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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 2101~2174件・22 / 22ページ
HP-2116 座頭三徳院真成
初め菊一。加久藤三宝院の惣督で、真幸五邑から日向十三邑の座頭を統率し、敵境の情報収集に功があった。
HP-2117 黒江氏女(少納言)
於松とともに夫人に従って帰国した女性。後に有川早左衛門に嫁いだと朱注に記す。
HP-2118 藤子
少納言とともに夫人に従い、於松と帰国したと朱注に記される女性。
HP-2119 樺山善久妻
日新公の次女。嫡子の蒲生での討死後に出家し、天正十八年の死去に際して竜伯が追悼文と歌を寄せた。
HP-2120 肝付刑部少輔
肝付一族・家臣の部に名前のみ載る刑部少輔。具体的な経歴は記されない。
HP-2121 白坂下総守
志和地の主将。天文十一年八月二十日、庄内小山河原で戦死した。
HP-2122 宮地氏
栗野地頭。北原氏の内乱後、北原下総介に栗野城を襲われ、追い出されたと記される。
HP-2123 伊集院新右衛門
都城内の人物群に載る。薬丸の注記の次に独立した氏名がある。
HP-2124 平田増宗三男(出家・名不詳)
増宗の三男。出家しており、父の罪科によって琉球の勝連島へ配流された。
HP-2125 平田治部卿
増宗の四男。硫礦島へ配流されたと記す。
HP-2126 日置善左衛門
冊子251頁の城別名簿で、梅北城に対応する人物として記される。
HP-2127 日置覚内
梅北城に対応する名簿に「同覚内」と載り、直前の日置姓を受ける人物。
HP-2128 渋谷仲左衛門
梅北城に対応する城別名簿で、日置姓の二人に続いて氏名が載る。
HP-2129 木佐貫四郎左衛門
朝鮮出兵に供奉した人物。本文には「高麗御供」とのみ記され、渡海年や主君は示されない。
HP-2130 城井三郎兵衛
浜之市衆。中務豊久に従って関ヶ原へ出陣し、亀井武州への鉄砲衆加勢に加わった。本文の戦死説は推測。
HP-2132 三原藤次
日新公に仕え、加世山で戦死したと記される。年号は追加確認を要する。
HP-2131 三原遠江守重時
三原重庸の子。遠江守・次郎四郎と記される。
HP-2133 松岡千熊
松岡勝兵衛の子。十三歳で島津義弘に召し抱えられ、翌年十四歳で大垣から関ヶ原へ供奉。帰国まで義弘のそばを離れず仕え、感状と百石を与えられた。
HP-2134 伊地知越後守(諱字形保留)
伊地知周防守重貞の二男。父兄が討たれた後、大中公に召し出され七島地頭となった。後裔重房の軍役・琉球検地などの家伝を付す。諱の字形は保留。
HP-2135 伊勢貞末
初め有川長門守、入道如閑。谷山などの地頭を務め、竜伯の上洛に供し、文禄元年十一月七日没。子貞明の朝鮮御供・物奉行・大坂横目の記事が続く。
HP-2136 仁礼忠頼
初め宮原覚兵衛尉景親。東郷重位から剣術を学び、寛永十八年没。墓は加世田の日新寺。
HP-2137 北郷忠増
忠孝の子、左近大夫。豊後大鶴で病死したと記すが、没年や滞在理由は不明。
HP-2138 北郷久延
忠増の子で財部地頭。忠治へ家督を譲り、忠盤と平佐へ移って三久に奉公した。
HP-2139 北郷忠治
久延の嫡子で舎人佐。家督を継いだ後、都城から出奔し松平下総守に仕えたと伝える。
HP-2140 北郷忠盤
久延の子で父とともに平佐へ移住。出生順に異記があり、久加との関係を記す末尾字句は判読留保。
HP-2141 北郷久盛
久廈の子、蔵人。天正6年11月13日、日州新納院高城で討死。
HP-2142 北郷主膳正(諱判読留保)
久盛の子。初蔵人、高城地頭。慶長15年から寛永5年まで家老、寛永8年に再任。諱に判読疑義。
HP-2143 北郷久孝
主膳正の子で、次右衛門、初蔵人。本人の生没年や軍役は記載されない。
HP-2144 北郷久堅
久文の子、次郎四郎。神田右京久基(入道湘松)の父。本人の役職・軍役・生没年は記載されない。
HP-2145 神田久基
久堅の子。神田と号し、右京・入道湘松を称した。時久の家老で、原文に志和地の地頭と記す。
HP-2146 神田忠純
久基の子、右京亮。原文に志和地の地頭と記す。神田の姓は直前の人物を受ける同から補記した。
HP-2147 北郷久猶
久友の子、四郎兵衛。山之口地頭を務めた。久武の父で、久良は五男。朱書の二字注は判読保留。
HP-2148 北郷久武
久猶の子、四郎右衛門。山之口地頭。吉右衛門・入道堅心の養父だが、実際には堅心の兄。
HP-2149 北郷堅心
吉右衛門・入道堅心。久武の養子だが実弟と記される。北郷忠能の家老。梶山など三地名の役職は断定しない。
HP-2150 北郷久季
久明の子、伝五兵衛。野々美谷地頭と家老を務めた。家老の主君名と在任年月は記されない。
HP-2151 北郷久良
久猶の五男、与左衛門。久武と同じ父をもつ。役職・軍役・生没年はこの小伝に記されない。
HP-2152 北郷久幸
久利の嫡子。又六郎の妹との婚姻を経て家督を継ぐ。天文18年12月11日、飫肥平郷で戦死。忠真の実子とは記されない。
HP-2153 北郷久元
久幸の養子で、実父は紀伊守忠徳、五男にあたる。伊右衛門と称し、左京亮久盛を婿養子とした。
HP-2154 北郷久盛(左京亮)
伊右衛門久元の婿養子、左京亮。実父は出羽兵衛久綱と読めるが字形を留保し、その三男と記す。蔵人久盛とは別条。
HP-2155 北郷久兼
久尭の嫡子。慶長3年11月18日、朝鮮で討死した。討死地は泗海と読めるが留保。弟忠辰を養子とした。
HP-2156 北郷忠辰
久兼の弟で養子。幼名有尭丸、弥左衛門・勝兵衛を称し、入道耕雲。山田地頭久和の父。
HP-2157 北郷久和
忠辰の子。初め虎助、長三郎と称し、内蔵助の名で記される。山田地頭を務めた。
HP-2158 北郷久吉
久尭の二男。還俗して別家を立て、翁久上洛時に旅家老を務めた。帰国後に妻子と出奔し、松平遠江守へ奉公。
HP-2159 北郷久利(次郎右衛門)
久次の子。曽於郡地頭、のち梶山地頭。天文10年6月26日、高城諏方馬場で死去。次郎兵衛久利とは別条。
HP-2160 北郷久蔵
出羽守、入道一徳。時久の家老・梶山地頭を務め、祁答院大村で病死。久陸を婿養子とした。久利との関係は留保。
HP-2161 北郷久陸
久蔵婿養子で、実父は紀伊守忠徳、三男。時久の家老、忠能幼少時の補佐を務めた。慶長10年6月、勘気により退出、家断絶。
HP-2162 北郷久種
久陸の子、千次郎。慶長5年6月、祁答院大村で病死した。没日は朱記によれば6月24日。
HP-2163 北郷三郎四郎
北郷久剛の子。父と同時に討死。父の小伝は享禄元年5月1日、都城城ヶ尾での討死を記す。
HP-2164 北郷久信
尚久の子で野々美谷地頭。永禄元年11月4日、「飯能新山」と読める場所で討死。
HP-2165 北郷久栄
善兵衛、初め兵部少輔。野々美谷地頭。久規と忠持の父。久信との関係は留保。
HP-2166 北郷久規
久栄の子、弥左衛門。「安水」と読める地の地頭。久好の父。
HP-2167 北郷久好
久規の子。善兵衛、初め民部少輔。「安水」と読める地および梅北の地頭。
HP-2168 北郷忠持
久栄の二男。初め小吉、淡路守。朱記に主殿介。野々美谷地頭を務めた。
HP-2169 北郷久秀
忠持の子。与左衛門、初め大吉郎。父子関係と初名を伝える朱記の小伝。
HP-2170 北郷久親
忠直の子。永禄9年3月19日、恒吉宮ケ原で討死。久周の養父。
HP-2171 北郷久周
久親の養子、実は神田久基の嫡子。永禄11年2月20日、飫肥酒谷糸ケ峯で討死。
HP-2172 北郷久茂
久周の養子で実弟。実父久基の二男。新左衛門久満の養父。
HP-2173 北郷久満
久茂の養子、実は蔵人久盛の二男。忠能時代の家老、都城大岩田口地頭。
HP-2174 北郷久宣
久満の養子、実は北郷主膳の二男。初め又五郎。実父の諱の一字は判読留保。
HP-2175 北郷忠茂
久家の養子、実は久隆の子。山田地頭。天文17年7月6日、飫肥本城八幡馬場で討死。
HP-2176 北郷忠俊
忠茂の子、山田地頭。永禄11年2月21日、酒谷糸ケ峯で討死。久頼・権之助久次の父。
HP-2177 北郷久頼
忠俊の子、初め孫左衛門。山田地頭。文禄4年10月12日、朝鮮で病死。
HP-2178 北郷久永
久頼の子。初め孫市、忠尭。久直時代の家老。朱記に山田・志和地の地頭職。
HP-2179 北郷久次(権之助)
忠俊の二男、権之助。用棟の子・摂津介久次とは別人物として区別。
HP-2180 北郷忠徳(紀伊守)
久紹の子。安永地頭。源左衛門久観(入道宗英)の父。
HP-2181 北郷久観
忠徳の子、入道宗英。家老と安水地頭。朱時久の意味・補入位置は留保。
HP-2182 北郷忠泰
久観の子、都城大岩田口地頭。義弘の関ヶ原帰国に供奉。寛永8年8月7日、都城で切腹。
HP-2183 北郷忠俊(源左衛門)
忠泰の嫡子、忠能の家老。寛永8年、朱記の8月6日に鹿児島で切腹。図書助忠俊とは別人。
HP-2184 堀小左衛門
加世田に住み日新に奉公、郡山で戦死。子和泉守・孫大蔵の経歴は別に記す。
HP-2185 徳永与市左衛門
徳永与市左衛門。加治木の肝付氏の卒将。弘治元年三月八日、帖佐山田で戦死。
HP-2186 時任内蔵允
時任内蔵允。松齢公に仕え、帖佐・加治木に住み、朝鮮と関ヶ原に供奉した。
HP-2187 調所武金
書に巧みで、慶長十三年六月、心岳寺での慈眼公の連歌の執筆役を務めた。
HP-2188 知覧四郎左衛門
天文七年十二月二十九日、加世田城で戦死。
HP-2189 後醍院内蔵助義信
宗重の二男と記す。他邦への奉公記事があり、寛永六年七月二十八日、四十五歳で没。家督記事と小注には留保がある。