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本藩人物誌の目録

人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。

全2,174件中 501~600件・6 / 22ページ

  1. HP-0505 佐多久政

    佐多常陸介久政は又太郎。忠将の子で天文十五年生。

  2. HP-0506 佐多久昌

    佐多三河守久昌は宮内少輔久友の系統とされるが、詳しい出自は不明。武芸を学び、薩州高谷氏攻めで戦功を挙げ、永禄年間に十人を率いて水引城主となった。

  3. HP-0507 佐多久朝

    佐多狩野介久朝は入道安心、経久の子。京都遊学中、門之浦海賊事件で佐多久慶に嫌疑が及ぶと、角倉家から久慶の知行目録を質に金を借り、三奉行へ働きかけて無実を説明し、久慶を救った。

  4. HP-0508 佐多久頼

    佐多加左衛門久頼は入道祥雲。関ヶ原合戦では、幼少の家督忠充に代わる軍代・狩野介久朝に従軍した。

  5. HP-0509 佐多久良

    佐多吉左衛門久良は長松丸、天正九年生。慶長二年、朝鮮で新納図書忠長を訪ね、その姉を母とする縁から忠長の宿所に滞在して従軍した。

  6. HP-0510 佐多経久

    佐多備中守経久は又七郎、宮内少輔とも称した。佐多氏の支流系譜を載せ、本文では備中守猛久の二男とする。

  7. HP-0511 佐多忠恒

    佐多宮内少輔忠恒は忠利の子。本文は五月晦日に没したことと、法名を徳翁道本居士とすることだけを記す。

  8. HP-0512 佐多忠治

    佐多丹波守忠治は又八郎、忠充の子。慶長十年生、母は鎌田蔵人政富の娘。

  9. HP-0513 佐多忠充

    佐多久慶の嫡子。知覧本領を返付され、鹿児島へ移住。犬追物射手・知覧地頭を務め、大坂出陣には五十八人を率いて従った。

  10. HP-0514 佐多忠将

    佐多伯耆守忠将は又太郎、入道牛賢。忠成の嫡子で永正十四年生、母は島津相模守運久(一顕斎)の娘。

  11. HP-0515 佐多忠真

    佐多兵部少輔忠真は、佐多家八代忠成(入道半門斎)の二男。兄忠将(入道牛賢)が幼少時から病身であったため、忠将に代わって公儀向きの諸奉公を務めたと記される。

  12. HP-0516 佐多忠成

    佐多上野介忠成は又太郎、入道半門斎(清久)。佐多家七代で、伯耆守忠和の嫡子。

  13. HP-0517 佐多忠増

    佐多越後守忠増は忠真の子で、永禄五年生。義久・義弘に従い、高原、高城、水俣、八代、肥後甲佐、豊後戸次などで軍功を重ね、天正十八年には島津久保勢の新馬十六騎として小田原から忍城へ進んだ。

  14. HP-0518 佐多忠辰

    佐多紀伊介忠辰は四郎次郎。紀伊介久慶の子とされ、日向清武や上別府などへ移り住んだ。

  15. HP-0519 佐多忠利

    佐多六郎兵衛忠利は六郎次郎、忠増の子。慶長年間の庄内御陣に従軍した。

  16. HP-0520 佐谷田重正

    佐谷田覚右衛門重正は重忠の嫡子。父の戦死時は乳児で、祖父重道に養育され、島津義弘から覚右衛門の名と品々を与えられた。

  17. HP-0521 佐谷田重道

    佐谷田武蔵守重道は重治の嫡子。天文二十三年の岩剣合戦で敵一人を討ち、主君の退却が危うい際には敵中へ駆け込み、頭を斬られながら支えて退却を助けた。

  18. HP-0522 佐谷田重忠

    佐谷田後藤兵衛重忠は佐谷田重道の嫡子。元亀三年、伊東氏との戦いで木崎原において戦死し、二十五歳だった。

  19. HP-0523 佐竹義昭

    佐竹光明坊義昭は関東佐竹氏の出身で、次郎と称した時に佐竹源左衛門に従って武名修行に出、薩摩へ来て留め置かれ、兵道の伝授に関わったのち光明坊となった。夢に摩利支天が現れて仕えるよう告げられたため諸国を武者修行したという。

  20. HP-0524 佐竹建光院

    佐竹建光院は佐竹義昭の子孫と推定される。島津家久の病中、祈祷所として崇敬された稲荷を建光院に命じて祀らせたという。

  21. HP-0525 佐藤五右衛門

    佐藤五右衛門は高麗御供、すなわち朝鮮役への供奉者として名を載せる。本文はこの一行だけで、実名、父母・系譜、主君、役職、知行、渡海年、具体的軍功、生没年、法名、墓所は記さない。

  22. HP-0526 佐藤清左衛門

    佐藤清左衛門は「右同断」とあり、直前の佐藤五右衛門と同じく高麗御供、すなわち朝鮮役への供奉者と判断される。本文はこの一行だけで、実名、父母・系譜、主君、役職、知行、渡海年、具体的軍功、生没年、法名、墓所は記さない。

  23. HP-0527 左京坊

    忠平の内衆。天正十年に筑後の田尻方へ荒武某と派遣され、八代へ戻り籠城の情勢を絵図で報告した。

  24. HP-0528 座頭了公

    日新公の命で南郷城主桑波田孫六の動静を探り、外出を知らせて落城に貢献した盲僧。後に寿長院と称したという。

  25. HP-0529 最上土佐守義時

    最上義時は寛永八年、琉球へ冠船が渡来した際、新納忠清とともに渡海したと記される。

  26. HP-0530 財部盛弘

    財部盛弘(伝内兵衛)。種子島氏の一族とされ、日向財部を領した家の出で、諸戦に働き飯野攻めで深手を負って死んだ。

  27. HP-0531 財部甚次

    財部甚次。朝鮮陣の供奉者で、財部盛清と同一人物ではないかとの注記がある。

  28. HP-0532 財部盛秀

    財部盛秀(淡路)。盛明の二男で家督を継ぎ、島津義弘の馬術の弟子として御厩別当を務めた。

  29. HP-0533 財部盛清

    財部盛清(甚兵衛)。盛明の子で朝鮮へ従軍し、敵中を突破して使者を務めたが、同年十一月の船戦で戦死した。

  30. HP-0534 財部盛明

    財部盛明(伝右衛門)。盛弘の子で朝鮮へ従軍し、慶長五年の伏見城攻めで城内へ突入して戦死した。

  31. HP-0535 坂元番左衛門

    坂元番左衛門は惟新公(島津義弘)に従って高麗へ供奉した。義弘没後の元和五年八月十六日、加治木実窓寺川原で殉死した人物と記される。

  32. HP-0536 坂元次郎太郎

    坂元次郎太郎は吉左衛門の子。肥後矢崎で戦死した。

  33. HP-0537 坂元新左衛門

    坂元新左衛門は、天正十二年に福昌寺へ籠もった科人を討った人物として『上井覚兼日記』に見える。坂元氏の祖は後藤右衛門大夫で、島津忠久の下向に供奉し、鹿児島の坂元名を知行して坂元を称したという。

  34. HP-0538 坂元孫左衛門

    坂元孫左衛門は入道で、慶長年間の人物。江戸で罪を得て欠落した坂元織部を生け捕り、その褒美として六十石を与えられた。

  35. HP-0539 坂元通次

    坂元平右衛門通次は七百石余を領したと記される。別に「坂元右衛門」とする表記も載せる。

  36. HP-0540 坂元通宣

    坂元平右衛門通宣は通次の子で、永禄三年生まれ。惟新公(島津義弘)に召し仕え、出家後に喜庵の名を与えられた。

  37. HP-0541 坂元通詮

    坂元与左衛門通詮は通宣の子で、入道して喜庵と号した。本文は通称・諱・入道号と父子関係だけを記し、主君、役職、知行、奉公・軍役、生没年、法名、墓所は載せない。

  38. HP-0542 坂元彦右衛門

    坂元彦右衛門は高麗へ渡海し、泗川合戦では赤糸の具足を着用していたと記される。本文はこの二点だけで、実名、父母・系譜、主君、役職、知行、渡海年、泗川での具体的軍功、生没年、法名、墓所は載せない。

  39. HP-0543 鮫島雅楽介

    鮫島雅楽介は鮫島左又左衛門の養子で、実父家では永吉采女の弟にあたる。十二歳で養子となった。

  40. HP-0544 鮫島四郎兵衛

    鮫島四郎兵衛は、鮫島四郎宗家から十六代にあたる玄蕃允宗延の弟。天文二十四年正月十二日に戦死した。

  41. HP-0545 鮫島宗家

    鮫島四郎宗家は駿河国に住み、源頼朝に属して石橋山合戦で功を立て、薩摩国阿多地頭を与えられて下向し、川辺山口も併領したと伝える。記事は子の刑部家高(入道行願)から家景・蓮道らを経る家系を連記し、後裔が島津貞久・師久・久豊らに奉公したこと、加世田・知覧・指宿の領有、代官勤務、日州での戦死などを記す。

  42. HP-0546 鮫島宗季

    鮫島藤兵衛宗季は宗直の子。佐土原で奉公していたが、佐土原が公儀領となった際に鹿児島へ移った。

  43. HP-0547 鮫島宗喬

    鮫島五郎三郎宗喬は、刑部介家高の三男・四郎左衛門兼家から九代の孫にあたると記され、島津日新斎に奉仕した。子孫に関する寺院・家名らしき付記がある。

  44. HP-0548 鮫島宗尭

    鮫島大蔵宗尭は宗儔の後嗣で、実は木脇若狭守祐光の二男。永禄十二年生まれで、母小侍従に関する出生の経緯を『諸家系図』から引く。

  45. HP-0549 鮫島宗継

    鮫島日向守宗継は入道孤船。本文は日新公に召し仕えた由緒を付記し、宗定・宗秀・宗秋・宗昌・宗豊らから次左衛門家・与市兵衛家などへ分かれる子孫の系図を掲げる。

  46. HP-0550 鮫島宗次

    鮫島孝左衛門宗次は宗昌ともいい、宗俊の子。母は鎌田吉左衛門の娘。

  47. HP-0551 鮫島宗秋

    鮫島備後守宗秋は、初め次郎左衛門と称した。子に鮫島次左衛門がいたと記される。

  48. HP-0552 鮫島宗俊

    鮫島筑右衛門宗俊は高山から鹿児島へ召し移され、御納戸役を務めた。高麗出陣では五百石軍役で渡海し、名護屋で兵具奉行を担当。

  49. HP-0553 鮫島宗昌

    鮫島備後守宗昌は入道宗察、宗秋の子。諸所で軍功があったという。

  50. HP-0554 鮫島宗曹

    鮫島土佐守宗曹は入道雙月。父を但馬、その父を因幡とする。

  51. HP-0555 鮫島宗直

    鮫島与助宗直は宗能の子。樺山善久の娘が中務家久へ嫁ぐ際に供奉して佐土原へ移り、同地で奉公した。

  52. HP-0556 鮫島宗当

    鮫島次郎左衛門宗当は宗尭の婿養子で、実は鮫島筑右衛門宗俊の三男。承応三年三月三日に五十五歳で没し、法名は興昌清降居士と読める。

  53. HP-0557 鮫島宗能

    鮫島五郎左衛門宗能は宗次の養子で、実は鎌田左京政徳の二男。牛根地頭を務めた。

  54. HP-0558 鮫島宗儔

    鮫島次郎三郎宗儔は宗昌の子。天正十二年十月二十五日、肥後八代で戦死し、二十一歳だった。

  55. HP-0559 鮫島助六

    鮫島助六は、天正三年十月二十一日の御犬追物で「喚次」を務めたと記される。本文はこの役務だけを載せ、系譜、知行、軍役、生没年、法名、墓所は記さない。

  56. HP-0560 鮫島少左衛門

    鮫島少左衛門は島津豊州久賀に殉死し、五十三歳だった。墓は久賀の側にあると記される。

  57. HP-0561 鮫島宗能

    鮫島隼人宗能は宗喬の子。島津日新斎の姫が樺山善久へ嫁ぐ際に供奉を命じられ、そのまま樺山家へ移って奉公した。

  58. HP-0562 鮫島文左衛門

    鮫島文左衛門は雙月の子。大永六年頃に田布施地頭を務め、三ヶ山で戦死した。

  59. HP-0563 鮫島与五郎

    鮫島与五郎は「高麗御供」とだけ記され、朝鮮役に供奉した人物である。渡海年、主君、役職、知行、具体的軍功、系譜、生没年、法名、墓所は載せない。

  60. HP-0564 皿良貞行

    皿良善助貞行の記事は、皿良氏を桓武天皇の後裔とし、川越太郎重頼の子孫が河内国讃良郡に住んで皿良を称したとする由緒を載せる。十六代の大膳貞秀は島津貴久から宝刀を拝領したという。

  61. HP-0565 皿良貞増

    皿良権左衛門貞増は幼名銀八、貞資の次男で慶長五年生まれ。兄二蔵貞勝が早世したため家督を継いだ。

  62. HP-0566 三浦三左衛門

    三浦三左衛門は高麗御供として朝鮮へ渡り、南海島を取った五百人のうちの一人と記される。

  63. HP-0567 二見源右衛門

    二見源右衛門は高麗出兵に供奉し、現地で死去したと記される。後続記事では二見俵右衛門の父とされ、島原籠城の際には、幼少の俵右衛門に代わって二見内蔵丞らと米津まで赴いた人物としても記される。

  64. HP-0568 二見石見

    二見石見は去川御関所の警固を命じられ、知行百石を与えられた。関ヶ原から惟新公が帰国する際、高鍋の名貫川まで人馬を差し出し、自身は佐土原まで出迎えたと記される。

  65. HP-0569 二見内蔵丞

    二見内蔵丞は島原籠城の際、幼少の二見俵右衛門に代わって、その父源右衛門および休右衛門ら上下十人と米津まで出向いた。しかし、すでに落城していたため帰還し、その後は二見両家で去川御関所を固めたと記される。

  66. HP-0570 二見俵右衛門

    二見俵右衛門は二見源右衛門の子。島原籠城の際は幼少であったため、父源右衛門と二見内蔵丞・休右衛門ら上下十人が米津まで出向いたが、すでに落城していたので帰ったという。

  67. HP-0571 三原右京亮

    田置地頭。高原・矢崎城攻めの軍功と高城籠城が記される。

  68. HP-0572 三原重益

    日新・貴久・義久の三代に奉公し、家老・帖佐郷地頭を務めた。入道呂安。

  69. HP-0573 三原源六

    歳久の家来。谷川を渡る歳久が銃撃された際に負傷し、後に殉死したと記される。

  70. HP-0574 三原市右衛門

    与三左衛門の子。光久初入部の道中で代官役を務め、小荷駄で江戸へ上った後、騎馬に取り立てられた。

  71. HP-0575 三原志摩守重時

    重房の養子で、実は平田重張の二男。御納戸奉行を務め、高岡外城への召置記事に名がある。

  72. HP-0576 三原七左衛門

    朝鮮出兵に供奉したと記される人物。

  73. HP-0577 三原舎人

    市右衛門の子。綱久の天流の槍術稽古を指導し、供奉した。

  74. HP-0578 三原重英

    重貞の子。家久の姫君の御船奉行と百次地頭を務めた。

  75. HP-0579 三原伊豆守

    藤次の子。忠良の使者として平松の陣へ赴き、貴久の御納殿役を務めた。

  76. HP-0580 三原重行

    重実の子で伊作地頭。犬追物の射手次郎左衛門と同一人物かは、本文でも留保される。

  77. HP-0581 三原重次

    重益の子。天文二十三年九月、帖佐岩剣城下の生原で戦死した。

  78. HP-0582 三原重実

    備中守を称し、貴久に奉仕した人物。後続の伊作地頭・犬追物などは子孫の記事。

  79. HP-0583 三原重種

    重宗の養子。朝鮮出兵・庄内出陣を経験し、家久の家老役として大坂出陣や江戸への使者を務めた。

  80. HP-0584 三原重宗

    重次の子。兵部少輔を称し、高麗で病死した。重種は養子。

  81. HP-0585 三原重長

    伊豆守の子。貴久の御荷物役から中務家久の佐土原家老となり、後に鹿児島へ移って生根地頭を務めた。

  82. HP-0586 三原重貞

    重行の子。入道永安と称し、御香番・御船奉行・物奉行を務めた。

  83. HP-0587 三原重房

    源三郎を称し、天正四年八月十九日に高原城で戦死した。

  84. HP-0588 三原重庸

    家久の家老役。島原出陣で軍令伝達を担い、城攻めでは矢を射て兜の立物を撃ち切られた。

  85. HP-0589 三原重隆

    兵道に優れ、伊集院孤舟の師とされる。小田有信への加勢・高城籠城や岩屋城攻めの記事を載せる。

  86. HP-0590 三原藤二

    重長の二男。関ヶ原で戦死し、佐土原の大昌寺に墓があると記される。

  87. HP-0591 三原重朝

    重種の二男。上原右衛門佐の養子となり、のち三原氏へ復姓した。

  88. HP-0592 三原彦次郎

    朝鮮出兵に供奉したと記される人物。

  89. HP-0593 三原与三左衛門

    関ヶ原で戦死した人物。子の市右衛門、孫の舎人の奉公記事が続く。

  90. HP-0594 霧立安右衛門

    霧立安右衛門。本文には『左司』との注記があるが、事績は記されない。

  91. HP-0595 山越右衛門鎮幸

    山越右衛門鎮幸は肥後山鹿の住人で、慶長年間に島津家へ出仕し、山越氏を称した。寛永六年九月三日没、法名は秋岸月窓居士と読める。

  92. HP-0596 山下三右衛門武綱

    山下三右衛門武綱は山下長門守武盛の子。武盛は志岐氏に属したのではないか、との注記がある。

  93. HP-0597 山県壱岐守

    祁答院良重の一族・家臣の欄に名が挙がる。

  94. HP-0598 山元壱岐守

    山元壱岐守は養子となり、十六歳の時から高麗へ召し連れられて供奉したと読める。その後は妻子とともに江戸へ詰めた。

  95. HP-0599 山元備前守

    山元備前守は山元五郎左衛門とも記される。日向方面への進出時に手柄を立て、肥後隈庄近辺を攻めた際には分捕の功があったという。

  96. HP-0600 山元備前守の子

    山元備前守の子は、父と同じく備前守と記された可能性があり、島津義弘(惟新)に召し仕えられた。本文は父子関係と奉公先だけを記す一行の記事で、実名、通称、具体的な役職、軍役、知行、居所、生没年、法名、墓所は記載しない。

  97. HP-0601 山口仁兵衛

    山口仁兵衛は山口甚左衛門の子。加治木から鹿児島へ召し移されたと記される。

  98. HP-0602 山口太次郎

    山口太次郎は天文二十三年九月、帖佐の合戦で戦死したと記される。本文は戦死の年月と場所のみを伝える短い記事で、出自、主君、役職、知行、家族関係、具体的な戦闘経過、法名、墓所は記載しない。

  99. HP-0603 山口大蔵允

    山口大蔵允は永禄七年、島津忠平に従って飯野へ移された八十人の一人。曾木越中と吉松城の地頭代を務め、軍談合人数五十四人にも数えられた。

  100. HP-0604 山口直行

    山口五郎兵衛直行は対馬国出身で、山口駿河守直友の弟とされる。庄内の乱後に直友と親交が深まり、直友が毎年受けた千石の所務から扶持を与えられ、島津家へ召し抱えられた。