ARCHIVE DIRECTORY
後編4の目録
旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。
全1,899件中 1801~1899件・19 / 19ページ
後編4-No.1799 島津家久譜
島津家久が京都滞在中に飛鳥井雅庸を師として蹴鞠の技法を学び、相当の技量を得たこと、雅庸がその蹴足は規矩にかなうと書状で賞賛したことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1800 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久へ、懇ろな礼状を受けたことと前日に対面できたことを喜び、家久の蹴足が一層見事になったと賞賛した。家久が次に上洛した折には必ず晴の蹴鞠を催したいと述べた書状。
後編4-No.1801 島津家久譜
元和九年七月十三日、徳川秀忠・家光の両御所が京都へ到着し、二条城へ入ったことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1802 板倉勝重書状
板倉勝重が島津家久へ、翌日の将軍参内に備えて自身も前夜から当地へ来ていることを伝え、悪天候なら参内が延期されるため心得るよう知らせた。また唐菓子一折への礼を述べ、詳しくは別に申し入れるとした書状。
後編4-No.1803 島津家久譜
元和九年七月二十五日に徳川家光が参内し、島津家久が騎馬で供奉を務めたことを記す。あわせて参内に供奉した諸大名・近臣の交名を掲げる島津家久譜の記事。
後編4-No.1804 土井利勝書状
土井利勝が島津家久へ、前日の参内が好天のうちに滞りなく行われたことをともに喜び、炎天下で供奉した家久の苦労を察した。詳しくは次の対面時に述べるとした書状。
後編4-No.1805 島津家久書状
島津家久が山田民部少輔へ、将軍上洛により全国の大名が京都に集まっているが世上は静穏で、国替の風説も確証がないと伝えた。正式な沙汰があれば直ちに知らせるので風説に動揺せず、近隣の情報を念入りに集め、必要時には鹿児島へ赴いて協議し、他国に付け込まれないよう警戒することを命じた書状。
後編4-No.1806 児玉氏譜
元和九年七月、島津家久が将軍に従って再び京都へ赴き、児玉利昌も随行したことを記す。本多正純処分を契機に諸大名の国替風説が盛んになるなか、国元留守居の島津久慶・川上久国らと、随行家老の島津久元・伊勢貞昌らが、児玉利昌・伊東祐昌を介して秘密の情報を交わし、八月に家久とともに帰国したとする児玉氏譜の記事。
後編4-No.1807 島津久元・伊勢貞昌連署状
児玉氏所蔵写の島津久元・伊勢貞昌連署状。本文は次号No.1808の連署状と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
後編4-No.1808 島津久元・伊勢貞昌連署状
島津久元・伊勢貞昌が伊東祐昌・児玉利昌へ、近隣国の軍勢催促や諸大名国替の風説について内密に情報収集し、必要なら兵三千人ほどを出せるよう兵糧等を準備する一方、正式な人数割はしないよう命じた。将軍在京中のため諸国から注視されているとして警戒を促し、出雲・筑前・越前などの動静や軍馬購入の情報を挙げ、異変が…
後編4-No.1809 飛鳥井雅胤書状
飛鳥井雅胤が島津家久へ、前日にゆっくり対面できたことを喜び、家久の蹴鞠が見事で驚いたと述べた。禁中の番のため直ちに礼参できないが、後日参上すると伝えた書状。
後編4-No.1810 参内供大名交名
将軍参内に供奉した大名・近臣の姓名と席次を列記した交名。尾張中納言、水戸宰相、松平薩摩守をはじめとする二十三人を掲げる。
後編4-No.1811 興意入道親王書状
興意入道親王が島津家久へ、先日の礼をすぐに書状で述べるべきところ、二日間の能で伏見へ出向くと聞いて遠慮したと釈明した。使者と種々の贈物への謝意を示し、依頼された外題を不調法ながら書いて送り、詳細は伊勢兵部少輔を通じて伝えるとした書状。
後編4-No.1812 島津家久譜
元和九年八月、島津家久が帰国の暇を賜って京都を発ったことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1813 島津久元・喜入忠続連署手形銭定書
他国へ通す馬・駒・小荷駄・牛について、上々・上・中・下・下々など等級別の手形銭を定め、同日から改定するとした島津久元・喜入忠続連署の定書。乗馬は一疋八貫文から一貫文、小荷駄は一貫七百文から一貫三百文、牛は一貫文から五百文までを定める。
後編4-No.1814 寺山久豊・伊地知重竪連署状
寺山久豊・伊地知重竪が、薩摩へ来た南蛮の黒船は江戸へ使者を送る船で、順風がなく山川湊沖に停泊していると報告した。大型船のため頴娃・指宿・伊座敷などから引船を集め、長崎へは寄らず江戸へ向かう予定であること、積荷は糸・巻物・白黒砂糖など、人員は二百七、八十人で日本人約三十人を含むことを伝えた連署状。
後編4-No.1815 島津家久譜
閏八月中旬、島津家久が鹿児島城へ入ったことを記す。伊勢貞昌が供奉し、島津久元は先に帰国しており、その他の随行者は不明とする島津家久譜の記事。
後編4-No.1816 島津家久書状
島津家久が琉球側へ、両御所に供奉して上洛した後、暇を得て無事に帰国したことを伝え、使者を派遣して琉球の安否を尋ねた。天下の泰平を祝い、自作の薫鈴・香箱二合と別紙記載の品々を贈り、詳細は使者が述べるとした書状。
後編4-No.1817 島津家久書状案
島津家久が井上主計頭へ、両御所の在京諸事が上意どおりに済み、自身も暇を得て帰国し在国していると伝えた。京都出立時は取り紛れて十分に暇乞いできなかったことを惜しみ、翌年早々に訪問して懸案を相談するので、新しい動きがあれば知らせるよう求め、品三端を添えた書状案。
後編4-No.1818 島津家久譜
徳川家光が徳川秀忠から将軍職を譲られ、征夷大将軍に任じられたことを受け、島津家久が両公に対する二心のない忠誠を紙面に表し、神に誓う起請文を捧げた経緯を記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1819 島津家久起請文前書案
島津家久が徳川秀忠・家光の両御所に対し、毛頭二心なく奉公すること、天下に変事が起きて親類・縁者が逆意を企てても同心せず忠節を尽くすこと、自身に讒言があれば内容を知らせてもらい弁明を上聞に達することを神に誓った起請文前書案。
後編4-No.1820 生島季盛書状
生島季盛が島津家久へ、上洛中の対面と懇談を先方が喜んでいることを伝え、海路を経て早く京都へ届いた花卉などの贈物への謝意を述べた。古今六帖・新撰六帖・和歌部類・真字伊勢物語などへの外題依頼にも触れ、翌春の再上洛を待っていると伝えた書状。
後編4-No.1821 理性院観助書状
理性院観助が島津家久へ、今回の上洛によって厚意を得たことを重く受け止め、当月の祈祷として太元明王護摩を七日間修したと伝えた。祈祷の巻数札を送り、受納するよう求めた書状。
後編4-No.1822 トムアントニヨ・ドンヘルナンド連署状
スペイン国王から日本将軍への礼使であるトム・アントニヨとドン・ヘルナンドが、閏八月八日に山川へ着いた後、上方からの指示を待っているが届かないと訴えた。翌年三月までにルソンへ帰帆する必要があるため、薩摩側に案内者の付与と江戸奉行宛書状の発給を求め、江戸で使命を果たせるよう依頼した連署状。
後編4-No.1823 桂忠能譜
桂忠能が島津家久の使節として江戸へ赴き、将軍徳川家光に拝謁して返答の上意を受けたことを記す。退出の際に衣服十領と道服五領を賜り、これを戴いて旅宿へ戻ったとする桂忠能譜の記事。
後編4-No.1824 島津久元外三名連署状
桂忠康所蔵の島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌・比志島国隆連署状。本文は次号No.1825と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
後編4-No.1825 島津久元外三名連署状
島津久元ら四名が桂山城守へ、徳川家光への将軍職継承の祝儀使者に任命されたことを伝え、町田図書頭と相談して進物を持参するよう命じた。以前申し渡した使者は江戸在府衆から選ばれ、詳しくは面高主馬首が伝えるとした連署状。
後編4-No.1826 島津久元外三名連署書下写
島津家中の高野山宿坊を蓮金院と定め、頴娃・指宿・肝付・根占・志布志など従来窪坊を宿坊としていた地域も、今後は蓮金院の沙汰に従うよう命じた。ただし庄内は北郷讃岐守の現領分のみ窪坊に付属させるとした四名連署の書下写。
後編4-No.1827 喜入忠政・伊勢貞昌連署状
喜入忠政・伊勢貞昌が種子島久時へ、母の死去に際して本田甲斐守が見舞いに派遣されたことを伝えた。久時が幼少であるため家臣に職務を尽くさせ、島内の者に無理非道を命じず、幕府への奉公と家職の維持を心に刻み、今回の上意を怠りなく守るよう諭した連署状。
後編4-No.1828 島津家久譜
桂忠防が当初の命を改められて徳川家光の将軍職継承を祝う使者となり、虎皮三枚、中山国焼酎一壺、領国内で焼かれた茶器数品を献上したことを記す。家光は忠防に拝謁を許して御内書を授け、忠防がこれを捧げて帰国したとする島津家久譜の記事。
後編4-No.1829 徳川家光御内書
徳川家光が島津家久へ、遠路使者を派遣し、虎皮三枚・焼酎一壺その他の品々を贈った入念な厚意を喜び、詳しくは酒井雅楽頭忠世から伝えるとした御内書。
後編4-No.1830 酒井忠世書状
酒井忠世が島津家久へ、桂山城守を通じて家光へ献上された虎皮三枚・焼酎一壺・領国焼の茶碗などを披露し、桂が御前に召し出された経緯を報告した。返礼の衣服・茶碗等を伝え、両御所と江戸屋敷が無事であること、用向きがあれば申し付けるよう述べた書状。
後編4-No.1831 雑抄
島津家久が例年どおり使者を立て、徳川秀忠・家光の両公へ時服を献じて歳暮を祝ったため、両公から御内書を賜ったことを記す。秀忠の御内書だけが現存し、家光の御内書と使者の姓名は伝わらないとする雑抄。
後編4-No.1832 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖十領を贈られたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとした御内書。
後編4-No.1833 児玉利昌伝
元和年間、児玉利昌が納殿役に転じて島津家久の側近として勤務した際、讒言を信じられたため、忠節と職務上の誓約を明らかにする起請文を提出した経緯を記す児玉利昌伝の記事。
後編4-No.1834 児玉利昌起請文前書
児玉利昌が納殿役を命じられたことを名誉として精勤すること、酒色を慎むこと、機密を口外しないこと、家久のためと偽る策謀に同意しないこと、食物に疎略があれば報告することを神に誓った起請文前書。
後編4-No.1835 島津家久書状
島津家久が式部太輔へ、年始の慶賀を述べ、祝儀として贈られた太刀一腰と馬一疋の懇切な贈答に謝意を表し、後日さらに祝意を伝えるとした書状。
後編4-No.1836 島津家久譜
前年十二月十九日に中宮が皇子を出産したとの慶報を受け、島津家久が比志島宮内少輔国隆を使節として祝賀の幣物を献上させたことを記す。祝幣の内容と受領謝書は別に掲げるとした島津家久譜の記事。
後編4-No.1837 漢倭連句
元和十年正月十三日に島津家久らが催した漢詩句と和歌句を交互に継ぐ漢倭連句。春の野、雲、花、雨、旅、月、霜などを題材とし、家久・頼景・重長・理心・貞守・為善・貞昌・紹嘉らが句を連ねた作品。
後編4-No.1838 大橋親勝書状
大橋親勝が伊勢兵部少輔へ、中宮と皇子誕生への祝賀使節および進物を上聞に達し、天皇が喜んだことを報告した。権大納言からの御文とともに、親勝自身へ小袖二領と銀子十枚を賜った謝意を述べ、出京時に改めて礼を申し上げるとした書状。
後編4-No.1839 天野長信書状
天野長信が伊勢兵部へ、中宮の皇子誕生に際して家久が使者と目録記載の祝賀品を献上した件を権大納言が上聞に達し、天皇が喜んだことを伝えた。詳しくは使者が述べるとした書状。
後編4-No.1840 生島季盛書状
生島季盛が島津家久へ、皇子誕生の祝賀書状を八条宮の御前で披露し、懇切な祝意に八条宮が満足したと伝えた。また前年の家久在洛中にたびたび対面できたことも喜んでいると報じた書状。
後編4-No.1841 松平定綱書状
松平定綱が島津家久へ、江戸下向のため返書が遅れたことを詫び、女御・姫宮誕生への祝賀はもっともだと述べた。不在のため使者比志島国隆に対応できなかったこと、当年の普請状況を知らせること、松材木と兵糧を多量に贈られたことへの礼を伝えた書状。
後編4-No.1842 賦何船連歌
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何船」連歌。春の花、霞、船旅、月、雨、秋、里山などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
後編4-No.1843 賦何人連歌
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何人」連歌。柳・月・霞・旅・山寺・秋・雪・里・恋などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
後編4-No.1844 四辻季継伝授状
四辻季継が島津家久の所望に応じ、禁裏の楽器に関する伝書の写しを授けたことを証明した伝授状。
後編4-No.1845 賦何木連歌
元和十年二月二十二日に島津家久らが催した「賦何木」連歌。春の花、舟、雲、月、旅、秋、露、雪、草木、恋などを題材として、家久・紹嘉・重種・祐辰・貞守・尚演・重長・喜庵・宗可・幸相らが百韻を連ねた作品。
後編4-No.1846 島津家久譜
元和十年二月晦日、後水尾天皇が年号を元和から寛永元年へ改めたことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1847 島津久元外三名連署覚書
島津久元ら四名が琉球側へ、上布・下布、赤綱・黒綱を含む船綱、桜皮、牛皮、菜種油、久米綿、黒木を他国へ輸出・販売してはならず、違反者には処罰を科すと命じた連署覚書。
後編4-No.1848 島津家久書状
島津家久が中山王尚豊へ、年頭の書状と太平布百端・焼酎三壺を贈られたことを喜び、返礼として銀子二十枚と中紙千帖を送った。当年は将軍の意向により在国するので、今後も折々に連絡を取り合うよう述べた書状。
後編4-No.1849 島津家久書状
島津家久が中山王尚豊へ、具志川按司を介した当年の祝詞と進物を喜び、将軍の仁政のもと諸大名が妻子と関東の新都へ移っているため、自身も幼子と妻を伴って赴く予定であると伝えた。国内の大事が多いこと、琉球からの品物は別紙の目録で受領したことを述べ、詳しくは具志川按司に託した書状。
後編4-No.1850 児玉氏譜
寛永元年五月八日、島津家久が市来伴右衛門惟清の宅を訪れ、近臣と連歌を催した際、児玉利昌も席に加わって六句を詠んだことを記す児玉氏譜の記事。
後編4-No.1851 賦何船連歌
寛永元年五月八日、島津家久が市来惟清宅へ御成りの際に催された「賦何船」連歌。夏の空、雲、雨、春風、月、雪、旅、山、恋などを題材とし、家久・惟清・利昌・久元・重長・有栄・国隆・政喬らが百韻を連ねた作品。
後編4-No.1852 市来惟清覚書
市来惟清が、島津家久の伴右衛門屋敷への御成りと連歌会に又三郎・又十郎も若年時に同席し、鎌田源八が執筆を務めたため、懐紙を子孫まで秘蔵するよう記した覚書。併せて、当日の膳・汁・魚・菓子などの献立と、座奉行を務めた国分十右衛門・相良玄蕃允らを記録した。
後編4-No.1853 児玉利昌譜
児玉利昌が島津家久に近侍して寵遇され、忠勤を認められたため、諸役人から敬われ、しばしば家久への取次を務めたことを記す。寛永元年八月には、蒲池備中入道が後嗣の件を川上久国らに申し入れ、利昌を通じて家久へ上申したことを例示した児玉利昌譜の記事。
後編4-No.1854 蒲池某覚書
蒲池備中入道が市来掃部助・頴娃長左衛門尉へ、佐八郎を後嗣として迎える話について、親子の離別、上洛供奉や軍役、普代奉公を果たせる者の必要を挙げ、奉公可能な人物を付けてほしいと願った覚書。佐八郎の子らは養育事情から当面御用に立たないとして、知行の扱いを含め裁定を求めた。
後編4-No.1855 島津久元外二名連署掟書
島津久元ら三名が琉球側へ、三司官以下の扶持は国王の判断とし、死罪・流罪は薩摩へ伺わず処置できること、日本名字と日本風の支度を禁じること、祭礼日程を耕作に支障がないよう調整すること、外国人の来訪を禁じないことなどを定めた連署掟書。江戸へ人質を出す件と褒美についても指示した。
後編4-No.1856 島津久元外二名連署掟書
島津久元ら三名が琉球側へ、上布、黒つく・赤つく、棕櫚皮、焼酎、注文品、芭蕉布・芭蕉、綿、菜種などを他国へ持ち出してはならないと定めた連署掟書。違反なく法度を守るよう命じた。
後編4-No.1857 北郷翁久譜
寛永元年八月二十二日、島津家久が鹿児島城で長千代丸と弟虎菊丸を元服させ、翁久・忠亮の名を与えたことを記す。理髪役はそれぞれ島津久元・伊勢貞昌が務め、両名が太刀・鎧・弓矢・鞍馬を献上し、家久から刀・太刀・馬代などを賜った北郷翁久譜の記事。
後編4-No.1858 島津光久譜
寛永元年九月十四日に島津光久が誕生し、母が鎌田政重の娘であったことを記す島津光久譜の記事。
後編4-No.1859 島津光久譜
島津家久の子が寛永元年十月十四日に鹿児島城で元服して又三郎忠元と名乗り、父家久が加冠、島津久元が理髪を務めたことを記す。忠元は正保元年七月十九日に二十一歳で早世し、法名を月桂貞秋とした島津光久譜の記事。
後編4-No.1860 島津義弘息女屋地覚書
島津義弘の息女屋地が帖佐十郎兵衛へ、女性が上方や江戸へ人質として赴き、縁組を通じて島津家へ奉公した際に無公役の知行を受けた先例を列挙した覚書。自身への加増を求めるのではなく、宝寿院殿と娘の今後の奉公が続くよう、知行を給付してほしいと申し入れた。
後編4-No.1861 島津家久袖加判留守中法度
島津家久が妻子を伴って江戸へ赴く間の領国統制を定めた留守中法度。武具の整備と毎朝の出仕を優先し、夜行、華美な衣服・家居、過度な饗応、他所商人の諸郷出入りなどを禁じた。年貢・役所算用、門限、辻斬り・辻歌・落書・賭博、禁制宗派、訴訟・犯罪処理などについても詳細な規定を置いた。
後編4-No.1862 島津家久袖加判留守中法度
島津家久が江戸滞在中の領国を統制するため、武士の道具を第一に整えること、毎朝の出仕、夜行・奢侈・賭博・禁制宗派の禁止、役人の算用、商人や領民の行動、争論・犯罪の処理などを定めた留守中法度。慈眼院の袖判を伴う別日付の法度として伝わる。
後編4-No.1863 島津家久譜
島津家久が徳川家康の厚恩に報いるため、妻子を伴って江戸へ奉公することを企て、伊勢貞昌から親交のある土井利勝を通じて幕府へ申し出たところ、徳川秀忠が太平の基として喜んだことを記す。同年十一月に家久が夫人・息子らを伴って出発し、十二月十日に出水瀬ノ浦から出船した経緯を述べる島津家久譜の記事。
後編4-No.1864 島津光久譜
寛永元年十一月十三日、島津光久が父家久に従って鹿児島を出発し江戸へ向かったことを記す。十二月十日に出水瀬ノ浦を出船し、翌年二月二日に大坂着船、三月十八日に伏見を発ち、四月十二日に江戸へ到着した島津光久譜の記事。
後編4-No.1865 北郷久加譜
寛永元年十一月、島津家久が江戸城へ参勤した際、北郷久加が供奉し、翌年六月に暇を賜って帰国したことを記す北郷久加譜の記事。
後編4-No.1866 樺山久高譜
寛永元年十一月、島津家久が息子忠元・久直と夫人を伴って江戸参勤へ出発し、獅子島に船をつないで吉日と順風を待ったことを記す。この時、樺山久高が美濃守に任じられて武具を賜り、息子休太郎も安芸守に任じられたとする樺山久高譜の記事。
後編4-No.1867 児玉利昌譜
寛永元年十一月十四日、島津家久が世子光久と慶安夫人らを伴って鹿児島城を出発して江戸へ向かった際、児玉利昌が納殿役として供奉したことを記す。翌年二月二日に大坂へ着船し、四月十三日に江戸へ到着した児玉利昌譜の記事。
後編4-No.1868 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖五重を贈られたことを喜び、詳しくは本多野介が伝えるとした内書。
後編4-No.1869 友枕斎如書状
友枕斎如が伊勢兵部少輔貞知へ、過分な贈答への礼を述べ、歳暮の礼として御門跡へ昆布一折と樽一荷を進上したことを伝えた。御門跡が三井寺に滞在中のため自身が受け取り、子に小袖一領を賜った礼も含めて取次を依頼した書状。
後編4-No.1870 島津家久譜
寛永二年、島津家久が前年十二月から伏見の仮邸に滞在して新年を迎え、幼少の者と服忌の事情により供回りが少なかったことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.1871 島津光久譜
島津光久らが出水瀬ノ浦を出船し、大坂・伏見を経て寛永二年四月十二日に江戸へ到着した経路を記す。翌十三日、光久が家久とともに徳川秀忠・家光へ拝謁し、弟忠平も同席して、その進退を諸士から賞賛された島津光久譜の記事。
後編4-No.1872 島津忠朗譜
寛永二年、島津忠朗が島津家久に従って江戸城へ登り、徳川秀忠から宝刀を賜った。同日西丸で徳川家光へ拝謁し、馬一匹・単衣五十・黄金百枚・白銀五百枚を賜り、二十六日に江戸を発って七月に加治木へ帰着したことを記す島津忠朗譜の記事。
後編4-No.1873 島津家久譜
寛永二年三月十八日、島津家久が伏見を発って江戸へ向かう際、徳川秀忠の命で東海道五十三次の駅馬・人足を必要なだけ利用できたことを記す。四月十三日に江戸の桜田邸へ入り、老中へ参府を届けたが、又三郎の病気により両御所への拝謁を延期した島津家久譜の記事。
後編4-No.1874 島津久元・比志島国隆連署手形
島津久元と比志島国隆が樺山美濃守へ、感応寺修理のため、出水野田村長谷山にある風倒木の松三本を、記載された長さ・太さの手形と相違がなければ引き渡すよう命じた連署手形。
後編4-No.1875 井上正就書状
井上正就が島津家久へ、前年冬に国元を出発したものの海上荒天や差し障りで道中越年し、ようやく江戸へ到着した労をねぎらった。家久の出仕と息子の初御目見について、土井利勝と相談して日取りを選び、十七日以後に礼を申し上げるのがよいと助言した書状。
後編4-No.1876 島津家久書状
島津家久が、三月十八日に伏見を発ち四月十三日に江戸へ着いた道中を報じ、桜の散りゆく様子や富士の残雪を眺めて歌を詠んだことを伝えた。江戸では将軍から早速使者を受けて無事であり、御目見は二十八日の予定なので、その後の様子も知らせるとした書状。
後編4-No.1877 土井利勝書状
土井利勝が島津家久へ、又三郎の病気が快方に向かったため、吉日の二十三日に両御城へ登る予定を喜んだ。以前にも申し入れたとおり、いつでも対面してよいとの意向なので、二十三日の拝謁が適当だと伝えた書状。
後編4-No.1878 島津家久詠草
寛永二年四月二十日、島津家久が伊勢内記宅を訪れ、「若竹」を題に詠んだ和歌。変わらぬ若竹の葉に世々の長久を重ねた歌で、供をした島津久元・伊勢兵部少輔らも和歌や詩を作ったことを付記する。
後編4-No.1879 島津家久書状
島津家久が、前日の二十三日に徳川秀忠・家光の両御所へ御目見し、格別に言葉を掛けられたことを報じた書状。子らを遠国から江戸へ連れて来た労をねぎらわれ、島津家との旧来の縁を踏まえた厚遇に大いに満足したため、まず無事と喜びを知らせた。
後編4-No.1880 喜入忠政・伊勢貞昌連署状
喜入忠政と伊勢貞昌が比志島国隆・島津久元らへ、又三郎の腹痛により十八日の予定が延び、二十三日に両御所への礼を済ませたことを急報した連署状。家久が子らを伴って来たため両御所の機嫌が格別で、兄弟も御前に召されて褒められたと伝えた。
後編4-No.1881 島津家久書状
島津家久が種子島武蔵守久時へ、遠国の江戸まで見舞いの使者を遣わされたことを喜び、江戸は平穏なので安心するよう伝えた。音信として銀子五枚を贈られた礼を述べ、詳しくは使者の口上に含めたとする書状。
後編4-No.1882 島津家久譜
寛永二年五月五日、土井利勝が徳川秀忠の上使として島津家久の桜田邸を訪れたが、家久は外出中で会えなかった。家久は帰宅後すぐ利勝邸へ赴いたものの今度は利勝が不在で、伝言を残して戻り、翌日登城して前日の厚意に礼を述べた島津家久譜の記事。
後編4-No.1883 土井利勝書状
土井利勝が島津家久へ、前日に上使として訪問した際は家久が外出中で対面できなかったものの、その後家久が利勝の宿所まで来訪した心遣いに礼を述べた。後刻四つ時に登城するよう時間を知らせた書状。
後編4-No.1884 島津家久譜
島津家久の子又八郎忠平が、元和五年に四歳で江戸へ人質として出されてから七年を経て帰国を許され、徳川家光から馬一匹を賜ったことを記す。家久が酒井忠世へ書状を送り、拝領への礼を述べた島津家久譜の記事。
後編4-No.1885 酒井忠世書状
酒井忠世が島津家久へ、又八郎忠平に拝領の馬を引き渡したところ、丁重な礼状を受けてかえって恐縮したと述べ、詳しくは対面の際に伝えるとした書状。
後編4-No.1886 島津光久譜
島津光久に男女十一人の子があったことを系図形式で示し、個々の記載は省略した島津光久譜の記事。
後編4-No.1887 薩州家譜
島津家久の正室を中心に、その出生・母方、家久との間に生まれた島津光久・北郷久直・島津忠記・女子らを示し、さらに家臣家へ嫁した女子や子孫の出生、死亡、法名、養子関係を系図形式で記録した薩州家譜。
後編4-No.1888 島津家久譜
寛永二年七月二十二日、島津家久の正室が、同月三日に女子を出産した後に体調を崩して亡くなったことを記す。同年、明皇帝の使者が中山国へ渡来するとの情報を受け、家久が琉球王へ使者を遣わしたことも付記する島津家久譜の記事。
後編4-No.1889 島津家久書状
島津家久が中山王へ、琉球の情勢を尋ねるため使者を派遣し、日本人の出入りに関する当面の取扱いを心得るよう申し聞かせた書状。唐で調達する品物は目録で示したので、使者の口上を聞いてよく相談し、手配するよう求めた。
後編4-No.1890 板倉重昌書状
板倉重昌が島津家久へ、家久の書状を拝見し、明後日五日に招かれたことを過分の厚意として謝した書状。家久の意向に従い、城での用向きが済み次第申し上げると伝えた。
後編4-No.1891 土井利勝書状
土井利勝が島津家久へ、当日の勅使衆との対面について、前日に井伊直孝から聞いたとおりであり、昼頃の対面なので時刻を見計らい装束を整えて登城するよう勧めた書状。城内で改めて会う旨も伝えた。
後編4-No.1892 秋山正童書状
秋山正童が島津家久へ、九日夜に訪問すると約束したが、井上筑後守との番替えで翌日が自身の当番となったため、訪問を免じてほしいと詫びた書状。先に城で会えたことを喜び、約束を偽る意図はなく、後日伺って礼を述べると伝えた。
後編4-No.1893 島津久元外二名連署覚書
琉球三司官らへ、銀子百貫目の下付、銀子二十貫目の借入れ、山鹿越右衛門尉に関わる唐物隠匿、八重山へ来た南蛮人の琉球送還、今年の出銀半減、後日の銭の引渡し、他国人の琉球居住禁止など、複数の処置を箇条書きで指示・確認した連署覚書。
後編4-No.1894 土井利勝書状
土井利勝が島津家久へ、又三郎の病気が近日快方に向かったことを喜び、家久の書状と判形を改めたことへの礼を述べた書状。勅使・公家衆の下向で多忙だったため疎遠になっていたことを詫び、後日の対面を期した。
後編4-No.1895 稲葉正勝書状
稲葉正勝が島津家久へ、同日朝に招かれて種々懇切なもてなしを受けた礼を述べた書状。本来は参上して礼を申すべきところ、来訪は無用との家久の意向に従い、自筆の書状で謝意を伝えた。
後編4-No.1896 島津家久譜
島津家久の嫡子又三郎忠元が病気となり、徳川秀忠・家光の両御所から懇切な見舞いの言葉を受けたため、家老が登城して謝意を申し上げた島津家久譜の記事。
後編4-No.1897 酒井忠世書状
酒井忠世が島津家久へ、又三郎忠元の病気について両御所が懇意に見舞っていることを伝えた書状。将軍は当日鷹狩りへ出掛けているので、家久は翌日にでも出仕するのがよいのではないかと勧め、詳しくは追って知らせるとした。