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本藩人物誌の目録

人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。

全2,174件中 1801~1900件・19 / 22ページ

  1. HP-1815 薬丸兼持

    孤雲斎の子で、内之浦地頭を務めた人物。弾正少弼と称した。

  2. HP-1816 薬丸兼将

    入道孤雲斎と称した省釣の家老。『覚兼日記』の天正三年十二月に名前が見えるという。

  3. HP-1817 薬丸四郎右衛門

    東八郎兵衛と忠真の母に付き従って阿多にいた。忠真の変報後、母を自殺させ、家屋を焼いて二人も死んだと記す。

  4. HP-1818 薬丸氏兼

    薬丸仙永氏兼は島津義弘(惟新)の茶道役を務め、朝鮮役に供奉した。本文には、薬丸某兵衛という者が供奉者の中にあり、同一人物かとの注記もある。

  5. HP-1819 柳田外記

    柳田外記は軍功があり、下大隅の上城と読める城へ、浜出栄林とともに忍び入ったと記される。潜入による戦功を伝える一行記事で、主君、年代、城の所在、役職、知行、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。

  6. HP-1820 柳田左近允

    柳田左近允は日当山衆。天文二十三年、加治木の綱掛川合戦で戦死したと記される。

  7. HP-1821 友野次郎右衛門

    友野次郎右衛門。兵九人で琉球に渡海し、後に小根占・山本・田代・佐多・辺塚五か所の代官役となって小根占に住んだ。

  8. HP-1822 宥印上人

    水引出身の永田氏。泰平寺を陣営に求めた豊臣殿下に退去を拒み、代わりの宿寺を定めさせた僧。

  9. HP-1823 有屋田氏

    否笠氏・関氏と共同で神殿塁を守った実久方の人物。天文五年十一月二十九日、三氏とも降伏した。

  10. HP-1824 有川右近

    有川右近は有川藤七兵衛の子。飫肥で戦死したと記される。

  11. HP-1825 有川慶助

    有川慶助は島津河内守に殉死した三人のうちの一人と記される。本文は主従関係と殉死者の人数だけを一行で伝え、河内守の実名、殉死年月、慶助の役職・知行・家族関係、出生年、法名、墓所は記載しない。

  12. HP-1826 有川源七

    有川源七は、前項の有川藤七郎と同じく朝鮮出兵に供奉した人物と記される。本文は『右同断』を中心とする短文で、個別の役職、知行、戦功、装具、家族関係、出生・没年、法名、墓所は明記しない。

  13. HP-1827 有川五兵衛

    有川五兵衛は有川兵部の子。伏見で戦死したと記される。

  14. HP-1828 有川次郎左衛門

    有川次郎左衛門は貞初の子。子に有川右衛門がいると記される。

  15. HP-1829 有川但馬常盛

    有川但馬常盛は有川六弥左衛門常直の子。塩見が落ちた際に負傷し、その傷によって死去したと記される。

  16. HP-1830 有川六弥左衛門常直

    有川六弥左衛門常直は伊集院東俣の地頭。各地の軍陣で大中公のために働いたと記される。

  17. HP-1831 有川新五郎

    有川新五郎は島津歳久に殉死した人物。法号は賀室宗守慶上座と記される。

  18. HP-1832 有川新左衛門

    有川新左衛門は日当山の兵。天文二十三年八月二十九日、加治木の綱掛で戦死したと記される。

  19. HP-1833 有川助兵衛直春

    有川助兵衛直春は大炊左衛門貞春の子。慶長年間から惟新公に供奉して伏見にあり、大坂では奥方に関する用務を詳しく承った。

  20. HP-1834 有川休右衛門貞興

    有川休右衛門貞興は慈眼公に殉死した人物。法号は信庵宗友居士で、福昌寺の地蔵塔三番目に葬られたという。

  21. HP-1835 有川備前守貞綱

    有川備前守貞綱は、天正三年四月に和泉へ使者として赴いたことが『上井覚兼日記』に見える。天正六年には高城へ籠もり、九月十九日・二十日の戦いに関わったと記される。

  22. HP-1836 有川仲右衛門貞守

    有川仲右衛門貞守は、はじめ淡路と称した人物の子とされる。惟新公の代から御納役を務め、脇某とともに二代にわたって代官役を勤めたという。

  23. HP-1837 有川雅楽介貞真

    有川雅楽介貞真は治部左衛門貞則の二男。有川氏のうち伊勢氏を伝える系統に属すると記される。

  24. HP-1838 有川長門守貞清

    有川長門守貞清は入道して如治と号し、治部左衛門貞則の嫡子。父貞則は貴久公に仕えて飯野に住み、伊勢氏を称したとされる。

  25. HP-1839 有川伊豆貞鎮

    有川伊豆貞鎮は有川美濃守の二男で、能登守左衛門の弟。惟新公に召し使われ、加治木で物奉行・納殿役を務め、のち鹿児島へ移った。

  26. HP-1840 有川藤七兵衛

    有川藤七兵衛は貞初の子。豊後で戦死したと記される。

  27. HP-1841 有川藤七郎

    有川藤七郎は朝鮮出兵に供奉した人物。朝鮮の軍では紺糸威の具足を用いたと記される。

  28. HP-1842 有川彦八郎

    有川彦八郎は帖佐宗辰の弟とされる。水城攻めの際、五か所に負傷しながら生還して帰国したと記される。

  29. HP-1843 有川兵部

    有川兵部は有川但馬常盛の子。豊後の鷲ケ台で戦死したと記される。

  30. HP-1844 有川平右衛門

    有川平右衛門は佐土原に在住していた時、中務家久に奉公した。その後、加治木へ移り、さらに鹿児島へ召し移されたと記される。

  31. HP-1845 有川六右衛門

    有川六右衛門は『右同断』と記され、前掲の有川藤七郎・有川源七と同じく朝鮮出兵に供奉した人物とみられる。本文は一行だけで、個別の役職、知行、戦功、装具、家族関係、出生・没年、法名、墓所は記載しない。

  32. HP-1846 有川六弥左衛門尉

    有川六弥左衛門尉は有川兵部の二男。知行高は五十二石余と記され、ある地から国分へ召し移されたという。

  33. HP-1847 有村隼人貞郷

    有村隼人貞郷は、向島の有村という地を領知し、その後蒲生へ移ったと伝える人物。本文は姓名・官途、領知した土地と移住先だけを一行で記し、奉公した主君、役職の具体的内容、知行高、軍役、家族関係、出生・没年、法名・墓所は記載しない。

  34. HP-1848 有田屋大炊左衛門

    忠真の一族・家臣のうち、野々美谷城の人物群に古垣氏と並んで載る。

  35. HP-1849 有馬丹波守重純

    有馬丹波守重純は次右衛門とも称し、忠恒公の朝鮮出兵で兵具奉行を務めた。小早川隆景・立花宗茂らの陣への使者、明将李如松の軍勢来襲時の防備、番船破損時の南海島救援などに働いた。

  36. HP-1850 有馬山之允純喬

    有馬山之允純喬は初め源四郎と称し、有馬豊前守純秀の子。永禄十二年五月二十五日、義久公が祁答院の曽木長野城を攻めた際、鎌田尾張守政年の軍勢に属した。

  37. HP-1851 有馬左近将監純実

    有馬左近将監純実は有馬純房の子で、天正十九年生。曽祖父純秀・祖父純喬・父純房が三代続けて戦死したため、十歳から惟新公の奥小姓となった。

  38. HP-1852 有馬豊前守純秀

    有馬豊前守純秀は七郎次郎とも称し、有馬筑前守純安の系統に属する。祖先は文明三年に筑前太宰府から薩摩へ下り、池牟礼(銀ケ城)に住んだという。

  39. HP-1853 有馬藤七兵衛純房

    有馬藤七兵衛純房は有馬純喬の子。父戦死時二歳で、義久公から源七郎、成長後に義弘公から藤七兵衛の名を賜った。

  40. HP-1854 有利六左衛門

    有利六左衛門は朝鮮役に供奉した人物。本文は姓名と『高麗御供』の一事だけを一行で伝え、奉公した主君、渡海年、役職、知行高、具体的な軍功、家族関係、出生・没年、法名・墓所は記載しない。

  41. HP-1855 陽春坊

    加治木に籠居した山伏。光久の命を受けた石原助兵衛に刺殺されたと本文に記される。

  42. HP-1856 立石五助

    立石五助は、附録に並記される五人の一人で、芸者として中納言様に召し抱えられたと記される。

  43. HP-1857 竜雲和尚

    志布志大慈寺の僧。南化・快川に学び、九州・朝鮮・琉球の御陣僧として供奉したと記す。後に京都妙心寺で病死。

  44. HP-1858 林仙朝坊景福

    朝鮮出身の朴氏。十六歳で捕らえられ来薩し義久に仕えた。小島・大峰・霧島で義久の延齢を祈り、慶長十六年に三十四歳で殉死。

  45. HP-1860 鈴木休蔵重綱

    鈴木休蔵重綱は、もと広場姓。本条は「ひ」の部を参照する短い記事で、広場休蔵重綱と同じ人物を指す。

  46. HP-1861 鈴木宇左衛門重信

    鈴木重信条は琉球軍役五人を記す。復元した続文には浜松での奉公や朝鮮・庄内・大坂の記事があるが、市右衛門・市蔵という名との対応は要確認。

  47. HP-1862 和泉久正

    娘婿三河へ和泉家系図を譲った和泉宗兵衛久正。本文は三河の名字許可・家督継承と、子孫の奉公まで記す。

  48. HP-1863 和泉刑部左衛門

    島津尚久の家臣・和泉刑部左衛門。弘治元年3月、帖佐の星原・岩野原の合戦などで軍功があったと記す。

  49. HP-1864 和泉忠辰

    実久の孫で義虎の子。秀吉に降って川内への案内役となり、朝鮮出兵後に領地を失い加徳島で病死した。

  50. HP-1865 和泉保重

    島津忠長家臣の和泉保重。泗川で騎馬指揮し、忠恒の切れた手綱を結び直した。図師定清に馬を預け、下馬して敵中へ切り込む。

  51. HP-1866 和田円学坊正信

    道釈伝に円学坊正信の名を掲げる。具体的な経歴の説明はない。

  52. HP-1867 和田秀膳坊

    道釈伝に和田秀膳坊の名を掲げる。具体的な経歴の説明はない。

  53. HP-1868 和田秀存

    和田秀存(秀存坊)。和田正信の嫡子で、二十四歳で関ヶ原にて戦死した。

  54. HP-1869 和田秀存坊

    道釈伝に和田秀存坊の名を独立して掲げる。本条には具体的な経歴の説明がない。

  55. HP-1870 和田秀膳坊

    和田秀膳坊。和田正信の二男で、兄の戦死により跡目を命じられた。

  56. HP-1871 和田甚兵衛

    和田甚兵衛。加治木で小番、のち大番を務め、願いにより光久の代に再び小番となった。

  57. HP-1872 和田正信

    和田正信(円覚坊)。能登出身の山伏で義弘に仕え、伊東方へ潜入。朝鮮へ守札を届け、正宗の御腰物を国元へ持ち帰った。

  58. HP-1873 和田相模坊

    道釈伝に和田相模坊の名を独立して掲げる。本条には具体的な経歴の説明がない。

  59. HP-1874 鷲頭不動院

    鷲頭不動院。竜伯の命で多賀大明神を近江から奉請し、日向浜崎の勧請・宮造立に関わった。

  60. HP-1875 汾陽光昌

    汾陽光昌(正右衛門)。理心の二男で、兄の早世後に家を継ぎ、島原陣に供奉した。

  61. HP-1876 汾陽理心

    汾陽理心。明から渡来して島津貴久に召し抱えられ、朝鮮陣の書翰・謀略と医術で奉仕した。

  62. HP-1877 渕辺平内左衛門元秋

    渕辺平内左衛門元秋は初め平五郎と称し、渕辺弥兵衛元継の子。義弘公に奉公し、豊後で戦死したと記される。

  63. HP-1878 渕辺良右衛門元真

    渕辺良右衛門元真は初め平内左衛門と称し、渕辺平内左衛門元秋の子。十五歳の慶長二年、惟新公に従って高麗へ渡った。

  64. HP-1879 渕脇一臘院

    十八歳で甲州へ赴き武田信玄に奉公。旧伝は徳川家での長久手の武功と横川への帰郷を伝える。

  65. HP-1880 渕脇一臘院

    道釈伝に一臘院として掲載され、小注で穴川無辺之介を指すと記す。

  66. HP-1881 渕脇源六郎

    渕脇源六郎は永禄七年、忠平公に付き従って野尻へ移った六十人の一人と記される。本文は移住の年、主君、移住先と集団人数だけを伝え、実名、役職、知行、具体的な軍役、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。

  67. HP-1882 簗瀬勝軍坊

    山伏として奉公し、新納武州らから書状を送られたと記される。

  68. HP-1883 簗瀬貞能

    簗瀬土左衛門貞能は、簗瀬二左衛門とともに朝鮮役へ供奉したとみえる。本文は二人の渡海を一続きに記した短い記事で、従来は後半が簗瀬勝軍坊の人物PDFへ誤配されていたため、二頁として接続した。

  69. HP-1884 簗瀬兵右衛門

    簗瀬兵右衛門は川上左京に付属し、足軽大将を務めた。天正十二年三月二十四日の島原合戦で龍造寺隆信を討ち取った軍勢に加わったと記され、のち朝鮮役にも供奉した。

  70. HP-1885 簗瀬兵部少輔

    簗瀬兵部少輔は、島津方の御軍談合人数五十四人の一人と記され、『栗野』にその名があるという。軍議に参加した人物であることを示す短い記事で、具体的な合戦、主君、役職の実務、知行、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。

  71. HP-1886 鳰海舎人

    鳰海舎人。上井覚兼の家臣で、天正十年の有馬渡海などで分捕・弓の働きを記された。

  72. HP-1887 鳰海与兵衛

    鳰海与兵衛。島津義弘の中間で、朝鮮出兵に従軍した。

  73. HP-1888 伊集院忠次

    伊集院若狭守忠次は天正十一年に柳川救援へ派遣され高尾城に籠り、同年十二月に田尻城下で戦死した。記事は子半五郎の豊後沖戦死と養子忠助の馬廻奉公へ続く。

  74. HP-1889 伊地知重政

    御軍談合五十四人の一人。三山・鳥越永福寺で戦功を挙げ、畠山の伏兵や丹生島城の先登に働いた。天正十五年、豊後野津で戦死。

  75. HP-1890 井尻伊賀守(諱要確認)

    高城籠城、水俣・八代の軍役、五島・壱岐・対馬への使者を記す伊賀守。諱と伊東氏旧臣との同人関係に異説がある。

  76. HP-1891 市来軍助

    美作守家守の嫡子、家繁の父。天正六年に日州へ出陣して陣中の状況を報告し、十一月十二日に高城麓で大友軍と戦い先登・戦死。

  77. HP-1892 市来家親

    玄蕃左衛門尉・小四郎、松山地頭。水俣・佐敷・島原に従軍し、忠長の前で強敵と戦い負傷。天正十八年六月十五日没。

  78. HP-1893 島津忠栄

    喜入忠続の長子。忠直の長女を妻として豊久の後嗣となり、慶長十九年に駿河・江戸への使節を務めた。寛永元年、二十八歳で早世した。

  79. HP-1894 島津忠清

    義弘の五男で、家久と同母。幼名長満丸、久四郎。文禄四年に早世し、栗野徳光寺に葬られた。没日・享年には本文と朱書の異記がある。

  80. HP-1895 東郷重治

    水引の地頭に津田将監を置いた。家臣の犬盗みをきっかけに薩州家との争いが起こったと記される。

  81. HP-1896 平田宗次(増宗嫡子)

    増宗の嫡子。慶長7年8月17日、野尻で横死し、17歳だった。

  82. HP-1897 伊集院久春

    伊集院久春は肥前守、入道元巣。十五歳で初陣し、御使役・義弘の家老・横川地頭、飯野地頭・城番を務め、朝鮮にも七年間在陣した。

  83. HP-1898 井尻祐盛

    伊賀守。八太郎・四郎と記され、京都で死去。養子に伊右衛門、子孫に伊藤東作太夫を挙げる。

  84. HP-1899 井上勘ケ由

    寛永17年の人数賦に高800石・人数17人と記される井上勘ケ由。前項の井上主膳とは別見出しの一列記事。

  85. HP-1900 市来家政

    日新公の近侍。天文七年十二月二十九日の加世田城攻めで、御前で敵を討ち、さらに敵と戦って戦死したと記される。

  86. HP-1901 井尻豊前坊

    井尻神力坊宗憲の嫡子。本文は父子関係のみを記す、○印の独立小項目。

  87. HP-1902 市来源助

    松齢公の朝鮮出兵に供奉した市来氏の人物。渡海年や具体的な戦功は本条に記されない。

  88. HP-1903 市来治右衛門

    松齢公の納殿役を務めた市来氏の人物。「同公」は直前の源助条にある松齢公を指す。

  89. HP-1904 市来佐介

    慈眼公の朝鮮出兵に供奉した市来氏の人物。渡海年や具体的な軍役は本条に記されない。

  90. HP-1905 市来内蔵介

    弘治三年、蒲生降参の際に松坂地頭となった市来氏の人物。降参交渉での具体的な働きは記されない。

  91. HP-1906 市来弥兵衛

    朝鮮への御供を務めた人物。供奉した主君・年次や具体的な軍功は本条に記されない。

  92. HP-1907 冨山備中守入道

    家久に付けられ佐土原家老を務め、三百石を所持。大友勢の日向来攻時に伏兵で軍功。慶長十九年没、墓は福昌寺内。

  93. HP-1908 徳永対馬

    徳永対馬。貫明公に仕え、国分の代官役を務めた。子孫に徳永善左衛門。

  94. HP-1909 友野甲斐

    友野甲斐。元亀年間、下大隅の戦いで舟中の伏兵として戦功を挙げ、伊集院久春の戦功の証人となった。後に琉球征伐へ渡海。

  95. HP-1910 鳥丸重珍

    勘右衛門、入道重慶。安芸重通の子。朝鮮の役で島津豊久に従って軍功を挙げ、子孫は永吉にいると記す。

  96. HP-1911 別府助右衛門

    帖佐で松齢公に奉仕し、のち加治木へ移住。慈眼公の代に納殿役を務めた。

  97. HP-1912 別府掃部兵衛

    天正十五年、桂神祇を援けて平佐城を守った。

  98. HP-1913 本田元親

    本田元親は公親の子で、母は伊集院忠棟の娘。作左衛門尉・大炊大夫・美作守を称し、曽於郡敷根地頭を務めた。

  99. HP-1914 本田重恒

    本田重恒は清水城主。弟国親の讒言で惣領職を失い、曽於郡への蟄居の末、国親に誅殺された。

  100. HP-1915 法元盛宣

    太郎左衛門。松齢公の鷹匠を務め、朝鮮へ供奉した。