HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
伊集院忠朗
異名・検索語:伊集院忠朗/伊集院大和守忠朗/伊集院孤舟/伊集院源四郎/掃部助
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:冒頭の忠頼下の久・少輔等の小注と、次列の大和守信久之子忠公嫡子也の系譜接続は、拡大確認後も確定しない。/末尾の菩提寺名・寺内配置・石塔墓誌小注は細字の判読を留保する。永禄六年七十余は死去年・享年と解釈しない。/谷山合戦後に降参した城の名は字形を留保し、公開説明では城主と表記する。四代之孫忠真の断絶は後裔記事であり、忠朗本人の最期ではない。
DESCRIPTION
本文内容説明
伊集院忠朗は大和守、入道孤舟。初め源四郎、掃部助ともいう。日新公の家老・軍配役を務めた。天文五年、伊集院大田原城を忍び落とし、翌年上之山城を取り地頭となった。同八年の谷山紫原合戦後には城主の降参を取り次いだ。同十七年、宮内加勢を志願し、咲隈・生別府・清水方面を攻略。姫木城では北原方の番兵三十余人を国境へ送り返した。同十八年三月二十一日、三百余人を率いて飫肥へ向かい、四月三日に島津忠広と伊東義祐方を破り、同十日に清水へ戻った。同年の加治木攻めでは大将、同二十三年の岩剣攻めでは軍配を務め、勝鬨や太平の吐気を揚げた。永禄六年には七十余歳と記すが、没年月は不明と明記され、没地も記されない。法名は笑岳道観大居士。
系譜・人物関係
初源四郎、或云掃部助、大和守、入道孤舟。冒頭系譜の小注・接続は未確定。四代之孫忠真は後裔記事。次の独立見出し忠倉は孤舟の嫡子と記す。
奉公・役職
日新公の家老・軍配役。天文六年の上之山攻略後に地頭となる。
軍役・事績
天文五年大田原城、八年谷山、十七年宮内加勢と姫木城番兵送還。十八年三月二十一日飫肥へ三百余人、四月三日忠広と伊東方を破り十日清水へ帰る。同年加治木大将、二十三年岩剣軍配。
生没・法名等
没年月不明と明記、没地は記されない。永禄六年七十余歳は存命時の年齢記録。法名笑岳道観大居士。石塔・菩提寺細字は保留。
- 統合人物ID
- HP-0052
- 原人物ID群
- 01-001-01
- 氏・分類
- 伊集院
- 掲載巻頁
- 巻1:1
- 主題・活動
- 家老・軍配・地頭・援軍・降伏兵送還
- 人物関係要約
- 初源四郎、或云掃部助、大和守、入道孤舟。冒頭系譜の小注・接続は未確定。四代之孫忠真は後裔記事。次の独立見出し忠倉は孤舟の嫡子と記す。
- 検索キーワード
- 伊集院/忠朗/大和守/孤舟/源四郎/掃部助/日新公/貴久/家老/軍配/上之山/谷山/宮内/清水/樺山善久/姫木/北原/飫肥/忠広/三百余人/加治木/岩剣/勝吐気/太平之吐気/笑岳道観
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 通常AI各全2頁・原冊1頁を追加照合済。冒頭系譜・末尾細字は拡大確認後も一部留保。
- 公開判定根拠
- 本人の奉公・軍役を具体化し、系譜接続・城名・末尾小注の疑義を残して記載箇所へ案内する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- 上下段の同一人物記事を各1頁に収録。第1頁末樺山氏之から第2頁頭旧城へ接続。第2頁末の不見は石塔添記の続きであり次人物ではない。独立見出し忠倉は混入していない。PDF変更不要。
- 判読保留
- 冒頭の忠頼下の久・少輔等の小注と、次列の大和守信久之子忠公嫡子也の系譜接続は、拡大確認後も確定しない。/末尾の菩提寺名・寺内配置・石塔墓誌小注は細字の判読を留保する。永禄六年七十余は死去年・享年と解釈しない。/谷山合戦後に降参した城の名は字形を留保し、公開説明では城主と表記する。四代之孫忠真の断絶は後裔記事であり、忠朗本人の最期ではない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』