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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 1401~1500件・15 / 22ページ
HP-1411 萩野三位坊
道釈伝に掲載され、朱記で慈眼公の朝鮮渡海に供したと記される。
HP-1412 柏原市之丞
柏原市之丞。柏原有閑の二男で、朝鮮に従軍し、琉球渡海中の破船で死亡した。
HP-1413 柏原将監
柏原将監。柏原有閑の嫡子で、筑後へ援軍として派遣され、のち朝鮮で戦死した。
HP-1414 柏原有閑
宮崎の境目番、八代在番を勤めた足軽大将。肥後方面の軍役と豊後偵察への同行を記し、のち松山地頭・御用人を務めた。
HP-1415 柏木源藤
柏木源藤。関ヶ原退却時、追撃する井伊勢の騎馬武者を鉄砲で撃ち落としたと伝わる。
HP-1416 白坂下総介
高崎の人物。伊東義祐に殺されそうになったが逃れ、樺山善久を頼って守護方に降った。
HP-1417 白坂宮内左衛門
白坂宮内左衛門は永禄七年、飯野へ移された六十人の一人。
HP-1418 白坂兼相
踊の地頭。北原兼守が没した後、領地を差し出して降参した。兼頼という異記がある。
HP-1419 白坂佐渡守
白坂佐渡守は北原家に従っていたが、同家衰微の際に島津家へ召し出され、地頭を務めた。
HP-1420 白坂実直
白坂蔵人実直は『新納忠増日記』に名が見える人物。
HP-1421 白坂助左衛門
日当山城の守将。天文十七年八月に戦死した。
HP-1422 白坂昌棟
白坂美濃守昌棟は横川城主として北原氏に従ったのち、永禄六年頃から義弘に仕え、真幸吉田地頭となり、父子四人で朝鮮へ渡った。
HP-1423 白坂仲右衛門
白坂仲右衛門は仲兵衛とも称し、朝鮮出兵に供奉した。
HP-1424 白坂篤義
白坂将監篤義は白坂昌棟の弟。義弘に従って朝鮮へ渡り、子孫も島津忠朗らに仕えた。
HP-1425 白坂篤国
白坂式部少輔篤国は朝鮮出兵に供奉し、琉球入りの軍役人数にも名が見える。
HP-1426 白坂篤次
白坂助六篤次は昌棟の二男。朝鮮に従軍し、伏見城攻めでは有馬純房と城内へ入り、敵五、六人を倒して戦死した。
HP-1427 白坂篤実
白坂七右衛門篤実は伏見城攻めから関ヶ原退却まで義弘に従い、感状と百石を受け、のち吉田地頭となった。
HP-1428 白坂篤昌
白坂助七郎篤昌は白坂昌棟の嫡子。朝鮮で番船に関わる戦闘または破船の際に戦死した。
HP-1429 白坂篤清
白坂宗兵衛篤清は朝鮮・泗川で六匁鉄砲を用い、川上久智の指示で赤装束の敵を射倒し、石橋を渡って敵陣を切り崩した。
HP-1430 白坂篤辰
白坂大学坊篤辰は大峯修行から関ヶ原の義弘陣へ駆け付け、五十石を受けた。のち内之浦新外城の設置に従事した。
HP-1431 白坂彦左衛門
白坂彦左衛門は永禄七年、忠平公に供奉して飯野へ移された六十人の一人。
HP-1432 白石永仙
琉球渡来の僧。伊集院の広済寺に住み、軍事に通じて幸侃に仕え、脇元で梟されたと記す。
HP-1433 白石太郎左衛門
都城内の人物群に載る。列をまたぐ氏名を一人として確認。
HP-1434 白尾幸孝
白尾孫九郎幸孝は白尾幸高の子。朝鮮出兵に供奉して戦死し、子孫に白尾覚兵衛がいる。
HP-1435 白尾幸高
白尾孫八郎幸高は島津久保に従って朝鮮へ渡り、代官役を務めた。
HP-1436 白尾国広
白尾理右衛門国広は朝鮮・関ヶ原に義弘へ供奉。伊賀で得た飯を義弘へ届け、帰国後に感状と三十石を受けた。
HP-1437 白尾国昌
白尾理右衛門国昌は義弘に仕え、朝鮮・関ヶ原に供奉。寛永六年に七十三歳で没したが、国広と同人かは不詳とされる。
HP-1438 白尾伝左衛門
白尾伝左衛門は加治木に住む白尾氏。先祖理右衛門の惣大工由緒と、養父金右衛門らの小姓・近習奉公を伝える。
HP-1439 白尾半左衛門
岩剣城落城時に猿渡休覚に捕らえられ、守護方への悪口によって舌を抜かれ、死んだと記される。
HP-1440 白浜角左衛門
白浜角左衛門の項は、子孫の白浜半左衛門らしき人物が義弘・家久の側廻に召し仕えたことを伝える。
HP-1441 白浜重安
白浜七助重安は朝鮮・関ヶ原に義弘へ供奉。泗川の敵襲を知らせ、退却中は船歌で一行を励まし、伊賀山中では宿所を選んだ。
HP-1442 白浜重綱
白浜次郎九郎重綱は重治の嫡子で、朝鮮で十九歳で死去。次郎五郎とも記され、義弘と忠恒の間の迎船・連絡役を務めた。
HP-1443 白浜重治
白浜次郎左衛門重治は白浜重政の子。義久の使衆と阿久根・大村等の地頭を務め、耳川・岩屋城・朝鮮・庄内・関ヶ原に従った。
HP-1444 白浜重住
白浜八郎左衛門尉重住は東郷氏から出た白浜氏の人物。代々東郷家に仕えた家から召し出され、朝鮮出兵に従った。
HP-1445 白浜重陣
東郷重尚の家老。白浜村を伝領し、阿久根で戦死した。
HP-1446 白浜重政
貴久の奥向きに仕え、遺言により義久から千石と御使役・大村地頭職を与えられた。天正十五年豊後鶴崎で戦死したと記すが、高田とする脇注もある。
HP-1447 白浜重仲
白浜志摩守重仲は白浜大蔵大輔重統の二男。都城へ移り、天正年間に肥前深江で戦死した。
HP-1448 白浜重葉
白浜源左衛門重葉は重頼の子。天正十四年に岩屋城で戦死し、子の重辰も慶長二年に朝鮮で戦死した。
HP-1449 薄間五郎右衛門尉
薄間五郎右衛門尉。直前の宇都宮甚兵衛と同じく、朝鮮役に供奉した人物。
HP-1450 迫田忠満
迫田隼人佐忠満の記事は、迫田氏の祖を指宿五郎忠光の二男忠秀とし、忠秀が初めて迫田を称したと伝える。忠満はその十代の孫で、太郎五郎忠光の子と記され、加世田で討死した。
HP-1451 畠山頼国
中務少輔、入道橘陰軒。和歌・仏学・医学を学び、京都から薩摩へ下り坊津に居住。客人として太守三世に仕え、天正13年に坊津で没した。
HP-1452 八木主水
八木主水は八木丹後守信勾の子で、島津忠恒に仕えて御勘定奉行を務めた。本文は父子関係と役職のみを記す短い記事で、具体的な奉行勤務、知行、軍役、居所、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-1453 八木信勾
八木丹後守信勾は八木正信(入道嘉笠)の嫡子。父に劣らぬ能書で、父子で和漢朗詠集を書写し、近衛家へ献じて褒書を受け、後陽成天皇の叡覧にも供したという。
HP-1454 八木信親
八木和泉守信親は、八木源左衛門・次郎九郎実信(入道宗西)の子と記される。代々島津家へ奉公した人物であるが、本文は系譜と奉公を簡潔に記すだけで、具体的な役職、軍役、知行、居所、生没年、法名、墓所は載せない。
HP-1455 八木信辰
八木民部左衛門信辰は初名を新次郎といい、八木信元の子。島津家久の側近で小姓を務めた。
HP-1456 八木正信
竜伯に仕えた右筆。青蓮院尊朝親王に書を学ぶ。逃亡と赦免を経て、島原渡海・岩屋城攻めなどに従い、太平寺で秀吉に謁見した。
HP-1458 板元権之丞清長
板元権之丞清長。猪突武者と呼ばれ、慶長四年の庄内・山田城攻めで先登して戦死した。
HP-1459 飯牟礼光家
竜伯に国分で奉公した飯牟礼紀伊介光家。国分高帳に156石余。琉球渡海の記事では貴島采女頼張とともに鹿児島への注進を務めた。
HP-1460 比志島式部大輔義基
比志島式部大輔義基は義弘の子。日向曽井三百五十町を受け、家臣ら七百人と移住し、耳川・豊後・根白坂の合戦に従った。
HP-1461 比志島左馬介義興
比志島左馬介義興は義基の子。矢崎・水俣・島原・豊後で戦い、義弘の朝鮮渡海に供奉した。慶長四年、伏見で三十九歳で没した。
HP-1462 比志島彦太郎義元
比志島彦太郎義元は義興の子。牛ノ峠をめぐる伊東氏との争論の使者、京都在番、馬越・甑島の地頭を務めたと記す。
HP-1463 比志島河内守義弘
比志島河内守義弘は満家院を領し、大力・強弓の人と評された。岩剣攻めで家臣とともに戦死し、のち小鷹大明神として祀られた。
HP-1464 比志島義智
幸侃の弟で忠真の叔父。比志島氏の養子となり、清安と号した。
HP-1465 比志島久二郎
忠真の一族・家臣のうち、高城の人物群に彦太郎と並んで記される。
HP-1466 比志島源左衛門尉国家
比志島源左衛門尉国家は国守の二男。伏見城攻め・関ヶ原に従い、帰国船の護衛中、豊後海上で黒田家の番船と戦って死亡した。
HP-1467 比志島内蔵助国広
比志島内蔵助国広は国詮の二男。義弘のもとで元服して備前盛光の脇指を拝領し、奥小姓となった。父の名跡を継ぎ鹿児島へ召し出された。
HP-1468 比志島美濃守国守
比志島美濃守国守は入道玄心。蒲生・菱刈で軍功を重ね、蒲生・大村・大崎の地頭を務め、大崎で没した。
HP-1469 比志島宮内少輔国真
比志島宮内少輔国真は国守の弟。蒲生北村に移住し、菱刈で軍功を挙げて本城・串米地頭となった。隈城地頭を辞退し、市来で没した。
HP-1470 比志島美濃守国親
比志島美濃守国親は父国守を継いで大崎地頭となった。兵道・軍術に通じ、合戦の使者や犬追物喚次を務め、大崎で没した。
HP-1471 比志島源左衛門国政
比志島源左衛門国政は朝鮮へ供奉する途中で「乱気」となり、行方不明になったと記される。
HP-1472 比志島紀伊守国貞
国真の子。市来・高岡地頭、義久の家老を務め、高城加勢・岩屋攻めに従った。中山王を伴う家久の駿府・江戸行きには供奉家老として同行。墓は南林寺にある。
HP-1473 比志島宮内少輔国隆
紀伊守国貞の嫡子。朝鮮に供奉し、高岡地頭・家久の家老を務めた。罪科により所領・家財を没収され、種子島配流後に切腹を命じられた。父の忠節により名跡存続の措置が取られた。
HP-1474 比志島源左衛門国連
比志島源左衛門国連は、国貞が高岡地頭に任じられた際に召し移されたと記され、高岡城の地図に見える人物である。
HP-1475 比志島掃部介国詮
比志島掃部介国詮は国親の二男。兄の行方不明により家督を継ぎ、義弘・家久の御用人、義弘隠居後の家老、吉田地頭を務めた。
HP-1476 比志島彦太郎
忠真の一族・家臣のうち、高城の人物群に列記される比志島氏の人物。
HP-1477 肥後勘兵衛
肥後勘兵衛は種子島の人で、国分新城へ召し移された。持高は百四十石と記される。
HP-1478 肥後宮内少輔
肥後宮内少輔は掃部の子。天正十五年、高城への加勢人数に含まれていたと記される。
HP-1479 肥後山城守
肥後山城守は周防守の子で、義久の代に奉公した。肥後勝兵衛盛吉、後の町田久幸を養子に迎えた人物。
HP-1480 肥後讃岐
肥後讃岐は歳久の家臣で、各地で戦功があったと記される。
HP-1481 肥後新助
肥後新助は木崎原で戦死した人物。本文は戦死地だけを短く記す。
HP-1482 肥後周防守盛家
肥後周防守盛家は恕清の三男。実久には属さず貴久に仕え、鹿児島へ移った。豊後撤退時には歳久に付き軍功があった。
HP-1483 肥後蔵人盛吉
肥後蔵人盛吉は日新公に仕え、泊地頭を務めた。後代の肥後勝兵衛盛吉(町田久幸)とは別人として整理する。
HP-1484 肥後長左衛門盛行
肥後長左衛門盛行は盛次の弟で後継。朝鮮へ渡り、十人衆役などを務め、七島・羽月・甑島等の地頭歴を記す。
HP-1485 肥後平五郎盛次
肥後平五郎盛次は町田久政の子。盛吉が肥後家を去ったため後継となったが、早世したと記される。
HP-1486 肥後盛治
下大隅高城六ヶを伝領した竹山地頭。天文六年正月七日、日新公に攻められ、塁を焼いて自殺した。
HP-1487 肥後権之丞盛秀
肥後権之丞盛秀は家勢の衰えから家督を山城守の後嗣盛吉に譲った。慶長十六年、義久に殉死し、五十二歳と記す。
HP-1488 肥後壱岐守盛昌
肥後壱岐守盛昌は種子島出身で、富隈から国分新城へ移った。庄内に出陣し、馬二疋と健脚の家来十四、五人を備えたと記す。
HP-1489 肥後新次郎盛房
肥後新次郎盛房は平田宗成の二男で、盛吉の養子となった。市山で戦死したと記される。
HP-1490 肥後掃部左衛門尉
肥後掃部左衛門尉は、日新公が加世田で敗れた際、宮原隼人・井尻四郎左衛門と同じく名代となって戦死したと記される。
HP-1491 肥後内膳
肥後内膳は庄内の乱の際、兵具奉行を務めたと記される人物。
HP-1492 肥後民部少輔
肥後民部少輔は義弘に付き飯野にいた。木崎原合戦の前夜、戸外に出て加久藤方面に多数の火が見えることを発見したと記す。
HP-1493 肥後与五郎
肥後与五郎は蔵人盛吉の実子。盛吉が盛房を養子にした後に生まれ、義久に仕えたと記される。
HP-1494 肥田木丹波守
肥田木丹波守は永禄七年、飯野へ召し移された六十人の一人と記される。
HP-1495 樋口飛騨
樋口飛騨は肥後八代の出身。平田光宗に協力して島津方の八代掌握を助け、召し抱えられた。朝鮮で番船の破損と戦死を記す。
HP-1496 尾辻佐左衛門
尾辻佐左衛門。尚久の没時、日新公の盃を受けて退出し殉死したという。墓は尚久の墓の傍ら。
HP-1497 菱刈半右衛門尉重栄
菱刈半右衛門尉重栄は留守藤景の二男で、母方の叔父重秀を継いだ。馬越・大村地頭、京都・大坂御蔵奉行、将軍来訪時の普請奉行を務めた。
HP-1498 菱刈半右衛門尉重広
菱刈半右衛門尉重広は幼くして父を失い、一族の隆秋が家督を代行した。島津氏への降伏後に所領を安堵され、朝鮮供奉を経て庄内の山田城で戦死した。
HP-1499 菱刈九左衛門尉重種
菱刈九左衛門尉重種は隆豊の子。光久の初巡見時、大口諸士の衆頭となって大口へ移り、後に鹿児島へ召し移された。
HP-1500 菱刈相模守重州
菱刈相模守重州は入道天岩斎。相良氏と組んで大口城を奪ったが、天文八年に貴久へ帰服し、永禄七年に没した。
HP-1501 菱刈善四郎重秀
菱刈善四郎重秀は隆秋の三男で重広の後継者。竜伯公の小姓を務め、その死に際して小指を切って棺に納めようとし、出血して死亡したと記す。
HP-1502 菱刈越後守重昌
菱刈越後守重昌は重根の子。嫡家重猛とともに義久へ降伏し、曽木を与えられ、のち大口花北村へ替地となった。
HP-1503 菱刈重豊
蒲生への援軍として北村に陣取り、弘治三年四月十五日、島津軍に敗れて自害した。
HP-1504 菱刈重猛
島津氏への抗争後に帰参。貴久から栗野院百二十町と横川を与えられた。
HP-1505 菱刈大膳亮隆秋
菱刈大膳亮隆秋は幼い重広の家督を代行し、相良氏と結んで島津氏と戦った。永禄十二年、大口城で降伏し、球磨へ退去した。
HP-1506 菱刈休兵衛隆豊
菱刈休兵衛隆豊は重昌の子。朝鮮へ自弁で渡り、再渡海・泗川の軍功を重ねた。関ヶ原にも従い、重秀没後は嫡家の家督を代行した。
HP-1507 浜田経重
民部左衛門、入道栄臨。軍功と忍び入りの働きを伝え、秀吉から槍・五百石を拝領。慶長16年に福昌寺で竜伯へ殉死、78歳。
HP-1508 浜田氏女
押川公近の妻。平田増宗殺害後に帰宅した夫をかくまい、追って来た従者を平静に応対して帰したと伝える。
HP-1509 付迫介右衛門
付迫介右衛門。川上大和守昌久に殉死した五人の一人。
HP-1510 富光信濃守
湯田名の領主と記される人物。
HP-1511 冨永式部左衛門
冨永式部左衛門。木崎原の合戦で戦死。「曽木播磨等同前戦死」と記される。