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後編4の目録
旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。
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後編4-No.201 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津忠恒から年甫の祝儀として太刀一腰・馬一疋・緞子五巻を贈られたことを喜び、謝意を示した御内書。
後編4-No.202 新納拙斎忠元署判知行目録
新納忠元が署判した知行目録。内門二つ分の役分を含む総高百七石余を掲げ、外小屋敷三つと高九拾九石余の定役など、知行高と負担を列記する。
後編4-No.203 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津忠恒に、訪問と歓待への礼を述べた書状。酒席で酔って失礼があったことを詫び、今後も変わらぬ厚意と再会を願う。
後編4-No.204 島津惟新書状
島津義弘が島津忠恒に、四月八日付書状を同月二十三日に受領し、忠恒が無事在京していることを喜んだうえで、鹿児島を中心とする国絵図・田帳作成の遅延と役人の怠慢を厳しく批判した長文書状。田地・知行・年貢の処理、渡海船・材木・銀子の手配、関係者間の争論など領国行政上の諸案件を列挙し、吟味・裁定と迅速な報告を…
後編4-No.205 伊集院抱節・山田理安連署領知目録
伊集院抱節・山田理安が伊集院五郎介に、赤池屋敷七石と財部北俣内十三石、合計二十石を新知として配分した連署領知目録。
後編4-No.206 伊集院抱節・山田理安連署知行地割目録
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
後編4-No.207 伊集院抱節・山田理安連署知行名寄目録
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
後編4-No.208 島津家久譜
慶長十一年五月十七日、徳川家康が島津忠恒に鷹一連・鶴一連を賜り、安藤直次が命を受けて書状で伝達したことを記す島津家久譜の記事。忠恒は受領後に登城して礼を述べた。
後編4-No.209 安藤直次書状
安藤直次が島津忠恒へ、上様から鷹と鶴が贈られるため使者に持参させたので、よく受け取るよう伝えた書状。あわせて、当日いずれも御礼のため登城するよう求める。
後編4-No.210 島津竜伯書状
島津竜伯が島津忠恒に、石槽船の残りを早く出航させる必要があると伝えた書状。人員・乗船者を整え、飛札で催促し、加治木方面からの出仕や船の進行を滞らせないよう指示する。
後編4-No.211 長谷川藤広書状
長谷川藤広が島津忠恒に、使札を拝見した礼を述べ、唐船三艘が着岸したことを報告した書状。必要な御用物の扱い、江戸・駿府への報告、船の処置は忠恒の意向に従うと伝える。
後編4-No.212 島津竜伯書状
島津竜伯が島津忠恒へ、現地へ到着したかを尋ね、早く知らせるよう求めた書状。加治木からの早打による連絡や今後の出仕時期について、関係者と相談して遅滞なく進めるよう促す。
後編4-No.213 島津忠恒書状
島津忠恒が入来院石見守に、近日命じた国事について長期にわたる取り計らいを依頼し、遠路からの使書を受けた礼を述べた書状。
後編4-No.214 山口直友書状
山口直友が島津忠恒へ、先刻の使者には御前にいて返答できなかったため翌日に伝えるとし、御雁の拝領を祝うとともに、御礼のための出仕は日程を相談して知らせるので、その折には出仕するよう求めた書状。
後編4-No.215 島津惟新書状
島津義弘が島津忠恒に、呂宋船・唐船の着岸と積荷、船員の扱い、渡海計画について詳しく申し送った長文書状。紹益らを通じて国府へ報告し、船と荷を勝手に処分せず、大島・呂宋方面の計画を慎重に進めるよう指示する。
後編4-No.216 島津家久譜
島津家久譜の記事。慶長十一年六月六日、麗陽城楼門前の板橋が新たに完成し、渡り初めとなった。同日、伏見にいた島津忠恒が、国元の家老島津図書入道紹益・樺山権左衛門久高へ自筆の書を下し、来秋には必ず大島を討つので決して怠ってはならないと命じたことを記す。
後編4-No.217 島津忠恒書状
島津忠恒が、油の調達と新たな命令、大島渡海を来秋に実行する計画について述べた書状。石槽船を当年中に造り、江戸へ運送すること、関係者を適切に配置して後年へ先送りしないことを命じる。
後編4-No.218 島津家久譜
島津義弘から竜伯の病状が重いとの知らせを受け、島津忠恒が寝食も安らかでなかったところ、竜伯本人から書状が届き、祐乗法印の療養によって快方へ向かう見込みだと知って安心したことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.219 島津竜伯書状
島津義久(竜伯)が島津忠恒(陸奥守)に、長期逗留の労をねぎらい、人質出立の日取りが決まったことを知らせた書状。自身の体調は大きく変わらないものの膝痛などが続き、脈は少し良くなっており、祐乗法印から土用を過ぎれば快方へ向かうと診立てられたため心配しないよう伝える。さらに高橋家中の者への書状が届いたこと…
後編4-No.220 島津家久譜
島津家久譜の記事。慶長十一年六月十七日、島津忠恒が召しに応じて伏見の徳川家康の営へ赴き、家康の諱から「家」の一字を賜った。さらに宝刀一腰と駿馬一匹を拝領し、賜った「家」字と「久」字を合わせて家久と称した。山口直友・本多正純らを介して謝恩し、両名から祝書を贈られたことを記す。
後編4-No.221 徳川家康一字書出
徳川家康が島津忠恒に一字「家」を与えた書出。忠恒が「家久」と改名する根拠となった一字書出である。
後編4-No.222 島津忠恒書状
島津忠恒が高橋七郎右衛門種十に、修理殿の参上予定や自身の伏見帰着、公儀の都合を見て訪問する意向を伝えた書状。日取りは確定できないため承知してほしいと述べる。
後編4-No.223 山口直友書状
山口直友が、島津忠恒の御前での首尾を祝し、家康から与えられた「家」の字に「久」を合わせて家久と称することになったのは千秋万歳めでたいと伝えた書状。翌日の参上も予告する。
後編4-No.224 島津家久伝記
慶長十一年六月十七日、徳川家康が島津忠恒に一字を与え、忠恒が従来の「久」の字と組み合わせて「家久」と号したことを記す島津家久伝記の記事。
後編4-No.225 本多正純書状
本多正純が島津家久へ、前朝の登城と御前での首尾が申し分なく、家久が満足したことを喜んだ書状。新しい名にも従来の「久」の字を残したことをもっともだと述べ、前日は城に詰めていて面会できなかったため、改めて参上すると伝える。
後編4-No.226 島津惟新書状
島津惟新が島津家久に、人質の上洛が遅れたため家久の帰国が延引していることを述べ、人質は翌日出立する予定なので祭礼前の下向を願うと伝えた書状。国元は平穏で竜伯も無事であると知らせる。
後編4-No.227 島津家久譜
島津家久譜の記事。島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)の評議により、島津図書入道紹益の嫡子・河内忠倍を当家の人質として伏見へ赴かせることとし、島津藤次郎久賀の妹が主命と国家への忠節を重んじて忠倍を導いた。旅支度が整い、六月十九日に忠倍が鹿児島を出発して上国へ向かったこと、同月二十八日に家久が理性院を訪…
後編4-No.228 理性院観助書状
理性院観助が島津家久に、前日の来訪と厚意への謝意を述べた書状。十分に応対できなかったことと早い帰洛を惜しみ、使者を通じてまず礼を申し上げる。
後編4-No.229 池田某覚書
池田出雲守が、帖佐・山田・蒲生の支配経緯と年数を記した覚書。帖佐・山田が祁答院から、のち鹿児島から直接支配されたこと、蒲生の支配年数、平田氏が代々地頭職を務めたことを述べる。
後編4-No.230 島津家久譜
六月二十二日に島津家久が暇を賜り、前例のない品々を拝領したこと、同月二十四日に花押を改め、その見本を照高院如雲親王の高覧に供して褒美の言葉を受けたことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.231 昭高院如雪書状
昭高院如雪が島津家久に、『職原抄』の奥書を古本に基づいて書写したこと、新しい花押が優れていること、先に贈った線香を大切にするよう伝えた書状。
後編4-No.232 島津家久書状
島津家久の書状として掲げられた項目だが、本文は収録されず、「家久公御譜中」と正文が東郷八左衛門方にある旨の所在注記のみを記す。
後編4-No.233 近衛竜山前久書状
近衛前久が島津家久の帰国を祝い、自身の持病で礼が遅れたことを詫びた書状。惟新への書状の取次ぎを頼み、竜伯の病状を案じ、山田民部少輔から詳しく伝えると述べる。
後編4-No.234 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久に、蹴鞠の門弟として曲足の技を行うことを特に許した書状。許可は家久の熱心さと兄弟の契約によると述べる。
後編4-No.235 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久に、蹴鞠の門弟として四本懸を植えることを許可した書状。
後編4-No.236 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久に、翌日の斟酌日に金森法印が催す蹴鞠へ参加するよう招いた書状。前年は家久の下向時期と重なり参加できなかったため、今回は都合をつけて同席してほしいと述べる。
後編4-No.237 島津忠長譜
慶長十一年、島津忠長が居住を命じられ、宅地の土木工事を終えたのち、同年六月の吉日を選んで移居したことを記す島津忠長譜の記事。
後編4-No.238 島津忠倍譜
慶長十一年夏、父紹益が麗島へ、忠倍が東郷へ移ったことを記す島津忠倍譜の記事。忠倍は慶長年間に薩摩の人質として上京し、洛陽・伏見で年月を過ごして国事に尽くしたとも述べる。
後編4-No.239 島津尚久一流系図
島津尚久一流の系図から、河内守忠倍の子として女子一名を掲げた系譜記事。個人名や婚姻先などの記載はない。
後編4-No.240 内山田村屋敷寄附状
吉右衛門・山田越前入道理安・伊集院下野入道抱節が澤殿に、隈州桑原郡宮内・内山田村の鳥居内にある屋敷一段七畦十八分(分米一石七斗六升)を、少地ながら神前の土地として島津龍伯の病気平癒のため寄附した文書。
後編4-No.241 正宮御田之目録(御朱印有)
御朱印を伴う隈州桑原郡宮内の『正宮御田之目録』。上田八段二十五歩(分米十二石九斗三升)について、先年の寺社領勘落しの際に社領が給地化された経緯を述べ、御供田・関所を先例どおり社方へ返地・寄附すると定める。島津龍伯の病気快癒と国家安泰を目的とする。
後編4-No.242 島津家久譜
慶長十一年七月三日、長崎奉行長谷川藤広が島津家久に書状を送り、南蛮黒船が長崎湊へ来着したことと、家久の希望する用件を取り計らう旨を伝えたことを記す島津家久譜の記事。
後編4-No.243 長谷川藤広書状
長谷川藤広が島津家久に、堺の町割がほぼ決着したこと、急ぎのため十分に報告できなかったことを述べ、黒船が長崎へ来着したので必要な用件があれば尽力すると伝えた書状。
後編4-No.244 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久に、蹴鞠の門弟として柿葉色の葛袴を着用することを許した書状。着用は重要な格式・先例に関わるものと述べる。
後編4-No.245 島津家久公帖
島津家久の帖として掲げられた項目だが、本文は収録されず、「御文庫三番箱中」とする所蔵注記のみを記す。
後編4-No.246 島津惟新書状
島津惟新が島津家久に、帰国時の出迎えは指示に従い軽い者一人だけを差し向けたことを述べ、鹿児島からの早打使者により国元が平穏で竜伯の病状も軽くなったと知らせた書状。
後編4-No.247 本多正信書状
本多正信が島津家久に、家久の使者を徳川家康へ披露する件について、家康が駿府におり自身も普請の用務中なので、本多正純へ詳しく取り次いだと伝えた書状。兵庫頭の件も家久同様に疎略なく扱うと保証する。
後編4-No.248 島津家久譜
七月十九日、島津家久が伏見を辞して薩摩へ帰国の途についたことを記す島津家久譜の記事。同文が『旧記雑録後編三』にも収められ、年次の朱注に相違がある旨の注記を伴う。
後編4-No.249 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津家久に、帰国の際に道中まで見送れなかったことを惜しみ、贈られた重香箱に謝意を述べた書状。左兵衛の件を承知し、翌春の家久上洛時にゆっくり話したいと伝える。
後編4-No.250 島津竜伯書状
島津竜伯が島津家久に、祐乗法印が薩摩に滞在した礼を伝えるため山駿州へ飛札を送ったことを述べ、家久の帰国遅延を案じた書状。翌春には東国で礼を行う予定なので早く帰国するよう促す。
後編4-No.251 伊奈忠次外二名連署掟書
伊奈忠次ら三名が、下総国佐倉より東の地域における銭の取引について、従来どおり銭や割銭を選別して用いるよう命じ、違反者を厳罰に処すと定めた連署掟書。
後編4-No.252 島津家久譜
島津家久が鹿城へ入った日は伝わらないが、慶長十一年八月上旬頃であったと推定する島津家久譜の記事。
後編4-No.253 土井利勝書状
土井利勝が島津家久に、沈香五斤の贈物に謝し、帰国後に書状を送らなかったことを詫びた書状。家久が翌春に下向する予定と聞き、使者に詳しく伝えたと述べる。
後編4-No.254 樺山忠真外四七名連署起請文
樺山忠真ら四十八名が、一向宗の糾明を受け、自分たちは同宗の信徒ではなく今後も帰依せず、主君への奉公に背かず野心・不忠を抱かないと、神仏を列挙して誓った連署起請文。讒言があれば十分に調査することも求める。
後編4-No.255 新納忠元勲功記
慶長十一年八月、一向宗禁制の沙汰を受け、菱刈表にいた新納忠元が伊地知民部少輔重政以下四十八名を集め、互いに信仰を糾明させて誓詞を提出させ、取締りを行ったことを記す『忠元勲功記』の記事。
後編4-No.256 島津家久譜
山口直友が島津紹益・比志島国貞・伊勢貞昌へ送った書状の内容を記す島津家久譜の記事。江戸で石槽船関係者の争いを止めた赤崎左近が、本多正純・井上正就の取調べで理を認められ、自害を免じられて帰国することになり、両人へ謝礼すべき旨を伝えた。
後編4-No.257 山口直友書状
山口直友が、江戸で石槽船の乗員が起こした争いを止めた赤崎左近について、本多正純と井上正就の吟味で主張が認められ、自害を免じられて帰国できることになったと伝えた書状。両奉行の厚意に使者を立てて謝礼するよう求める。
後編4-No.258 本多正純書状
本多正純が島津家久に、徳川家康の重陽の祝儀として家久から進上された御服五領を披露し、好意的に受け入れられたので安心するよう伝えた書状。御内書は改めて整えて送ると述べる。
後編4-No.259 徳川家康御内書
徳川家康が島津家久に、重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜ぶ旨を伝えた御内書。
後編4-No.260 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、…
後編4-No.261 徳川秀忠御内書
徳川秀忠が島津家久に、重陽の祝儀を喜んで受け取った旨を伝え、詳しくは本多正信から申し伝えるとした御内書。
後編4-No.262 本多正信書状
本多正信が島津家久に、将軍徳川秀忠への重陽祝儀の呉服を披露し、秀忠が喜んで御内書を送ったと伝えた書状。正信自身に贈られた小袖・染物・綾・熨斗目にも謝意を述べる。
後編4-No.263 島津家久書状
島津家久が、江戸城で饗応を受け、名物の太刀「たい長光」と東国無双の早馬などを拝領したことを報じた書状。暇を得て美濃国落合へ進み、伊勢参宮後に帰国する旅程と、安南国使者船の来着に関する用向も述べる。
後編4-No.264 山口直友書状
山口直友が島津惟新に、重陽祝儀の御服を江戸へ送り、徳川秀忠の御内書と本多正信の書状を添えて進上したと伝えた書状。徳川家康の黒印状も駿府から届き次第送ると述べる。
後編4-No.265 島津家久譜
山口直友が島津家の代質について相談事項があるとして、和久甚兵衛を薩摩へ派遣したことを記す島津家久譜の記事。徳川家康が前月二十一日に伏見を出て関東へ向かい、道中無事であるとの報告も載せる。
後編4-No.266 山口直友書状
山口直友が島津家久に、徳川家康が伏見を発って関東へ向かい道中無事であることを知らせた書状。以前相談した人質の件について、意見を伝えるため和久甚兵衛を派遣したので、その口上を聞くよう求める。
後編4-No.267 島津義久書状案
島津義久が祐乗法印に、桑山幸晴を介して得た虫薬が発作時には効いたものの完治には至らず、五月以来の症状に苦しんでいると述べ、使者を立てて追加の薬を求めた書状案。
後編4-No.268 桑山幸晴書状
桑山幸晴が島津義久に、祐乗法印を通じて送った虫薬が効いたと聞いて喜び、返礼の緞子二端に謝意を述べた書状。上方で用事があれば命じてほしいとも申し出る。
後編4-No.269 新納拙斎切符
新納拙斎が蔵代官に、正月酒用の米として蔵入米百石につき一斗七升ずつを支出し、丸田久右衛門へ渡すよう命じた切符。
後編4-No.270 島津家久譜
島津家久が伏見滞在中、盟約に背く琉球王を翌年討つ許可を徳川家康・秀忠から得て、ひそかに準備したことを記す島津家久譜の記事。同年八月に明船が琉球へ来着し、薩摩・大隅・日向の商人が交易航海を希望したため、山口直友は許可しつつ翌春の出兵を妨げないよう考慮すべきだと答えた。
後編4-No.271 山口直友書状
山口直友が島津忠恒(家久・陸奥守)に、贈られた唐皿への礼を述べ、大御所徳川家康の関東下向が息災であると知らせた書状。薩摩国の加子らの件は本多佐渡守の取り計らいで解決したと伝える。また、琉球に唐船が着いたため薩摩の商人を買付けに赴かせる案をもっともとしつつ、翌年の「御働」に差し支えないか十分に検討する…
後編4-No.272 難波宗勝書状
難波宗勝が島津家久に、南蛮の手巾三枚の贈物に謝し、家久の帰国時に暇乞いできなかったことを惜しんだ書状。翌春の上洛を待ち、蹴鞠などについて対面で語りたいと述べる。
後編4-No.273 島津常久譜
慶長十一年十一月二十七日に犬追物を催す企てがあり、前日に太守から犬追物用の籠手を与えられ、その件に関する書状も受けたことを記す島津常久譜の記事。
後編4-No.274 島津家久書状
島津家久が島津常久に、犬追物の稽古で用いる籠手について相談した書状。以前の籠手を用いる考えを伝え、当日の稽古を待っているので籠手を持参し、詳しくは面談すると述べる。
後編4-No.275 島津家久譜
翌春の駿府城普請について諸大名の交名が作成され、寺沢正成から島津家へ写しが送られたことを記す島津家久譜の記事。島津家は翌年の琉球征伐を理由に普請を免除され、家久は惟新へ祝賀の書を送った。
後編4-No.276 島津家久書状
島津家久が島津惟新に、寺沢正成から届いた翌春の駿府普請衆の書付を披露した書状。薩摩国は琉球処置を理由に普請を免除されたので、今後相談すべき事項を追って伝えると述べる。
後編4-No.277 検地帳請取状
出水郡の検地帳を受け取った旨を記す請取状。竹本・知識・鯖淵・杉川内・大川内・高尾野・野田・長崎など各村の帳数と内訳を列記し、受領・引渡しの関係者を記す。
後編4-No.278 島津家久譜
犬追物が鎌倉幕府以来の武家故実で、島津忠久から代々継承されたことを述べる島津家久譜の記事。家久襲封後初の犬追物を十一月二十五日から二十七日まで三日間行い、続けて射手の組合せと教命書を掲げるとする。
後編4-No.279 犬追物手組
慶長十一年十一月二十五日に行う犬追物の手組を記した一覧。殿をはじめ本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔など射手の名と割当てを列記する。
後編4-No.280 犬追物手組
慶長十一年十一月二十五日の「初日」における犬追物手組の別記。一番の殿以下、本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔などの射手と割当てを列挙する。
後編4-No.281 犬追物手組
慶長十一年十一月二十五日の犬追物手組を記す項目。本文は先行する手組記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.282 犬追物手組
慶長十一年十一月二十五日の犬追物手組の別記。本文はNo.280の記録と同文であるため省略された旨を記す。
後編4-No.283 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文は後掲のNo.284と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.284 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。二日目の射手について、殿以下の人名と組合せ・割当てを図示する。
後編4-No.285 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
後編4-No.286 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.285の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.287 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津杢右衛門尉・伊勢平左衛門尉らの射手名と組合せ・割当てを図示する。
後編4-No.288 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物で、二日目第三番に当たる手組を記した一覧。殿以下の射手名と組合せ・割当てを列挙する。
後編4-No.289 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.288の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.290 犬追物手組
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.287の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.291 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第一番の手組を記した一覧。殿以下、島津又吉・島津摂津守・島津十郎・三原次郎四郎ら射手の名と割当てを図示する。
後編4-No.292 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名と組合せ・割当てを示す。
後編4-No.293 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.292の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.294 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.291の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.295 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
後編4-No.296 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名、組合せ、各人の割当てを図示する。
後編4-No.297 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.296の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
後編4-No.298 犬追物手組
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
後編4-No.299 犬奉行交名注文
慶長十一年十一月二十七日の犬追物で奉行を務めた者の交名注文。殿を筆頭に、島津上野入道・弟子丸右京進・本田与兵衛尉・伊集院源左衛門尉を列記する。
後編4-No.300 伊地知権左衛門家蔵文書
十一月二十五日から二十七日までの犬追物に用いた馬・馬具・武具・装束などを記す伊地知権左衛門家蔵文書。馬の毛色と担当者、鞍・鐙・弓・太刀・腰物・沓・鞭・行騰・籠手などの品目と、それを扱う人物を詳しく列挙する。