後編2-No.1145文書
島津義弘書状
(文禄2年)6月22日
確認度中
概要
久四郎が上洛するとの知らせを受け、旅支度や随行者、京・大坂での手配がどのように進んでいるかを妻の宰相殿へ尋ねる。 朝鮮では「もくそ」攻め後の城番や兵の配置に追われ、自身も日本へ戻れない状況を伝えつつ、金銭・家中の用務・家族の安否を細かく気遣った義弘の私信。
登場人物
島津義弘、宰相殿、久四郎、毛利吉成、石田三成
宛先
宰相殿
キーワード
島津義弘、宰相殿、久四郎、毛利吉成、石田三成、上洛、京、大坂、もくそ城、城番、家族書状
冊子頁
708~709頁
読込量
大
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★★★★★
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(6)578~712頁(文禄元~文禄2).pdf
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採用済みの翻刻・訳文
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原文写し
管理人採用済み「義弘公御譜中」
「正文在加治木飛城権右衛門経秀」
其のちおとづれなく心もとなふこそ候へ、仍久四郎しやうらくのよし聞候、いかゝ調候哉、たよりのおりふしハ、たれく供つかまつり、打立の時分、又京大坂の間いつかたへ堪忍候や、こまくうけ給ひたく存計ニ候、
一此たひもくそはんくはん御せいはいと申て、をのくあか國へうちいられ候、われら事ハからうらいの人衆指合候みち筋の城に御はん仕候へと、あさのたん正殿・もりいきのかみとの・加とうかすへのかみとのたん合を以上おほせつけられ候、其のちの御しゆいんニ、しろせめの人数としてさきてにまいるへき人衆のかきたてニ、我等も入申候、其ふんに候ハ、日夜のふしたるへきと申事ニ候、
一むすめへもしをつなきたひといゝ、おひのなミも立かさなるニ付、いよくめづらしく存候、何とて此ころハことつてなどもなく候やとおもひまいらせ候、それよりねんころに御心得有へく候、
一久四郎しやうらくくうしん供いたす由聞え候、大炊助兄弟も此方ニ罷わたり候之あひた、心遣これより推はかり候、去なかから一入けんこにふうくう申候間、心安かるへく候、此よし肱枕女房へも心得有へく候、かしこ、
「朱カキ」
「文禄二年」六月廿二日
義ひろ
宰相殿
- 根拠・参照箇所
- geminiによる原文写し
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10
書き下し文
管理人採用済み「義弘公御譜中」
「正文加治木飛城権右衛門経秀に在り」
その後お訪れなく心元なくこそ候へ。仍(よっ)て久四郎(島津忠清)上洛のよし聞き候。いかが調(ととの)い候や。便りの折節には、誰々(たれたれ)供仕り、打ち立ちの時分、また京大坂の間いずれ方へ堪忍(かんにん)候や、細(こまや)かに承りたく存じ計りに候。
一、このたび目代判官(もくだいはんがん)御成敗と申して、各々(おのおの)赤国(あかくに=全羅道など敵国)へ打ち入れられ候。われらの事は韓(から)高麗の人衆指し合い候道筋の城に御番(ごばん)仕れと、浅野弾正(長政)殿・毛利伊賀守(吉成)殿・加藤右衛門大夫(嘉明)殿討ち合いを以て仰せ付けられ候。其の後の御朱印に、城攻めの人数として先手に参るべき人衆の書き立てに、我等も入り申し候。その分に候わば、日夜のふしたるべき(伏し腐るべき=奮闘・不眠不休となるべき)と申すことに候。
一、娘へも塩つなぎ(塩路・塩浜)旅といい、老いの波も立ち重なるにつき、いよいよ珍しく(恋しく)存じ候。何とてこの頃は言伝てなどもなく候やと思いまいらせ候。それより懇ろに御心得あるべく候。
一、久四郎上洛、空心(くうしん)供いたす由聞こえ候。大炊助兄弟も此方に罷り渡り候の間、心遣いこれより推し量り候。去りながら一入(ひとしお)堅固に奉公申され候間、心安かるべく候。このよし肱枕(ひじまくら)女房へも心得あるべく候。かしこ。
六月二十二日
義ひろ
宰相殿
- 根拠・参照箇所
- geminiによる書き下し文
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10
現代語訳
管理人採用済みその後、そちらからの便りが届かず案じられてなりません。ところで、久四郎(四男・忠清)が上洛する(京都へ向かう)と聞きました。準備はどのように整いましたでしょうか。手紙を出す折には、誰々がお供をし、いつ頃出発するのか、また京都や大坂のどちらの屋敷に滞在(身を寄せる)させるのか、詳しく聞きたいと思っております。
一、このたび(豊臣秀吉様の命令により)目代判官格の総攻撃(御成敗)として、各部隊が赤国(敵陣・全羅道など)へ攻め込むことになりました。私どもの役目については、朝鮮の軍勢と直接衝突する最前線の街道沿いの城を警備(御番)せよと、浅野弾正(長政)殿・毛利伊賀守(吉成)殿・加藤右衛門大夫(嘉明)殿らとの協議の上で命令を受けました。しかしその後の秀吉様からの御朱印状(指示書)では、城攻め攻撃陣の先鋒として赴くべき武将のリスト(書き立て)に、我々の名も入っておりました。そういう状況であれば、日夜を問わず不眠不休で奮闘(苦戦)しなければならないだろうと思っております。
一、(我が子の)娘(御下)のことも、塩路(旅路)の途上にいると聞き、私も年をとって思いが重なるにつれ、ますます恋しく思い出されます。どうして最近は伝言ひとつないのだろうかと(寂しく)思っております。(そちらから娘に)懇ろによろしく言い聞かせてやってください。
一、久四郎の上洛にあたり、空心が供をしていると聞きました。大炊助(頼久)の兄弟たちもこちら(朝鮮)へ渡ってきておりますので、そちらの気苦労やご心配のほども推察しております。とはいえ、彼らはひときわ手堅く(忠実に)奉公してくれておりますので、どうか安心してください。この旨は肘枕女房(留守居の侍女・側近)へもよく伝えておいてください。かしこ。
6月22日
義ひろ(島津義弘)
宰相殿(妻・実窓院)
- 根拠・参照箇所
- geminiによる現代語訳
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10