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前編1の目録
旧記雑録 長久2年~延文元年の文書・記事です。
全2,673件中 301~400件・4 / 27ページ
前編1-No.269 日下部太子園借文
日下部太子が園を借用する条件を記した借文。関係者と対象地を挙げ、借用後に妨げをしないことを約し、承久二年八月十日付で日下部太子が判を据える。
前編1-No.270 関東下知状
関東が左衛門尉惟宗忠久を信濃国太田庄の地頭職に補任した下知状。忠久を同職に任じるので、現地で職務を執行するよう命じる。
前編1-No.271 記事建久四年
北条介時兼の男子が建久四年二月十五日に京都で死去したことを記す記事。文中に、文治五年四月十八日付で左衛門尉に任じられた旨の注記を添える。
前編1-No.272 山田聖栄自記
山田聖栄の自記。信濃国には忠義の三男・大炊介高久が住国し、この人物が中沼殿であると伝える短い系譜記事。
前編1-No.273 関東下知状
関東が勲功の賞として左衛門尉惟宗忠久を越前国東郷庄の地頭職に補任した下知状。現地で同職を執行するよう命じ、陸奥守平朝臣が判を据える。
前編1-No.274 関東下知状
関東が勲功の賞として左衛門尉惟宗忠久を越前国東郷庄の地頭職に補任した下知状。現地で同職を執行するよう命じ、陸奥守平朝臣が判を据える。
前編1-No.275 若狭島津忠季譜
『若狭島津忠季譜』の記事。承久三年の兵乱で忠季入道が関東方に属し、宇治川の戦いで戦死したことを記す。佐多太郎久秀や高城六郎重貞ら同族の戦死にも触れる。
前編1-No.276 若狭島津家譜
『若狭島津家譜』の記事。承久の乱で忠季が関東方として勇戦し、宇治川で戦死したことを伝え、兵衛次郎をはじめとする若狭島津氏の系譜に位置付ける。
前編1-No.277 殉国名薮
『殉国名薮』の記事。承久三年六月十四日の宇治川合戦で、市来左衛門尉忠康が北条泰時に従って戦死したことを述べ、若狭兵衛尉忠季・佐多太郎久秀・高城六郎重貞ら同族の戦死者を列挙する。
前編1-No.278 北条義時書状
北条義時が三郎兵衛尉に宛てた書状。三郎兵衛尉が武蔵守とともに上京するとの報告を了承し、その働きを神妙であると評価する。
前編1-No.279 島津忠時譜
『島津忠時譜』の記事。承久三年の兵乱で忠時が関東方に属し、五月二十二日に北条武蔵守泰時に従って鎌倉を進発したことを記し、関東書状の案文を後掲する。
前編1-No.280 北条泰時書状
承久の乱で忠時が北条泰時に従い鎌倉を進発し、六月十四日に九十六騎の一員として宇治川を渡った記事。『蘇久次記』を引き、敵七人を討ち二人を生け捕った軍功と、泰時が忠義を賞したことを記す。
前編1-No.281 北条泰時書状
北条泰時が三郎兵衛尉に宛てた書状。若狭国の所務二件を三郎兵衛尉へ付け、証文を添えて送ること、若狭兵衛入道の跡について下文を得たうえで関係する所務を処理することを指示する。
前編1-No.282 北条泰時書状
北条泰時が三郎兵衛尉に宛てた書状。申請すべき事情を申し出ないまま下向したことを奉公不足として戒め、その事情を上申した旨を伝える。
前編1-No.283 北条泰時書状
北条泰時が三郎兵衛尉に宛てた書状の別写。周囲が事情を申し出るなか、三郎兵衛尉が申告せずに下向したことを奉公不足とし、その旨を上へ申し上げたと伝える。
前編1-No.284 関東下知状
関東が左衛門尉藤原忠久を越前国守護人に補任した下知状。先例に従って越前国の沙汰を行うよう命じる。
前編1-No.285 越前島津忠綱譜
『越前島津忠綱譜』の記事。承久三年、父忠久が越前国守護職に補任され、忠綱が守護代として越前へ赴いたため越前島津氏を称したこと、頼経・頼嗣・宗尊親王に近侍したことを記す。
前編1-No.286 山田聖栄自記
山田聖栄の自記。忠久の二男忠綱が越前に置かれ、その子孫が越前島津氏として繁栄したとする。忠久が越前攻めの大将を務めた際に頼朝から所領を与えられ、忠綱へ譲ったとの伝承も記す。
前編1-No.287 北条泰時書状
北条泰時が島津左衛門尉に宛てた書状。三郎兵衛尉が諸事に忠勤を尽くしたことを評価し、その功を関東へ申し入れ、関係者に異議なく処置させる旨を伝える。
前編1-No.288 関東下知状
関東が左衛門尉藤原忠久を信濃国太田庄の地頭職に補任した下知状。現地で同職を執行するよう命じ、陸奥守平朝臣が判を据える。
前編1-No.289 山田聖栄自記
山田聖栄の自記。信州中沼殿は忠義の三男・大炊助豊久の子孫であると伝える短い系譜記事。
前編1-No.290 太田庄相伝系図
信濃国太田庄を相伝した島津氏の系図。忠久から忠義・忠綱らへ分かれる系統を示し、久時・忠宗・忠景・忠祐らの親子関係や法名、所領継承を図示する。
前編1-No.291 東鑑
『東鑑』延応元年十一月二日条。信濃国司の初任検注をめぐり、諏訪五月会・御射山の頭役らが先例による免除を訴えたため、評定して免許し、以後も同様に扱うと定めた。
前編1-No.292 山田聖栄自記
山田聖栄の自記。貞久が信濃国へ下向した際、諏訪社・山門を崇敬し、神馬や鷹を奉納したこと、鷹狩で鳥を得るたび諏訪へ献じたことを伝える。
前編1-No.293 上諏訪・下諏訪神名考
上諏訪・下諏訪両社の祭神と由緒を考証した記事。健御名方命・八坂刀売神を祀ること、大己貴神との系譜、天孫降臨時の伝承を述べ、鹿児島の諏訪社・御射山祭との関係も記す。
前編1-No.294 藤原某書状
藤原某が左馬允へ送った書状。出陣を命じられたが河野の八講田楽に関わる者で軍役に加われないと述べ、急ぎ上京して武蔵殿・坂殿に面会し、判断を仰ぐ意向を伝える。
前編1-No.295 東鑑
『東鑑』承久三年六月二十八日条。官軍に従った伊予国住人河野入道を討つよう武州が命じ、国中の武士が一方に結集して誅罰すべき旨を伝えた記事。
前編1-No.296 執印康友系譜
執印康友を祖とする子孫・分流の系譜と寺社職・所領一覧。康友・友久・康村らの系統を図示し、新田宮執印職、国分寺留守職、郡司・弁済使職などの継承を述べる。さらに薩摩国内の寺院ごとに道数・騎兵・馬・従者・屋敷等の負担を列記する。
前編1-No.297 官宣旨
左弁官から大宰府へ下した官宣旨として掲げられた国分寺文書。本文は書名・宛所のみを示し、後続の寺社役勤仕に関する文書群へつなぐ。
前編1-No.298 薩摩国庁下文
薩摩国庁が諸郡郷院に対し、先例どおり八幡新田宮の放生会雑事を勤仕するよう命じた下文。武士の狼藉を禁じ、各院・寺社ごとに道数、騎兵、馬、従者、屋敷、楽人などの負担を詳細に割り当てる。
前編1-No.299 関東下知状
関東が島津三郎兵衛尉忠義を越前国生部庄・久安保・富地の地頭職に補任した下知状。現地で各職を執行するよう命じる。
前編1-No.300 六波羅下文
六波羅が安楽寺領・天満宮領・国分寺領などの所領を安堵し、武士の狼藉を停止した下文。違反者は交名を注進して処罰し、沙汰人や神人らにも不法を禁じる。
前編1-No.301 新田宮執印惟宗康友解状
新田宮執印惟宗康友の解状。八幡新田宮執印神主職を先例どおり安堵し、宮院の守護所を停止するよう求める。大菩薩の霊社で狼藉を抑え、祈祷・神事を全うするため、将軍家の免許と御判を申請する。
前編1-No.302 六波羅下知状
六波羅が安楽寺領薩摩山門庄・国分寺領について、宣旨に任せて武士の狼藉を停止するよう命じた下知状。違乱があれば注進するよう指示する。
前編1-No.303 関東下知状
関東が勲功の賞として左兵衛尉惟宗忠義を伊賀国長田郷の地頭職に補任した下知状。現地で同職を執行するよう命じる。
前編1-No.304 関東御教書
国分寺文書として伝わる源頼朝の御袖判文書。旧御番所御文書二番箱中の御宝鑑三帖に収められるが、本文は既出文書と同文のため省略されている。
前編1-No.305 北条時氏書状
在京中の鹿児島馬允惟宗康友に関する書状。康友が子細を申し上げるため在京し、子の四郎康忠を参上させたこと、康忠が見参を遂げたなら暇を与えて在京させるよう取り計らうことを伝える。
前編1-No.306 北条泰時書状
北条泰時が武蔵守として出した書状。薩摩国御家人鹿児島馬允の子・右近将監友尚と四郎康忠が参上したこと、父は西面衆の召人として薩摩へ下されたことを述べ、二人を見参させた後は速やかに暇を与えて帰国させるよう求める。
前編1-No.307 藤原篤士日売券
藤原篤士日が伝来の水田六反を売り渡した売券。先祖相伝の所領であることを述べ、代価受領後は永年にわたり買主の所領とし、本名側から妨げない旨を定める。
前編1-No.308 大隅国守護所下文
小堀古細輝氏所蔵の正文に「あんとの御下文」として掲げられた文書。本文は承久三年十二月の日付と藤原の花押のみを載せる。
前編1-No.309 島津国史
『島津国史』の記事。貞応元年の朝廷・将軍頼経・島津忠久の年齢を記し、頼経が病を得た際に南庭で祈祷・検見を行い、忠久が申次を務めたことなどを月日順に述べる。
前編1-No.310 勾当僧蓮慶譲状
勾当僧蓮慶が忠久へ大隅庄方の検非違使惣官職を譲った譲状。鎌倉幕府成立当初に同職が補任された由緒と、庄官の訴訟・所務を忠久が奉行すべきことを述べ、蓮慶の後も惣官職を継承させる。
前編1-No.311 島津忠時譜
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。承久四年二月六日、南庭で大追物が行われ、若君頼経が御覧になり、小山新左衛門尉朝長・島津三郎兵衛尉忠義らが射手を務めたことを記す。
前編1-No.312 島津忠時譜
『島津忠時譜』の記事。本文を「全上」と記し、前掲No.311と同じ南庭大追物の記事を重ねて掲げることを示す。
前編1-No.313-1 島津忠久譜・旧譜
『島津忠久譜』旧譜の記事。承久四年三月八日の夜、若君頼経の悩みにより御所南庭で月曜祭が行われ、大夫季貞が奉仕し、島津左衛門尉忠久が沙汰したことを記す。
前編1-No.313-2 島津道仏譜
島津道仏公旧譜の記事。承久四年二月六日に南庭で大追物が催され、若君頼経が御覧になり、島津三郎兵衛尉忠義らが射手を務めたことを記す。
前編1-No.314 沙弥正西田地寄進状
沙弥正西が小川院二条六里垣本の田地を明王衆集院阿弥陀堂へ寄進した状。毎年二月の常楽会料田とし、正西の後生菩提を弔うこと、私領であるため子孫や地頭代官が妨げないことを定める。
前編1-No.315 関東下知状
関東が越前国守護について、前年の御下文に従って島津忠久が奉行するよう命じた下知状。散位大中臣用房が判を据える。
前編1-No.316-1 北条泰時書状
北条泰時が惟宗忠義へ送った仮名書状。忠義からの申し出を受け、三郎左衛門に関する処置や所務について同心して取り計らい、書状の趣旨を関係者へ伝えるよう求める。
前編1-No.316-2 伊地知季通考
伊地知季通による考証。承久元年に頼経が鎌倉へ下向した年齢、貞応元年十一月十五日に勲功者として左兵衛尉忠義へ宇賀所が与えられたことを挙げ、忠義の官位・年齢を推考する。
前編1-No.317 僧円慶田地売券
僧円慶が小川院二条六里垣本の田二段を売り渡した売券。代価受領と引渡しを記し、大菩薩経講田として師匠から譲られた由緒、雑公事の停止、買主の永年知行を保証する。
前編1-No.318 僧重慶田地相博状
僧重慶と覚栄が田地を交換した相博状。対象田が故妙月房覚仁の相伝所領で、処分状に基づくことを示し、後日の証文として双方が券契を取り交わす。
前編1-No.319 廻船式目
廻船の運航・積荷・海難処理を定めた式目。船主・船頭・船員・荷主の責任、荷物の積付けと帳簿、風波・座礁・火災・盗難時の損失分担、荷物投棄や救助費の共同負担、借船・傭船の契約、港での売買や配当などを条項ごとに規定する。
前編1-No.320 関東下知状
薩摩国羽島浦をめぐる相論の裁許状。相良兵衛尉長継方と忠友方の主張・証文を比較し、忠友が祖母大蔵氏尼からの譲状を有し、長年知行してきたことを認め、羽島浦を忠友に領知させる。
前編1-No.321 関東下知状
関東が勲功の賞として左衛門尉藤原忠義を近江国興福寺庄の地頭職に補任した下知状。現地で同職を執行するよう命じる。
前編1-No.322 関東下知状
関東が伊賀国守護使による長田庄への乱入を停止した下知状。前守護の時から使者不入の庄であるとの地頭の申立てを認め、大番役・謀反・殺害の沙汰を除き、守護使の入部を禁じる。
前編1-No.323 台明寺僧安慶解状
僧安慶が寺社勤仕の継承を求めた解状。樹王房覚有の譲状に基づき、御宝前の勤行五箇日、仁王講一口、法華経一口を勤仕することについて御判を賜るよう願い、代々の勤行実績と証文を根拠に裁許を申請する。
前編1-No.324 僧覚有譲状
僧覚有が弟子持乗房安慶へ寺社勤仕を譲った状。正宮御前の勤行五箇日、仁王講一口、法華経一口を譲与し、次第証文を添えて、覚有の死後も他人の妨げなく安慶が勤仕することを定める。
前編1-No.325 島津忠時譜
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。貞応二年八月十三日、若君の近習を六番に編成し、一番近習番の構成員として島津忠義が選ばれたことを記す。
前編1-No.326 関東御教書
伊賀国長田庄地頭の解状を受けた関東御教書。守護所使の狼藉について入部停止の下知が済んでいることを確認し、追捕された物は調査のうえ返付するよう武蔵守へ命じる。
前編1-No.327 関東下知状
関東が左衛門少尉藤原忠義を讃岐国櫛無保の地頭職に補任した下知状。先例に従って現地の沙汰を行うよう命じる。
前編1-No.328 島津忠久譜
『島津忠久譜』の記事。貞応三年十月十六日に天変を鎮める祈祷が行われ、島津左衛門尉忠久が奉行を務め、供料の沙汰にも関与したことを記す。
前編1-No.329 島津国史
『島津国史』の記事。元仁元年の改元と忠久・頼経らの年齢を記し、忠久が讃岐国櫛無保地頭職を務めたこと、天変祈祷で諸社へ奉行したこと、翌年の改元・官位等を年次順に述べる。
前編1-No.330 島津久経系図
島津久経を中心とする系図。忠継を山田氏の別祖とし、他腹のため家督を継がなかったこと、久経が初め久時と称し、修理亮・下野守を名乗ったこと、母を伊達判官入道念性の妹・西忍とすることを記す。
前編1-No.331 島津庄政所勘下文
島津庄政所が境神官らの違乱を停止した下文。神官等が根拠なく非論を起こし、軍家の成敗に反して政所下文を利用したとして、濫妨を止め、御成敗の趣旨に従うよう命じる。
前編1-No.332 僧覚栄寄進状
僧覚栄が寺院の十五日講料として竹原田六段等を寄進した状。師長覚仁や建部近方・紀中子らとの由緒、覚栄没後の勤仕と房・田地の扱いを記し、多数の藤原朝臣・伴朝臣らが証人として署判する。
前編1-No.333 津乃郷地頭代職補任下文
太田御庄沙汰人らが信濃国太田御庄津乃郷の地頭代職を補任した下文。左衛門尉惟宗忠義の代官として任用し、先例に従って郷内の沙汰を行うよう命じる。
前編1-No.334 信濃太田庄相伝系図
文庫所蔵の信濃国太田庄相伝系図。本文はNo.290と同じ系図であるため省略すると注記する。
前編1-No.335 島津忠久譜
『島津忠久譜』所収の記事。嘉禄元年十二月二十日、若君頼経が御移徙の儀で一点に出御し、後供奉三十人の一人として島津忠久が従ったことを記す。
前編1-No.336 僧覚明解状
僧覚明が水田三段を相博した解状。台明寺彼岸田の車田と倉原田三段を交換し、輪免などの条件を付して永年相博とすること、証文が副わない場合の扱いを定める。
前編1-No.337 山門院地頭所務和与状
山門院地頭所務の和与条項。狩倉開発地の両方開発を止めて本狩倉とすること、源次郎蘭・酒藤蘭の在家役と地利物を定め、半分ずつの進止や本家役の分担を取り決める。
前編1-No.338 関東下知状
山門院の狩倉・地頭得分をめぐる裁許状。領家分と地頭分の境界・役負担について双方の申状を検討し、元久・建暦以来の先例と下文に従って地頭代らに沙汰させ、新儀・非法や濫妨を禁じる。
前編1-No.339 島津国史
『島津国史』の記事。安貞元年に忠久が病を得て鎌倉で鬼気法を行ったこと、年齢・子女数・道仏公との関係を旧譜や系図から考証する。子の順序や母系について諸説を比較し、忠直を越前島津氏祖とする記述にも触れる。
前編1-No.340 某考証文
島津氏系図の異同を論じた考証文。寛永系図・道春編纂系図などを比較し、忠久・忠季らの親子・兄弟関係、出生年、薩摩下向年次の矛盾を指摘する。諸本の誤りや重複を整理し、忠久系譜の復原を試みる。
前編1-No.341 島津忠久譜
『島津忠久譜』の記事。「おもひきや今日まで命ながらへて三そし三とせの手向せんとは」とする忠久関係の歌を掲げ、本文書は『島津国史記事中』に挿入された旨を注記する。
前編1-No.342 島津忠久譜
『島津忠久譜』所収の『東鑑』記事。嘉禄三年四月十六日、将軍家頼経が御所南門で鬼気祭を行い、島津豊後守忠久が沙汰したことを記す。
前編1-No.343 島津国史
『島津国史』の記事。嘉禄三年六月十八日、雨天の辰刻に島津豊後守・従五位下惟宗朝臣忠久が脚気で死去したことを記し、法名道阿弥陀仏、光明寺殿などの追号・寺院関係を注記する。
前編1-No.344 島津家譜略
『島津家譜略』の記事。忠久が父祖の功業を受け、文武に励んで鎌倉で幕府に奉仕し、薩摩・大隅・日向の所領経営に当たったことを述べる。子孫が各地へ分かれて武名を広げ、伊賀・近江・讃岐などにも所領を得たとする。
前編1-No.345 島津忠久譜
『島津忠久譜』巻末の記事。忠久の官職・所領、鎌倉での奉公、薩摩・大隅・日向三国および伊賀・近江・讃岐の所領支配を述べる。諸系図・私記の差異を検討し、忠久・忠季・忠綱らの親族関係、出生年、母系、大友氏との関係、宇治川合戦後の一族の動向を詳述する。
前編1-No.346 島津忠久譜
『島津世家』巻二所収の島津忠久譜。忠久を源頼朝の庶子、母を比企能員の妹・丹後局とし、政子の嫉妬を避けた局が播磨国住吉の誕生石で出産し、狐火に照らされたとの出生伝承を記す。七歳で鶴岡八幡宮にて畠山重忠を加冠役に元服し、重忠の娘を妻とし、島津御荘地頭職と薩摩・大隅・日向三国守護職を得たとするが、薩摩下向…
前編1-No.347 島津忠久譜
忠久の没年・年齢、剣や法名・墓所に関する伝承を記した譜伝記事。
前編1-No.348 島津忠久譲状
島津忠久が信濃国太田庄内の惣政所・神代郷などの所職を左衛門尉忠義へ譲った状。忠義以外の者が妨げることを禁じ、永代に知行させる。
前編1-No.349 雑抄
『雑抄』の記事。嘉禄三年六月十八日に島津豊後守従五位下惟宗忠久が脚気で死去したこと、享年四十九、法名得仏・道阿弥陀仏、墓所を浄光明寺殿とする伝承を記す。
前編1-No.350 将軍家下文
将軍家が左衛門尉惟宗忠義に信濃国太田庄内神代・津乃の地頭職を安堵した下文。亡父豊後守忠久の譲状に任せて領知するよう命じる。
前編1-No.351 将軍家安堵下文
将軍家が左衛門尉惟宗忠義に、亡父忠久の譲状どおり薩摩国島津庄内の地頭・守護職、伊作庄、河辺郡・指宿郡、信濃国太田庄内小嶋・神代・石村・津乃など十二か所の所職を安堵した下文。
前編1-No.352 浄光明寺大概由緒書
浄光明寺の由緒書。島津氏の鼻祖忠久が三州御庄を受けて下国する際、相州藤沢清浄光寺の直末を勧請して松峯山浄光明寺を建立したとする。忠久の墓・御牌所、歴代住持、寺領・免許、伽藍再建、法会、島津氏歴代の位牌と法名を記す。
前編1-No.353 関東御教書
関東が薩摩国の郡司職相論について下した御教書。鹿児島小太郎康弘の申立てを受け、忠重・忠光らが合戦時に京方へ従ったとの主張を審理するため、関係者二人を四月以前に鎌倉へ召進し、裁許を受けさせるよう命じる。
前編1-No.354 島津国史
『島津国史』の記事。安貞二年七月二十三日、将軍頼経が駿河前司義村の田村山庄へ渡御し、島津忠時が後陣四十八人の一人として供奉したことを記す。頼経・忠時らの年齢と官職も注記する。
前編1-No.355 島津忠時譜
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。安貞二年七月二十三日、将軍家が駿河前司義村の田村山庄へ渡御し、辰刻に御出、供奉四十八騎の中に島津忠時が加わったことを記す。
前編1-No.356 島津忠久譜
北条泰時が三郎左衛門尉に宛てた仮名書状。申出の件は承知したが、関係者がなお申し立てるなら取り計らい、書状の趣旨を同心して処理するよう求める。
前編1-No.357 北条泰時書状
野辺文書に伝わる「あんていのもんそ」。本文はNo.356と同じ北条泰時仮名書状であるため、「全上」として重出を示す。
前編1-No.358 日向権門院田畠目録
幕府執権北条泰時が、日向権門院の田畠目録を御使兼留守の藤原朝臣に判定させたもの。権門院・掃部権助授書伝領分、荒田・常荒・見作田・損田を段別に掲げ、給黎院郡司兼泉庄弁済使僧保久らへ領掌を命じる。
前編1-No.359 肝付譜
肝付譜所収。鎌倉政所・問注所・侍所などの職員名と役職を列挙し、右兵衛尉伴保久、給黎院郡司、泉庄弁済使等の名を記す記事。
前編1-No.360 関東下文
関東が右兵衛尉伴保久に対し、亡父伴忠久の譲状に任せ、島津庄薩摩方内泉庄弁済使・給黎院郡司職を安堵し、先例どおり所務を行うよう命じた下文。
前編1-No.361 台明寺請文
台明寺が西光寺へ返牒した文書。寺家の訴えにより見性房を召し進めること、寺領荒野への新寺建立を停止させること、別当法印の処置などをめぐる主張と応答を記す。
前編1-No.362 八幡新田宮所司神官等起請文
八幡新田宮の所司・神官らが、神領の訴訟や神事、所役の執行について誓約した起請文。先例に背く濫妨や寄事を禁じ、違反時には神罰を受ける旨を掲げる。
前編1-No.363 平忠友譲状
平忠友が薩摩郡内成枝名の水田・屋敷・畠等を平忠富へ譲った譲状。四至や田積を列挙し、所領の範囲と相伝関係を具体的に示す。
前編1-No.364 僧知恵園田譲状
僧知恵が南郷門木山の園井田などを僧湛西へ譲り、本証文を添えて領掌させた譲状。後日の違乱を禁じ、相伝の根拠を明記する。
前編1-No.365 僧永範田地売券
僧永範が字山下田井倉原内の田一段を売却した売券。四至を示し、本主・公私の妨げが生じた場合は売主が弁償する旨を定める。
前編1-No.366-1 関東御教書
鹿児島中務丞康兼の訴えを受け、鹿児島太郎康村との鹿児島郡司職相論について、康村に陳状を提出させ対決を進めるよう命じた関東御教書。