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後編4の目録

旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。

全1,899件中 401~500件・5 / 19ページ

  1. 後編4-No.400 島津家久譜

    島津家久が伏見を辞して帰国した月日は伝わらないが、十月下旬頃であった可能性を記す系譜記事。

  2. 後編4-No.401 島津家久外十六名連歌

    慶長十二年十月十一日、島津家久をはじめ十七名が「賦山何連歌」を興行し、発句以下の連歌と各参加者の句を記した文書。

  3. 後編4-No.402 島津竜伯書状

    慶長十二年十月二十三日、島津義久が伊集院石見重頼へ、陸奥守がその邸宅を訪れる際の饗応を気遣い、助けとして上酒二樽を贈った書状。

  4. 後編4-No.403 島津竜伯書状

    慶長十二年十月二十四日、島津義久が最上善左衛門尉へ、先年の島津貴久の陸奥守任官や自身の修理大夫称号に際した取次・京都での用務、近年の警固など、二度にわたる尽力への謝意を述べた書状。

  5. 後編4-No.404 近衛信尹書状

    慶長十二年十一月四日、近衛信尹が島津家久へ、帰国を名残惜しみ、海路で試す品二束を贈ったこと、詳細は休甫が伝えることを記した書状。

  6. 後編4-No.405 殉国名簿

    慶長十二年十一月八日、伊勢平左衛門貞成が肥前寺沢侯のもとへ使者として赴き、高畠仲兵衛と戦って唐津で死去したこと、および享年三十九歳と記す記事。

  7. 後編4-No.406 島津家久譜

    島津惟新が寺沢広忠への使者に伊勢貞成を選び、主従五十二人で唐津へ派遣した経緯と、帰途に寺沢家臣高畠仲兵衛が貞成を茶に招いて襲撃し、戦闘に至った事件を記す系譜記事。

  8. 後編4-No.407 寺沢広忠起請文

    慶長十二年十一月十一日、寺沢広忠が島津家久(羽柴陸奥守)へ、天草で起きた伊勢貞成と高畠仲兵衛の不慮の争いについて、自身に企図や指示は全くなかったと諸神に誓い、虚偽なら神罰を受けるとした起請文。

  9. 後編4-No.408 寺沢広忠書状

    慶長十二年十一月十一日、寺沢広忠が島津家久(羽柴陸奥守)へ、伊勢貞成をめぐる不慮の事件に自分の疎略はないと起請文で申し入れたこと、惟新への説明には難儀しているため、家久から疑いのない旨を取り成してほしいと頼んだ書状。

  10. 後編4-No.409 山口直友書状

    慶長十二年十一月二十日、山口直友が島津家久へ、本郷次郎が上向するので同族の河内守と相談して取り計らうことを知らせ、当地での勤務について安心するよう伝えた書状。

  11. 後編4-No.410 北郷忠能譜

    慶長十二年十一月二十九日、伏見に長く滞在していた北郷忠能が、弓術師吉田印西から射芸の奥義と印可を受け、家の珍宝とされる「唐衣」の矢を授けられた記事。

  12. 後編4-No.411 自円起請文

    慶長十二年十二月三日、自円が島津家久に対して別心なく奉公すること、茶の湯などを命じられても悪心や害意を抱かないことを諸神に誓い、違反時の神罰を列挙した起請文。

  13. 後編4-No.412 山口直友書状

    慶長十二年十二月五日、山口直友が島津家久へ、公方様が所望した薬種を送付し、関東へ進上したので安心するよう伝えた書状。

  14. 後編4-No.413 山口直友書状

    慶長十二年十二月二十二日、山口直友が島津家久へ、歳暮祝儀の小袖五領を披露すること、黒印は後日送ることを伝え、自身に贈られた小袖一重にも謝意を述べた書状。

  15. 後編4-No.414 本田元親指出

    慶長十二年十二月二十二日、本田元親が、高麗から伏見へ上った時期、庄内の戦いに伴う使者奉公、帖佐・伏見間の往復、随行人数と帰着日、在京中の合力や飯米支給などを年代順に申し出た指出。

  16. 後編4-No.415 新納為舟書状

    慶長十二年十二月二十六日、新納為舟が大田三川入道へ、夏の馬追で息子藤吉が奥州様の目に留まったことを述べ、亡兄小平次の跡を藤吉に相続させる方針を伝えた書状。

  17. 後編4-No.416 徳川秀忠御内書

    慶長十二年十二月二十七日、徳川秀忠が島津家久へ、歳暮祝儀として小袖五領が届いたことを喜んだ御内書。

  18. 後編4-No.417 樺山久高譜

    慶長十二年、家老樺山久高が本田六右衛門尉に代わって出水の境目警固を命じられ、再三辞退したものの任に就き、所領・屋敷を与えられて移住した経緯を記す系譜記事。

  19. 後編4-No.418 得能氏記録

    慶長十二年の年中記録。三月の尾張国主松平忠吉の死去を中心に、遺領・後継処置、家康・秀忠の移動、朝鮮使節の江戸・駿府訪問、諸大名の動向や贈答などを記す。

  20. 後編4-No.419 加治木御日記

    慶長十三年正月の加治木御日記。正月朔日から月末にかけ、島津家久のもとへ参上した家臣・僧侶・使者、各地からの年頭礼、太刀・馬・金銭・酒・茶・食品などの献上と返礼、饗応、祈願や使者の取次を日ごとに記す。

  21. 後編4-No.420 本多正信書状

    慶長十三年正月四日、本多正信が島津家久へ、駿府城火災の詳報は山口直友から伝えるとし、将軍への蜜柑二箱の進上を披露して謝意を伝えた書状。

  22. 後編4-No.421 喜入忠続譜

    慶長十三年春、喜入忠続が島津義久の使節として駿府・江戸へ赴き、島津常久と海路・陸路をともにしたことを記す系譜記事。

  23. 後編4-No.422 島津家久追悼詩

    慶長十三年二月朔日、島津家久が実窓芳真大姉の一周忌に際して作った漢詩。孤村の月夜の灯を用いて故人への追悼と悲嘆を表す。

  24. 後編4-No.423 島津家久外十一名追悼和歌

    島津家久をはじめ十二名が、実窓芳真大姉を追悼して詠んだ和歌集。月・夢・春・野・仏跡などを題材に、故人への悲しみと供養の心を表す。

  25. 後編4-No.424 山口直友書状

    慶長十三年二月二日、山口直友が島津惟新へ、前年の駿府城火災を心配する書状への返答として別条なく安心するよう伝え、内容を本多上野にも知らせるとした書状。

  26. 後編4-No.425 島津紹益・比志島国貞連署書下

    慶長十三年二月三日、島津紹益と比志島国貞が阿久根寺家中へ、各寺領地の境界は二度の検地で許可済みであり、寺地を帳面に記して永く領知するよう命じた連署書下。

  27. 後編4-No.426 渋谷重将書状

    十二月二日、渋谷重将が、前年に阿久根寺家中へ与えた墨付を根拠に、今回の寺領への竿入・検地も免除されたことを伝え、その扱いを関係者へ周知するよう求めた書状。

  28. 後編4-No.427 島津忠恒書状

    慶長十三年三月十五日、島津忠恒が川上伊与守へ、老中への申し入れや竿打ちの労をねぎらい、十七日に春山の狩りを催すため参加者を集め、物語や役割を整えるよう指示した書状。

  29. 後編4-No.428 島津家久書下

    慶長十三年二月二十三日、島津家久が小幡長門守へ、少進法印から相伝された「童舞抄」の書写を許されたことに謝し、八幡大菩薩に誓って他人へ見せないと約した書下。

  30. 後編4-No.429 島津家久譜

    慶長十三年二月、前年十月に焼失した駿府城の殿舎再建が成り、三月十一日を移徙の日と定めたこと、徳川家康が参洛せず島津家久も国元に留まったこと、清水光直がその事情を報じたことを記す系譜記事。

  31. 後編4-No.430 島津以久譜

    慶長十三年、島津以久が徳川家康の命を受け、駿府城の石垣を築いたことを記す系譜記事。

  32. 後編4-No.431 清水平左衛門書状

    慶長十三年二月二十七日、清水光直が島津家久に年賀を述べ、駿府城火災への気遣いに答えて再建がほぼ完成し翌月十一日に移徙予定であること、家康が健勝で当年の上洛もないことを知らせた書状。

  33. 後編4-No.432 山口直友書状

    慶長十三年二月二十七日、山口直友が島津家久に、前年冬に進上された砂糖と蜜柑が披露され、火災で砂糖を焼失した折だけに特に喜ばれたこと、御墨印は追って送ることを伝えた書状。

  34. 後編4-No.433 島津家久譜

    山口直友が島津家久に、中山王が帰順して来朝の礼を行う意思の有無を問い、使節を重ねて派遣して来朝を促すこと、父子から音問の使者を送ることを求め、詳細を和久氏の口上に託したことを記す系譜記事。

  35. 後編4-No.434 山口直友書状

    慶長十三年二月二十七日、山口直友が島津家久に、琉球から将軍へ御礼を申し上げさせるため使者を派遣して督促するよう求めるとともに、駿府城火災後も家康らが無事であることを知らせ、音信の使者を送るよう勧めた書状。

  36. 後編4-No.435 祐乗坊法印瑞久書状

    慶長十三年三月六日、祐乗坊法印瑞久が島津家久に年賀を述べ、家康・秀忠の上洛はないとの風聞、豊臣秀頼の疱瘡平癒、駿府城再建と十一日の移徙予定を伝え、三原樽二つを進上した書状。

  37. 後編4-No.436 島津家久譜

    島津家久が上申事項を書き、市来八左衛門家友に託して山口直友へ送った。直友は本多正純と相談して徳川家康へ奏聞したが、駿府城移徙の繁忙により家友をいったん帰し、のち家康の命で家友が拝謁した経緯を記す系譜記事。

  38. 後編4-No.437 山口直友書状

    慶長十三年三月十一日、山口直友が島津家久の使者の口上と条書を受け、本多正純と相談して上聞に達したこと、内縁の件は好意的な返答が見込まれること、城の移徙で多忙なため市来家友を先に帰すことを伝えた書状。

  39. 後編4-No.438 山口直友書状

    慶長十三年三月十一日、山口直友が島津家久に、市来八左衛門家友が家久の側近であると披露したところ、家康が確認のため御前へ召し出したことを説明した書状。

  40. 後編4-No.439 島津家久譜

    島津義久と家久が徳川家康・秀忠への年賀使節を派遣し、太刀・馬代黄金・緋綸子を献じた。さらに前年十月の駿府城殿舎焼失を見舞う白銀を託し、使者が三月二日に薩摩を発ち、美々津から航海して同月二十二日に大坂へ着いたことを記す系譜記事。

  41. 後編4-No.440 島津家久譜

    島津常久・忠政の使節が伏見から駿府へ赴き、山口直友・本多正純を介して国元からの太刀・馬代銀・衣類等を献上し、四月二十八日に徳川家康へ拝謁して使命を果たした経緯を記す系譜記事。

  42. 後編4-No.441 近衛信尹書状

    慶長十三年四月朔日、近衛信尹が島津家久に、正月六日付の書状を喜入摂津守が持参したことと、祝儀の銀子三包を受領して喜んだことを伝えた書状。

  43. 後編4-No.442 近衛信尹書状

    慶長十三年四月朔日、近衛信尹が島津家久からの二通を披見し、希望していた『前漢書』枰林本が届けられたことに謝意を述べ、詳細を喜入摂津守の説明に託した書状。

  44. 後編4-No.443 島津義久詠草

    慶長十三年四月吉日、庭の白藤が盛りとなった折に、松へかかる藤蔓と千年の繁栄を重ねて詠んだ島津義久の和歌。

  45. 後編4-No.444 新納為舟署判坪付

    慶長十三年四月五日、新納武蔵入道為舟が柳瀬村湯之谷などの田地、合計一反二畝・高一石一斗二升を縄分の知行返地として赤池六左衛門尉に宛行った坪付。

  46. 後編4-No.445 島津惟新書状

    慶長十三年四月八日、島津惟新が島津家久に、琉球からの使僧への返答を今回確定すべきであり、龍伯とも相談するよう求め、詳細を町田勝兵衛尉・相良新右衛門尉へ申し渡した書状。

  47. 後編4-No.446 島津家久公辺記事

    島津家久の母・実窓芳真大姉の没後、家久が不断光院に阿弥陀如来像と位牌を建立するよう命じ、三原諸右衛門・細工奉行森喜右衛門を通じて京都七条の大仏師康厳法印に彫刻させ、慶長十三年四月九日に家久自筆の証書を像内へ納めた記事。

  48. 後編4-No.447 島津家久寄進状

    慶長十三年四月九日、島津家久が母・実窓芳真大姉の追善のため康厳法印に彫刻させた無量寿仏像を不斷光院の純誉上人へ寄進し、現世安穏・後世善処を願った寄進状。本文はNo.450と同文のため省略されている。

  49. 後編4-No.448 島津家久譜

    駿府使節の島津常久・忠政が火災見舞銀千枚のうち百枚を受納され九百枚を返され、帰国の途上で家康の命により罪人落合長作を預かって鬼界島へ配流したこと、帰着後に義久・惟新・家久へ復命した経緯を記す系譜記事。

  50. 後編4-No.449 島津家久譜

    島津家久が母・実窓芳真大姉の一周忌に不斷光院へ参詣し、追善句を純誉上人へ与えた。阿弥陀像と母の影像を造らせて寺へ安置し、念仏三昧と開眼供養を行い、以後も毎年忌日に参詣したことを記す系譜記事。

  51. 後編4-No.450 島津家久寄進状

    慶長十三年四月九日、島津家久が母・実窓芳真大姉の追善のため、七条大仏師康厳に彫刻させた無量寿仏一体を不斷光院の現住・純誉上人へ寄進し、現世安穏と後世善処を願った寄進状。

  52. 後編4-No.451 島津家久譜

    島津家久が平素信仰する太元明王のため、江戸の理性院内に太元堂を建立し、その完成と荘麗さを理性院主観助が喜んで書状を送ったことを記す系譜記事。

  53. 後編4-No.452 理性院観助書状

    慶長十三年四月十二日、理性院観助が島津家久に、太元堂が美麗に完成し一山にも比類ない伽藍となったこと、両奉行が尽力したことを喜び、上洛時の拝観を勧め、詳細を税所弥右衛門尉に託した書状。

  54. 後編4-No.453 島津家久譜

    島津家久が前年晩秋に江戸へ初参府した際は真福寺を旅館としていたが、徳川秀忠から芝の宅地を与えられたため、鎌田政在を作事奉行として江戸屋敷を普請させ、本多正純の指示を求めたことを記す系譜記事。

  55. 後編4-No.454 本多正純書状

    慶長十三年四月十五日、本多正純が島津家久に、江戸屋敷普請について鎌田政在へ十分な配慮を求める書状を送ったこと、秀忠が三月十七日に駿府へ着き健勝であることを知らせ、象牙・半弓・扇籠の贈答に謝意を述べた書状。

  56. 後編4-No.455 島津家久譜

    豊臣秀頼が疱瘡を患ったことを遠隔地のため遅れて知った島津家久が、使者を立てて見舞い、毛氈・丁香などを贈ったところ、片桐且元から返書があったことを記す系譜記事。

  57. 後編4-No.456 新納忠元勲功記

    慶長十三年、新納忠元が年頭祝儀のため加治木へ参上し、八月には家久へ月毛の馬を献上した。家久は帷子三領・酒二樽を与え、忠元の長年の武功と忠勤を称賛して、八十三歳の老齢をいたわったことを記す勲功記。

  58. 後編4-No.457 片桐且元書状

    四月二十二日、片桐且元が島津家久に、疱瘡を患った豊臣秀頼への遠路からの見舞使者に謝意を示し、秀頼はすでに本復して気色もよいため心配は不要であると伝えた書状。

  59. 後編4-No.458 片桐貞隆書状

    慶長十三年四月二十二日、片桐貞隆が島津家久に、秀頼の疱瘡見舞の使者と書状を片桐且元が披見したこと、秀頼は回復しており、諸大名にも見舞は不要と伝えていること、上方は平穏であることを知らせた書状。

  60. 後編4-No.459 徳川家康御内書

    慶長十三年四月二十八日、徳川家康が島津家久から歳暮の祝儀として小袖五領が届いたことを喜んだ御内書。

  61. 後編4-No.460 本多正信書状

    慶長十三年五月二日、本多正信が島津家久に、喜入摂津守を介した年頭祝儀が披露されたことを伝え、禁裏用材の調達、南蛮・唐船への対応、江戸普請で鎌田政在と相談して遺漏なく進めるよう求めた書状。

  62. 後編4-No.461 本多正信書状

    慶長十三年五月二日、本多正信が島津家久に、年賀使者と太刀・馬代金・緋綸子の献上が披露され、家康が喜んで御内書を送ったことを伝え、自身への太刀・馬・緞子の贈答にも謝意を述べた書状。

  63. 後編4-No.462 小林家孝書状

    慶長十三年五月三日、小林家孝が島津家久に、秀頼が健勝であることを知らせ、南都諸白二樽を贈った。将軍の上洛がないため進物は目録どおり披露され、御内書は追って相談すると伝えた書状。

  64. 後編4-No.463 本多正純書状

    慶長十三年五月八日、本多正純が島津家久に、大御所徳川家康への端午祝儀として帷子・単物を進上したことが目録どおり披露され、喜ばれたこと、御内書は追って取り計らうことを伝えた書状。

  65. 後編4-No.464 徳川秀忠御内書

    慶長十三年五月十二日、徳川秀忠が島津家久から端午の祝儀として帷子・単物十領を受領して喜び、詳細は本多正信が伝えるとした御内書。

  66. 後編4-No.465 本多正純書状

    慶長十三年五月十六日、本多正純が島津家久に、駿府城火災見舞の銀千枚を披露し、家康が百枚だけ受納して九百枚を返したこと、使者の島津又吉が厚遇されたことを伝えた書状。

  67. 後編4-No.466 山口直友書状

    慶長十三年五月十七日、山口直友が島津家久に、島津又吉を使者とする年頭祝儀と銀千枚が披露され、家康が見舞銀百枚を留め九百枚を返したこと、自身も銀十枚を受けたことを伝えた書状。

  68. 後編4-No.467 山口直友書状

    慶長十三年五月十七日、山口直友が島津家久に、喜入摂津守の年賀使節が江戸・駿府で歓迎されたことを知らせ、自身への太刀・馬代銀十枚の贈答に謝意を述べた書状。

  69. 後編4-No.468 山口直友書状

    慶長十三年五月十七日、山口直友が島津家久に、豊臣秀頼への年賀として太刀一腰・馬・小袖十領を進上したことが披露されたと伝え、遠方からの丁重な音信に謝意を示し、自らも祝儀の太刀・馬を贈る旨を述べた書状。

  70. 後編4-No.469 片桐且元書状

    慶長十三年五月二十一日、片桐且元が島津家久に、豊臣秀頼への年賀の太刀・馬・小袖十領を披露したことを伝え、遠方からの厚意に謝し、自身への太刀・馬・小袖三領の贈答にも礼を述べた書状。

  71. 後編4-No.470 土井利勝書状

    慶長十三年五月二十五日、土井利勝が島津家久に年賀を述べ、太刀・馬・緞子十端の贈答に謝意を示し、詳細を使者の島津又吉に託した書状。

  72. 後編4-No.471 島津竜伯書状

    五月二十六日、島津義久が、今朝の一服を喜んだこと、自身は茶に不案内ながら五月壺の口切りを賞したことを伝えた短い書状。

  73. 後編4-No.472 島津家久譜

    駿府城の殿舎完成と徳川家康の移徙を祝うため島津家久が駿府下向を願ったが、家康は在国して政務を行い、必要時は朱印を出すので来朝不要と命じ、本多正純がその旨を伝えたことを記す系譜記事。

  74. 後編4-No.473 本多正純書状

    慶長十三年五月二十七日、本多正純が島津家久に、歳暮・端午の進物を披露し黒印二通を送った。駿府移徙祝いの家久自身の下向は不要で、用向きは使者を通じ、在国して政務を行うよう家康が命じたことを伝えた書状。

  75. 後編4-No.474 小林家孝書状

    慶長十三年六月四日、小林家孝が島津家久に、豊臣秀頼が疱瘡から全快して節句以後たびたび出御したこと、秀忠から全快祝いの使者と太刀・馬二疋・衣類・銀子・越前綿など多くの進物が届いたことを知らせた書状。

  76. 後編4-No.475 島津家久書状

    慶長十三年六月十一日、島津家久が成正院に、上着の頃と見込んで現地の様子を見舞うため惟新から飛脚が出された機会に書状を送り、今後どのように相談すべきか詳しく知らせるよう求めた書状。

  77. 後編4-No.476 島津義久書状案

    慶長十三年六月二十四日、島津義久が『二十四孝』一冊の贈答に謝意を示し、自身の病状や人物評などを伝えた書状案。本文はNo.367と同文のため省略されている。

  78. 後編4-No.477 島津義久書状

    慶長十三年、島津義久が明の泉州商人許麗寰に、翌年再渡航して船が他国へ着いた場合も薩摩の役人到着を待ち、器物・貨財の価格を公正に定めて双方の利益を守り、盟約を堅固に保つよう求めた書状。

  79. 後編4-No.478 山口直友書状

    慶長十三年七月十日、山口直友が島津家久に、江戸屋敷普請の使者が帰国し、鎌田政在が普請を進めていること、伊勢兵部が駿府で家康へ拝謁したことを報告し、自身は城番等で動けないため駒沢忠左衛門を添えたと伝えた書状。

  80. 後編4-No.479 島津家久譜

    京極忠高の家臣沖長門守道極が過失のため、本多正純の命を受けた山口直友の手配で薩摩へ護送され、島津家久に預けられたことを記す系譜記事。

  81. 後編4-No.480 山口直友書状

    慶長十三年七月十九日、山口直友が島津家久に、京極忠高家臣の沖長門守道極を薩摩へ送る件について、本多正純の書状と自身の書状を添え、事情を理解して受け入れるよう求めた書状。

  82. 後編4-No.481 島津家久譜

    島津家久父子が高野山金剛峯寺を信仰し、祖島津忠久にちなむ宿坊として蓮金院を創建するため、白銀を投じて院地を取得し、比志島紀伊守を奉行として寺宇・仏具・文庫等を整備したことを記す系譜記事。

  83. 後編4-No.482 蓮金院全秀外二名連署売券

    慶長十三年七月二十一日、蓮金院全秀らが、高野山の屋敷・院領・建物・仏具等を銀子二十貫目で永代売却した売券。敷地寸法と堂宇・門・庫蔵などの施設を列挙し、国中の念劇や寺内騒動があっても違乱しないと保証する。

  84. 後編4-No.483 大村某起請文

    慶長十三年七月二十一日、大村与左衛門尉が小笠原宗仲から相伝された細工の技法を、子一人以外へは伝えず他言もしないと諸神仏に誓った起請文。成正院を取次とする。

  85. 後編4-No.484 徳川家康御内書

    慶長十三年七月二十一日、徳川家康が島津家久から音信として硫黄二千斤が届いたことを喜んだ御内書。

  86. 後編4-No.485 島津常久譜

    慶長十三年、島津常久が忠政らと駿府・江戸への使節を務め、伏見・大坂・駿府・江戸を往来して家康・秀忠や幕臣へ献上・拝謁した。帰途には寺社参詣や各地の名所巡覧を行い、罪人護送も担い、七月に薩摩へ帰着して義久・惟新・家久へ復命した長大な系譜記事。

  87. 後編4-No.486 新納為舟署判坪付

    慶長十三年八月八日、新納武蔵入道為舟が薩州大口・羽月・山野三か所の十七筆、合計田畠屋敷九反八畝十歩・分米十石六斗三升余の知行坪を柳田吉兵衛へ宛行った坪付。

  88. 後編4-No.487 徳川家康御内書

    慶長十三年八月十日、徳川家康が島津家久から遠路送られた蘭二本を受領し、大いに喜んだ御内書。

  89. 後編4-No.488 徳川家康御内書

    慶長十三年八月十日、徳川家康が火事見舞の音信として島津家久から砂糖二千斤が届いたことを喜んだ御内書。

  90. 後編4-No.489 島津家久書状

    慶長十三年八月十日、島津家久が新納為舟から贈られた見事な月毛馬を秘蔵すると喜び、長年の武功・忠勤を称えて老齢の養生を勧め、返礼として帷子三領と酒二樽を贈った書状。

  91. 後編4-No.490 島津家久譜

    中山王が六月に来朝したとの情報を受け、徳川家康への拝礼を急がせる必要があるとして、山口直友・本多正純が島津家久に催促を求め、従わなければ軍を発する構えを厳しく示すよう伝えたことを記す系譜記事。

  92. 後編4-No.491 山口直友書状

    慶長十三年八月十九日、山口直友が島津家久に、まず使者を琉球へ渡して来朝を促し、それでも解決しなければ軍勢を渡海させるよう勧め、できる限り兵を出さずに済むよう工夫することが第一と説いた書状。

  93. 後編4-No.492 得能氏記録

    慶長十三年、駿府城再建後の家康の移徙、秀忠の江戸・駿府間の動静、松平康重の常州笠間城三万石への転封、池田輝政家中の叙任などを日付順に記した得能氏の記録。

  94. 後編4-No.493 山口直友書状

    慶長十三年九月五日、山口直友が島津家久に、硫黄・蘭の献上と唐船着岸の報告が披露され喜ばれたこと、必要な薬種を早く送ることを求め、琉球から返答がなければ軍勢渡海を準備するよう促した書状。

  95. 後編4-No.494 琉球渡海軍衆掟書

    慶長十三年九月六日、琉球渡海軍に対し、軍議と命令への服従、無用な戦闘の回避、無実の者の殺害・略奪・寺社侵害・放火・人身売買等の禁止、船舶封鎖、兵員・兵糧・武器の編成と負担を定めた掟書。

  96. 後編4-No.495 本多正純書状

    慶長十三年九月七日、本多正純が島津家久に、大御所徳川家康への重陽祝儀として衣服五領が献上され、喜ばれたことを伝え、御内書は改めて取り計らうとした書状。

  97. 後編4-No.496 琉球渡衆交名

    琉球渡海軍の諸隊・役職・人数と氏名を列挙した交名。軍役六十一人をはじめ各組の配属を記し、総人数七百十三人とする。

  98. 後編4-No.497 島津家久譜

    島津家久が大元明王への信仰を深め、国家長久の祈願のため、醍醐理性院へ書状を送り、僧一人に秘法を伝授するよう願ったことを記す系譜記事。

  99. 後編4-No.498 島津家久書状案

    九月十日、島津家久が理性院に、大元明王を薩摩へ勧請して国家長久の守護としたいと述べ、秘法を出家一人へ伝授してもらえるなら適任僧を急ぎ上洛させると願った書状案。

  100. 後編4-No.499 徳川秀忠御内書

    慶長十三年九月十日、徳川秀忠が島津家久から重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜び、詳細は本多正信が伝えるとした御内書。