ARCHIVE DIRECTORY
本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 601~700件・7 / 22ページ
HP-0605 山口直重
山口内蔵助直重は、五十石を給されたと読める。島津家久の時代に召し出され、寛永五年二月の島原出陣では外城衆二百四十人の一員として派遣された。
HP-0606 山崎助右衛門重有
山崎助右衛門重有は帖佐衆で、島津義弘(惟新公)に従い高麗へ渡海した。慶長五年八月の伏見城攻めでは、財部伝内ら五、六人が城戸へ取り付いた際にこれを見て加勢し、いったん小屋へ戻って食事をした後、再び同勢と城戸へ取り付いて攻め込んだと記される。
HP-0607 山崎藤八郎
山崎藤八郎は初名を三郎といい、藤原姓菊池氏流と伝える。山岩と読める合戦などで軍功があり、子がなかったため、山崎藤七郎が母方の肥後氏を名乗ったとの系譜注記を載せる。
HP-0608 山崎治部左衛門
山崎治部左衛門は川内山崎の人。国分新城へ召し移され、持高三十石と読める。
HP-0609 山鹿弥右衛門親貞
山鹿弥右衛門親貞は、弥助または太郎兵衛と読める人物の子で、当代に島津家中へ帰参したと記される。本文は父子関係と帰参だけを伝える短い記事で、帰参の年代、具体的な役職・奉公、知行、軍役、居所、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0610 山鹿太郎兵衛鎮幸
山鹿太郎兵衛鎮幸は一時浪人し、その後、柳川城主立花左近の知遇を得て柳川へ移ったと読める。島原の乱では父子で立花家に従って出陣し、城攻めの際に薩摩者と名乗って戦い、太郎兵衛は戦死した。
HP-0611 山田有親
実久に属した日置城主。天文二年十二月に日新公へ降参したが、同月二十四日に仏坂で殺された。
HP-0612 山中堅助
山中堅助(初弥七)。絵師等琳の子で、のち田野堅助と改め、父と同じく絵を描いた。
HP-0613 山中国明
山中国明(藤次兵衛、等琳)。島津義久・家久に仕えた絵師で、妙円寺や高野山奉納の屏風を描いた。
HP-0614 山田伊予守
山田伊予守は勘解由某の父と読め、子孫の記事を伴う。ある藩主が小野へ移座した際、供奉した八人の一人とされる。
HP-0615 山田久俊
山田右京亮久俊は、山田氏七代忠尚の次男・式部少輔忠通から五代目の子孫と記される。忠通―右京亮久基―右京亮忠秀―又三郎忠重と続く系譜を載せ、忠重の四子とその子孫が志布志にあったという。
HP-0616 山田久武
山田次郎左衛門久武は山田播磨守忠時の子。幼少時に父が肝付氏との戦いで戦死し、市成を離れて曽於郡へ逃れた。
HP-0617 山田大泉坊勢弁
大泉坊と称し、道釈伝に勢弁の名を掲げる。
HP-0618 山田忠時
山田播磨守忠時の記事は山田氏の由緒を中心に記す。祖先の式部少輔忠継は島津氏二代忠時の庶長子とされ、牛屎院や谷山中村・上別府村などを与えられ、山田に居住して山田氏を称した。
HP-0619 山田半助
山田半助は備前中納言宇喜多秀家の家臣であったが、のち島津家に召し抱えられた。乗馬を用いる勤めに就き、使者などを務めたという。
HP-0620 山田有栄
山田有信の嫡子。高城開城時の人質となり、朝鮮役・関ヶ原に従軍。義弘の退却を助け、のち出水地頭・家老を務めた。
HP-0621 山田有信
山田越前守有信(入道理安)。高城籠城をはじめ九州各地を転戦し、豊臣秀長軍には義久の命で開城した島津氏重臣。
HP-0622 山田有清
山田与一兵衛有清は弥五郎とも称したと読める。ある戦場で働き、盛長の刀を給わったとみられる記事があり、のち肥後矢崎で戦死した。
HP-0623 山田有尊
山田主計頭有尊は山田有信の三男。慶長元年生、母は関屋清右衛門の娘と記される。
HP-0624 山田有貞
山田土佐守有貞は山田越前入道理安(有信)の次男。天正十九年生、母は関屋清右衛門の娘。
HP-0625 山田有登
山田弥九郎有登は山田有栄の子。慶長十三年生、母は伊勢雅楽介貞真(入道任世)の娘。
HP-0626 山田有徳
山田蔵人平有徳は、式部少輔有親の子。祖先が文治年間に薩摩へ下向し、山田に居住して名字とした系譜を載せる。
HP-0627 山田有廉
山田弥左衛門有廉は弥四郎とも称したと読め、子孫は出水郷士になったと記される。弥六郎有明、市来氏出身者の後嗣に関する系譜注記が続き、軍功の記録があるため後日調査すべき人物とされている。
HP-0628 山内宗左衛門
山内宗左衛門は天正六年、高城で北郷久盛とともに戦死したと記される。本文は戦死年、戦場、同行者だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、具体的な戦闘経過、家族関係、法名、墓所は記載しない。
HP-0629 山内伝右衛門
山内伝右衛門は慶長十七年に蒲生へ召し移され、同年に平松へ、元和三年には加治木へ移されたと読める。父について隠岐守義真と読める系譜注記もある。
HP-0630 山本三河守
山本三河守は島津尚久の家臣。弘治元年の帖佐岩野原合戦で、尚久が瀬戸五郎三郎と読める敵と戦い危急に陥った際、駆け続いて相手を討ち取り、主君を救ったと記される。
HP-0631 山本先右衛門
山本先右衛門は島津忠長の家臣で、内城において八月晦日に戦死したと読める。本文は奉公先と戦死の場所・月日だけを伝える短い記事で、戦いの相手や年、出自、役職、知行、家族関係、法名、墓所は記載しない。
HP-0632 山本朝左衛門純正
山本朝左衛門純正は島津久保に従って朝鮮へ渡海し、久保没後は遺骸に供奉して帰国した。三回忌に夢告を受け、九月八日に皇徳寺で殉死したと記され、享年三十一。
HP-0633 山本帯刀
山本帯刀は高麗へ渡海したと記される。本文は海外軍役だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、具体的な戦闘、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0634 山本六左衛門
山本六左衛門は島津義久(龍伯公)に供奉して高麗へ渡海したと記される。本文は主君と海外供奉のみを伝える一行記事で、出自、役職、知行、具体的な軍功、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0635 山木大蔵介
山木大蔵介は島津尚久の家臣。山本三河守と同じ合戦の際、尚久の大太刀を用いて城門を切り破った人物とされる。
HP-0636 山木弾右衛門
山木弾右衛門は島津河内守忠倍に殉死した三人のうちの一人と記される。本文は主君と殉死の事実だけを伝える一行記事で、出自、役職、知行、具体的な殉死の年月日・場所、享年、法名、墓所は記載しない。
HP-0637 山路市兵衛
山路市兵衛は高麗へ渡海したと記される。本文は海外軍役だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、具体的な戦闘、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0638 山路十右衛門通吉
山路十右衛門通吉は島津義弘(惟新公)に供奉して高麗へ渡海したと記される。本文は主君と海外供奉のみを伝える一行記事で、出自、役職、知行、具体的な戦闘、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-0639 讃右衛門
讃右衛門は歳久に殉死した二十七人の一人。法号を鉄面玉肝禅定門と記す。
HP-0640 四本忠綱
四本忠綱。伊集院の士で、地頭三原左衛門佐に従って島原陣に出陣した。
HP-0641 四本八兵衛
四本八兵衛。四本半九郎の養子で、関ヶ原に戦死し、軍忠により知行四十石を加えられた。
HP-0642 四木主税介
四木主税介。天正十年に没した。
HP-0643 姶良新次郎久次
姶良新次郎久次は、島津師久の次男三郎左衛門久安を祖とする姶良氏の後裔で、次郎右衛門久近の子。鹿児島衆に属し、天正十三年八月十三日、肥後堅志田城攻めの八文字口で比類なく働いて戦死した。
HP-0644 市来下総
天正年間の御軍談合六十四人の一人。天正十四年正月の新納忠元の肥後出陣に際し、下総らを連れて敵を降らせたとの記事がある。
HP-0645 市来嘉兵衛
島津忠長の家老。庄内で戦死した。具体的な戦場や戦死年月日は本条には記されない。
HP-0646 市来家綱
清十郎。軍助の二男、幸雲の婿養子。忠恒の朝鮮出兵に御荷物役として供奉し、慶長三年十月一日、泗川で敵中へ斬り込み戦死。
HP-0647 市来家次
備中守・十郎左衛門。天正六年の大友氏との戦いと十五年の高城籠城で軍労。新納院高城へ召され、子家林も父と同地に住んだ。
HP-0648 市来家治
小四郎。義久に目見えして鹿児島へ召され、家久の御納殿役を務めた。琉球本島・宮古・八重山の検地を指揮し、馬と腰物を拝領。
HP-0649 市来家守
美作守・八左衛門尉。野尻地頭を務め、水俣・根白城の陣に出陣。妻は新納忠元の妹、嫡子は市来軍助。没年月不詳。
HP-0650 市来家住
御平様と義虎の婚姻に伴って和泉に赴き、のち国分様に奉仕した人物。子の家正・孫の家幸の系譜と、家幸の鹿児島移住も記す。
HP-0651 市来家諸
出水義虎の家老・高尾野地頭。文禄三年二月二十八日戦死の記載があるが陣・没地は不明。別掲の民部大輔家諸との同人関係は留保。
HP-0652 市来家朗
備前守・小四郎。父の戦死後十一歳で腰物を拝領。日向松山地頭、佐土原番を務め、大友氏と戦い、天正八年に矢崎城で戦死した。
HP-0653 市来家政
竹内家に養子入りした民部左衛門の嫡子。家政の代に市来姓へ戻り、たびたび上方への使者となった。後嗣家賀の役職とは区別する。
HP-0654 市来家繁
市来軍助の子。朝鮮へ供奉し、慶長七年には忠恒の使者として家康に拝謁。琉球出兵では与頭を務め、のち忠朗付きとして加治木へ移り、七百十二石を領した。寛永十三年五月没。
HP-0655 市来家保
曽祖父家康以来、代々薩州家に仕えた市来氏の人物。本人は加世田で討死した。
HP-0656 市来家利
備後守家保の子。父と加世田城を守り、貴久公に奉仕。弘治元年の帖佐岩野原合戦で軍労。後段の戦死記事・法名は帰属留保。
HP-0657 市来清左衛門
大口の士。慶長十六年二月二十日の貫明公殉死者十五人の一人、二十六歳。法号は瑞翁良玉居士。福昌寺御廟前の墓石位置が記される。
HP-0658 市来左中
竹内家の「タ」の部へ案内する参照項目。前掲の備後守家政と同一人物かという脇注があるが、同人確定は留保する。
HP-0659 市来三郎次郎
天正十二年十一月二十六日、肥後日平城で敵と刺し違えて戦死。子孫は加世田におり、伊集院美作守の書状が出典として挙げられる。
HP-0660 市来宗教
源四郎。加治木から朝鮮へ供奉し、「番船破之時打死」と記される。伏見城攻めの同名者とは、父子か不明との注がある。
HP-0661 市来宗豊
五兵衛・十郎右衛門。島原一揆に際する光久公の下向に供奉した。家系小注の御兵具奉行は別人の記載として扱う。
HP-0662 市来常円坊
元和期の高帳に名が載る人物。年数は六年・八年の判読を留保する。石高や所領地、具体的な奉公は本条に記されない。
HP-0663 市来善兵衛
天正二十年七月、一条戻橋で晒された晴蓑公の首を、宝林庵周椿に付けられて指宿某と奪取した人物。
HP-0664 市来掃部介
元和八年に鹿児島へ召し移された掃部介。前年十二月五・六日に犬追物の射手を務め、「八文字授部介」と名乗ったと記す。
HP-0665 市来孫左衛門
大口衆。慈眼公の朝鮮御供。虎獲得時の矢祭を務め、泗川勝利後は城外に首を埋める塚の築造を命じられた。
HP-0666 市来肥前守
出水義虎の家老。諱や在職年月、具体的な軍役・最期は本条に記されない。隣接する民部大輔家諸の御使衆記事とは区別する。
HP-0667 市来彦六
清水の士。天文二十三年八月二十九日、加治木市口の合戦で討死した人物。
HP-0668 市来縫殿介
伴左衛門ともいう実久方の人物。出水の兵七人の一人として神前城を守り、貴久へ降参した。
HP-0669 師市左衛門宗武
師市左衛門宗武は惟新公に従って朝鮮へ渡海した人物。また、永禄年間に加治木奉行を務めたと記される。
HP-0670 志賀安房守
志賀安房守は大友家老志賀阿波守の子で管ヶ迫城主。義久へ内通し、豊後撤退後は薩摩へ移って五十石を受けた。
HP-0671 志賀喜兵衛
志賀喜兵衛は大友家一族で志賀城主とされ、入田宗和と同様に義久へ内通し、豊後撤退時に薩摩へ逃れた。
HP-0672 志賀式部
志賀式部は志賀道益の弟。大友義統改易後、子と肥後から薩摩へ下り、島津家への奉公を願い出た。
HP-0673 志賀道益
志賀道益は道輝の子。大友義統の勘気を受け管ヶ迫城付近に隠住し、入田方と結んで島津方との連絡に関わった。
HP-0674 志岐小左衛門親呂
志岐小左衛門親呂は鎮経の孫、親重の二男。志岐氏の遠祖から島津・加藤両家への奉公、子孫の薩摩帰参を伝える。
HP-0675 志摩出雲守
志摩出雲守は北郷加賀守三久の家来で、関ヶ原からの退却に供奉した。
HP-0676 志和地忠縄
志和地治部太輔忠縄は伯耆守豊久の系統で、忠光の子。勝久没落後に北郷家へ仕え、豊後国で戦死した。
HP-0677 指宿忠次
能登守指宿忠次。記事は子忠政の朝鮮・関ヶ原での軍功と没日、孫内蔵助の出水移住・150石を伝える。引用墓誌の事績は忠次かとの注があり帰属未確定。
HP-0678 児玉四郎兵衛
児玉四郎兵衛は四ヶ所に居住し、日新公に奉公した人物。本文は居所と奉公先を簡潔に記し、子孫にも児玉四郎兵衛を名乗る者がいたと伝える。
HP-0679 児玉備前守
児玉備前守は児玉四郎兵衛の子で、父と同じく日新公に奉公したと記される。近衛家または家久公に関係する御書を拝領したとの伝承も載せるが、本文自身が年代の不一致を指摘している。
HP-0680 児玉弥兵衛
児玉弥兵衛は御道具衆に属し、惟新公の旗差を務めて朝鮮出兵に供奉した人物。本文は所属、役目、奉公先と朝鮮渡海を一行で伝える。
HP-0681 児玉筑後守利昌
東郷重位の門人で示現流皆伝。朝鮮・庄内・琉球の軍役に従い、国分で御船奉行・兵具奉行・納殿役、姶良地頭を務めた。墓は興国寺。
HP-0682 寺山出羽守久兼
寺山直久の子、入道定雲。朝鮮の望津で二百余人を率いて守備し、偽装と伏兵で敵を撃退した。泗川追撃、庄内陣の市成・恒吉城守備にも従事。
HP-0683 寺山出羽守久豊
寺山出羽守久豊は寺山久兼の子で、母は川上彦太郎忠照の女。泊地頭を務めたと記される。
HP-0684 寺山甚右衛門
寺山甚右衛門は朝鮮出兵に供奉した人物。泗川の戦いでは黒威の鎧を着用したと注記される。
HP-0685 時任義高
時任義高(明覚坊)。義状の子。伊東・大友との合戦で功があった。子に金蔵院義信、孫に良賢院義照。
HP-0686 時任義状
時任義状(伊予守・源三郎)。日新公に奉仕して功があった。子孫に時任慶左衛門。
HP-0687 鹿屋兼豊
鹿屋領主。弘治二年八月十七日、日州国合原で北郷氏と戦い、嫡子兼任とともに戦死した。
HP-0688 鹿島徳安
鹿島徳安(七右衛門)。猿渡信光の弟で鹿島重国の養子となり、羽月の地頭代を務めた。
HP-0689 鹿島貞国
鹿島貞国(駿河守、初右衛門)。朝鮮に従軍し、近衛信輔の帰洛案内、屋敷割・琉球検地奉行を務めた。
HP-0690 執印吉太郎友則
執印吉太郎友則は朝鮮出兵に供奉し、番船破損時に南海島へ上陸した五百人の一人。
HP-0691 篠原平左衛門宗次
篠原平左衛門宗次は喜入忠続に殉死した二人の一人で、忠続墓の後ろに葬られた。
HP-0692 篠原善内
篠原善内は東郷重位門下の示現流名人。伊集院休左衛門との斬り合い後、吉野橋口で死んだという。
HP-0693 篠原大蔵助清原篤次
篠原大蔵助清原篤次の記事は畠山氏から篠原・清原氏へ至る系譜、大坊島での討取、義久奉公を伝える。
HP-0694 篠原新左衛門篤典
篠原新左衛門篤典は篤明の子で、朝鮮渡海に軍功があった。子の篤能は流落して商人となった後、光久に召し出された。
HP-0695 篠原新左衛門篤明
篠原新左衛門篤明は篤次の子。吉田で義久へ魚を献上し、子孫も正月二日の鮮魚献上を続けた。
HP-0696 本田主水親智
本田主水親智は武勇絶倫と評された武士。朝鮮出兵の泗川追討で石橋を守る多数の敵へ斬り込み、胸板付近を射られて川上源三郎らの介抱を受け、その姿は合戦屏風にも描かれたという。
HP-0697 種子島久時
種子島久時(左近太夫、一琢)。兄時次の早世後に家督を継ぎ、島津義久に仕え、庄内陣などに従軍した。
HP-0698 種子島恵時
種子島恵時(加賀守、意釣)。種子島氏の由緒を伝え、天文十二年に渡来した鉄砲を購入した人物。
HP-0699 種子島時堯
種子島時堯(左近将監、円釣)。日新斎の婿で、父恵時との対立後に帰参し、種子島家を率いた。
HP-0700 種子島時次
種子島時次(左兵衛尉)。時堯の嫡子として家督を継いだが、若くして没した。
HP-0701 種子島時初
種子島時初(武蔵守)。恵時の二男で、牛根城攻めの軍功により武蔵守の名と鎧を受けた。
HP-0702 種子島時貞
種子島時貞(二郎右衛門尉)。馬術・犬追物・鉄砲術に優れ、久志地頭を務めた。
HP-0703 種子島忠時
種子島忠時(左近太夫、武蔵守)。島津家久の婿で、江戸使者を重ね、種子島の所領四千石余を受けた。
HP-0704 酒瀬川豊前兵衛
酒瀬川豊前兵衛は酒匂武安の子と推定される。天正十四年頃、吉利下総守の使者として豊前兵衛の名が見え、吉利下総守が三城地頭、武安も三城の人であることを推定の根拠とする。