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後編4の目録

旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。

全1,899件中 701~800件・8 / 19ページ

  1. 後編4-No.700 盛香集

    盛香集の記事。山田越前こと夫利安慶哲居士の猛心・節義にまつわる逸話と、病中や露・葉を題にした和歌を収め、法印龍伯や新納忠元らの作を付す。

  2. 後編4-No.701 島津久元譜

    島津久元譜の記事。慶長十五年六月に馬越から宮城へ移り、翌慶長十六年十月には鹿島へ移住したことを記す。

  3. 後編4-No.702 福島正則書状

    福島正則から島津家久への書状。本文はNo.590と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  4. 後編4-No.703 島津家久書状

    慶長十五年七月五日、島津家久が島津義弘に、琉球人の処置と帰国について山口直友・板倉勝重らの意向を伝え、来春の参府や国内での用意、唐船関係の取り扱いを慎重に進めるよう求めた書状。

  5. 後編4-No.704 島津家久書状

    慶長十五年七月五日、島津家久が北郷忠能に、近日の江戸下向に向けた用意を促し、弓術の稽古を絶やさず励むよう諭し、下国の時期についても知らせた書状。

  6. 後編4-No.705 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家老平田太郎左衛門増宗が島津家に代々仕えた重臣であったことを述べ、慶長十五年六月十九日、薩摩郡から私領郡山へ向かう途中、越士瀬戸で鉄砲により殺害された経緯を記す。

  7. 後編4-No.706 島津家久書状

    慶長十五年七月七日、島津家久が島津義弘に、平田太郎左衛門の不慮の死を聞いて驚き、犯人や事情を詳しく知らせるよう求め、重ねて哀悼の意を述べた書状。

  8. 後編4-No.707 島津家久譜

    島津家久譜の記事。外国船と使節が領内に来着し、幕府へ報告して使者を進上させた経過を記す。使節が家康・秀忠に拝謁し、漢籍・史書・楽器・風鈴・玉灯籠などの品を献上したことも載せる。

  9. 後編4-No.708 徳川秀忠御内書

    慶長十五年七月八日、徳川秀忠が島津領に外国の黒船が着岸し、使者を添えて報告が届いたことを了承し、詳細は本多正信が伝えるとした御内書。

  10. 後編4-No.709 本多正信書状

    七月九日、本多正信が島津家久に、外国使節と進上品を大御所へ披露して喜ばれたこと、将軍への玉灯籠・書物等の進上、正信自身への白砂糖百斤の贈答を謝した書状。

  11. 後編4-No.710 滝聞某・渡辺某連署銀子請取状

    慶長十五年七月十日、滝聞傳右衛門・渡邊市左衛門が本田助丞に、高二百石に対する四分出銀について、鳥目・銀子の総額や東国使節下向時の給分を差し引き、すべて納済みであることを証した受取状。

  12. 後編4-No.711 島津家久書状

    慶長十五年七月十二日、島津家久が鹿児島への書状を託し、又四郎の使者来着に謝意を述べたうえ、琉球人の用意を整えてから関東へ下向するよう山口直友の指南を受け、二十日頃に出立して駿府・江戸で対面する予定を報じた書状。

  13. 後編4-No.712 島津惟新書状

    慶長十五年七月十二日、島津義弘が島津家久に、室津からの書状到着と暴風下での船団の無事、大坂着船の報を喜び、琉球国王を伴う駿府・江戸での拝謁成功を祈るとともに、国王への世評や当地の様子を詳しく知らせるよう求めた書状。

  14. 後編4-No.713 島津家久書状

    慶長十五年七月十三日、島津家久が島津義弘に、平田太郎左衛門増宗の不慮の死を嘆き、このような事件は国中の気の緩みによるとして、十分な糺明を命じることが肝要だと訴えた書状。

  15. 後編4-No.714 本多正純書状

    慶長十五年七月十六日、本多正純が島津家久に、琉球国王を伴う駿府・江戸への礼参を歓迎し、案内役二人を添えたことを伝えた。南蛮使節が大御所へ礼を述べ、続いて江戸で将軍に拝謁し、薩摩の両使も同行する予定を報じる。

  16. 後編4-No.715 山口直友書状

    慶長十五年七月十九日、山口直友が島津家久に、南蛮人の取扱いをめぐる大御所の不興が後藤庄三郎の取り成しで解けたため礼状を送るよう勧めた。伊東・秋月・高橋・藤堂・板倉らの厚遇、翌春の禁中普請、伊勢・三河経由の駿河下向路など、上方の政治事情を詳報する。

  17. 後編4-No.716 島津家久書状

    慶長十五年七月二十日、島津家久が島津義弘に、古田織部による琉球歌舞の稽古、上方諸大名・幕府年寄との交際、禁中普請や駿河への道筋を報じた長文書状。琉球使節の進物、銀子借用と調達、伏見・大坂での応接についても述べ、内密かつ慎重な処置を求める。

  18. 後編4-No.717 寺沢広高書状

    慶長十五年七月二十四日、寺沢広高が島津家久に、琉球国王を伴う駿府・江戸への礼参をもっともなことと歓迎し、使者山田民部を通じて贈られた銀子二十枚を謝した書状。過分な気遣いは不要とも伝える。

  19. 後編4-No.718 島津家久譜

    島津家久譜の記事。安南国東京王の使船が領内に着岸し、沈香・糖水・象牙・鸚鵡・孔雀・絹など多数の進物をもたらしたことを記す。琉球征討と中山王送還により島津氏の武威が三国に知られ、安南との修好・通商につながったと評し、渡唐した琉球人池城の無事帰還にも触れる。

  20. 後編4-No.719 島津竜伯書状

    慶長十五年八月八日、島津義久が島津家久に、留守中の見舞いや日向の木引き、上方での好調な情勢と駿府・江戸の安泰見込みを伝えた。さらに安南国東京王の使者来航、琉球経由の渡唐船帰還を受け、明国へ人員を派遣する可能性を紹益とも相談して判断するよう促した書状。

  21. 後編4-No.720 島津家久譜

    島津家久譜の記事。島津右馬允忠興が尾州名古屋の普請に従事し、福島正則・寺沢忠成らから厚遇を受けたため、家久が両名へ書状を送り、その好意を謝したことを記す。

  22. 後編4-No.721 金武外二名連署状

    三月十日、宜湾・国頭・金武が連署した書状。中山王が駿河で大御所へ献上する書籍・羅紗・太平布・白銀・長光の太刀などの数量と代銀を算用し、京・大坂でも調達困難な銀子の借用を願う。琉球帰着後の返済と関係者の共同責任も約す。

  23. 後編4-No.722 島津家久書状案

    八月十二日、島津家久が島津忠興に、尾州名古屋普請の進捗を喜び、忠興を厚遇する福島正則・寺沢忠成への礼状を送ったと知らせた書状案。秋の普請で多忙なため返書が遅れたことも詫びる。

  24. 後編4-No.723 島津家久書状案

    慶長十五年八月十二日、島津家久が福島正則に、同族の島津右馬允忠興が普請の組に加わり、格別の配慮を受けていることを謝した書状案。田舎の若輩で普請に不案内な忠興への支援を頼み、翌春の対面を期す。

  25. 後編4-No.724 島津家久書状案

    慶長十五年八月十二日、島津家久が寺沢忠成に、普請中の島津忠興へ人手を付け、親身に世話をしたことを謝した書状案。忠興は普請に不案内な田舎の若者であるとして、引き続きの助力を頼み、翌春の参上を約す。

  26. 後編4-No.725 寺沢広高書状

    慶長十五年八月十六日、寺沢広高が島津義弘に、島津家久が尾州鳴海に宿泊したのち八月六日に駿府へ着き、八日に大御所の御前へ出仕して厚遇を受けたことを報じた書状。茶の接待や江戸参上の予定にも触れ、家久の首尾を祝う。

  27. 後編4-No.726 山口直友書状

    八月十六日、山口直友が島津又四郎に、先日の照会に答え、佐土原の件は望ましい裁許を得て命令が出されたと報じた書状。相済ませたうえでの結果を見届けたいとして、今後も詳しい連絡を求める。

  28. 後編4-No.727 島津惟新書状

    慶長十五年八月十七日、島津義弘が成正院に、高野山参詣以来引き続いて関東まで供奉した労をねぎらい、祈念に丹精するよう求めた書状。島津家久が下向する際にも供をするよう伝え、今後の厚意を頼む。

  29. 後編4-No.728 伊集院某書状

    慶長十五年八月二十四日、伊集院五兵衛入道が島津家久の上方での動静を報じた書状。家久が八月二日に到着して城へ招かれ、能や七五三の会食など盛大な饗応を受けたこと、懸川を経て六日に駿府へ入り、八日に大御所へ出仕して腰物・脇差を拝領したことなどを詳述する。

  30. 後編4-No.729 本多正信書状

    慶長十五年八月二十五日、本多正信が島津家久に、駿府での用務を終えて当日到着するとの書状を前夜に受け取ったと返答し、面会して直接話を聞く意向を伝えた書状。長い道中の労苦もねぎらう。

  31. 後編4-No.730 島津惟新書状

    慶長十五年八月二十五日、島津義弘が島津家久に、関ヶ原退却の際に近江国本山付近で道案内をした入道道珍の所在を帖佐彦左衛門尉から聞いたと知らせ、通行の折に召し出して格別に謝礼するよう求めた書状。

  32. 後編4-No.731 雑抄

    雑抄。日向で豊後勢を討った合戦から三十三年に当たるため、大施餓鬼を営んで戦死者を供養すべきことを論じる。留守中で琉球検地など多忙である事情を踏まえ、福昌寺での執行と紹益への相談を指示する。

  33. 後編4-No.732 島津惟新書状

    慶長十五年八月二十五日、島津義弘が島津家久に、日向へ派遣された木引奉行下総殿の指揮により、数千人が乱れなく働き、木引きが順調に進むと報じた書状。奉行自身の勤勉と行儀を高く評価し、適切な処遇を求める。

  34. 後編4-No.733 島津家久譜

    島津家久譜の記事。中山王尚寧の弟具志頭が駿府の邸で病死したため葬礼を行い、本多正純の命により平田阿波介宗衡が具志頭の従者らとともに棺を運び、正純がその経過を家久へ報告したことを記す。

  35. 後編4-No.734 本多正純書状

    慶長十五年八月二十六日、本多正純が島津家久に、具志頭の死去に伴う葬礼を当地で執行したと報じた書状。残った琉球の従者を帰国させるため、日本の地理に不案内な一行へ平田阿波介宗衡を付き添わせたことも知らせる。

  36. 後編4-No.735 島津家久書状

    慶長十五年八月二十八日、島津家久が島津義弘に、二十日に駿府を発ち二十五日に江戸へ着いたこと、翌日に米千俵を下賜されたことを報じた書状。街道の橋や道を新設し、町々の往来を整えて迎えた幕府の厚遇と、二十八日の将軍への拝謁成功を詳述する。

  37. 後編4-No.736 喜入久正・本田正親連署寄進状

    慶長十五年九月朔日、喜入久正・本田正親が連署し、正八幡宮の拝殿へ経筵十帖を寄進したことを証する寄進状。恒例ではないため、後証として墨付を作成した旨を記す。

  38. 後編4-No.737 本多正純書状

    慶長十五年九月三日、本多正純が島津家久に、具志頭の葬送が立派に執行されて満足したとの意向を了承した書状。葬送に尽力した彦坂九兵衛への礼状を届け、返事を取り次いだことも伝える。

  39. 後編4-No.738 土井利勝書状

    慶長十五年九月十一日、土井利勝が島津家久に、平田越前を通じた将軍への申し上げが本多正信から披露され、機嫌よく受け止められたと報じた書状。家久の首尾を喜び、太刀一腰・馬一疋・天鵞絨五巻の贈答にも謝意を述べる。

  40. 後編4-No.739 島津家久書状

    慶長十五年九月十一日、島津家久が島津義弘に、南郷内匠允を先に帰して江戸の様子を報告させると伝えた書状。江戸での盛大な饗応、将軍からの茶、本多正信の厚遇を述べ、追而書で琉球国王の礼が十二日に済み、自身も十七・十八日頃に出立する予定を知らせる。

  41. 後編4-No.740 泉哲外二名連署起請文前書

    慶長十五年九月十一日、泉哲ら三名が連署した起請文前書。家久から命じられた書物の内容を一言も他言せず、機密を漏らした場合は愛宕・天満・伊豆箱根・三島など諸神の罰を受けると誓う。

  42. 後編4-No.741 最上家親書状

    慶長十五年九月十二日、最上家親が島津家久に、先刻城中で対面したものの名残惜しかったと述べ、琉球国王の奏者を務めるにあたり、その夜に門前へ礼に赴けるよう内儀へ取り次いでほしいと頼んだ書状。

  43. 後編4-No.742 島津家久書状

    慶長十五年九月二十三日、島津家久が有馬次右衛門尉・相良勘解由次官に、長期滞在の労をねぎらい、琉球国王の帰国に伴う知行割付と各種法度の徹底を命じた書状。翌春の渡唐船にも力を尽くすよう求める。

  44. 後編4-No.743 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家久が徳川家康・秀忠への忠節を誓い、本多正純と神前の盟約を交わしたこと、家老伊勢貞昌も家久の命により正純の家臣内田織部助直定と盟書を交換したことを記す。

  45. 後編4-No.744 島津家久起請文前書

    慶長十五年九月、島津家久が本多正純に対し、家康・秀忠へ二心なく奉公し、正純と相談して忠節を尽くすこと、表裏や逆意を持たず、秘密を守ることを神前に誓った起請文前書。

  46. 後編4-No.745 本多正純起請文

    慶長十五年九月二十五日、本多正純が島津家久に、家康・秀忠への忠節に二心がないとの家久の誓いを受け、今後は深く相談し、互いに秘密を守って奉公することを神前に誓った起請文。

  47. 後編4-No.746 某起請文前書案

    起請文前書案。島津家久と本多正純が特別に相談する関係となったことを受け、双方の使者も私心なく一筋に職務を果たし、上州・陸奥守間の密事や伝達内容を外へ漏らさないと誓う。

  48. 後編4-No.747 内田直定起請文

    慶長十五年九月二十五日、内田直定が伊勢貞昌に、島津家久と本多正純の特別な盟約を受け、両家の使者として私心なく協力し、秘密を漏らさず、表裏なく務めると神前に誓った起請文。

  49. 後編4-No.748 教訪頼満書状

    慶長十五年九月二十五日、諏訪頼満が伊勢貞昌に、無事の帰着を祝し、同名の者に関する用件を了承したと伝えた書状。後日あらためて訪問するとして、まず簡潔に返答する。

  50. 後編4-No.749 某覚書

    琉球関係の覚書。慶長十四年四月の薩摩船の琉球着から、国王らの出航・鹿児島上陸、翌慶長十五年の鹿児島出立、京泊・伏見・駿河への移動と拝謁まで、船と一行の行程を月日順に記録する。

  51. 後編4-No.750 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家久が江戸を発つにあたり、伊勢貞昌を駿府へ派遣して今回の厚遇を謝し、書状と鳥銃・硫黄などを本多正純へ贈ったこと、正純から二通の返書があったことを記す。

  52. 後編4-No.751 本多正純書状

    慶長十五年九月二十九日、本多正純が島津家久に、江戸での成功と満足を喜び、木曽路を通る帰国の無事を願った書状。駿府での交誼を踏まえて今後の用務を引き受けると約し、薩摩から贈られた精巧な鉄砲二十挺を謝す。

  53. 後編4-No.752 本多正純書状

    慶長十五年九月二十九日、本多正純が島津家久に、音信として贈られた品と硫黄百斤を謝し、返礼として蠟燭五百挺を送った書状。遠路からの厚意に感謝し、酒宴後に詳しく話す意向も伝える。

  54. 後編4-No.753 比志島国貞書状

    慶長十五年十月二日、比志島国貞が島津家久に、安南国から使船が来たのは前代未聞で、琉球征討と国王の薩州移送により島津氏の威名が三国に知られたためだと述べた書状。駿府・江戸への披露や池城の明国渡航にも触れる。

  55. 後編4-No.754 狗留孫山端山寺由緒

    狗留孫山端山寺由緒の記事。惟新の飯野在城期に神前の旧堂が崇敬され、慶長十五年十月頃に新たな小社が建立されたこと、その後の破損と修理の経過を記す。

  56. 後編4-No.755 井伊直継直勝書状

    慶長十五年十月八日、井伊直継(直勝)が島津家久に、太刀一腰・青毛の馬一疋・緞子十端・銀子二十枚の贈答を謝した書状。琉球国王を伴う駿府・江戸での成功と帰国を喜び、伊勢路の通行にも触れる。

  57. 後編4-No.756 島津家久書状

    慶長十五年十月十日、島津家久が島津義久に、九月五日付の書状を受け取ったと知らせ、駿府・江戸での用務を無事終えて伊勢を経て大坂へ着いたことを報じた書状。帰国船を用意し、先発の者から詳しく伝えさせると述べる。

  58. 後編4-No.757 花山院定照書状

    慶長十五年十月十七日、花山院定照が島津家久に、上洛を聞いたが都合が分からないため、まず書状を送ったと述べ、江戸・駿府での成功を祝した書状。滞在中に訪問して直接話したいと伝える。

  59. 後編4-No.758 島津久信譜

    島津久信譜の記事。慶長十五年四月に祖父島津以久が伏見で没し、将軍家から忠仍へ遺領が与えられたが、龍伯の病気と忠仍の母の高齢を理由に辞退し、本宗家への帰属を願ったこと、以久の三男尭舜房忠興が佐土原へ置かれたことを記す。

  60. 後編4-No.759 山口直友書状

    十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。

  61. 後編4-No.760 近衛信尹書状

    慶長十五年十月十五日、近衛信尹が島津家久に、夏の書状を喜び、家久の駿府での首尾が申し分なく、その評判が上洛後に広まって親疎を問わず皆が満足していると祝した書状。自身の無事も伝え、今後の便りを待つ。

  62. 後編4-No.761 大炊御門経頼書状

    慶長十五年十月十七日、大炊御門経頼が島津家久に、駿府・江戸への下向が成功したと聞いて祝意を述べた書状。上洛後すぐ見舞うべきところ都合が分からず訪問できなかったことを詫び、後日の対面を期し、三位中将への配慮も頼む。

  63. 後編4-No.762 飛鳥井雅庸伝授状

    慶長十五年十月十九日、飛鳥井雅庸が島津家久に、蹴鞠の門弟が用いる無紋紫革について、特別な執心と兄弟の契約により許可し、背けば神罰を受けるとした伝授状。

  64. 後編4-No.763 島津惟新書状

    慶長十五年十月二十三日、島津義弘が島津家久に、駿府・江戸での礼参が無事済み、家康・秀忠から格別の厚遇を受けたことを喜んだ書状。暇を得た後は京都に長く滞在せず早く帰国すること、越中守へ必ず礼を述べることを勧め、国元の平穏も知らせる。

  65. 後編4-No.764 島津家久書状

    慶長十五年十月二十五日、島津家久が又四郎に、見舞いの書状を喜び、駿府・江戸での首尾は書き尽くせないほど良かったと伝えた書状。音信として届いた銀子五枚を謝し、詳しくは使者から伝えるとする。

  66. 後編4-No.765 島津竜伯詠草

    慶長十五年十月二十五日、島津義久(龍伯)が、重武という人物の旧宅にあった常緑の橘を訪ね、時ならぬ冬まで葉を残す木を常世の宿の橘に見立てて詠んだ詠草。

  67. 後編4-No.766 島津竜伯外六名詠草

    慶長十五年十月二十二日、島津義久(龍伯)が小根占の園林寺を訪れた際の詠草。詠歌御短冊と供衆の短冊を収め、松杉、古寺、岩根の水、冬木などを題に、龍伯ほか六名の歌を載せる。

  68. 後編4-No.767 山口直友書状

    慶長十五年十一月三日、山口直友が島津義久に、島津家久の関東下向と帰国が成功したことを祝い、太刀一腰・馬代三百疋・緞子五巻を贈った書状。琉球への対応は比志島・伊勢らと相談し、家久とも十分協議するよう求める。

  69. 後編4-No.768 祥寿院瑞久書状

    慶長十五年十一月七日、祥寿院瑞久が島津義久に、家久が無事に帰国したことを喜び、龍伯の咳・痰などの症状に合わせて薬を調進した書状。寒さを迎える前に服薬と養生を専らにするよう勧め、福崎新兵衛尉への用件も託す。

  70. 後編4-No.769 島津忠長譜

    島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。

  71. 後編4-No.770 島津家久譜

    島津家久譜の記事。日本と明国との勘合が成立しない場合に渡海軍備を整えるよう、本多正純から幕命が伝えられていたが、その後、明国との和談進展を受けて渡海を中止した経緯を記す。伏見で板倉勝重が語った内容とも符合すると評する。

  72. 後編4-No.771 本多正純書状

    慶長十五年十一月二十三日、本多正純が島津家久に、先便に続いて、薩摩から琉球へ軍事行動を起こす必要はないと重ねて通達した書状。明国と日本の和談がまとまったためであると説明する。

  73. 後編4-No.772 島津竜伯追悼和歌

    慶長十五年十一月二十六日、島津義久(龍伯)が島津忠長を追悼した記事と和歌。忠長が若い頃から国法の整備や武功に尽くし、茶・和歌・連歌にも通じた人物だったと称え、山寺の木葉と灯火に寄せてその死を悼む。

  74. 後編4-No.773 新納忠元譜

    新納忠元譜の記事。新納忠元が慶長十五年十二月三日に死去し、享年八十五であったこと、法名良英などの没年月日・追号を記す。

  75. 後編4-No.774 新納忠元勲功記

    新納忠元勲功記。慶長十五年三月、忠元が春の老いを詠んだ和歌と、同年十二月三日に大口で病死し、翌日に火葬されたこと、法名・葬所などを記す。

  76. 後編4-No.775 正源院某書状

    慶長十五年十二月十一日、正源院の某が、滞在中の能・蹴鞠・茶の湯などの催しと、十一月末の到着・十二月五日の出船を報じた書状。武具の試用、鉄砲や刀装の出来、松井子息長岡式部へ贈る腰物などについても詳しく述べる。

  77. 後編4-No.776 島津家久譜

    島津家久譜の記事。慶長十五年十二月十一日、家久の船団が筑前沖を航行中に暴風と高波に遭い、相島へ避難したが、帆柱が折れ、供船が岩礁で大破したことを記す。肝付半十郎ら十余人が溺死し、翌日、家久が龍伯・惟新へ報告した。

  78. 後編4-No.777 島津家久書状

    慶長十五年十二月十二日、島津家久が龍伯・惟新に、難船から自らは辛うじて助かり、同行者の多くは無事だったが、肝付半十郎以下十余人が死亡したと報告した書状。遭難の状況と救助・船の手配を急ぎ知らせる。

  79. 後編4-No.778 徳川秀忠御内書

    慶長十五年十二月十五日、徳川秀忠が島津家久に、歳暮の祝儀として小袖五重が届いたことを喜び、今後も変わらぬ奉公を求めた御内書。

  80. 後編4-No.779 得能氏記録

    得能氏記録。越後堀家で堀忠俊と家臣堀直寄・堀監物らの間に権威争いと讒言が生じ、家中統制が崩れた経緯を記す。幕府の裁定、改易・追放、関係者の処分や後日の消息を詳述し、家臣の忠節と主家統治を論じる。

  81. 後編4-No.780 島津竜伯詠草

    慶長十六年元日、島津義久(龍伯)が、新年の朝に戸を開けた折、袂にほのかに移る梅の香を詠んだ発句。

  82. 後編4-No.781 島津義弘詠草

    慶長十六年正月、島津義弘が松山衆吉田武右衛門に伝えた祝賀の詠草。天徳和合・楽地福の円満を掲げ、住吉の松に寄せて君の代が末永く続くことを願う。

  83. 後編4-No.782 徳川秀忠御内書

    慶長十六年正月三日、徳川秀忠が島津家久に、国元から蜜柑二箱が届いたことを喜び、遠路からの厚意を賞した御内書。

  84. 後編4-No.783 本多正信書状

    慶長十六年正月五日、本多正信が島津家久に、薩摩から進上された蜜柑について、山口直友の報告を受け、大久保相模守・本多上野介と相談して披露したと伝えた書状。家康・秀忠父子から御内書が送られたことも知らせる。

  85. 後編4-No.784 酒井忠世外五名連署状

    慶長十六年正月十日、酒井忠世ら六名が島津家久に、薩摩領内へ着岸した唐船について、従来の長崎送致に代えて今回は領内で商売を許したことを了承した連署状。荷物・唐人数の別紙を披露し、先の南蛮船が帰帆したことも確認する。

  86. 後編4-No.785 島津義久譜

    島津義久譜の記事。祈祷・医薬・鍼灸の効なく、島津義久(龍伯)が慶長十六年正月二十一日に七十九歳で死去したことを記す。法名・墓所を掲げ、義久を追って殉死した十五人の姓名・役職を列挙する。

  87. 後編4-No.786 殉国名藪

    殉国名薮の記事。慶長十六年二月二十日に島津義久へ殉死した市来清左衛門・濱田民部左衛門らについて、年齢・役職・姓名を列挙し、義久への殉死者名簿を補う。

  88. 後編4-No.787 島津惟新・喜入久正追悼歌

    島津義弘(惟新)と喜入久正らによる島津義久追悼歌。義久を文武の車の両輪・鳥の双翼のように備わった名君と称え、九州統一に迫った威徳、民への慈愛、死後の深い悲嘆を和歌に詠む。

  89. 後編4-No.788 島津惟新追悼和歌

    島津義弘(惟新)による島津義久追悼和歌と長文の哀悼文。義久を島津氏十六代の太守として称え、世を治めた徳、和歌・武芸、民への慈しみを回顧し、月・花・露・煙などの景物に寄せて死別の悲しみを詠む。

  90. 後編4-No.789 中山王尚寧書状

    慶長十六年正月十一日、中山王尚寧が島津家久に、長い薩摩滞在中の厚遇と帰国後の安堵を感謝した書状。楮紙三百帖と茶壺一箇を拝受したことを喜び、島津家への謝意を重ねて述べる。

  91. 後編4-No.790 蒲池某・本田親正連署達書

    慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。

  92. 後編4-No.791 加治木御日記

    加治木御日記。慶長十六年正月朔日からの記事として、島津家久周辺への年始の進上物・贈答、祝儀や儀礼、使者・役人名、品目・数量・金額、諸方との往来などを日ごとに記録する。

  93. 後編4-No.792 徳川秀忠御内書

    慶長十六年二月六日、徳川秀忠が島津家久に、年頭の祝儀として大刀一腰・馬代黄金二十両・綾子十巻が届いたことを喜び、詳細は本多佐渡守から述べると伝えた御内書。

  94. 後編4-No.793 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家久が領国内の大山から禁裏造営用材を伐り出して献上するよう命じられ、柏原周防入道有閑・土持左馬権頭盈信に監督させたこと、板倉勝重から用材献上への賞賛と役務免除を伝える書状が届いたことを記す。

  95. 後編4-No.794 板倉勝重書状

    慶長十六年二月六日、板倉勝重が島津家久に、前年の下国以後は書状での申し入れを不要とし、他の諸大名と同列に願い出る必要はないと伝え、家久への特別な配慮を示した書状。

  96. 後編4-No.795 樺山久高・比志島国貞連署掟書

    慶長十六年二月十一日、樺山久高・比志島国貞が連署した領内統治の条目。奉公人・百姓の規律、祭礼・耕作・婚姻、人口移動、役人配置、刑罰、召使、酒造、隠田などを定め、違反者の処罰と相互監督を命じる。

  97. 後編4-No.796 徳川秀忠御内書

    慶長十六年二月十三日、徳川秀忠が島津家久に、硫黄三百斤が届いたことを喜び、なお本多佐渡守から伝えるとした御内書。

  98. 後編4-No.797 (某)為俊追悼和歌

    為俊を追悼する一連の和歌。武士としての名残、春の花、水の清さ、夢路、月などに寄せ、故人への哀惜と追善の思いを各人が詠む。

  99. 後編4-No.798 浜田経重置文

    二月十六日、浜田経重が家中に残した置文。公務の勤め、言動と礼法、争論回避、武士道、飲酒、奉公人への扱い、信仰、親族関係などの日常規範を箇条書きで戒める。

  100. 後編4-No.799 島津竜伯外六名詠草

    島津義久(龍伯)の御歌と六名の詠草。米と水、春風、夢路、花、月などを題材に、変わらぬ忠節と主君への思慕を唱和する。