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HP-0050巻13:249~250公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

伊集院忠棟

異名・検索語:伊集院忠棟/伊集院右衛門大夫忠棟/幸侃/忠金/源太

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

DESCRIPTION

本文内容説明

伊集院右衛門大夫忠棟は忠倉の子、忠朗の孫。入道幸侃と号し、義久の国老を務めた。高山・鹿屋、日向南ノ郷、肥後八代の地頭となり、天正六年には島津以久を大将とする日向石ノ城攻めの副将を務めた。耳川・肥後・筑紫方面に従軍し、上井覚兼と堅志田町を攻め、岩屋攻めにも加わった。秀吉の西征時には和談を扱い、義久の人質として秀長陣に入った。文禄四年、薩隅日の所領境界の改定に関わり、北郷氏に代わって都之城と周辺所領を与えられ、八月に鹿屋から移った。慶長二年から伏見に居住。本文は四年三月九日、忠恒の伏見邸の茶亭に召されて刺殺され、妻が忠真へ急報し、妻子は東福寺へ退かされたと記す。ただし末尾には処刑年不詳の注もある。

系譜・人物関係

大和守忠倉の子、大和守忠朗入道孤舟の孫。冒頭小字は初忠金・源太。妻吉利氏、子忠真ら。次男の神事左頭・右頭の記事、妻の飛札、妻子の東福寺退去は忠棟条の関連記述。忠真の独立紹介は次項13-250-01で別に扱う。貴久に仕えて殊功・国老となる冒頭文は祖先への叙述であり、忠棟本人の貴久国老就任とはしない。

奉公・役職

義久の国老。天正年中、高山・鹿屋地頭として鹿屋に居城。別記は初め使衆、永禄九年国老とする。天正五年十二月の日向平定時に南ノ郷地頭、その後肥後八代地頭。文禄四年、台命による薩隅日の田地経界改定、北郷氏の宮之城移転、忠棟への都之城及び周辺所領給付と八月の移住を記す。串良は給付領地の小字にあるが、地頭就任と断定しない。

軍役・事績

天正三年の犬追物で射手。四年高原従軍。六年七月、島津忠長と石ノ城を攻め一度帰陣、九月には島津以久を大将とする副将となり長倉勘解由が降参。十一月耳川。肥後八代在陣、上井覚兼と堅志田町攻撃・花山城築城・島原渡海。十四年筑紫征伐・岩屋攻め、十月豊後へ。十五年の秀吉西征で和談を扱い剃髪、義久の質として秀長陣へ。義久上洛に随行し、佐々成政討伐命令の際は薩州へ遣わされ松齢公の出師を促したと記す。

生没・法名等

入道幸侃。慶長二年より伏見に居住、同四年三月九日、忠恒の伏見邸茶亭へ召され刺殺・即死、遺骸を半櫃に納め家臣へ渡すと本文に記す。一方、末尾に幸侃誅せらる年詳ならずとあるため、処刑年を単一の確定値とせず異注を保持。妻は忠真へ飛札で知らせ、妻子は東福寺へ退く。東福寺を忠棟の没地や墓所とは扱わない。生年・享年・墓所・没後法名はこの条で確定できない。

統合人物ID
HP-0050
原人物ID群
13-249-06
氏・分類
伊集院
掲載巻頁
巻13:249~250
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
大和守忠倉の子、大和守忠朗入道孤舟の孫。冒頭小字は初忠金・源太。妻吉利氏、子忠真ら。次男の神事左頭・右頭の記事、妻の飛札、妻子の東福寺退去は忠棟条の関連記述。忠真の独立紹介は次項13-250-01で別に扱う。貴久に仕えて殊功・国老となる冒頭文は祖先への叙述であり、忠棟本人の貴久国老就任とはしない。
検索キーワード
伊集院忠棟/幸侃/忠金/源太/右衛門大夫/忠倉/忠朗/義久国老/高山/鹿屋/南ノ郷/八代地頭/島津以久/石ノ城副将/耳川/上井覚兼/堅志田/岩屋/和談/秀長陣/人質/文禄四年/所領境界/都之城/慶長四年三月九日/伏見茶亭/刺殺/忠恒/吉利氏/忠真/妻子東福寺/処刑年異注
公開区分
公開可
精読・確認状況
従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
公開判定根拠
従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
説明作成区分
AI用PDF全頁精読
本文境界判定
AI全2頁を視読し原冊子249頁下段・250頁上段と照合。冒頭の初名小字を含め、末尾の処刑年不詳注までを再裁断。旧AI末尾左端の次項忠真の文字片を除外。妻子・次男神事・祖先への言及は関連記述で、新たな独立紹介ではない。既存の忠真13-250-01は変更せず、新規採番なし。確認用・AI用とも2頁を維持し旧版保存。
判読保留
冒頭は祖父を忠朗と記すが次の〇印下に忠明と見える異記があり、後続小字の人名も判読保留。貴久への殊功と国老就任を忠棟本人へ転記しない。所領高は八万三石八斗四升と読めるが千の有無など表記上の疑問を保持し、公開文は都之城と周辺所領にとどめる。末尾処刑年不詳注を本文の慶長四年三月九日と併記。野心・石田三成への依拠などは史料の評価であり、確認された動機として断定しない。初忠金・源太は小字を再確認した。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』