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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 401~500件・5 / 22ページ
HP-0404 郡山兵部左衛門武清
郡山兵部左衛門武清は天文七年生。本文は郡山氏の祖先から八代にわたる系譜を掲げ、永禄年間に薩州へ属して福島に居住したと伝える。
HP-0405 郡山六左衛門隆憲
郡山六左衛門隆憲は惟新公に仕え、朝鮮出兵に供奉した人物。本文は奉公先と朝鮮渡海だけを一行で伝える。
HP-0406 祁答院左近
都城内の人物群に載り、忠真の軍配者と読める小注がある。役職語は要確認。
HP-0407 祁答院重加
河内守、入道加雲斎。巻十三は後年、島津義久に仕えたと記す。
HP-0408 祁答院重経
良重の嫡子。天文二十三年十月二日、岩剣の戦いで戦死した。
HP-0409 祁答院重次
祁答院半次重次は祁答院重加の養子で、実父は木田半兵衛。水俣陣では御近習二十人の一人として供奉し、朝鮮出兵と関ヶ原合戦にも従軍して、功により感状を与えられた。
HP-0410 祁答院重武
宮之城を本拠とし、帖佐の諸城を攻略した。天文四年には薩府へ出兵したが、神前城外で敗れて退いた。
HP-0411 祁答院重房
祁答院次郎兵衛重房は祁答院重次の養子で、実父は谷山周防重政。元和年間に所領七十石余を有し、入来院の一家とされて渋谷へ改姓したと記される。
HP-0412 祁答院良重
加治木・帖佐で島津氏に抗戦した領主。嫡子を岩剣救援で失い、永禄九年には妻に刺殺されたと記される。
HP-0413 慶頓坊
文禄二年に忠恒に供奉して朝鮮へ渡海したと記される。
HP-0414 桂久盛
桂久盛(山城守)。忠秀の子で、百石を受け、江戸使者として将軍に拝謁したが、寛永七年に江戸で二十九歳没。
HP-0415 桂忠次
桂忠次(三郎兵衛尉)。忠詮の嫡子で、父とともに朝鮮へ渡り、慶長三年の番船破損時に二十一歳で戦死した。
HP-0416 桂忠秀
桂忠秀(民部少輔)。忠詮の二男で、島津義弘の小姓として朝鮮へ渡り、加増を受けて知行百石となった。
HP-0417 桂忠俊
桂忠俊(常陸介)。島津氏から分かれた桂氏の系譜中に記され、本人記事は諱と家系の確認が中心。
HP-0418 桂忠詮
桂忠詮(太郎兵衛尉)。平佐城で豊臣方七千余の攻撃を防ぎ、のち宇喜多秀家を駿河へ護送した平佐・高山地頭。
HP-0419 月之木美作守
月之木美作守。初名を藤太夫といい、島津義弘に仕えた。
HP-0420 月之木兵部左衛門
月之木兵部左衛門。初め新太郎と称した。
HP-0421 月野大膳
月野大膳。関ヶ原からの島津義弘退却に随行し、感状と知行を与えられ、のち谷山に住んだ。
HP-0422 検見崎兼泰
元亀頃の岸良地頭。常陸守と称した。
HP-0423 桑原与助
桑原与助は加治木の人で、朝鮮役に供奉したと記される。出身・居住地と海外軍役を伝える短い記事で、役職、具体的な戦闘、知行、家族関係、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-0425 古河五郎
古河五郎は金吾歳久公に殉死した二十七人の一人。法号を静麟守浩上座と記す。
HP-0426 古河主兵衛
古河主兵衛は惟新公の高麗出兵に供奉した人物。本文は朝鮮出兵への従軍だけを伝える短い記事で、実名、役職、知行、個別の戦功、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0427 古垣忠時
大炊介、入道紹斎。忠真の一族・家臣の野々美谷城の人物群に載る。
HP-0428 古垣大炊助
古垣大炊助は、薩州家の島津薩摩守義虎の家老であったと記される。本文は主君と家老職だけを伝える短い記事で、実名、知行、具体的な奉公・軍役、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0429 古垣忠興
与兵衛尉。忠真の一族・家臣の野々美谷城の人物群に載り、忠時とは別項をなす。
HP-0430 古江兵衛実秀
古江兵衛実秀は惟新公の高麗出兵に供奉した人物。本文は朝鮮出兵への従軍だけを伝える短い記事で、役職、知行、個別の戦功、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0431 古市土佐守義時
古市土佐守義時は古市長門守実清の四男。川東氏の養子となって川東善左衛門と称したが、兄三人が早世したため養子縁組を改め、実父の跡を継いだという。
HP-0432 古市実清
古市長門守実清は足利氏支流・斯波氏の後裔を称し、古市甲斐守の子。出羽最上氏と同族であるとして最上氏へ申し入れ、最上姓を称したという。
HP-0433 古川伊予守
古川伊予守は天正二年、忠平公の使者として川上左京とともに勤めたことが、上井覚兼の日記に見えるという。本文は使者役と同僚の名を伝えるが、使節の目的・行先、実名、知行、軍役、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0434 戸次義貞
戸次半兵衛、入道伴斎。豊後入りの際に降参し島津家臣となった摂津純貞の子。父の経歴と本人の事績を区別する。
HP-0435 五代舎人佐友安
五代舎人佐友安は五代友慶の三男で、元亀三年生。父友慶が木崎原合戦の褒美に得た新恩地二百石を庶子分として与えられたという。
HP-0436 五代右京亮惟宗友慶
惟新に従って飯野へ移り、御使役・家老役や馬関田地頭を務めた。木崎原合戦で戦功を挙げ、小田原陣に供奉。関ヶ原後の長島警衛でも褒賞された。
HP-0437 五代仲兵衛友光
五代仲兵衛友光は五代友泰の次男で、慶長十一年五月生。母は兄友貞と同じで、友貞に子がなかったため家督を継いだと記される。
HP-0438 五代勝左衛門友泰
五代勝左衛門友泰は五代友慶の子で、永禄十一年生。父とともに久保公の小田原陣に供奉し、二十三歳で高麗へ渡った。
HP-0439 五代主水佐友貞
五代主水佐友貞は五代友泰の子。文禄三年三月に生まれ、母は祁答院氏と記される。
HP-0440 後醍院淡路守源宗重
肥後八代生まれ。相良・佐々・小西の各家に仕え、朝鮮での軍役後に義弘に奉公。関ヶ原退却では木脇祐秀と殿を務めた。
HP-0441 後醍院半右衛門宗制
後醍院半右衛門宗制は後醍院淡路守源宗重の嫡子で、母は愛甲氏の娘。父と同じく朝鮮で軍功があり、慶長三年に薩州へ来て知行二百石を与えられた。
HP-0442 光厳上人
飯野白鳥山中興六世住持。木崎原合戦時に門前の者・牢人約三百人を率い、伊東軍を退けたと伝える。
HP-0443 厚地三兵衛
厚地三兵衛は朝鮮役に供奉した人物。阿久根為兵衛・島津河内守忠倍に関する殉死者三人の一人とも記される。
HP-0444 厚地彦右衛門
厚地彦右衛門は、子の彦次郎と父子で朝鮮へ渡海した人物。本文は『厚地彦右衛門、同彦次郎父子高麗渡海』と一行に二人をまとめて記す。
HP-0445 厚地彦次郎
厚地彦次郎は厚地彦右衛門の子で、父とともに朝鮮へ渡海した人物。本文は『厚地彦右衛門、同彦次郎父子高麗渡海』と一行に二人をまとめて記す。
HP-0446 広場休蔵重綱
広場休蔵重綱は秀吉旗本の広場三河守の三男。義弘の鷹師となり、朝鮮・伏見・関ヶ原帰国に従った。後に加治木へ移り鈴木姓を称した。
HP-0447 恒吉金藤兵衛
恒吉金藤兵衛。伊作家流恒吉氏の嫡流で、永禄七年に島津義弘に従って加治木から飯野へ移った。
HP-0448 恒吉清兵衛
恒吉清兵衛。金藤兵衛の子で島津義弘に仕え、加治木に住み、元和七年に八十一石余を持った。
HP-0449 江夏小内記
江夏小内記は二閑の二男とみられる人物。持高百三十六石で、又八郎忠朗に召し付けられたと記される。
HP-0450 江夏友賢
江夏友賢は明国江夏の人で、乱を避けて日本へ渡り京都に住んだ。易学に通じて参内し、禁裏で筮竹・算木を用いたという。
HP-0451 江口作兵衛
江口作兵衛は惟新公の中門衆。関ヶ原からの退却時、小川与三右衛門と二人で御鞍を持ち帰ったと記され、その褒美として感状と知行十石を与えられた。
HP-0452 江田諒助兼吉
江田諒助兼吉は江田安芸守兼清の子。庄内陣と大坂の陣の二度に出陣したと記される。
HP-0453 江田安芸守兼清
江田安芸守兼清は江田兼平の子。足軽大将を務め、諸戦で軍功があり、市来に居住した。
HP-0454 江田三郎右衛門兼定
江田三郎右衛門兼定は江田諒助兼吉の子。寛永十五年に島原へ出陣したことだけを伝える短い記事である。
HP-0455 江田安芸守兼平
江田安芸守兼平は小野小太郎家綱の後裔とし、島津家久公の代に薩州日置地頭を務めた。本文は、祖先が内裏大番役などを勤め、後裔家房が肥前松浦から日向へ移り、建武の乱で肝付兼重に従って戦死したため、その子に伴姓と「兼」の字が許されたという家伝を載せる。
HP-0456 江浪彦三郎
江浪彦三郎は関ヶ原からの退却に供奉した人物。その働きにより感状と知行三十石を与えられたと記される。
HP-0457 甲斐重種
甲斐重種(右馬頭)。大友勢の日向侵攻時、田代で戦死した。
HP-0458 荒尾嘉兵衛
田尻但馬の叔父。但馬に加担し、川辺市ノ瀬で誅された。
HP-0459 荒武八郎
荒武八郎は忠平公(島津義弘)の御内衆。天正年間、僧左京坊と二人で使者に任じられ、筑後田尻氏へ派遣された。
HP-0460 荒木嘉右衛門
荒木嘉右衛門は荒木助左衛門とともに山田有栄に従った家来で、関ヶ原合戦へ出陣した人物。本文は二人の独立見出しに続いて『右両人』と共同事績を記す。
HP-0461 荒木助左衛門
荒木助左衛門は荒木嘉右衛門とともに山田有栄に従った家来で、関ヶ原合戦へ出陣した人物。本文は二人の独立見出しに続いて『右両人』と共同事績を記す。
HP-0462 高橋右馬允
高橋右馬允。独立見出しはあるが、本文は短く具体的経歴を伝えない。
HP-0463 高崎越前守
高崎越前守。有閑の弟で島津家久に付けられ、家老として天正年間の諸戦に従った。
HP-0464 高崎介次郎
高崎介次郎。弘治三年四月十七日、蒲生北村の戦いで戦死した。
HP-0465 高崎能延
高崎能延(惣右衛門、簪五郎)。能乗の子で島津家久の加冠を受け、朝鮮へ渡海した。
HP-0466 高崎能賢
高崎能賢(兵部少輔、初藤五郎)。能宗の子で、島津家の加冠を受け、伊作地頭を務めた。
HP-0467 高崎能広
高崎能広(大炊介、弥六)。伊作地頭を務め、相良義陽討伐・朝鮮・泗川で軍功を挙げた。
HP-0468 高崎能宗
高崎能宗(播磨守、有閑、初惣右衛門)。大友氏支流とする高崎氏の由緒と、島津氏への奉公・伊作地頭職を伝える。
HP-0469 高崎能乗
高崎能乗(伊豆守、惣右衛門)。義久の加冠を受け、伊作・羽月地頭と御用人を務めた。
HP-0470 高山備後
高山備後。大工職の人物で島津家久に殉死し、福昌寺などに墓がある。
HP-0471 高城右衛門
出水の兵として実久の命で谷山神前城を守った七人の一人。天文八年三月二十四日に貴久へ降参した。
HP-0472 高城主水允
高城主水允。天正年間の戦評定に加わった五十四人の一人とされる。
HP-0473 高城重治
祁答院良重の家老と記される武蔵守。
HP-0474 高城重説
高城重説(左京亮、八郎太郎)。長野地頭を務め、朝鮮からの帰航時に敵の番船をかわして兵員を救った。
HP-0475 高城重貞
高城重貞(主馬亮、喜太郎)。重説の養子となり、兵具奉行を務め、大坂出陣に供奉した。
HP-0476 高城珠長
高城珠長。連歌師紹巴の門人として京都に遊学し、機知ある付句で名を上げ、島津義久の上洛にも供奉した。
HP-0477 高樋三官
高樋三官(許三官)。明から乱を避けて来日し、薬を徳川家康へ献じた渡来人。
HP-0478 高木左近
高木左近。川上大和守昌久に殉死した五人の一人。
HP-0479 豪契法印
肥後阿蘇出身。豊後で薩軍を助け、還俗と千石の給付を辞退して野田山内寺の住職となった。
HP-0480 国分但馬守
国分但馬守について、子孫に御厩別当を務めた人物がおり、その子の帯刀も御厩別当を務めたと記される。本文は後裔の職掌だけを伝える短い記事で、但馬守本人の諱、主君、奉公、知行、軍役、具体的事績、出生・没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0481 国分隠岐友成
国分隠岐友成を祖とする国分氏の系譜を掲げ、代々水引天満宮の社司であったと記す。後裔友積は川内の騒動で天神像を背負って鹿児島へ戻し、朝鮮出兵では自費で軍役を負担した。
HP-0482 国分十右衛門友知
国分十右衛門友知は、朝鮮出兵中に番船が破損した際、南海島に取り残された五百人の一人であったと記される。本文はこの遭難記事だけを伝え、救出までの経過、奉公先、役職、知行、家族関係、出生・没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0483 国分左京亮友積
国分左京亮友積は平次郎とも称し、国分筑前守定友の子と記される。本文は短い系譜記事で、本人の役職として左京亮を掲げるほか、具体的な奉公、知行、軍役、事績、出生・没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0484 黒田貞昌
黒田七兵衛貞昌は加治木の人。寺領に居住していた時期、新納家の下知により伊集院方面との使者を務め、伏見城攻めにも加わったと読める。
HP-0485 黒田貞武
黒田与一左衛門貞武は、朝鮮役に供奉し、関ヶ原からの退却にも従った。その働きにより感状を与えられたと記される。
HP-0486 黒田頼清
朝鮮へ渡海し、庄内の高城攻めで新納久宣・本田弥吉と先登したと記される人物。久宣と互いに先登の功を譲ったという。
HP-0487 黒木左近兵衛
黒木左近兵衛。朝鮮水軍戦で奪われた船印を奪回し、関ヶ原退却にも従って五十石の感状を受けた。
HP-0488 黒木七兵衛
黒木七兵衛。天文二十三年の岩剣の陣で城中へ忍び入り、敵を討ち取ったのち同行者と戦死した。
HP-0489 黒木宗左衛門
黒木宗左衛門。伊勢貞昌と同じ船で朝鮮へ渡海した。
HP-0490 黒木播磨守実利
黒木播磨守実利。飯野移住六十人の一人で、伊東勢への伏兵戦と木崎原合戦で功を立てた。
HP-0491 黒木彦右衛門
黒木彦右衛門。島津義弘に供奉して高麗へ渡海した。
HP-0492 甑勝左衛門武政
甑勝左衛門武政は入道して祐心と号した。忠恒公の朝鮮出兵に供奉し、関ヶ原にも従軍して功があった。
HP-0493 今井市兵衛
仁礼蔵人頼景の二男で、堺の茶人の養子となった今井市兵衛兼練。養父の千石のうち七百石を受け、納戸奉行、国分・山川・百次等の地頭を務めた。
HP-0494 今井貞則
父の諫言による切腹後、家久に召し抱えられ、寛永6年薩摩で三百石を受けた今井貞則。佐藤姓から今井姓へ復し、寺沢氏の誅殺要求も家久に退けられた。
HP-0495 佐々木幸綱
佐々木弥介幸綱は初め大山を称した人物で、詳しい伝記は本書の大山氏の部にあると記される。本文はこの参照指示だけで、父母・系譜、主君、役職、知行、奉公・軍役、生没年、法名、墓所は載せない。
HP-0496 左近允直純
左近允壱岐直純は大迫氏の出身とされる。慈眼公の代、御殿作事に関係して功があり、その後本来の氏へ復することを望んだが認められず、主君の意向によって「左近允」を号し、「壱岐」の名を与えられたという。
HP-0497 佐多久英
佐多民部左衛門尉久英は久作、久慶の弟。幼少時に忠将の養子となり、のち久慶と兄弟の契約を結んで川辺宮村へ移り、庶子分として知行三十石を付属された。
HP-0498 佐多久慶
佐多太郎次郎久慶は久政の子で、永禄年間生、母は島津尚久の長女。知覧で火災に遭い系図・文書の多くを失った。
HP-0499 佐多久孝
佐多又四郎久孝は幼名長寿丸、忠治の嫡子。寛永五年正月十日生、母は島津下野守久元の娘。
HP-0500 佐多久福
筑前守延久の子で門之浦に住んだ。天正年間、家人らの海賊行為が秀吉の怒りを招き、宗子久慶によって殺されたと記される。
HP-0501 佐多久師
佐多縫殿助久師は、紀伊介久充の子と読める人物。朝鮮役に従軍して戦死した。
HP-0502 佐多久充
佐多紀伊介久充は入道泰雲。佐多備中守経久の二男で、伊佐敷曽右衛門・平兵衛久基の弟となった。
HP-0503 佐多久昌
薩州家に属した佐多氏庶流の武将。渋谷氏攻めの功で水引城主となり、秀吉の西征時には弟を人質に下城した。
HP-0504 佐多久信
佐多源右衛門久信は天正六年九月八日生、母は大野右衛門大夫志康の娘。慶長十四年、佐多忠増と琉球へ渡り、降伏後も山中に籠った謝名に和平の趣旨を伝えて帰順させ、銀二枚を受けた。