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後編4の目録

旧記雑録 慶長10年~寛永2年の文書・記事です。

全1,899件中 601~700件・7 / 19ページ

  1. 後編4-No.600 本多正信書状

    七月九日、本多正信が島津家久に、琉球派遣軍が早速本意を遂げ、国王・三司官以下を薩摩へ召し寄せたとの注進が上聞に達して家康・秀忠が比類ない戦功と賞したことを伝え、詳細は山口直友派遣の使者が申し達するとした書状。

  2. 後編4-No.601 宝性院法印政遍書状

    慶長十四年七月九日付の宝性院法印政遍書状。本文はNo.597と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  3. 後編4-No.602 大楽院玄如書状

    七月十一日、大楽院玄如が島津家久に、願いどおり寺院造営が速やかに成就したことを仏祖の感応と喜び、成正院による建築と伽藍の美を称え、住持職を宝性院法印政遍に任せる契約を門中一同が望んでいると伝えた書状。

  4. 後編4-No.603 本多正純書状

    七月十三日、本多正純が島津家久に、大島・中島を服属させ、中島で二、三百人を討ち取ったのち琉球王城を包囲し、国王・三司官らを降参させ帰朝させるとの注進を受け、家康・秀忠も大いに賞したと伝えた書状。

  5. 後編4-No.604 本多正純書状

    七月十三日、本多正純が島津龍伯に、琉球派遣軍が大島・中島を服属させ、王城攻略と国王・三司官らの降参・帰朝を実現したとの注進を述べ、家康・秀忠がこの戦功を賞したと伝えた書状。

  6. 後編4-No.605 山口直友書状

    七月十四日、山口直友が島津家久に、大島平定後の返書に続き琉球全体も平定したとの注進を受けたこと、本多正純からも返事を送ったこと、使者に自分の者を一人添えて下向させたので早々に返報するよう伝えた書状。

  7. 後編4-No.606 善集院栄旻書状

    七月十五日、善集院栄旻が島津家久に、琉球を時を移さず幕下に属させた武威を祝うとともに、蓮金院建立と成正院の登山、法印政遍を初祖として後代の学問・住持の拠点とする方針を述べた書状。

  8. 後編4-No.607 善集院栄旻書下

    慶長十四年七月十五日、善集院栄旻が、谷上蓮金院は島津義弘・家久両殿の建立による永代不朽の法席で、島津豊州朝久の宿坊・祈願所でもあるため、後代の住持は蓮金院を内外とも別心なく保護するよう命じた書下。

  9. 後編4-No.608 堀重継・成正院頼真連署蓮金院道具注文

    慶長十四年七月十五日、堀重継・成正院頼真が蓮金院で新造・引き渡した什物を、孔子聖賢図屏風、茶釜・香箱・鍋・鉢・膳、仏具、建具、厨具など部屋別・品目別に数量を付して列記した道具注文。

  10. 後編4-No.609 銀子入目注文

    慶長十四年七月十五日、蓮金院関係者が大坂で受け取った銀子を提供者ごとに列挙し、寺院・院家への貸付や建築資材・門・窓などの費用を控除して、収入・支出と総計を示した銀子入目注文。

  11. 後編4-No.610 成正院頼真書状

    七月十五日、成正院頼真が島津家久に、前年九月二十七日付の御書・進物を寺院ごとに預かり、蓮蔵院・万勝院・大楽院・修徳院・宝亀院などへ礼状や品物を届け、返書・進物を取りまとめた経過を報告した書状。

  12. 後編4-No.611 成正院頼真・掘重継連署銀子入目注文

    慶長十四年七月十五日、成正院頼真・堀重継が、蓮金院関係の銀子について、石塔代・職衆への配分などの支払内訳と合計額を示した連署銀子入目注文。

  13. 後編4-No.612 成正院頼真外二名連署銀子入目注文

    慶長十四年七月十五日、成正院頼真ら三名が、高野山蓮金院建立のため請け取った銀子と、鹿児島・加治木・国分各方、寺地知行代、廻光院御再興などへの支出を列挙し、残額と総計を示した連署銀子入目注文。

  14. 後編4-No.613 宝亀院朝印書状

    七月十六日、宝亀院朝印が島津家久に、蓮金院の造営と成正院頼真の登山を祝し、青巌寺法印政遍の門徒が繁栄して法流を永く伝えることへの期待を述べ、贈られた品への礼を伝えた書状。

  15. 後編4-No.614 島津惟新・同家久連署状

    七月二十五日、島津惟新・家久が連署し、宝性院の死去に伴い遺書が到来したこと、不義・不学の者には蓮金院住持職を継がせないとの遺志を重んじ、遺書で指名された僧に辞退せず入寺するよう求めた書状。

  16. 後編4-No.615 本多正信書状

    七月二十六日、本多正信が島津家久に、家久の屋形作事のため前年から滞在した田中伊豆守が尽力して工事を残りなく整え、まもなく上るので、その苦労を取り成してほしいと依頼した書状。

  17. 後編4-No.616 山口直友書状

    七月二十七日、山口直友が島津家久に、琉球平定の使者が江戸・駿府へ赴いて返状を受け帰国すること、家康が戦功を賞して朱印を与えたと本多正純から通知されたことを伝えた書状。

  18. 後編4-No.617 徳川秀忠御内書

    七月二十九日、徳川秀忠が島津家久から使者として敷根中務少輔を遣わされ、虎皮五枚・熊皮十枚・焼酒二壺を受領したことを喜び、詳細は本多正信が述べるとした御内書。

  19. 後編4-No.618 福島正則書状

    七月二十九日、福島正則が島津家久に、毛利輝元旧領の端城普請が公儀に新城築造と受け取られて慎んでいた事情を説明し、家久の琉球平定を祝うとともに、上洛時に銀子調達で困らぬよう尽力すると伝えた書状。

  20. 後編4-No.619 島津家久譜

    島津家久譜の記事。前年秋、家久が醍醐山理性院主に、大元明王の秘法を一僧へ伝授し、学識と教化力のある僧に継承させたいと願い、院主が一乗院に秘伝を授けたこと、さらに和歌会を催したことを記す。

  21. 後編4-No.620 島津家久書状案

    七月晦日、島津家久が理性院主に、信仰する秦現明王の秘法を一乗院へ伝授するよう願い、領国内にも堂を建立して明王を勧請し家の安穏を祈りたいと述べ、段子・唐折敷・唐盆を贈った書状案。

  22. 後編4-No.621 島津家久譜

    島津家久譜の記事。同年八月、島津龍伯が国分から鹿児島城を訪れた際、家久が城中に迎えて和歌会を催したことを記し、続く詠草への導入とする。

  23. 後編4-No.622 島津竜伯外二一名詠草

    龍伯・家久をはじめ二十二名が、秋の月・露・虫・萩・旅宿などを題として詠んだ和歌会の詠草。各題ごとに歌人名と一首を掲げ、季秋の景物と旅情を詠み分ける。

  24. 後編4-No.623 北郷久加譜

    北郷久加譜の記事。慶長十四年秋、久加が島津龍伯の使者・山口直友に従って駿府へ上り、本多正純の執奏で徳川家康に拝謁し、内府から左文字の宝刀を賜ったことを記す。

  25. 後編4-No.624 島津家久譜

    島津家久譜の記事。公家の猪熊教利らによる密通事件を徳川家康が究明させ、板倉勝重が関係者を探索・逮捕し、猪熊を処刑して公家・女官らを流罪などに処した猪熊事件の経過を記す。

  26. 後編4-No.625 島津紹益外二名連署知行目録

    慶長十四年八月五日、隅州肝付郡高山村内の屋敷・浮免などの知行を石高とともに記し、合計二石余を比志島国貞へ与えた島津紹益・樺山久高ほか一名の連署知行目録。

  27. 後編4-No.626 竹中重利書状

    八月十三日、竹中重利が島津家久に、公家衆の猪熊教利が成敗を命じられながら行方不明となったため、領国内へ人相書を回して匿わず捕らえるよう駿府から命じられたと伝え、薩摩でも触れを出すよう求めた書状。

  28. 後編4-No.627 徳川秀忠御内書

    九月四日、徳川秀忠が島津家久から重陽の祝儀として小袖五領を贈られたことを喜び、詳細は本多正信が述べるとした御内書。

  29. 後編4-No.628 本多正純書状

    九月八日、本多正純が島津家久に、大御所徳川家康への重陽祝儀として衣服五領を進上した件を披露し、家康が喜んだので安心するよう伝え、御内書は後日調えて送るとした書状。

  30. 後編4-No.629 島津惟新書状

    九月十五日、島津惟新が島津家久に、自身の近況と贈り物について知らせ、田中伊豆守が下向して屋形普請に尽力し早く完成したこと、本多正信から届いた書状を家久の閲覧用に送ることを伝えた書状。

  31. 後編4-No.630 本多正純書状

    十月二日、本多正純が樺山久高に、島津家久が琉球から無事帰国したことを喜び、現地での働きをねぎらい、家久に供して上国する際には御目見えを取り成すと伝え、太刀・銀子を贈った書状。

  32. 後編4-No.631 山口直友書状

    十月十日、山口直友が島津家久に、江戸屋形の作事を命じられた田中伊豆守が下向して普請に尽力し早く完成したとの知らせを喜び、本多正信の書状を閲覧用に回送した書状。

  33. 後編4-No.632 松浦宗静書状

    十月二十八日、松浦宗静が島津家久に、琉球へ派遣した軍勢が早速勝利を得たことを祝し、遅ればせながら祝儀の使札を送り、樽一荷と肴二種を贈った書状。

  34. 後編4-No.633 新納忠元勲功記

    新納忠元勲功記。忠元が十六歳から島津氏に仕え、多くの合戦で先陣・一騎討ち・首級獲得などの武功を重ね、身体に十九か所の傷を負ったこと、子孫も軍功を立てたことを列挙する。

  35. 後編4-No.634 伊勢貞昌掟書

    慶長十四年十月八日、伊勢貞昌が女房衆・奉公人に対し、役目と勤務、身持ち、争論の処理、届け出、次郎四郎らへの相談、命令順守などの家内規律を条項ごとに定めた掟書。

  36. 後編4-No.635 伊勢貞昌自記

    伊勢貞昌自記。朝鮮出兵時の川内山田、庄内合戦後の谷山、祖父新納忠元との縁による大口地頭就任と辞退、谷山復帰を述べ、馬の調練や妻子・娘の婚姻など家政上の出来事を記す。

  37. 後編4-No.636 飛鳥井雅庸書状

    十一月七日、飛鳥井雅庸が島津家久に、先の懇切な書状に礼を述べ、松木某が薩摩へ下向すると聞いたことから、親類としての事情を頼み、今後も保護・取り立てを願った書状。

  38. 後編4-No.637 島津家久譜

    島津家久譜の記事。徳川家康が翌春に尾張名古屋城を築くため北国・九州の諸大名へ普請を命じ、本多正純が十二月二日、山口直友が同月十三日の書状で家久に事前通知したことを記す。

  39. 後編4-No.638 本多正純書状

    十二月二日、本多正純が島津家久に、翌春に尾張名古屋城を築くため北国・九州衆へ普請が命じられること、島津家は石垣普請を担当する見込みであることを事前に知らせ、期限は後日通知するとした書状。

  40. 後編4-No.639 島津忠清譜

    島津忠清譜の記事。関ヶ原後に肥後熊本へ移った忠清が島津義久の招きで慶長十四年十二月三日に子女を伴って阿久根へ帰国し、娘が島津家久の室となって光久を生み、忠清が厚遇されたことを記す。

  41. 後編4-No.640 新納忠元譜

    新納忠元譜の記事。慶長十四年、島津龍伯が税所弥右衛門を介して、忠元が少年期から老年まで戦場で立てた武功を記録するよう命じ、忠元が証人のある十九度の合戦だけを一紙にまとめて提出し、十二月七日に感状を受けたことを記す。

  42. 後編4-No.641 島津竜伯感状

    慶長十四年十二月七日、島津龍伯が新納忠元に、先年の合戦で格別の忠勤を尽くしたことを今も忘れておらず、今回提出された武功条目を一覧して、数度にわたる粉骨を比類ないものとして称えた感状。

  43. 後編4-No.642 新納忠元勲功記

    新納忠元勲功記。龍伯の命により忠元が若年から老年までの戦功を記し、証人のある総計十九度の合戦だけを提出し、証人のない戦功は多くても省略したこと、その提出を受けて十二月七日に感状が下されたことを説明する。

  44. 後編4-No.643 新納某覚書

    新納家蔵書の覚書。龍伯の感状を収録する前に、新納忠元が若年からの戦功を十九か条にまとめて提出し、その功績が評価された経緯を書き入れるよう指示したもの。

  45. 後編4-No.644 島津竜伯感状

    慶長十四年十二月七日付の島津龍伯感状。本文はNo.641と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  46. 後編4-No.645 山口直友書状

    十二月十三日、山口直友が島津家久に、尾張名古屋城普請について、幕府の触状が当地の島津衆まで届くので、油断なく準備するよう求め、詳しくは後日知らせるとした書状。

  47. 後編4-No.646 島津家久譜

    島津家久譜の記事。家久が琉球平定の恩賞に謝意を表すため、町田勝兵衛久幸を上使として礼物を携えさせ、徳川家康・秀忠の両御所へ派遣し、本多正信・正純にも奉書を届けたことを記す。

  48. 後編4-No.647 徳川秀忠御内書

    慶長十四年十二月、徳川秀忠が島津家久に、先の琉球平定報告に対する内書に続き、太刀一腰・馬一疋・段子十巻を恩賞として与え、詳細は本多正信が述べるとした御内書。

  49. 後編4-No.648 徳川秀忠御内書

    十二月十五日、徳川秀忠が島津家久に、琉球を早速平定した報告に続いて贈られた青貝の調度・屏風・段子十端を受領して喜び、詳細は本多正信が伝えるとした御内書。

  50. 後編4-No.649 本多正信書状

    十二月二十日、本多正信が島津家久に、琉球平定の礼として進上された品々を大御所が満足して受け取り内書を送ったこと、自身も段子五巻を受領したことを謝し、詳細は町田勝兵衛が言上すると伝えた書状。

  51. 後編4-No.650 徳川秀忠御内書

    十二月二十四日、徳川秀忠が島津家久から歳暮の祝儀として小袖十領を受領して喜び、詳しくは本多正信が述べると伝えた御内書。

  52. 後編4-No.651 清水光直親書状

    十二月二十四日、清水光直が島津家久に、琉球の件が望みどおりとなり大御所の機嫌もよいことを祝い、段子一巻の贈答を謝した。使者の到着と本多正純の披露にも触れ、今後の引き立てを願う書状。

  53. 後編4-No.652 清水光直書状

    十二月二十四日、清水光直が島津義弘に、春の下向を喜び、贈られた織物三巻を謝したうえで、琉球の件が意向どおりとなり大御所の機嫌もよいと伝え、今後の厚意を願った書状。

  54. 後編4-No.653 福島正則書状

    十二月二十五日、福島正則が島津家久に、九月二十三日付書状への返礼と、駿府・江戸で対面できなかった事情を述べ、徳川家康・秀忠の厚遇を喜び、本多正信・正純からも委細が伝わるとした書状。

  55. 後編4-No.654 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠から島津家久への御内書。本文はNo.885と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  56. 後編4-No.655 徳川家康御内書

    十二月二十六日、徳川家康が島津義弘から音信として段子十端・象牙・南蛮鉄砲を受領し、喜んでいる旨を伝えた御内書。

  57. 後編4-No.656 徳川家康御内書

    十二月二十六日、徳川家康が琉球国の領知を認めたことへの島津家久の祝意をもっともとし、仏草花・茉莉花・硫黄千斤・唐屏風・緞子五巻の進物を受領して喜んだ御内書。

  58. 後編4-No.657 本多正純書状

    十二月二十六日、本多正純が島津家久に、琉球領知への御内書に対する礼が、琉球の仕置と翌春の国王同道を控えて延期された事情を了承し、進上品を大御所が上機嫌で受け取ったこと、新たな御内書を送ることを伝えた書状。

  59. 後編4-No.658 本多正信書状

    本多正信から島津家久への書状。本文はNo.979と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  60. 後編4-No.659 琉球入記

    琉球入ノ記。慶長十四年、尚寧王が久しく貢礼を欠いたため幕府の許可を得て島津家久が征討を命じ、樺山久高を大将、平田増宗を副将として約三千の軍勢を派遣した経過を記す。奄美諸島から首里城へ進み琉球を制圧して尚寧王らを伴い帰還し、軍令、戦闘、国王処遇、駿府・江戸への上洛、恩賞・進物、帰国準備、渡海軍の論功や…

  61. 後編4-No.660 得能氏記録

    得能氏記録。慶長十四年の琉球征討について、出陣命令、薩摩・大隅・日向からの軍勢編成、奄美・沖縄での航海と戦闘、尚寧王の降伏、捕虜・戦死者、首里城占領、帰国後の論功までを、得能氏一族ら参加者の動向を交えて詳述する。

  62. 後編4-No.661 佐多忠充譜

    佐多忠充の譜。父の佐多久慶に従って河辺へ移り、旧領を回復したことを記し、寛永九年十一月十二日に死去したとする。

  63. 後編4-No.662 島津忠興譜

    島津忠興の譜。慶長十五年、十二歳で父島津以久を失った忠興が家を継ぎ、駿府城で徳川家康、続いて江戸城で徳川秀忠に拝謁して礼を述べたのち帰国したことを記す。

  64. 後編4-No.663 島津家久書状

    慶長十五年正月五日、島津家久が高橋右近大夫に新年を祝い、太刀一腰・馬一疋・段子二段を贈った。尾張名古屋城普請のため当国から人夫を派遣したことにも触れ、現地の新しい情報を知らせるよう求めた書状。

  65. 後編4-No.664 島津義久書状案

    慶長十五年正月十六日、島津義久が尾張名古屋城普請を当国にも命じられたため福崎某を上らせたと伝え、久しく音信が途絶えていた相手に今後の助力と連絡を求めた書状案。

  66. 後編4-No.665 島津義久書状案

    慶長十五年正月、島津義久が祐乗法印に尾張名古屋城普請に伴う人員差し出しと奉行の進発について知らせ、古今の切紙や墨跡の照会・借覧を依頼し、使者に詳細を託した書状案。

  67. 後編4-No.666 島津義久書状案

    慶長十五年正月十六日、島津義久が倉光主水佑に、尾張名古屋城普請が薩摩にも命じられ福崎某を派遣したと伝え、大事業への心遣いと今後の助力を願った書状案。

  68. 後編4-No.667 島津家久譜

    島津家久譜の記事。慶長十五年、諸大名に尾張名古屋城普請が命じられ、薩摩にも本多正純から動員命令が届いたため、家久が人員・資材を整えて派遣した経過を記す。上方情勢や琉球関係の処置について幕府役人と折衝したことも載せる。

  69. 後編4-No.668 山口直友書状

    慶長十五年正月十九日、山口直友が島津家久に新年の祝意を述べ、本多正信・正純父子の取りなしで諸事が順調であると伝えた。尾張名古屋城普請についても協力できることがあれば知らせるよう求めた書状。

  70. 後編4-No.669 殉国名薮

    殉国名薮の記事。慶長十五年四月九日の久保権兵衛重次をはじめ、島津以久に仕えた猿渡左近、肝付治部左衛門兼家、日高大炊左衛門重勝ら、主君に従って殉死した家臣を列挙する。

  71. 後編4-No.670 島津家久譜

    島津家久譜の記事。前年から江戸で当家の人質となっていた六歳の島津菊袈裟が、北郷忠能に代わって暇を与えられ、本多正信・山口直友の添書を受けて伏見から帰国の途についた経過を記す。

  72. 後編4-No.671 山口直友書状

    二月二日、山口直友が島津家久に、駿府から帰ったこと、大御所または将軍の三月上洛見込み、琉球国王を京都へ連れて来る予定など、幕府と上方の情勢を伝えた書状。

  73. 後編4-No.672 本多正純書状

    慶長十五年二月十日、本多正純が島津家久に、勘合が整わないため唐口へ兵を出す可能性があるので内々に準備し、本人は赴かず人数だけを送ること、正式な命令を待つこと、普請人員の上国は不要であることを伝えた書状。

  74. 後編4-No.673 細川忠興書状

    慶長十五年二月十四日、細川忠興が島津家久に、駿府から帰ったこと、大御所または将軍の上洛予定、琉球国王を京都へ伴う見込みなどを報じ、今後の対応について連絡した書状。

  75. 後編4-No.674 新納忠元勲功記

    新納忠元勲功記の記事。忠元の妻で種子島修理亮時興の娘が慶長十四年二月十四日に病死し、法名を笑蓮妙欣大姉としたこと、赤塚某の書留に辞世の和歌が残ることを記す。

  76. 後編4-No.675 徳川秀忠御内書

    慶長十五年二月二十一日、徳川秀忠が島津家久から贈られた国産の蜜柑二箱を受領し、遠路の心遣いを喜び、詳しくは本多正信が述べると伝えた御内書。

  77. 後編4-No.676 本多正純書状

    本多正純から島津家久への書状。本文はNo.673と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。

  78. 後編4-No.677 山口直友書状

    慶長十五年閏二月、山口直友が島津家久に、島津菊袈裟の帰国について島津義久から本多正純を介して願い出た結果、帰国許可が出たことを伝え、早く下国させるよう勧めた書状。

  79. 後編4-No.678 新納為舟知行目録

    慶長十五年閏二月二十一日、新納為舟が小川内村の田畠を一筆ごとに所在地・面積・石高・耕作者名まで列記し、合計約九十石九斗余を丸田与右衛門尉らに宛てた知行目録。

  80. 後編4-No.679 新納忠元知行目録

    慶長十五年三月吉日、新納忠元が村田隠岐入道に、古川の仕明地四石八斗余などを長年の辛労への報償として与えた知行目録。

  81. 後編4-No.680 新納忠元知行目録

    慶長十五年四月一日、新納忠元が村田隠岐入道に、図示した複数の田地と石高を知行として与えた目録。主税分・同人分などの内訳と藤八左衛門名を記す。

  82. 後編4-No.681 某掟書

    慶長十五年四月二日付の定書。侍から中間・小者まで一季奉公人を置かないこと、翌年の夏役など雇用条件を事前に定めること、関東の奉公人を拘留しないことを命じ、違反者には金子一枚の過料を課した。

  83. 後編4-No.682 島津惟新書状

    慶長十五年四月七日、島津義弘が高野山での寺家建立の計画と労苦に謝意を表し、父祖の志を遂げるため今後も尽力を頼み、書信のしるしとして銀子一枚を贈った書状。

  84. 後編4-No.683 島津以久譜

    島津以久譜の記事。慶長十五年、丹波篠山城普請のため上洛して伏見に滞在中、病により四月九日に六十一歳で死去したことを記す。法名・葬地、忠興の哀悼、諸僧・文人による多数の追悼詩歌も収める。

  85. 後編4-No.684 島津以久譜

    島津以久譜の記事。慶長十五年四月九日、以久が伏見で病死し、享年六十一、法名を高月院仁雄宗恕居士とし、洛陽四条寺町の大雲院に葬ったことを簡潔に記す。

  86. 後編4-No.685 島津忠興一流系図

    島津忠興一流系図。忠興・忠仍らの出自、母が島津義久の第二女であること、祖父島津以久から佐土原領を譲られた経緯など、一流の系譜と所領継承を記す。

  87. 後編4-No.686 島津忠興譜

    島津忠興譜の記事。父島津以久が伏見で死去した際、将軍家は嫡孫忠仍に佐土原を与えようとしたが忠仍が固辞したため、忠興が父の遺領を継いで佐土原城主となったことを記す。

  88. 後編4-No.687 本多正純書状

    慶長十五年四月十二日、本多正純が島津家久に、大御所への年頭祝儀として進上された太刀一腰・馬代金子二枚・段子二十端を披露し、受納されたので安心するよう伝えた書状。

  89. 後編4-No.688 新納忠元知行目録

    慶長十五年四月二十六日、新納忠元が薩摩国伊佐郡大口内の諸村について、篠原村中嶋門などの屋敷・田畠と石高を列記し、合計八十余石を寺師筑後守に与えた知行目録。

  90. 後編4-No.689 詠社頭祝言和歌

    国分宮内澤氏蔵書。息長宿禰道隆の「わかたのむ神のむかしの言のはの/絶ぬなかれの岩清水かな」を掲げ、十一月十七日の会で豊霧丸・左近将監源俊隆・紀景行・源俊堅が神垣・松・清水などを詠んだ社頭祝言和歌。法印龍伯の歌は次文書No.690に属する。

  91. 後編4-No.690 詠鶴有遐齢和歌

    慶長十五年五月二日の和歌会で詠まれた、鶴の長寿を題とする和歌集。雲井・松・千代などの語を用いた賀歌を、多数の参加者名とともに収録する。

  92. 後編4-No.691 島津家久譜

    島津家久譜の記事。北郷千世鶴を当家の人質として差し出し、従来の人質北郷忠能に代えて江戸へ赴かせることとなり、本多正純の指示で五月十四日に出発した経過を記す。

  93. 後編4-No.692 本多正純書状

    慶長十五年五月十四日、本多正純が島津家久に、北郷千世鶴を江戸在府の人質に定めたので下向させるよう命じ、以後は替番や相応の用務を命じると伝えた書状。

  94. 後編4-No.693 北郷久加譜

    北郷久加譜の記事。慶長十五年五月、久加に代わる人質として千世鶴を差し出し、従来の北郷忠能が江戸から帰国したことなど、人質交替の経過を記す。

  95. 後編4-No.694 本多正純書状

    慶長十五年五月十四日、本多正純が島津家久に、琉球国王の上国と道中の宿・人馬・警固などについて指示し、山口直友・伊勢兵部少輔らと協議して滞りなく進めるよう求めた書状。

  96. 後編4-No.695 山口直友書状

    慶長十五年六月一日、山口直友が島津家久に、北郷千世鶴が人質として上り、将軍への拝謁と江戸在府が決まったことを伝え、安心するよう述べた書状。

  97. 後編4-No.696 島津家久譜

    島津家久譜の記事。慶長十五年五月以降、尚寧王を伴う上方・駿府への移動、船旅と道路整備、各地での滞在・拝謁、太刀・馬・織物・銀などの進上と返礼、茶・饗宴までを日付順に記す。

  98. 後編4-No.697 島津家久書状

    六月十四日、島津家久が島津義弘に、京都出航後の天候と航海、十一日の津着、四日の大風で諸船が筑前芦屋付近へ避難したことを伝え、到着状況を尋ねた書状。

  99. 後編4-No.698 藤堂高虎書状

    慶長十五年六月二十五日、藤堂高虎が島津家久に、家久の上洛を喜び、普請が進んだので近く駿府へ下る予定で、滞留中に面談したいと伝える。普請のため見舞いに赴けないことを断り、太刀一腰・馬一疋・緞子十巻の贈答に謝意を述べ、詳しくは使者に伝えた書状。

  100. 後編4-No.699 島津家久書状

    慶長十五年六月二十五日、島津家久が伊東修理大夫に、年頭の祝儀をまだ申し入れていなかったため、太刀一腰・馬一疋・帷子十領を贈ると伝える。炎天下の普請をねぎらい、見舞いに赴くべきところ、江戸・駿府へ礼を申し上げるため近く下る予定なので、まず使者を送った旨を述べた書状。