HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
伊東祐豊
異名・検索語:伊東祐豊/伊東駿河守藤原祐豊/駿河守/祐豊
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:中納言様の実名比定は留保。/養父平右衛門の系譜の「祐国二男」「伊東加賀守子」の関係は確定しない。/祐平の官途は右衛門に左の旁注があり、表記を一本化しない。/吉武地頭の伝聞は人学家督イタシの前後が曖昧なため担当者・時期を断定しない。
DESCRIPTION
本文内容説明
伊東祐豊。伊東氏家臣の川崎駿河守の子で、伊東平右衛門の養子となった。慶長年間、稲津掃部との不和で飫肥を離れ、大坂にいた父を頼る。惟新公に召し出され千石を与えられ、川崎姓に戻った。慶長19年の大坂陣では新納雅楽介と加治木勢の差立てを担当。その後、新納右衛門佐と京・大坂の蔵奉行を務め、寛永元年に再び伊東姓を称した。中納言様を自宅に二度迎え、和歌を鋳付けた茶釜を拝領したという。子の祐秀は7歳から惟新公に近侍し、11歳の狩猟で鹿を仕留めて鉄砲などを拝領、15歳で家久公に供奉して江戸へ上った。孫の祐平は京都の飛鳥井家で蹴鞠を学び、十八人賦と地頭職を与えられた。祐豊の没年・没地は不記載。
系譜・人物関係
実父は伊東氏家臣川崎駿河守。伊東平右衛門の養子。子は九左衛門祐秀、孫は刑部右衛門祐平(左の旁注)。平右衛門祐氏は伊東六郎左衛門祐国二男・伊東加賀守子と記すが系譜表現の関係を留保。
奉公・役職
本人は惟新公に召出され千石拝領。川崎姓に復し寛永元年伊東姓に復す。新納右衛門佐と京大坂蔵奉行。祐秀は慶長16年7歳から惟新公御側、信国脇指拝領、元和5年15歳家久公江戸供奉。祐平は京都飛鳥井家弟子、十八人賦・地頭職。任地不記載。
軍役・事績
稲津掃部と不和、飫肥を退き大坂の父を頼る。慶長19年大坂御陣に新納雅楽介と加治木人数差立て。中納言様二度御成、和歌鋳付茶釜を拝領。和歌は釣ラルトモフスヘラルトモ心カラヨシヤアシヤハ人ノ言ナシ。子祐秀は元和元年向嶋武村の狩猟で11歳で鹿を仕留め鉄砲一挺・獲物鹿・惟新判の書・備前盛次長一尺四寸の腰物拝領。鹿93疋は当日の総猟果で子の単独猟果ではない。
生没・法名等
本人・子・孫の没年・没地・享年・法名は不記載。祐秀7歳・11歳・15歳は奉公時の年齢。
- 統合人物ID
- HP-0088
- 原人物ID群
- 01-018-03
- 氏・分類
- 伊東
- 掲載巻頁
- 巻1:18
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 実父は伊東氏家臣川崎駿河守。伊東平右衛門の養子。子は九左衛門祐秀、孫は刑部右衛門祐平(左の旁注)。平右衛門祐氏は伊東六郎左衛門祐国二男・伊東加賀守子と記すが系譜表現の関係を留保。
- 検索キーワード
- 伊東祐豊/駿河守/川崎/伊東平右衛門/稲津掃部/飫肥/惟新/千石/加治木/新納雅楽介/新納右衛門佐/京大坂蔵奉行/茶釜/祐秀/祐平/向嶋武村/飛鳥井/蹴鞠
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- AI・通常各全2頁確認。本文は1頁目、2頁目はほぼ余白。原冊18頁と細字照合済み。
- 公開判定根拠
- 祐豊の離郷・召出・復姓・蔵奉行と子孫の狩猟・蹴鞠を分離し、細字系譜と中納言の比定は注記して公開可。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- 旧AI・通常各全2頁と原冊18頁(第1分冊29頁)を確認。1頁目の一伊東駿河守藤原祐豊から子孫伊東九左衛門新八郎まで原冊上段の連続記事を全て含む。2頁目はほぼ余白で本文の継続はない。其子祐秀・其子祐平は親子の付記で独立人物見出しではない。次の伊東肥後守祐辰は原冊下段の新見出しで対象外。本文欠落・有意な前後本文混入なし。既存全2頁・両PDF・ID・旧OCRを維持。
- 判読保留
- 中納言様の実名比定は留保。/養父平右衛門の系譜の「祐国二男」「伊東加賀守子」の関係は確定しない。/祐平の官途は右衛門に左の旁注があり、表記を一本化しない。/吉武地頭の伝聞は人学家督イタシの前後が曖昧なため担当者・時期を断定しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』