HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
伊地知重秀
異名・検索語:伊地知重秀/伊地知伯耆守重秀/伯耆守
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:入道名は増也に見えるが字形を留保する。旧悟也・梅也を確定値として踏襲しない。父又八と季随・道鑑公・田島氏への改姓由緒の系譜接続も留保。/蒲生の菩提所の寺号、重元の法号・孫の諱の細字を留保。興国寺の墓を重秀の墓としない。/末尾朱書の天正六年の島津以久への諫言と十五年の上京・蒲生への御使記事は、直前の二男付記との主体接続に留保があるため本人説明へ採用しない。
DESCRIPTION
本文内容説明
伊地知重秀は又八の子で、伯耆守。竜伯公(義久)の御申口役(御使役ともいう)を務め、阿多・姶良・肥後湯浦・蒲生などの地頭となった。天正四年の高原、六年の佐土原・耳川、九年の水俣、十二年三月の島原に従軍。同年、竜伯公から惟新公(義弘)への守護代委譲の使者を島津忠長・町田久倍とともに務めた。十四年の岩屋城攻めでは名代として在陣。蒲生に菩提所を建て、文禄三年五月十九日に蒲生で病死した。嫡子重元も島原・岩屋に在陣し、朝鮮へ蒲生衆と家臣四十三人を率いたが、文禄元年六月十七日に戦死した。家臣についても中間・槍持ちまで数十人が戦死したと記す。興国寺の墓は重元のもの。孫の馬術伝授・普請奉行や二男の従軍の付記は、重秀本人の事績と区別する。
系譜・人物関係
伊地知又八の子。嫡子は勘解由左衛門尉重元(初又八)。孫の勝八、二男隼人佐(平次郎)とその子孫の記事が続く。父系小注の接続と孫の諱は留保。
奉公・役職
竜伯公の御申口役(御使役ともいう)、阿多・姶良・肥後湯浦・蒲生地頭。守護代委譲の使者。孫の普請奉行は本人の役職としない。
軍役・事績
高原・佐土原・耳川・水俣・島原に従軍。天正十二年島津忠長・町田久倍と守護代委譲の使者。十四年岩屋には名代在陣。蒲生に菩提所建立。
生没・法名等
本人は文禄三年五月十九日蒲生病死。重元は文禄元年六月十七日朝鮮戦死、興国寺に墓。家臣の戦死は数十人、旧十八人は誤読。
- 統合人物ID
- HP-0075
- 原人物ID群
- 01-005-01
- 氏・分類
- 伊地知
- 掲載巻頁
- 巻1:5~6
- 主題・活動
- 御使役・地頭・守護代委譲使者・蒲生没
- 人物関係要約
- 伊地知又八の子。嫡子は勘解由左衛門尉重元(初又八)。孫の勝八、二男隼人佐(平次郎)とその子孫の記事が続く。父系小注の接続と孫の諱は留保。
- 検索キーワード
- 伊地知/重秀/伯耆守/重元/御使役/阿多/姶良/湯浦/蒲生/高原/佐土原/耳川/水俣/島原/岩屋/竜伯/惟新/忠長/久倍/守護代/蒲生病没/朝鮮戦死/四十三人/数十人/興国寺/御申口役
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 通常AI各全2頁・原冊5~6頁・拡大照合済。本人病没と嫡子朝鮮戦死を区別。
- 公開判定根拠
- 役職・軍役・病没を整理し家臣戦死数を訂正。父系注・法号等細字・末尾朱書の主体の疑義を注記して公開する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- 通常AI各2頁は冊子5頁下段の重秀見出しから6頁上段右端の御使来蒲生地頭まで。前条の寺社奉行小注と後続越後守重実見出しを含まない。嫡子・孫・二男の付記は親族の関連記述。境界変更の必要は現時点で認めない。 独立した一・〇による別見出しではなく親族付記として保持し、新規採番・PDF変更なし。
- 判読保留
- 入道名は増也に見えるが字形を留保する。旧悟也・梅也を確定値として踏襲しない。父又八と季随・道鑑公・田島氏への改姓由緒の系譜接続も留保。/蒲生の菩提所の寺号、重元の法号・孫の諱の細字を留保。興国寺の墓を重秀の墓としない。/末尾朱書の天正六年の島津以久への諫言と十五年の上京・蒲生への御使記事は、直前の二男付記との主体接続に留保があるため本人説明へ採用しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』