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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
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HP-0001 阿多若狭守
阿多若狭守は島津歳久に付属して旧地の地頭職を務めた。天文二十三年九月、岩剣での矢合わせに参加し、永禄六年には麓衆十一人の一人に数えられたと記される。
HP-0002 阿多新助
阿多新助は永禄七年、忠平公に供奉して飯野へ移った六十人の一人。本文は主君への供奉、移住年、移住先と人数だけを一行で伝え、役職、知行、軍役、家族関係、出生・没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0003 阿多内膳忠栄
阿多内膳忠栄は島津式部長寿院盛淳の子。幼少から惟新公に召し仕え、阿多甚左衛門家で成長したため阿多氏を称した。
HP-0004 阿多但馬守
阿多但馬守は日新公の家臣であったと記される。本文は奉公先だけを一行で伝え、実名、役職の具体的内容、知行、軍役、家族関係、出生・没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0005 阿多源六忠次
阿多源六忠次は朝鮮出兵に従軍し、番船が破損した際に戦死した人物。木原合戦の戦死者を記した資料には『阿多左衛門』として載るともいう。
HP-0006 阿多周防介忠春
阿多周防介忠春は忠真の子。天文二十五年六月十六日生、寛永七年三月五日没と記される。
HP-0007 阿多源左衛門忠真
阿多源左衛門忠真は、阿多飛騨守の子孫である刑部少輔忠明の子とされ、町田氏から分かれた阿多氏の系譜に属する。慶長七年四月十六日に死去し、法号は城斎宗意居士。
HP-0008 阿多勝右衛門忠増
阿多勝右衛門忠増は阿多周防介忠春の子。天正元年生、慶長十九年八月十八日に四十二歳で死去した。
HP-0009 阿多飛騨守
阿多飛騨守は、町田氏七代清久の三男を祖とする系統で、元久公の代に町田氏の舎弟が阿多志布志へ置かれたため阿多名字を称し、飛騨守久清と号したという。天文七年十二月二十九日の加世田城攻めでは城中へ走り入り、敵の大山内蔵助を討ち取った。
HP-0010 愛甲五左衛門
愛甲五左衛門は木崎原の合戦で戦死した人物。本文は姓名と戦死地だけを一行で伝え、合戦時の主君、軍中での役目、具体的な働き、家族関係、出生年、戦死年月日、知行高、法名・墓所は記載しない。
HP-0011 愛甲次兵衛
愛甲次兵衛は肥後から薩州知覧へ来住し、家久公に召し出された人物。本文には愛甲次右衛門との関係を示す注記があり、次項の次右衛門宗次は次兵衛の次男とされる。
HP-0012 愛甲次右衛門宗次
愛甲次右衛門宗次は愛甲次兵衛の次男。兄九郎右衛門に代わって家督を継いだとみられる。
HP-0013 綾部助兵衛
綾部助兵衛は秋月長門守の家臣で、日向美々津郡代を務めた。慶長十九年十二月、大坂の陣へ向かう家久公が豊後に着いた際、薩摩船が未着だったため船六十艘・水主三百人を用立てた。
HP-0014 安楽下総守
肝付一族・家臣の部に名前のみ載る下総守。経歴の具体的な記載はない。
HP-0015 安楽刑部少輔兼□
永禄年間の市成地頭。諱は本文でも兼□と欠字を含む。
HP-0016 安楽五郎左衛門兼惟
安楽五郎左衛門兼惟は朝鮮役に供奉し、関ヶ原合戦後の惟新公の退却にも従った人物。退却供奉の記事では『安楽小左衛門』とも記され、感状と三十石を与えられたという。
HP-0017 安楽大炊介
安楽大炊介は肝付家の庶流で、日州福島にいたという。岩屋城攻めで二之丸口を受け持ち負傷し、義久公から大炊介の名を与えられた。
HP-0018 安楽備前守
牛根地頭を務めた安楽氏。備前守と称した。
HP-0019 安重三蔵
安重三蔵は朝鮮へ渡海した人物。本文は姓名と渡海の一事だけを一行で伝え、奉公した主君、渡海年、所属部隊、役職、知行高、具体的な軍功、家族関係、出生・没年、法名・墓所は記載しない。
HP-0020 安新為定
安新為定は明国出身の人物で、日本では医師を務めたと記される。本文は出身地と職掌だけを伝える一行記事で、渡来の時期・事情、仕えた主君、居所、知行、医療活動の具体例、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0021 安田次郎兵衛
安田次郎兵衛は島津彰久の家臣。朝鮮で虎狩りが行われた際に虎を仕留め、島津家久から手柄を賞され、御前で備前兼光の二尺五寸の腰物を与えられたという。
HP-0022 安藤権右衛門
安藤権右衛門は朝鮮役に供奉し、南原城攻めでは上床国隆とともに城へ乗り込んだ人物。慶長六年に蒲生城内へ召し移され、その後、平松を経て加治木へ移った。
HP-0023 安藤左近茂昌
安藤左近茂昌は貴久公以来の安藤氏の系譜に属し、肝付氏との合戦で軍功を挙げた人物。龍伯公が太平寺へ出御した際には御輿を担ぎ、知行五石を与えられた。
HP-0024 安田金之丞
安田金之丞は加治木の卒将と記され、弘治元年三月八日に帖佐山田の戦いで戦死した。本文は所属、戦死年月日、戦場だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、具体的な戦闘経過、家族関係、法名、墓所は記載しない。
HP-0025 伊佐敷久基
伊佐敷久理の子。百石を給され出水へ移り、佐多氏を称した。慶長2年、佐多久慶の軍代として佐多久英に付き朝鮮へ渡海。
HP-0026 伊佐敷久理
左近将監伊佐敷久理。天正14年に久政とともに豊後へ従軍し、翌15年3月14日に久政と同所で25歳で戦死。法号清居士。
HP-0027 伊佐敷猛久
佐多忠将の家臣、伊佐敷又九郎猛久。為久の弟で、弘治2年12月24日、蒲生馬立で28歳で戦死。法名慶室道善。
HP-0028 伊作久次
与吉郎。太郎兵衛久国の子で、高麗で戦死したと記される。祖父久吉・曾祖父忠房らの系譜を載せる。戦死年月日は不記載。
HP-0029 伊鹿倉忠兼
織部丞。豊前忠長の子、豊前忠年の父。代々北郷家に仕えた家の系譜に記される。弘治2年の戦死記事は祖先久宣のもの。
HP-0030 伊集院久慶
伊集院久慶は刑部少輔。永禄十年十二月二十九日、菱刈攻めの市山城在番中、西之原川のほとりで主従五人が戦死した。記事は子忠光・久武の軍歴へ続く。
HP-0031 伊集院久元
久治の子、半右衛門。琉球出兵で国分方の物頭として渡海し、御使役を務めた。大坂出陣人数は六十人、国分高帳の高は二千七百五十五石余。
HP-0032 伊集院久次
民部少輔久続の子、兵部少輔。記事は子久継から養子・子孫の系譜を記す。岩剣や岩屋での戦死は子孫の事績で、本人の軍功・没年は記されない。
HP-0033 伊集院久治
福島地頭・御使役・家老を務め、合志では顔に傷を負いながら敵将を討った。朝鮮で義弘の援軍物主、泗川で組頭を務め、慶長十二年に七十余歳で病死した。
HP-0034 伊集院久宣
伊集院久宣は美作守、忠胤の三男。清嶽地頭や熊本在番を務め、家久配下で豊後へ出陣し、天正十五年に五十八歳で戦死した。
HP-0035 伊集院久族
伊集院久族は遠江守、久春の子。父と肥後で戦い、自ら敵を討った。飯野地頭職を継いで朝鮮へ渡り、泗川では朱威の鎧を用いたと記す。
HP-0036 伊集院久道
伊集院久道は下野守・治部少輔、入道魯笑。帖佐合戦で貴久に合戦継続を進言し、加治木への計策伝達や高原陣にも従事した。
HP-0037 伊集院五兵衛
忠真の一族・家臣の安永城の人物群に載る伊集院氏の人物。
HP-0038 伊集院三河
田尻但馬に加担し、大隅の姶良で誅された。
HP-0039 伊集院三河入道竹圃
大崎地頭。天正元年正月六日、住吉原で戦死した。
HP-0040 伊集院三郎五郎
忠棟の三男で肝付兼寛の養子。加治木三郎五郎兼三と称し、朝鮮へ出陣。父の事件後に肝付家を離れ、のち谷山で殺されたと記す。
HP-0041 伊集院山城守
出水の兵として実久の命で谷山神前城を守った七人の一人。天文八年三月二十四日に貴久へ降参した。
HP-0042 伊集院宗右衛門
滝聞平三郎とともに恒吉城の人物群に載る伊集院氏の人物。
HP-0043 伊集院小伝次
忠棟の次男。忠真条には、富隈に置かれ、兄の処刑と同日に同地で斬られたと記す。
HP-0044 伊集院甚吉
忠真の一族・家臣の財部城の人物群に、猿渡肥前守と並んで記される。
HP-0045 伊集院千次
忠棟の四男。忠真条には、兄の処刑と同日に三郎五郎と谷山村で殺されたと記す。
HP-0046 伊集院掃部介
幸侃の弟。春成、一忠斎と注記され、忠真の一族・家臣の志和地城の人物群に載る。
HP-0047 伊集院忠次
伊集院忠次は又七郎、周防介忠胤の嫡子。伊集院竹山で二十二歳で戦死した。伊集院善太夫は子孫として付記される。
HP-0048 伊集院忠真
忠棟の嫡子。久保に従軍し、泗川で軍功を挙げた。父の死後は都之城で抵抗し、降伏後に頴娃一万石を与えられたが、慶長七年に日向野尻の狩場で誅された。
HP-0049 伊集院忠倉
孤舟(忠朗)の嫡子。貴久の御使役から家老となり、加治木で北風を利用して火箭で敵陣を焼いた。弘治三年には蒲生出陣に供奉した。
HP-0050 伊集院忠棟
義久の国老。日向石ノ城の副将、肥後・筑紫の軍役を務め、秀吉西征時の和談と人質入陣に携わった。都之城を領し、のち伏見の忠恒邸で刺殺されたと記す。
HP-0051 伊集院忠能
兵部少輔。川崎源太夫・相良八郎左衛門とともに末吉城の人物群に載る。
HP-0052 伊集院忠朗
日新公の家老・軍配役。上之山地頭となり、宮内・飫肥への援軍や加治木・岩剣攻めを担った。姫木城では北原方の番兵三十余人を国境へ送り返した。
HP-0053 伊集院如松
忠真の一族・家臣の安永城の人物群に、五兵衛に続いて載る。
HP-0054 伊集院如辰
如辰入道と記され、朝倉十助らとともに勝岡城の人物群に載る。
HP-0055 伊勢上総介
筑前に住み、細川幽斎の依頼で竜伯に召し抱えられ五百石を得た。高帳には伊勢上総跡の記載がある。
HP-0056 伊勢貞昌
伊勢貞真の二男、新納忠元の外孫。豊後・小田原・朝鮮に従軍し、南海島の残兵救援を手配した。家久・光久の御使役として幕府と折衝し、江戸で病没。葬所は二本榎の広岳院。
HP-0057 伊勢貞昭
島津家久の十三男、伊勢鶴丸。貞豊の早世後、貞昌の申し出で伊勢家の継嗣となった。家老・谷山地頭を務め、寛文三年に江戸で病没した。
HP-0058 伊勢貞真
忠平の家老・飯野地頭。羽月で首を取り、木崎原では飯野城を守る。朝鮮渡海の翌年に病没し、墓所は飯野長善寺と記す。
HP-0059 伊勢貞成
義弘の家老・地頭。朝鮮に従軍し、関ヶ原では軍奉行として撤退を先導した。寺沢家との交渉後、志岐浦の茶亭で争闘となり、慶長十二年に三十九歳で没した。
HP-0060 伊勢貞清
貞成の子、左近。御側御小姓から御馬廻となり、子孫に伊勢仁左衛門を挙げる。
HP-0061 伊勢貞則
上総の養子で、有川助兵衛貞春の実子。郡山地頭を務め、島原出陣の記事がある。
HP-0062 伊勢貞長
貞成の嫡子、美濃守。母は伊東権頭の娘と記し、牛根地頭・寛永三年の恒吉地頭を務めた。母方系譜には推定・伝聞を含む。
HP-0063 伊勢貞豊
貞昌の子、大隅守。弥九郎名義で大坂へ家来十五人を伴い出陣。寛永元年四月二十日に三十一歳で没したと記す。
HP-0064 伊丹道甫
堺で道三に医術を学び、病気の師に代わって惟新の大垣行きに同行した伊丹道甫師親。薩摩で120石を受け、のち加治木へ移り、寛永2年没。
HP-0065 伊地知伊賀守
重興の家長。元亀二年の鹿児島侵攻で大将を務め、滝ヶ水で銃弾を受けて負傷した。
HP-0066 伊地知左衛門尉
伊地知左衛門尉は大永三年に高城で戦死。子・弟らの戦死と、後裔重辰・重賢・重南の使者、軍役、奉行・地頭歴を伝える家伝。
HP-0067 伊地知重貞
大永七年に実久方として伊作東城を守った左近将監。同年七月十三日、日新公に城を落とされて死亡した。
HP-0068 伊地知重興
伊地知重興は重武の嫡子。肝付・禰寝氏と島津氏に敵対したが、天正二年に降参して所領を返され、以後は高原城攻め・佐土原番・大友氏との戦いに従った。
HP-0069 伊地知重近
又十郎、入道世休。新納忠元付きの郷士で、家臣ともいう。忠元に殉死し、法号は龍翁世休居士と記す。
HP-0070 伊地知美作守
小浜城の守将。諱を示す小注は末字の判読を保留している。
HP-0071 伊地知重賢
天文二十二年生。水俣出陣では十三歳の家嫡を後見し、豊後入り・戸次城攻めでも軍功を挙げたと記す。
HP-0072 伊地知重高
備後守重康の二男。関ヶ原で戦死した。養子重延は重賢の二男で、島原での軍功と明暦三年の没年を付記する。
HP-0073 伊地知重次
重政の子。十五歳で豊後へ出陣し、義久の使者や忠長の老中役を務めた。朝鮮で番船が破られた際に討死したと記す。
HP-0074 伊地知重宗
忠仍に仕えた槍術家、入道無山。十八歳から武者修行を行い、嫡子重友へ伝授後に再上京し消息不明となったと記す。
HP-0075 伊地知重秀
竜伯公の御申口役・地頭として各地に従軍し、惟新公への守護代委譲の使者を務めた。文禄三年に蒲生で病死。嫡子重元の朝鮮戦死と区別する。
HP-0076 伊地知朝重
大膳朝重。川内東郷生まれで、下大隅の合戦で福崎和泉守重純を討ち取ったと記す。国分鳥越で八十二歳没。子重時の軍功と切腹を付記。
HP-0077 伊地知重昌
加賀守。大山公に奉公し、天正十五年七月二十四日没。本文は重徳・重増・重鑑・重詮へ続き、各代の戦死、朝鮮渡海、褒賞、大坂の普請奉行を伝える。
HP-0078 伊地知重常
重辰の嫡子。帖佐新城の包囲を父命で突破し、貴久代に伊集院油須木地頭となった。記事は子重康から重賢・重政の軍役や奉行歴まで続く。
HP-0079 伊地知重成
日新公に奉仕し高橋一所を与えられ、日新・大中両公の盟書を受けた人物。子重隆の高原出陣・三納地頭と戦死を付記する。
HP-0080 伊地知重政
伊地知重政は重興の子で、和歌を好み早く入道した。本文には嫡子重順の軍功、朝鮮渡海、知行没収と復帰、高岡・倉岡での役職が詳しく記される。
HP-0081 伊地知重貞
加治木地頭。実久方に与して大永七年五月に誅され、嫡子の重兼も自殺した。
HP-0082 伊地知重武
伊地知重武は重周の嫡子で、勝久の家老。天文五年に垂水を加増され、貴久の市来攻めに出陣した。天文十六年、四十二歳で没した。
HP-0083 伊地知重頼
重成の二男。兄重隆の戦死後に家督を継ぎ、上洛と朝鮮出兵に供奉。慶長二年十一月十八日、朝鮮で番船が破られた際に戦死したと記す。
HP-0084 伊地知太郎兵衛
朝重の四男。琉球へ筆者として渡り、横目を務めて明国へ二度渡航。琉球国王から当摩村地頭と高三十石を与えられたと記す。
HP-0085 伊東右衛門助
羽月飛田瀬・水俣・八代などで軍功を挙げ、新納忠元への開城使者を務めた伊東右衛門助。子喜左衛門・孫祐貞の奉公も付記される。
HP-0086 伊東玄宅
常陸坊の三男。13歳で高麗へ向かい、泗川で忠恒公への給水・太刀持ちに働く。家久公江戸参府に供奉し、慶長20年に出水境役。
HP-0087 伊東祐辰
御船奉行・兵具役として朝鮮へ渡り、兵糧出納と帰国後の旅代官などを務めた伊東祐辰。寛永19年7月6日没。
HP-0088 伊東祐豊
川崎氏から伊東氏の養子となり、惟新公に千石で召し出された祐豊。加治木勢の差立てと京・大坂蔵奉行を務めた。
HP-0089 井上主膳
長寿院盛淳の家来。19歳で関ヶ原へ赴き、槍傷で盛淳とはぐれた。京都・南部を経て伊賀の中野興左衛門に奉公し、のち帰国。
HP-0090 井尻九郎左衛門
加世田の人物として記され、天正15年の義久公上洛に御供した井尻九郎左衛門。
HP-0091 井尻九郎兵衛
伊作衆で、貴久公の「御年比衆」の一人と記される井尻九郎兵衛。
HP-0092 井尻四郎
天文8年6月17日の貴久公による市来平城攻略で、城主島津中務少輔を討ち取ったと「勲功記」を引いて記す。
HP-0093 井尻主税助
天正8年11月、肥後合志城下の「久保田千町放火」の際に軍労があったと記される人物。
HP-0094 井尻宗憲
日新公の命で22年間六十余州を巡り法華経を奉納した神力坊。帰国後に真幸院の一所を賜る。殉死年には本文自身の疑義がある。
HP-0095 井尻小吉
本文は「同断」。直前の九郎兵衛の記事を受け、伊作衆・貴久公御年比衆の一人と読める。
HP-0096 井尻常陸坊
常陸出身で神力坊の猶子となり薩摩へ下った。飯野の軍談合・出水境目役、肥後・豊後の軍役に従事。慶長19年病死。二人の子の戦死を付記する。
HP-0097 井尻太郎
「天正十三年比ノ人」と記される井尻氏の人物。具体的な奉公・軍役や生没年は不記載。
HP-0098 井尻伝次
文禄2年に朝鮮へ渡海。本文が引く「朝鮮軍記追加」に、歩小姓として従軍したと記される。
HP-0099 井尻等意
元和六年の高帳を引く小注に、御医師と記される人物。
HP-0100 井尻八郎
文禄2年に慈眼寺公に従い朝鮮へ赴き、南海瀬戸で戦死。慶長2年4月24日の御番帳にも第9番目に名があると注記する。