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後編4の目録

旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。

全1,899件中 1701~1800件・18 / 19ページ

  1. 後編4-No.1699 伊達政宗書状

    伊達政宗が島津家久に、紅葉山から帰宅後に少し病気であることを伝え、天候も定まらないため予定を十九日に延期し、翌日の西丸登城も見合わせてよいと勧めた書状。

  2. 後編4-No.1700 伊達政宗書状

    伊達政宗が島津家久に、使者への即時の返答と諸白二樽の贈答に謝意を述べた書状。

  3. 後編4-No.1701 島津家久書状

    島津家久が大乗院に、遠路から見舞いの使僧を送られ、巻物三巻を届けられたことを喜び、今後も祈念を頼むと伝えた書状。

  4. 後編4-No.1702 秋月種有書状

    秋月種有が三原左衛門らに、細島に置いた者が帰着し、十九日に長門守が細島へ着いたこと、上使の船が下関へ到着して西目への下向が決まったとの情報を急報した書状。

  5. 後編4-No.1703 島津家久書状

    島津家久が、遠路から使者とともに御祓大麻、長鮑十本、鰹百節を贈られ、又八郎にも同じ品が届けられたことへ謝意を示し、上洛時に改めて礼を述べるとした書状。

  6. 後編4-No.1704 酒井忠世書状

    酒井忠世が島津家久に、将軍へ金着の火縄二十五筋を進上した件を披露したところ、将軍が大いに喜び、忠世からその旨を伝えるよう上意があったと知らせた書状。

  7. 後編4-No.1705 酒井忠世書状

    酒井忠世が島津家久に、将軍へ金着の火縄二十五筋を進上した件を詳しく披露し、将軍が大いに喜んだため、その上意を伝えた書状。同日付の別伝本。

  8. 後編4-No.1706 酒井忠世書状

    酒井忠世が島津家久に、進上された馬を前日に将軍へ披露したところ大いに喜ばれ、入念な贈答への上意を忠世から伝えるよう命じられたと知らせた書状。

  9. 後編4-No.1707 島津家久譜

    徳川秀忠が倉鷹で捕らえた鶴一羽を島津家久に賜り、家久が使者を立てて菓子を献上し、井上主計頭正就へ礼状を送って拝領への謝意を表したことを記す系譜記事。

  10. 後編4-No.1708 井上正就書状

    井上正就が島津家久に、上様から御鷹の鶴を拝領した謝意を承り、上様が鷹野へ出ているため還御後に礼を詳しく伝えると述べ、家久の使者をそれまで留め置くと知らせた書状。

  11. 後編4-No.1709 島津光久譜

    島津光久譜中、忠広が元和六年十二月十八日に生まれ、光久の同母弟で、初め忠弘と称し、東市正を経て入道後に萬山と号したことを記す系譜記事。

  12. 後編4-No.1710 島津忠広一流系図

    島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。

  13. 後編4-No.1711 島津家久書状

    島津家久が談儀所僧正に、書状と白大樽一つを贈り、遠路の祈祷と留守中の平穏に謝意を述べた書状。

  14. 後編4-No.1712 島津家久覚書

    島津家久が、頴娃主水・白七・ぬく弥の成敗、七島へ遣わされた理心女房の罪が確定した場合の男女とも死罪、高闇孫市の所在究明を命じた覚書。

  15. 後編4-No.1713 島津家久書状

    島津家久が又五郎に、遠路からの見舞使者と折樽・染物に謝意を述べ、公方からたびたび品を拝領して無事であり、来春早々に帰国する予定と伝えた書状。

  16. 後編4-No.1714 島津家久書状

    島津家久が入来院石見守に、遠路からの見舞使者と折樽・染物に謝意を述べ、公方からの拝領が続き無事であること、来春早々に帰国する予定を知らせた書状。

  17. 後編4-No.1715 喜入忠政・伊勢貞昌連署状

    喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。

  18. 後編4-No.1716 北郷忠能譜

    元和六年、薩摩・大隅・日向三州の諸士に采地が配分され、北郷忠能の領高が二万二百三十余石となったことを記す系譜記事。

  19. 後編4-No.1717 薩隅日三州一所衆弁廃府衆中高極帳

    元和六年二月十七日付で、薩摩・大隅・日向三州の一所衆および廃府衆について、家臣ごとの氏名・役職と持高を多数列記した高極帳。無上地・御使衆などの区分や複数本の異同注記を含む。

  20. 後編4-No.1718 島津家久譜

    島津家久と細川越中守忠興が交易と神祇に関する盟約を結び、正月十五日に忠興の使者藤田正源院・西郡大炊助が家久へ十五箇条の誓約を告げたことを記す系譜記事。

  21. 後編4-No.1719 細川忠興覚書

    細川忠興が島津家久との盟約に際し、先年の使者来訪時からの経緯と遅延理由、書物の扱い、他所とは起請による申合せをしていないことなどを確認した覚書。

  22. 後編4-No.1720 島津忠朗譜

    元和七年正月十四日に島津家久の江戸屋敷で火災が起き、家久が佐土原島津家の屋敷へ移った際に忠朗も従い、将軍家から忠朗へ褒衣十領・道服三領が贈られたことを記す系譜記事。

  23. 後編4-No.1721 島津家久条書

    島津家久が細川忠興側へ、使者延期の事情を了承したこと、書物の件を承知したこと、他方とは起請による申合せをしていない旨を回答した条書。

  24. 後編4-No.1722 島津光久譜

    島津光久譜中、光久の男子で初め忠共・梅千代丸と称した忠尚が元和七年二月二日に江戸で生まれ、宮原吉兵衛の長女を母とし、町田久幸の養子となり、延宝四年九月三日に没したことを記す系譜記事。

  25. 後編4-No.1723 島津家久譜

    元和七年二月四日、徳川秀忠が本多正純・土井利勝を通じて島津家久へ告示し、家久が登城して謝意を表したこと、江戸にいた喜入忠政・伊勢貞昌が国元へ報じたことを記す系譜記事。

  26. 後編4-No.1724 喜入忠政・伊勢貞昌連署状

    喜入忠政・伊勢貞昌が島津家久へ、江戸で大火が起こり、強風で家久邸にも延焼が迫ったため家財の搬出・避難を行ったこと、火災後に銀子五百貫目の拝領があったことなどを報告した連署状。

  27. 後編4-No.1725 島津家久譜

    島津家久譜中、細川内記忠利が家久へ盟書を贈ったことを記し、続く起請文本文を導入する系譜記事。

  28. 後編4-No.1726 細川忠利起請文

    細川忠利が、公方への二心なき忠節、今後も隔意なく万事相談すること、義久・忠朗・家久と細川幽斎家との代々の懇意を保ち、依頼に疎意なく応じることを神仏に誓った起請文。

  29. 後編4-No.1727 島津家久書状

    島津家久が、江戸での用務を終えて上洛し、追って帰国する予定であるため、海路安全の祈祷として大神楽三座分の銀子を送り、伊勢貞昌から詳しく伝えるとした書状。

  30. 後編4-No.1728 島津久元・町田久幸連署状

    島津久元・町田久幸が国元重臣に、家久の上洛は荒天期を避けて五月に出立するよう上意があったこと、女御の入内も五月出立・六月八日予定と伝え、準備と心得を求めた連署状。

  31. 後編4-No.1729 島津久元・町田久幸連署状

    島津久元・町田久幸が国元重臣へ、島津家久の子息が息災であること、上州老から贈物が届いているので後便で礼を述べること、御道具衆を早く差し上せることなどを追って伝えた連署状。

  32. 後編4-No.1730 山崎正信書状

    山崎正信が島津家久へ、井上筑後・馬場三郎左衛門のもとへ遣わされた者が五日に大坂へ着き、日和次第で出船する予定であること、家久が東目筋を下ると承知したこと、現地に変事がないことを報告した書状。

  33. 後編4-No.1731 島津久元・町田久幸連署状

    島津久元・町田久幸が国元重臣へ、上州老の使者寺田将監が来て、島津家久は上洛を延ばさず五月朔日頃に出立するのが肝要との意向を伝えたこと、女御入内の予定にも変更がないことを報じ、準備を促した連署状。

  34. 後編4-No.1732 島津家久書状

    島津家久が中城王子へ、年頭の祝詞と使札を帰国後に披見したことを述べ、江戸で公方の機嫌がよかったとの知らせを喜び、上布・蕉布・焼酒の贈物に謝意を表した書状。

  35. 後編4-No.1733 島津家久書状

    島津家久が中山王へ、王位相続を祝し、中城王子が後見として国政を担うことを了承して国民安泰の政道を求め、太刀一腰・馬代銀子五十枚などの祝物を贈った書状。

  36. 後編4-No.1734 諏訪兼安起請文

    諏訪兼安が町田駿河守へ、御荷内役を命じられたことを受け、別心なく奉公すること、御前で承った隠密を他言しないこと、親子兄弟・縁者でも不忠の者には同心せず上聞に達することを神仏に誓った起請文。

  37. 後編4-No.1735 徳川家光直書

    徳川家光が島津家久へ、重五の礼として帷子・単物数十を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井雅楽頭が述べるとした直書。

  38. 後編4-No.1736 島津久元外三名連署書下

    島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。

  39. 後編4-No.1737 喜入忠政外四名連署書下

    本文は『一七七八号文書ト同文ニツキ省略ス』との編集注によって省略されている。参照先のNo.1778と照合すると、喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、無届で他所に住む者は知行を召し上げ、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭へ徹底するよう命じた連署書下。

  40. 後編4-No.1738 喜入忠政外四名連署書下

    喜入忠政ら五名が本田源右衛門へ、近年生活が成り立たず各地へ離散する者がいるとして、地頭へ届けず他所に居住する者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者は重罪に処すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。

  41. 後編4-No.1739 島津家久書状

    本文は『一七八一号文書ト同文ニツキ省略ス』との編集注によって省略されている。参照先のNo.1781と照合すると、島津家久が島津下野守へ、虎寿丸を国分の子として家を相続させることに亀寿が満足しており、翌月の吉日に虎寿丸を国分へ移して祝儀を行うと決まったことを知らせた書状。

  42. 後編4-No.1740 有川某願文

    有川助兵衛尉が御座主へ、十六歳の男子に関する祈念を依頼し、御馬方大明神へ馬一疋と指刀一つを奉進するとした願文。

  43. 後編4-No.1741 島津久元・伊勢貞昌連署状

    島津久元・伊勢貞昌が、大神宮へ知行百石を寄進した先年の文書があるものの、遠国から毎年使者を派遣して所務を行うのは負担になるため、百石分として毎年銀子十枚を奉納することを通知した連署状。

  44. 後編4-No.1742 島津家久詠草

    島津家久が日光・黒神山で、春霞、雁、花、軒の玉水、残雪などを題材に詠んだ十五首の和歌を書き、御炊大夫へ送った詠草。

  45. 後編4-No.1743 住吉三所大明神棟札

    末吉の住吉三所大明神宝殿一宇を再興造立したことを記し、大檀那を藤原家久朝臣、当地頭を経景、造営奉行を平時盛とする棟札。

  46. 後編4-No.1744 島津家久譜

    徳川秀忠の娘和子が六月十八日に入内して皇后となるため、島津家久が賀意を述べるべく六月上旬に鹿児島を発って上洛し、伊勢貞昌が従ったこと、十三日に小倉を通過して山田民部有栄に書状と方物を持たせ細川忠興の安否を問うたことを記す系譜記事。

  47. 後編4-No.1745 細川忠興書状

    細川忠興が島津家久へ、山田民部を介した書状・使者に答え、徳川和子の入内と供奉衆、入内進物の扱い、板倉父子への相談、琉球酒・塩硝・竹への礼を述べた。また大坂普請の巨石運搬と費用、家久から進上された材木、江戸にいる忠利への用命などを伝えた書状。

  48. 後編4-No.1746 島津家久譜

    比志島国貞の一周忌にあたり、島津家久が冥福を薦めるため六字名号を冠した六首の和歌を詠み、その霊臣へ授けたことを記す。国貞の生前の忠勤と、家久が死後もこれを顕彰した君臣関係を称える系譜記事。

  49. 後編4-No.1747 島津家久追悼和歌

    島津家久が比志島国貞の一周忌に霊前へ手向けた六首の追悼和歌。各首を六字名号に対応させ、国貞への哀惜、死別から一年を迎えた悲しみ、面影と極楽往生への願いを詠む。

  50. 後編4-No.1748 島津家久譜

    島津家久が六月二十七日に大坂へ着岸し、将軍の命によって翌二十八日早朝に大坂を発って江戸へ向かったこと、関西諸侯が大坂城修築を命じられる一方、薩摩国はその役に加わらなかったことを記す系譜記事。

  51. 後編4-No.1749 伊勢貞昌書状

    伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。

  52. 後編4-No.1750 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が島津家久へ、重陽の祝儀として小袖五領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井阿波守が述べるとした御内書。

  53. 後編4-No.1751 島津家久譜

    公帖は本来将軍家の礼式で国主が発給する例はないものの、島津家は鎌倉幕府以来の職務と屋形号を持つため、領内で公方家の礼式を行うことが多く、僭越ではなく古来の慣行であると説明する系譜記事。

  54. 後編4-No.1752 島津家久書下

    島津家久が明彩西堂へ、日向国大慈寺の住持職について先例どおり執務するよう命じた書下。

  55. 後編4-No.1753 島津家久譜

    十月中旬に徳川秀忠が島津家久へ暇を告げ、秀忠から黄金三百枚・絹百端・脇刀一柄、家光から白銀千枚・時服百領・駿馬三匹を拝領したこと、家老島津久元・伊勢貞昌が供奉し、十月下旬に江戸を発って十一月下旬に鹿児島へ入ったとみられることを記す系譜記事。

  56. 後編4-No.1754 島津家久書状

    島津家久が菊もじへ、思いがけず暇を許され、大御所から銀子二百枚・織物百端・脇差、将軍から銀子千枚・小袖百領・駒三匹を拝領したことを喜び、ほどなく帰国すると伝えた書状。

  57. 後編4-No.1755 島津家久譜

    島津家では嫡子が六、七歳になると犬追物を催し騎射を始めさせる祖先以来の佳例があり、六歳となった虎寿丸(後の島津光久)のため、家久が自ら検見して初騎射の手組を定めたことを記す系譜記事。

  58. 後編4-No.1756 犬追物手組

    元和七年十二月四日に行われた犬追物について、各番の騎射手と馬数を配した手組。島津家久を検見とし、喜入島津大炊助らが喚次を務める編成を記す。

  59. 後編4-No.1757 犬追物手組

    元和七年十二月五日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、島津家久が検見し、嶋津大炊助らが喚次を務める手組を記す。

  60. 後編4-No.1758 犬追物手組

    元和七年十二月七日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、川上嶋津十郎左衛門尉らが検見・喚次を務める手組を記す。

  61. 後編4-No.1759 島津久元譜

    島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。

  62. 後編4-No.1760 島津家久譜

    島津家久が歳暮の使者と幣物を献上し、その返礼として将軍家から直書を賜ったことを記し、次の徳川家光直書を導入する系譜記事。

  63. 後編4-No.1761 徳川家光直書

    徳川家光が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖十領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井雅楽頭が述べるとした直書。

  64. 後編4-No.1762 島津家久譜

    島津家久が徳川和子の入内祝賀と将軍家への年賀のため正月上旬に鹿児島を発って上洛し、二十八日に喜入忠政・比志島国隆を先に江戸へ遣わして賀礼の幣物を献じたことを記す。京都滞在中、今年は在国してよいとの老中奉書を受け、二月二十九日に京都を辞して帰国した。

  65. 後編4-No.1763 板倉重宗主回状

    板倉重宗が島津家久へ、中宮冊立の祝儀を申し上げる際の進上物は樽代銀子二十枚が適当であり、他の者も同様に樽代を用いていると助言した回状。

  66. 後編4-No.1764 島津光久譜

    島津光久の子女について、万千代丸と称した忠紀、重永、久雄らの出生、官位・拝領、母、養子縁組、没年月日と法号を列記した系譜記事。忠紀は家光らから刀剣を賜り島津久敏の家を継ぎ、重永・久雄もそれぞれ家臣家の養子となった。

  67. 後編4-No.1765 良恕入道親王書状

    良恕入道親王が島津家久へ、上洛を聞いて参会したいが家久の暇が分からないためまず書状を送り、杉原紙三十帖と諸白二樽を贈り、京都滞在中に対面したいと伝えた書状。

  68. 後編4-No.1766 山口恵倫直友書状

    山口恵倫が島津家久へ、先日の伺候への謝意を述べ、十八日に帰国予定だったところ女御への祝言のため二十九日まで延期したのはもっともであること、帰国を急ぐため延期された茶会は当地通過時に改めて相談したいと伝えた書状。

  69. 後編4-No.1767 島津家久譜

    島津家久がこの春、島津久元を江戸へ留守役として派遣し、久元が将軍に拝謁したことを記す系譜記事。

  70. 後編4-No.1768 島津久元譜

    島津久元が元和八年二月に江戸へ向けて出発し、翌元和九年五月に帰国したことを記す系譜記事。

  71. 後編4-No.1769 島津家久書状

    島津家久が中山王へ、王位相続の祝儀書と、久米中城王子を通じて届けられた太刀・馬・銀子・花入・織物・焼酒などの贈物に謝意を表した。返礼として陽明殿筆の歌屏風一双、鞍・鐙、唐織などを贈った書状。

  72. 後編4-No.1770 寺沢広高書状

    寺沢広高が島津家久へ、年頭祝儀の太刀・馬代銀子などへの礼を述べ、又八郎の息災、江戸城本丸作事に伴う西丸への移転予定、家久に在国を命じる年寄衆の指示を伝え、当地の様子は島津久元と相談するとした書状。

  73. 後編4-No.1771 徳川家光直書

    徳川家光が島津家久へ、端午の祝儀として帷子五領・内単物三領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井備後守・青山伯耆守が述べるとした直書。

  74. 後編4-No.1772 井上正就書状

    井上正就が島津家久へ、今年は在国するようとの上意に従うのはもっともであること、太刀一腰・馬代銀子二十枚への礼、又八郎の無事を伝えた。追伸では島津久元が将軍へ首尾よく目見えしたので安心するよう知らせた書状。

  75. 後編4-No.1773 賦山何連歌

    『山何』を賦題として、島津家久をはじめ重長・重種・宗可・喜庵・貞守・紹嘉・宗繁・祐昌・忠通・重商らが、春秋の景、月、花、旅、山里、海などを詠み継いだ長編の連歌。

  76. 後編4-No.1774 島津忠清一流系図

    島津忠清の一流について、忠清・久近らの系統を図示し、元和八年六月十一日に生まれた久近の父を島津久元、母を島津義弘の第七女とすること、寛永十三年に十五歳で没したこと、後に島津光久の命で忠清の後嗣とされたことなどを記す系図。

  77. 後編4-No.1775 島津家久書状

    島津家久が島津久元へ、家久の妹が六月十日早朝に男子を出産したことを知らせ、当地の諸事には念を入れているので安心するよう述べた。さらに久元の任地で新たな事態があれば直ちに早飛脚で報告するよう命じた書状。

  78. 後編4-No.1776 島津久元一流系図

    島津久元の一流について、久元から図書頭久通へ続く系統と、久通の母が新納忠増の娘であることなどを図示した系図。

  79. 後編4-No.1777 中山王尚豊書状

    中山王尚豊が島津家久へ、先王追悼のため御使僧を琉球へ派遣し、香奠として銀子三十枚を贈られたことに深い謝意を示し、詳しくは正龍寺が述べるとした書状。

  80. 後編4-No.1778 喜入忠政外四名連署書下

    喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、生活難から各地へ離散する者がいるため、地頭へ届けず他所に住む者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。

  81. 後編4-No.1779 島津家久書状

    島津家久が佐多伯耆守へ、喜入摂津守・比志島宮内少輔から関東・上方の様子を聞いたことを伝え、越前宰相に関する京都の情報について細川内記へ届ける書状の取次ぎと返書の送付を命じた。自身は九月に出立する予定であり、本多上野介らから照会があれば事情を心得て応答するよう求めた書状。

  82. 後編4-No.1780 島津家久譜

    亀寿が虎寿丸を准子として迎え、所領一万石と財宝などをのちにすべて譲与することとなった、その端緒を記す島津家久譜の記事。

  83. 後編4-No.1781 島津家久書状

    島津家久が下野守へ、虎寿丸を国分の子として家を相続させることに亀寿が格別満足していると伝え、翌月の吉日に虎寿丸を国分へ移して祝儀を行うと決まったことを知らせた。家久自身も以前から望んでいたことであり、喜入摂津守・伊勢兵部少輔から詳しく伝えるとした書状。

  84. 後編4-No.1782 飛鳥井雅胤書状

    飛鳥井雅胤が島津家久へ、春にゆっくり対面できなかったことを惜しみ、良質の鞠一顆と調合した薫香二包を贈った。家久が帰国後に蹴鞠を楽しんでいるかを尋ね、翌春に上洛した際にはたびたび蹴鞠を催したいと述べた書状。

  85. 後編4-No.1783 島津家久譜

    島津家久が九月に鹿児島城を発して江戸へ赴き、江戸で越年したことを記す。紀伊中納言・越前宰相や本多正純をめぐる風説に続き、徳川秀忠の日光社参帰途に宇都宮城で企てが露見し、本多正純が処罰・改易され、その所領が功臣に与えられた経緯を述べる島津家久譜の記事。

  86. 後編4-No.1784 島津久元書状

    伊勢貞昌・島津久元が江戸の情勢を報じ、将軍の新城移徙後も下々の風説や武具調達の動きがあること、家久の早い江戸到着を待つことを伝えた。また本多正純の宇都宮城が奥平忠昌に与えられ、永井右近に二万石が加増されたこと、越前宰相・紀伊中納言の病状などを知らせた連署書状。

  87. 後編4-No.1785 良純法親王書状

    良純法親王が島津家久へ、前日に使者と小袖五つを贈られたことに礼を述べ、その場で返答できなかったことを詫びた。家久が早く帰国するため対面できないことを残念とし、自身も近日下向するので、その折に話を承りたいとした書状。

  88. 後編4-No.1786 島津家久譜

    島津家久が、以前伊勢神宮へ寄進した神田百石について、秋の収納や海陸運送に伴う損失が多いことから年貢米の納入をやめ、その代わりに以後毎年白銀百両を奉納することにしたと記す島津家久譜の記事。

  89. 後編4-No.1787 島津久元・伊勢貞昌連署状

    伊勢貞昌・島津久元が伊勢神宮の御炊大夫へ、先年寄進した知行百石は遠国から毎年使者を派遣して所務するため負担と損失が大きいとして、百石分の代わりに毎年銀子十枚を奉納するので了承するよう伝えた連署状。

  90. 後編4-No.1788 島津家久譜

    島津家久が歳暮の祝儀として衣服を献上し、将軍徳川家光から返書を賜ったことを記す島津家久譜の記事。

  91. 後編4-No.1789 徳川家光直書

    徳川家光が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖五つを贈られたことへの喜びを述べ、詳しくは酒井備後守・青山伯耆守から伝えるとした直書。

  92. 後編4-No.1790 島津家久譜

    島津家久の庶女松は伊集院氏の女性を母とし、柔順で容姿にも優れていたが、家久に従って江戸へ赴いた際に病死した。家久が深く悲しみ、六字名号を記し六首の和歌を詠んで追善したことを記す島津家久譜の記事。

  93. 後編4-No.1791 島津家久追悼和歌

    島津家久が病没した庶女松を追悼し、世の無常や親子の別れを嘆きながら、妙法蓮華経の功徳によって蓮台に生まれることを願って詠んだ追善の和歌。

  94. 後編4-No.1792 島津家久書状

    島津家久が松の死を悼み、朝夕片時も忘れられないほど寵愛していたこと、松の心根や日頃の行いに乱れがなかったことを回想した。嘆きの中でも仏道を頼み、追善を尽くすよう勧めて遺族を慰めた書状。

  95. 後編4-No.1793 島津家久譜

    徳川家光の参内に伴って五畿七道の諸侯へ京都参集が命じられ、島津家久が五月上旬に江戸を発って上洛し、同月下旬に木之下の邸へ入ったことを記す。供奉の家老は島津久元・伊勢貞昌で、その他の従者名は伝わらないとする島津家久譜の記事。

  96. 後編4-No.1794 西洞院時直書状

    西洞院時直が島津家久へ、依頼された香を聞く人物について、父や使者からも確かな候補を聞いておらず、林羅山にも相談すると伝えた。以前から求められている人物の件は事情が複雑で書面にしにくいため、詳しくは口上で申し上げるとした書状。

  97. 後編4-No.1795 島津久元外二名連署掟書

    勘定所の糺明衆に日の出前の出勤と日没後の退出を命じ、代官の算用帳提出期限、諸役人の糺明と上納分請状、算用未決者への処分を定めた。また糺明衆への振舞いを一汁一菜・引菜二品・濁酒一度に限るとした三名連署の掟書。

  98. 後編4-No.1796 島津家久書状

    島津家久が虎寿丸へ、五月二十五日付の書状を六月十二日に受け取り、皆の無事と贈物を喜んだ。贈物を将軍へ献上したこと、稽古を怠らないこと、刀や帰路の船を用意することを伝え、京都での能や近衛邸の十七種香などの見聞にも触れた書状。

  99. 後編4-No.1797 島津家久譜

    島津家久が京都滞在中、学問を好んだことを後水尾天皇に賞され、官本の大名寄を賜って家宝としたことを記す。さらに院御所で立花を行い、八条宮で蹴鞠をし、近衛邸で十種香を聞き、師について琵琶や琴を学んだ文化活動を称える島津家久譜の記事。

  100. 後編4-No.1798 島津家久書状

    島津家久が虎寿丸へ、たびたび届く書状を喜び、江戸へ上った後に対面できることを期待した。上方での諸事や人々への伝言、帰国・参詣などの予定を述べるとともに、近衛邸での十七種香や花、謡・舞など京都での文化的見聞を伝えた書状。