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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 1901~2000件・20 / 22ページ
HP-1916 別府舎人
慈眼公の納殿役を務めた。就任年月や具体的な職務は本文に記されない。
HP-1917 土持頼綱
摂津介。永禄11年に「○ヶ峯」で討死。没地の先頭字は判読留保。
HP-1918 土持重綱
摂津介、北郷忠能の家老。土持大炊介の養父。初めの通称「○右エ門」の先頭字は判読留保。
HP-1919 土持大炊介
土持重綱の養子。実は北郷四郎兵衛久猶の四男。大炊介と称し、本人の諱は記載されない。
HP-1920 唐仁原肥前
唐仁原肥前。永禄七年、松齢公に従って飯野へ移った六十人の一人。
HP-1921 北郷久利
忠総の子、次郎兵衛。稲留一夢斎から鉄砲術を相伝した。命令違反により誅殺され、墓は平佐の梁月寺にある。没年に異注。
HP-1922 本田親幸
本田親幸は左近将監、初名左市。本田親豊の養子で、北郷紀伊守忠徳の四男。
HP-1923 上床新助
歳久に殉死した二十七人の一人。法号は心安春波禅定門。
HP-1924 小川市右衛門
朝鮮出身。帰朝時に連れて来られ、加治木に住み、養蚕に巧みであった。
HP-1925 小川武明
紀姓平山氏の支族で、尾張守を称した。天正年間の牛根地頭。
HP-1926 小川四郎兵衛
島津歳久に殉死した人物。法号は丈身好夫禅定門。
HP-1927 小川与三左衛門
松齢公の中間。関ヶ原退去時に鞍を抱えて帰国し、感状と切米十石を賜った。
HP-1928 大脇利為
大脇利為(但馬、孫四郎、弥五右衛門)。定庵の子。朝鮮従軍・泗川合戦・庄内と関ヶ原への供奉を記す。
HP-1929 大河平隆重
隆堅の二男。幼少時に捕らえられ忠平公に取り戻された。朝鮮で軍役に従い、慶長三年に敵船上で戦死した。
HP-1930 大寺大学左衛門
天文二十三年九月晦日、帖佐原で戦死した。
HP-1931 上井兼道
里兼の嫡子。御使役・田布施地頭を務め、寛永七年に江戸で病没、四十三歳。子と後代の諏訪改姓記事を付記する。
HP-1932 押川喜左衛門
加治木で慈眼公に仕え、納殿役を務めた。
HP-1933 奥関助休安
奥関助入道休安。忠恒公の小者として朝鮮へ渡り、泗川で十文字槍を用いて十三人を突き伏せたと記される。
HP-1934 奥彦助
奥彦助。島津歳久に殉死した二十七人の一人。法号は大方円器禅定門。
HP-1935 鬼塚対馬
飯野で松齢公に奉仕した。
HP-1936 折田淡路
折田淡路。大永六年十一月十八日、大中公に供奉し、田布施から鹿児島へ移った六人の一人。
HP-1937 上井六郎左衛門
慶長年間、公女に従って江戸へ赴いた。公女の実名と具体的な年次は本文に記載されない。
HP-1938 川上因幡守久国
川上久国(因幡守)。久辰の嫡子で、泗川・番船戦に軍功を挙げ、のち江戸勤仕・地頭職を務め三千石余を領した。
HP-1939 川上久智
川上久智(久右衛門)。忠兄の弟で、戸次川・泗川・関ヶ原に従軍し、退却時の小返し五本鑓の一人となった。
HP-1940 川上忠利
川上忠利(十左衛門)。忠通の二男で、島津家久・光久代に兵具奉行を務め、久志地頭となった。
HP-1941 川上倍久
川上倍久(武蔵守、初十郎左衛門)。経久の子で弓馬故実を継ぎ、病気時には若い久慶が犬追物検見を代勤した。
HP-1942 川上忠真
川上忠真(筑前守)。川上家の支流を継ぎ、島津貴久らに奉公して地頭職・知行を与えられた。
HP-1943 樺山蔵人佐
樺山蔵人佐。朝鮮に従軍し、泗川の戦いで赤糸威の鎧を着て働いたと伝わる。
HP-1944 川田国鏡
岩屋城攻めで鉄砲傷を負い、のち穆佐居地頭となった人物。稲津掃部の来攻にも対処し、元和六年に穆佐で没した。
HP-1945 吉田清孝
吉田清孝(美作守)。阿多・隈之城・加世田地頭を務め、肥後・豊後に従軍し、関ヶ原後に島津義弘へ合流した。
HP-1946 高城重治
高城重治(武蔵守)。渋谷氏支流の高城氏十四代とされ、永禄年間まで高城を領し、祁答院氏の家老を務めた。
HP-1947 田中佐渡守
田中佐渡守。田中吉左衛門珍阿弥の二男で諸戦に働き、国分移転時の守役を務め、慶長十一年に江戸へ上った。
HP-1948 田中後藤兵衛
田中後藤兵衛。佐渡守の子で鹿児島へ召し移され、島原陣で騎馬使番、のち泰清院の守役を務めた。
HP-1949 黒木周八忠次
黒木周八忠次。黒木讃岐守の養子で伊集院忠昭の次男。関ヶ原で二十一歳にて戦死した。
HP-1950 中条次郎右衛門政義
中条次郎右衛門政義。島津義弘の死後、市来で殉死し、同じ火で荼毘に付されたと伝わる。
HP-1951 中村内蔵介
中村内蔵介。宮崎泉の人で軍談衆五十四人の一人。天正十一年、八代からの敵勢を伏兵で破り五人を討ち取った。
HP-1952 長崎佐渡
長崎佐渡。伊集院氏に属して恒吉城主だった父が、庄内の乱後に不義を悔いたとする家の由緒を載せる。
HP-1953 長野六兵衛
長野六兵衛。長野勝三郎・長野少次郎祐光とともに朝鮮出兵へ従軍した。
HP-1954 長野勝三郎
長野勝三郎。長野六兵衛らとともに朝鮮出兵へ従軍した。
HP-1955 長野少次郎祐光
長野少次郎祐光。朝鮮出兵に従軍し、南海島の五百人にも数えられた。
HP-1956 長野助七郎祐幸
長野助七郎祐幸、のち六兵衛。朝鮮へ従軍し、虎狩や番船遭難時の働きが記された。
HP-1957 中島善左衛門
中島善左衛門。中島伴助盛とともに朝鮮出兵へ従軍した。
HP-1958 長山三平
長山三平。島津義弘の道具衆で、関ヶ原からの退却に随行した。
HP-1959 名越某
名越某。知覧の士で、弘治元年正月に蒲生北村の戦いで戦死した。
HP-1960 長井十郎左衛門利貢
長井十郎左衛門利貢。慶長五年に大坂に滞在していたと記される。
HP-1961 永井善左衛門
永井善左衛門。島津貴久が小野へ忍んで赴いた際、随行した七人の一人。
HP-1962 村田右衛門尉秀久
村田右衛門尉秀久。新納忠茂の次男で経定の養子となり、横川・小林攻めで軍功を挙げ、馬越城攻めで戦死した。
HP-1963 村田能登守
村田能登守。天正六年、高城で大友勢と戦った陣で戦死した。
HP-1964 村田式部少輔
村田式部少輔。島津家の軍談合人数五十四人の一人で、小林に関係する注記を持つ。
HP-1965 村田藤五郎
村田藤五郎。朝鮮出兵に従軍し、装具に関する短い記載を伴う。
HP-1966 村尾三右衛門重侯
村尾三右衛門重侯。父重昌の死後に須木地頭を継ぎ、島原の乱で城内へ突入して負傷し、のち吟味役・御使役を務めた。
HP-1967 村尾筑前
村尾筑前。掃部兵衛重好の子で、寛永十五年の島原の乱に市来家友に従い、城攻めで槍傷を負った。
HP-1968 村尾兵部少輔
村尾兵部少輔。天正十二年頃、入来院家に属したと記される。
HP-1969 向井五右衛門
向井五右衛門。島津義弘の中間衆で、朝鮮出兵では長刀持を務めた。
HP-1970 向井新右衛門友茂
向井新右衛門友茂。日新斎島津忠良に仕え、島津実久との戦いで谷山において戦死した。
HP-1971 村岡豊前
村岡豊前。島津豊久に殉死し、四十六歳で没した。法号は月舟守心居士。
HP-1972 杢正九兵衛
杢正九兵衛。加世田の人で、島津義久により国分新城へ移され、知行十四石余を有した。
HP-1973 梅北照存坊
梅北照存坊。慶長十四年の琉球侵攻に従軍し、尚寧王降伏後に不服従者を追撃して負傷した。
HP-1974 上原尚常
上原長門守尚常。高原地頭・飫肥東方地頭を経て国老となり、野尻城内応や各地の戦役で軍功を重ねた。
HP-1975 上原尚演
上原右衛門佐尚演。尚常の嫡子で、石城・高城・島原に従軍し、関ヶ原後の抑留を脱して帰国した。
HP-1976 上原久供
上原豊前久供。日新公に仕え、伊作へ移り、加世田七浦の地頭を務めたとみられる。
HP-1977 宇都宮甚兵衛
宇都宮甚兵衛。朝鮮役に供奉した人物。
HP-1978 内山与右衛門
内山与右衛門。長野の山中で金気を発見して領主へ届け、金山開発の元祖とされた。
HP-1979 内田新三郎
内田新三郎。伊東氏との合戦で小林において戦死し、子孫は内田次郎兵衛と記される。
HP-1980 内倉九郎左衛門
内倉九郎左衛門。朝鮮役に供奉した人物。
HP-1981 上野伴
上野伴。伊集院久春に従って岩屋城を攻め、負傷した。
HP-1982 野村充綱
野村太郎左衛門充綱。良綱の子で兵法を継ぎ、出水から水引へ移ったのち鹿児島へ召された。
HP-1983 野村良綱
野村右衛門佐良綱。天正四年八月十九日、日向高原で戦死。子孫に野村太郎左衛門を記すが、別の系譜注記の係り方は留保。
HP-1984 野村左近
野村左近。日向宮崎衆に属し、岩屋城攻めで戦死した。
HP-1985 野村甚助
野村甚助。宮崎衆に属し、天正十三年閏八月の肥後隈庄で戦功を挙げた。
HP-1986 野村清綱
野村市右衛門清綱。高江地頭を務め、豊後入りで軍功を挙げ、朝鮮役にも供奉した。
HP-1987 野村安右衛門
野村安右衛門。朝鮮渡海と琉球入りに従い、軍役四人と記された。
HP-1988 野村宗綱
野村早左衛門宗綱。高麗へ渡海したことが史料に見えると記された。
HP-1989 野間武蔵守
野間武蔵守。高麗で戦死し、寺の過去帳を典拠とする注記が付される。
HP-1990 野添善左衛門
野添善左衛門。樋川へ移住したことだけを伝える短い記事である。
HP-1991 野添帯刀
野添帯刀。朝鮮役に供奉し、後段に氏名の由来とみられる短い注記がある。
HP-1992 黒木甚右衛門
黒木甚右衛門。高麗御供であったことを伝える短い記事である。
HP-1993 黒田八郎左衛門
黒田八郎左衛門は朝鮮役に供奉したと記される。本文は渡海軍役だけを伝える短い記事で、所属、具体的な戦闘、役職、知行、家族関係、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-1994 黒田右衛門
黒田右衛門は鹿児島衆で、朝鮮役に供奉した。番船が破られた際、敵船に奪われた金の馬印を取り戻すため、その船へ斬り込み奪還したという。
HP-1995 黒田石見守入道
黒田石見守入道は、ある年に廻地頭を務め、肝付治部左衛門兼名と読める人物とともに出動し、井之麓まで放火したという。国中の人数が防戦した際にも出合い、その後は高岡へ移されたと記される。
HP-1996 黒田茂兵衛長守
黒田茂兵衛長守は和州の人で、島津忠恒の代に薩摩へ来て奉公し、朝鮮役にも供奉した。慶長四年十二月八日と読める戦闘で伏兵の中へ馬を馳せ入れ、奮戦の末に討死したという。
HP-1997 桑波田左馬権介道隆
桑波田左馬権介道隆は、岩剣の合戦で軍功を挙げ、島津義弘(惟新)に奉公した。のち加治木へ召し移され、子の九郎左衛門も父と同様に加治木へ移ったと記される。
HP-1998 葉波田五郎兵衛
葉波田五郎兵衛は朝鮮役に供奉したと記される。本文は渡海軍役だけを伝える短い記事で、主君、所属、具体的な戦闘、役職、知行、家族関係、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-1999 船元甲斐守
船元甲斐守は島津忠平に供奉し、飯野へ召し移された六十人の一人と記される。主君への近侍と飯野への集団移住・配置を伝える短い記事である。
HP-2000 船元右京
船元右京は朝鮮役に供奉したと記される。本文は渡海軍役だけを伝える短い記事で、主君、所属、具体的な戦闘、役職、知行、家族関係、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-2001 久木崎主水
久木崎主水は、御軍談合人数五十四人の一人で、『蒲生』にその名があると記される。島津方の軍議参加者として蒲生関係史料に見える人物である。
HP-2002 久木崎民部左衛門
久木崎民部左衛門は平佐籠城に加わり、城内で軍功を立て、負傷したと記される。本文は籠城戦での働きを簡潔に伝える記事で、主君、役職、知行、負傷箇所、その後の経歴、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-2003 黒田万助
黒田万助は宮崎衆で、筑前国岩屋城の戦いで戦死したと記される。所属と戦死地を明示する短い記事である。
HP-2004 樫犬隈右衛門
樫犬隈右衛門と読める人物は、朝鮮役に供奉したと記される。本文は渡海軍役だけを伝える短い記事で、主君、所属、具体的な戦闘、役職、知行、家族関係、生没年・法名・墓所は記載しない。
HP-2005 山田有相
山田弥兵衛有相は、本文に「有昌と同人か」との注記がある。朝鮮在陣中、奥から大軍が出るとの知らせを受けて味方が待機していた際、有相は主従四人で川を渡って合戦し、働きを示したと読める。
HP-2006 国田松千代
国田松千代は、『栗野田之又記』と読める記録に名があるとだけ記される。独立した「一」の見出しを持つため山田伊予守の記事から分離した。
HP-2007 八木信元
八木民部左衛門信元は八木正信(嘉笠)の嫡子と記される。文禄二年、島津忠恒に従って朝鮮へ渡海し、慶長五年の関ヶ原退却にも供奉して感状を与えられた。
HP-2008 谷口重昌
谷口宗兵衛重昌は重定の子で、初名は弥八郎。谷口から矢口氏へ改姓した。
HP-2009 山口対馬
山口対馬は貫明公と記される主君に殉死し、五十歳だった。福昌寺の大番を務めたと読め、法号は機光道全居士。
HP-2010 山口源五左衛門
山口源五左衛門は朝鮮役に供奉し、船上で戦死したと記される。記事には山口源六らと読める名や、『征韓録』に掲載があるとの注記も見える。
HP-2011 山口生左衛門
山口生左衛門は島津義弘(惟新)の側小姓を務め、のち納殿役人の組頭になったと記される。近侍から収納・財務関係の役職へ進んだ経歴を伝える短い記事である。
HP-2012 山路後藤兵衛種清
山路後藤兵衛種清は島津義弘(惟新公)に供奉して高麗へ渡海した。主君への殉死を願い出ていたが、主君の切腹後に知らせを受け、岩崎の南脇と読める場所で切腹したという。
HP-2013 山之内与右衛門
山之内与右衛門は高麗への供奉者の一人と記される。本文は海外軍役だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、具体的な戦闘、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-2014 山崎勘左衛門
山崎勘左衛門は高麗へ渡海し、持高は三十一石五斗と読める。本文は海外軍役と持高だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、具体的な戦闘、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-2015 矢野自徳院
矢野自徳院は初め出家し、日説または法印日説と称した京都の人物。天正十年の本能寺の変では本能寺におり、出家人は殺さぬとの命で難を免れたという。