年十一月十三日に島津家久が白平から加治木へ移り、同地に十二年間在城したこと、伊勢平左衛門の死去後、本田源右衛門・新納主右衛門が家老職に任じられたことを記す。
後編4-No.517 犬追物手組
慶長十三年十一月十七日に行われた犬追物の手組。島津又太郎・鎌田玄番助・鳴津善四郎・三原次郎四郎ら参加者を組ごとに配した名簿。
後編4-No.518 片桐且元書状
十一月二十三日、片桐且元が島津家久に、儀礼に関する書状案を幕府へ申し上げて仰せを受けたことを報告し、琉球酒の贈答に謝意を述べるとともに、駿府・江戸で父子が家康から鷹・腰物・服・馬などを拝領した近況を伝えた書状。
後編4-No.519 徳川秀忠御内書
十二月二十四日、徳川秀忠が島津家久から遠国の珍産である龍眼の菓子二箱を贈られたことを喜び、詳しくは土井大炊助が述べるとした御内書。
後編4-No.520 島津家久書状
十一月二十四日、島津家久が樺山権左衛門尉に、肥後で変事が起こるとの風説について現地の情報を問い、事実にかかわらず境目の警戒を怠らず、新たな動きがあれば直ちに報告するよう命じた書状。
後編4-No.521 飛鳥井雅庸書状
十一月二十六日、飛鳥井雅庸が島津家久からの書状と焼酎壺の贈答に謝意を述べ、先度の見事な重香を称賛し、所労のため参上できていないが追って申し述べると伝えた書状。
後編4-No.522 北郷久加譜
北郷久加譜の記事。慶長十三年、久加が五歳の時、龍伯から景光の脇指、備前吉房の薙刀、国綱の太刀を厳親三久を介して下賜され、翌年二月に城州伏見で忠能に代わったことを記す。
後編4-No.523 喜入久正外二名連署知行目録
慶長十三年十二月二十四日、日向国大崎今田村内の浮免三十石を、渡海時の軍役と高麗退治での働きに対する加増として児玉四郎兵衛尉へ配分した連署知行目録。
後編4-No.524 児玉筑後譜
児玉筑後譜の記事。慶長十三年、児玉四郎兵衛尉が軍功によって十二月二十四日に大崎今田村内三十石を与えられ、喜入久正・平田宗親・山田理安から知行目録を受けたことを記す。
後編4-No.525 徳川秀忠御内書
十二月二十六日、徳川秀忠が島津家久から歳暮祝いの小袖十領を贈られたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信が述べるとした御内書。
後編4-No.526 徳川家康御内書
十二月二十八日、徳川家康が島津家久から歳暮祝いとして小袖を贈られたことを喜んだ御内書。
後編4-No.527 本多正信書状
十二月二十九日、本多正信が島津家久に、歳暮祝儀の呉服や酒井雅楽頭への品、徳川秀忠への小袖が披露され御内書が出たことを伝え、遠国へ渡海するための船について書中で申し上げにくいので使者を立てるよう求めた書状。
後編4-No.528 徳川家康御内書
十二月二十九日、徳川家康が島津家久から音信として橙柑二箱を贈られたことを喜んだ御内書。
後編4-No.529 島津家久譜
島津家久譜の記事。中山国王が来朝しないため家久が使者を通じて出兵を願い、本多正純が徳川家康へ取り次いで許可されたが、渡海の時期については再度使者を立てて上意を確かめるよう命じられた経緯を記す。
後編4-No.530 山口直友書状
十二月晦日、山口直友が島津家久に、段子・硫黄の進物が関東で披露され返書が届いたこと、琉球への出兵は上意にかなうが、もう一度意向を確かめた上で渡海準備を進めるべきこと、伴天連の船に関する申状を送ることを伝えた書状。
後編4-No.531 文殊院某書状
慶長十四年正月五日、文殊院某が島津家久に、書状を受領した礼を述べ、当山で一宇を建立する企て、成正院登山時に不在だった事情、蓮金院の造営が整ったことへの喜び、旧冬以来の東山居住を伝えた書状。
後編4-No.532 島津竜伯書状
慶長十四年二月、島津龍伯が中山王に、薩摩と琉球は近接し古来往来と聘礼を保ってきたのに、近年は朝貢と通商船が途絶えたと責め、日本・明との交易秩序と双方の国益を説き、旧来の関係を回復するよう強く求めた書状。
後編4-No.533 児玉筑後譜
児玉筑後譜の記事。慶長十四年、琉球が薩摩に属さないため、平田増宗を将として水軍を派遣し、三月四日に山川を出帆して大島・徳之島などを経て琉球へ進み、首里城に入り中山王を降した経過を記す。
後編4-No.534 児玉利言事書
元禄十四年八月二十三日、児玉四郎兵衛利言が、慶長十四年の琉球出兵時に児玉筑後が兵を預かって渡海し、現地で多数の敵兵を討ち取ったと家伝に基づいて申し述べた事書。
後編4-No.535 琉球渡衆交名
『雑旧記』に収められた、慶長十四年の琉球渡海に参加した人々の交名。本文掲載箇所では「琉球渡衆交名」の表題のみが示される。
後編4-No.536 本多正信書状
二月十六日、本多正信が島津家久に、以前に薬種の御尋ねを受けて喜んだことを述べ、入手を希望する二種の薬種について伊兵少まで探索させ、見つかり次第届けるよう取り計らうとした書状。
後編4-No.537 山口直友書状
二月二十日、山口直友が島津家久に、前年に御上で成立した薬種について喜び、現在必要な二種を申し入れたこと、兵衛から届けさせる予定であること、旧来の種も保存していることを伝えた書状。
後編4-No.538 島津義弘書状案
慶長十四年二月二十一日、島津義弘が家久に、亀井武蔵守の琉球支配願と大御所への働きかけ、朝鮮・琉球をめぐる従来の命令、琉球船と対外通商の利益を詳述し、使者や書状の錯綜を避けつつ琉球渡海を慎重に進めるよう説いた書状案。
後編4-No.539 島津惟新書状
慶長十四年二月二十五日、島津惟新が宗喜に、前年の下向後は遠方のため連絡できなかったことを詫び、当地で用いる脇指を庵斎へ渡して届けてもらうよう依頼した書状。
後編4-No.540 島津家久譜
島津家久譜の記事。琉球の由来と中山王統、薩摩との朝貢関係断絶を述べ、徳川家康の許可を得て樺山久高・平田増宗らを派遣し、大島・徳之島を経て首里へ進み中山王尚寧を降した経過、帰国後の褒賞と統治を記す。
後編4-No.541 北郷忠能譜
北郷忠能譜の記事。慶長十四年三月、家久が樺山久高を大将として琉球を征し、北郷久武が百二十余人を率いて大島・徳之島を攻略、四月に首里へ至って尚寧を降し、五月に帰国したことを記す。
後編4-No.542 樺山久高譜
樺山久高譜の記事。琉球が旧来の朝貢規定に従わず度重なる使節にも応じなかったため征伐が企てられ、樺山久高を大将、平田増宗を副将として渡海させ、軍法の条目を授けたことを記す。
後編4-No.543 新納忠元勲功記
新納忠元勲功記の記事。琉球渡海軍の大将樺山久高と副将平田増宗の席次をめぐり、若い久高への無礼を忠元が咎め、久高を上席へ導いて大将の威厳と軍中秩序を守らせた逸話。
後編4-No.544 島津竜伯外二名連署琉球渡海軍衆掟書
慶長十四年二月二十六日、龍伯・家久・惟新が琉球渡海軍衆へ示した十三か条の掟書。軍議への服従、私戦・略奪・抜け駆け・喧嘩・無断離脱の禁止、武器管理、寺社等での狼藉禁止、人数点検、出船・停止命令の厳守を定めた。
後編4-No.545 島津家久判物
慶長十四年三月、島津家久が樺山久高に与えた判物。琉球人との交渉による解決を優先し、現地の言語・習俗に通じた者を確保して旧来の諸役儀を調べ、首里城接収、兵糧確保、住民の扱いに配慮するよう命じた。
後編4-No.546 島津家久書状
三月四日、島津家久が樺山久高に、今回の琉球渡海は困難が多いので法度に従い惟新と相談し、兵部少輔とも十分に協議して慎重に軍務を進めるよう求めた書状。
後編4-No.547 島津竜伯詠草
慶長十四年、島津龍伯が琉球へ入る途上に詠んだ「むかふ風あらぬは梅のにほひかな」の詠草。
後編4-No.548 島津家久書状
三月四日、島津家久が龍伯に、前日の尊書を受領し、山川で琉球人を種々取り調べた件について上意を承ったこと、琉球渡海船が同日早朝にすべて出帆したことを報告し、無事帰還を祈った書状。
後編4-No.549 伊東菜出軍人数注文抄
六月十二日、伊東菜出が作成した琉球出軍人数注文の抄録。複数の部隊・奉公区分ごとの人数と由緒を列記し、合計人数を掲げて渡海軍の編成規模を示す。
後編4-No.550 伊東某軍忠状抄
慶長十四年三月五日、伊東某が、朝鮮出兵以来の軍役、兵船・武具・鉄砲等の調達、京都での勤仕と不足銀の借用などを列挙し、長年の奉公と窮状を訴えて処遇を願った軍忠状の抄録。
後編4-No.551 喜入久正外二名連署寄進状
慶長十四年三月十五日、喜入久正ら三名が宮内最雲寺に寄進した薬師免の目録。内山田村内の屋敷・田畠を所在地、反別、石高とともに列記する。
後編4-No.552 島津家久寄進状
慶長十四年三月十五日、島津家久が知行百石を寄進し、詳細は別紙目録にあるとした寄進状。寄進の趣旨を国家安穏、武運長久、子孫繁栄と記す。
後編4-No.553 樺山久高譜
樺山久高譜の記事。三月二日の山川出帆後、暴風で船団が分散しながら奄美諸島へ進み、現地勢力との交渉・戦闘、上陸、荷物・船の確保を重ねて琉球へ向かった渡海軍の行動を記す。
後編4-No.554 島津家久書状
三月二十日、島津家久が樺山久高に、出帆後の到着報告を待っていること、加世田永良部らを派遣したこと、琉球へ無事着岸すれば早急に帰帆の要点を知らせること、軍衆への慰労品等を伝えた書状。
後編4-No.555 新納為舟知行目録
慶長十四年三月二十一日、広徳寺門前の屋敷を反別・畦歩・石高ごとに列記し、合計屋敷四反六畦二十歩、高四石五斗一升余を大中様御寺の儀として新納為舟へ支配させた知行目録。
後編4-No.556 島津家久書状
三月二十二日、島津家久が成正院に、書状を受け取ったこと、現地に長く逗留して苦労していることをねぎらい、次の琉球への人衆派遣は順風が続けば早く到着するだろうと伝えた書状。
後編4-No.557 琉球渡海日々記
琉球渡海軍の三月二日出帆以降を日ごとに記した航海・軍事記録。甑島・奄美諸島方面での暴風と船団離散、寄港・再集結、現地人との交渉と戦闘、上陸・城攻め、船や兵糧の確保、琉球王側との接触までを詳細に記す。
後編4-No.558 市来家元外四名連署願文
慶長十四年三月二十八日、市来家元ら五名が、四十九所大明神に二夜三日参籠し、旅中の海上安全と無事帰朝、願望成就を祈った連署願文。
後編4-No.559 山口直友書状
四月朔日、山口直友が島津家久に、琉球の動向を急ぎ確認し、上方へ知らせるよう求めた書状。琉球出兵は徳川家康の上意に適い、本多正純も了承しているので、従来の方針どおり速やかに進めるよう伝える。
後編4-No.560 山口直友書状
四月朔日、山口直友が島津家久に、琉球の件を油断なく推進するよう求め、奥州様とも相談しながら処置と注進を続けることを促した書状。
後編4-No.561 殉国名薮
『殉国名薮』の記事。慶長十四年の琉球戦役で、首里城攻略などに際して戦死・殉死した梅北照存坊、小松彦九郎、山元弾右衛門らの名と没日・戦死地を記す。
後編4-No.562 樺山久高書状
四月五日、樺山久高が喜入久正に、琉球王が王城を下り降伏したこと、王以下の有力者を人質として渡海させる旨を申し渡したこと、都島・久米島への人衆派遣の可否、翌月の帰登見込みを報告した書状。
後編4-No.563 近衛信尹書状
四月十六日、近衛信尹が喜入大炊助に、諸式を急ぎ整え、来月晴天となれば上る予定を伝え、飯牟礼紀伊介・貴嶋采女からの進上物を披露した書状。
後編4-No.564 本多正純書状
四月十七日、本多正純が島津家久に、初春の礼として太刀・馬・段子を贈られたことに謝意を述べ、伊勢兵部少輔への対面と上洛に関する用件を取り次ぐとした書状。
後編4-No.565 徳川秀忠御内書
四月二十一日、徳川秀忠が島津家久から年頭祝儀として使者を通じ太刀一腰・馬代黄金・段子を贈られたことを喜び、詳しくは本多正純が述べるとした御内書。
後編4-No.566 山口直友書状
四月二十二日、山口直友が島津家久に、琉球の件を早急に進めるよう重ねて求め、以前からの上意と現状を踏まえ、詳細は平田大炊に申し渡したので相談して処置するよう伝えた書状。
後編4-No.567 山口直友書状
四月二十二日、山口直友が島津家久に、異国渡航の御朱印を円光寺を介して申し上げ、家康の朱印を調えて進上したこと、本多上州からも理由が伝えられるので平田大炊と相談するよう求めた書状。
後編4-No.568 島津惟新書状
五月二日、島津惟新が樺山久高に、三月十五日付の注進状が四月二十九日に届き、諸船が無事着岸し大島での事も支障なく進んだことを喜び、遠海での辛労をねぎらい、琉球の処置も順調に済むだろうと伝えた書状。
後編4-No.569 島津竜伯書状
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の無事と大島着岸、上方への注進を喜び、琉球への軍衆配置と降伏処置を了承し、国中が喜んでいるとして一同の辛労をねぎらった書状。
後編4-No.570 島津竜伯書状
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の消息がなく案じていたところ、船団が無事大島へ着岸し現地も平穏との報告を喜び、上方へも伝えるので以後も早急に注進するよう求めた書状。
後編4-No.571 樺山久高書状
五月五日、樺山久高が島津家久に、琉球国は残るところなく平定し、王も上国する予定で順風を待っていること、宮古島方面から来た船の乗員を同行させる計画などを報告した書状。
後編4-No.572 片桐且元書状
五月八日、片桐且元が島津家久に、三月十五日付書状と硫黄三百斤を受領した礼を述べ、早春からの琉球派兵は家久の威勢で早く勝利するだろうとし、家康の京都・大坂での動向にも触れた書状。
後編4-No.573 徳川秀忠御内書
五月九日、徳川秀忠が島津家久から端午の祝儀として帷子・単物十領を贈られたことを喜び、詳しくは大久保相模守忠隣が述べるとした御内書。
後編4-No.574 島津久元譜
島津久元譜の記事。慶長十四年、久元が菱刈院馬越の地頭職を与えられて同地へ移り、無人の荒地であったため荊棘・竹木を刈って屋敷を営み、のち永村の返地を受けたことを記す。
後編4-No.575 島津紹益外二名連署知行目録
慶長十四年五月十日、馬越内の重富村・馬庭之門・上原田之門などの知行を各石高とともに列記し、合計高を示して比志島国貞へ返地した連署知行目録。
後編4-No.576 島津忠倍譜
島津忠倍譜の記事。慶長十四年五月十八日、宅地造営中に病となった忠倍が死去し、法号を覚翁大圓居士として青龍山大圓寺に葬られ、家臣の阿久根右衛門・山本弾右衛門・有川慶助も追跡殉死したことを記す。
後編4-No.577 細川幽斎書状
五月二十一日、細川幽斎が島津家久から書状と巻物を贈られたことに謝意を述べ、今年の上洛を期待していたが琉球へ人衆を渡しているため在国中と聞き、上洛の際には必ず来訪するよう求めた書状。
後編4-No.578 島津義久譜
島津義久譜の記事。琉球が薩摩への朝貢を怠ったため、慶長十四年春に多数の兵船と軍勢を渡海させ、王都近辺を攻略して国王以下を降伏させ、国王と有力者を船で薩摩へ連行した経過を記す。
後編4-No.579 島津竜伯書状
五月二十一日、島津龍伯が山口直友に、琉球が残らず掌中に入り平定されたとの報告を大いに喜び、家久から使者を上方へ遣わしたので詳細は家久が申し入れると伝えた書状。
後編4-No.580 某書状
五月二十六日、差出人不詳の書状。琉球が残らず掌中に入ったとの急報を大いに喜び、島津家久が早打ちで上申したと伝え、他国への出兵が好首尾に終わったことを徳川家康の威光として適切に取り成すよう山口直友・本多正純に求めた。
後編4-No.581 山口直友書状
慶長十六年六月六日付の山口直友書状。本文はNo.838の文書と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。
後編4-No.582 寺沢広忠書状
六月十一日、寺沢広忠が島津家久に、四月一日に渡海軍が琉球王の居城へ攻めかかって即時に切り崩し、降伏した国王・諸官人と兵船を残らず連れ帰ったとの知らせを喜び、家久の威光と渡海衆の手柄を称えた書状。
後編4-No.583 新納為舟書状
六月十六日、新納為舟が吉加江狩野介入道に、琉球へ兵船を渡して全島を服属させ、国王以下数百人を連行したことを知らせたうえ、早々に下向するよう求め、古田織部から茶湯の作法を少しでも学んでくるよう依頼した書状。
後編4-No.584 本多正純書状
六月二十六日、本多正純が島津家久に、派遣軍が大島・中島へ着船して両島を服属させ、琉球王の居所へ進軍したとの報告を上聞に達して家康も上機嫌であると伝え、琉球平定後に駿府移徙の祝儀のため上府する方針を了承した書状。
後編4-No.585 島津竜伯追悼和歌
慶長十四年六月十四日に死去した山田越前守有信(法名・利安慶哲居士)を悼み、島津龍伯が六月二十九日に忠節一途の生涯とその死を惜しんで詠んだ二首の追悼和歌。
後編4-No.586 旧記
旧記の記事。山田越前守有信入道利安の死去に際し、島津龍伯が暇乞いのため棺を大龍寺御屋形まで運ばせて焼香し、自分もやがて後を追うとの言葉と追悼歌二首を手向けたことを記す。
後編4-No.587 新納為舟書状
四月二十四日、新納為舟が山田助左衛門に、犬童休矣の書状が夜前に届いたこと、奥州様の船衆からの注進は格別の事情ではないことを伝え、委細は書面に尽くせないとして早々に帰着するよう求めた書状。
後編4-No.588 大田忠角譜
大田忠角譜の記事。忠角は大田吉兵衛忠綱の養子で、実父は島津実久の庶子・三葉左近太夫忠継入道竹庵であり、島津義弘から賜った法度の条目を深く尊び櫃に収めて伝えたことを記す。
後編4-No.589 本田親存・比志島国詮連署覚
慶長十四年七月一日、本田親存・比志島国詮が、大田吉兵衛忠綱の養子となった大田忠角に対し、奉公を疎略にせず父母に背かないこと、悪友を避け学問に励むこと、夫婦和合を守ることなど、日常の心得を列挙して遵守を命じた連署覚書。
後編4-No.590 福島正則書状
七月三日、福島正則が島津家久に、春の琉球派兵で戦勝し国王以下の諸官人を意のままに召し寄せた手柄を祝し、追伸の依頼については大坂の宿所方と相談すると述べ、上洛の折に伏見で詳しく承りたいと伝えた書状。
後編4-No.591 徳川秀忠御内書
七月五日、徳川秀忠が島津義久に、琉球へ差し向けた軍船が多数の敵を討ち、国王と三司官以下が降参して近日着岸するとの報告を希有の成果と称え、詳細は本多正信が伝えるとした御内書。
後編4-No.592 徳川秀忠御内書
七月五日、徳川秀忠が島津義弘に、琉球派遣軍が多数の敵を討ち、国王と三司官以下を降参させ近日着岸するとの知らせを希有の次第として賞し、委細を本多正信に託した御内書。
後編4-No.593 徳川秀忠御内書
七月五日、徳川秀忠が島津家久に、琉球へ差し向けた軍船が敵を討ち、国王と三司官以下を降参させて近日着岸するとの注進を希有の成果と賞し、詳細は本多正信が述べるとした御内書。
後編4-No.594 徳川家康御内書
七月七日、徳川家康が島津家久に、琉球が早速平定されたとの注進を受けてその手柄を賞し、同国を家久に与えるので今後の仕置を申し付けるよう命じた御内書。
後編4-No.595 徳川秀忠御内書
七月五日付の徳川秀忠御内書。本文はNo.593と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。
後編4-No.596 立花俊正宗茂書状
七月七日、立花俊正が島津家久に、寺沢広忠から薩摩の様子を聞いたこと、琉球を速やかに掌握したとの飛脚の注進を千秋万歳の喜びとすることを述べ、冬から翌春ごろの来訪と対面を期待した書状。
後編4-No.597 宝性院法印政遍書状
慶長十四年七月九日、宝性院法印政遍が島津家久に、高野山蓮金院は源頼朝草創と伝わる金剛峯寺の別院で、義弘・家久の連署した再興記が永代の証文になると述べ、学業を修めた住持を置いて島津氏の護持寺とするよう願った書状。
後編4-No.598 青巌寺法印政遍書状
七月九日、青巌寺法印政遍が島津家久に、蓮金院寄附記の到来を受け、成正院の尽力で蓮金院が比類なく美しく完成したことを報告し、上洛時の見学を願うとともに琉球を早速平定した武名を祝った書状。
後編4-No.599 青巌寺法印政遍書状
十二月、青巌寺法印政遍が島津家久に、源頼朝の願所と伝える蓮金院を弟子が再興し、学問所・茶の間などの院家が完成したことを報告して造営援助に謝し、翌春に使僧を遣わす予定と油煙・筆の贈答を伝えた書状。