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本藩人物誌の目録
人物ごとの解説を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全2,174件中 1701~1800件・18 / 22ページ
HP-1714 本田親明
本田勝吉親明は親貞の子。十八歳で関ヶ原へ出陣し、父の下薩時に山口氏のもとで三年間人質となった。二十三歳で没し、大福寺に墓がある。
HP-1715 本田親平
本田右衛門親平は毛利肥前の嫡子で、本田親良の外孫・養子。吟味役、京都蔵奉行、仮御使役、羽月・財部・綾等の地頭を務め、朝鮮供奉や流鏑馬・犬追物の射手を担った。
HP-1716 本田親良(吉右衛門)
本田吉右衛門親良は、高岡へ召し移されたと記される。移転年月や役職は本項には記されない。
HP-1717 本田親良(甲斐守)
本田甲斐守親良は岩切善信の二男で、本田出羽守親綱の養子。朝鮮在陣で功があり、坊泊地頭、家久公の御相談役、大坂御蔵番、高奉行を務めた。
HP-1718 本田正親
本田正親は親治の子。御使役・家老、出水・加世田地頭を務め、耳川で負傷。右筆として上洛に従い、秀頼への使者も務めた。
HP-1719 本田二郎五郎
本田二郎五郎は、島津歳久に殉死した二十七人の一人。法名は月窓幸心上座。殉死の年月・場所は本項には記されない。
HP-1720 本田与五郎
本田与五郎は三ツノ山で討死したと記される。
HP-1721 妹尾伝兵衛盛昌
妹尾伝兵衛盛昌は壱岐守盛昌の子で、琉球で功があったと記される。子孫として妹尾六左衛門を掲げる。
HP-1722 妹尾二介
妹尾二介は中務家久の家臣。天正六年の高城籠城中、敵陣への返礼の使いに立ち、金の扇で謡い舞う姿を家久に賞された。
HP-1723 末田藤兵衛重秋
末田藤兵衛重秋は、惟新公の高麗への供をした人物。藤左衛門の名も併記される。
HP-1724 末田伴右衛門尉
末田伴右衛門尉は、関ヶ原からの帰国に供をしたと記される人物。
HP-1725 万膳仲兵衛
万膳仲兵衛は栗野の人で、天正年間の軍談合人数五十四人の一人。天正十二年二月の島原合戦では川上左京亮に属し、竜造寺隆信を討ち取った側の戦功者として記される。
HP-1726 満留吉左衛門
満留吉左衛門は大永六年、島津貴久が勝久の養子となって初めて鹿児島へ赴いた際、供奉した六人の一人。
HP-1727 満留郷忠実
満留郷八左衛門忠実は松崎大蔵と加世田城の敵情を探り、城兵不在を急報して日新公の攻略を助けた。永禄十一年、日新公に殉死。
HP-1728 蓑輪重親
蓑輪狩野介重親は伊地知氏系の蓑輪家に属し、永禄九年四月二十七日、蒲生で戦死した。子孫は高岡で伊地知を称したという。
HP-1729 蓑輪重長
蓑輪治部右衛門重長は重登の子。島津忠恒の朝鮮渡海に関する急使を務め、慶長三年十一月十八日、朝鮮で戦死した。
HP-1730 蓑輪重登
蓑輪狩野介重登は重親の子。諸所で軍功があり軍労覚書があったというが、個々の合戦名は記されない。
HP-1731 面高英俊
山伏。貴久の名代として子頼俊と相州鶴岡へ参詣し、永禄六年に帰国。京都八幡の御正躰三体を頼俊が持ち帰ったと記す。
HP-1732 面高主馬
元山伏。家久公の意向で還俗して兵具奉行を務め、五十石を受けて出水へ移った。嫡子主馬には長島派遣と三十石褒賞の記事がある。
HP-1733 面高俊昌
頼俊の子。鹿児島へ召し移され三百石を受け、文禄二年に忠恒公に供奉して朝鮮へ渡った。御供日記があると記される。
HP-1734 面高祐泉坊
道釈伝に名のみを掲げる。巻四の同名住職との同一性は未確定。
HP-1735 面高祐泉坊
善哉坊住職。百石加増と寺職継承を記す。父について頼俊・俊昌の二説を併記する。
HP-1736 面高頼俊
英俊の子。諸国使者や高城開城の和睦交渉を担った。関ヶ原後も老齢を押して和談を整え、百石を受けた。日州両院先達職の文書も載る。
HP-1737 面高連長坊
道釈伝に面高連長坊の名を独立して掲げる。本条には具体的な経歴の説明がない。
HP-1738 毛利肥前守元親
毛利元親は元房の実弟で養子。稲津の乱で功があり、琉球・八重山島の検地奉行や船奉行、大村地頭などを務めた。
HP-1739 毛利覚右衛門尉元房
毛利元房は宮部善祥坊の旧臣。増田和泉守を介して義弘に仕え、慶長五年の関ヶ原で戦死した。
HP-1740 毛利主殿助
毛利主殿助は忠平のもと、飯野へ召し移された六十人の一人と記す。
HP-1741 木原四郎左衛門
慶長六年に蒲生へ召し移された人物。太原七郎左衛門条に同一人物かとの疑問注がある。
HP-1742 太原七郎左衛門
関ヶ原からの帰陣に供奉した人物。寛永年間の又八郎忠朗への召附と、木原四郎左衛門との同一人物説は、本文の推測として記される。
HP-1743 木場鉄之介忠利
木場鉄之介忠利は貞行の孫で、父は清左衛門貞良。忠行とも称したという。
HP-1744 木村主殿介
木村主殿介は、島津久保が小田原陣へ出陣した際、池田六左衛門とともに馬廻として供奉した。本文では十六騎の一人に数えられる。
HP-1745 木村平太夫
木村平太夫は『高麗御供』を務めた人物で、朝鮮役への従軍だけを記す一行記事である。従軍年次や所属部隊、具体的な戦功のほか、家系、知行、役職、生没年、法名、墓所は載せない。
HP-1746 木野田三河守
木野田三河守は、天正年間の御軍議人数五十四人の一人で、曽於郡に居住したと記される。本文はこの軍議参加者としての位置づけと居住郡だけを伝え、諱、家系、知行、具体的な役職・軍功、生没年、法名、墓所は載せない。
HP-1747 木脇祐為
木脇祐秀の嫡子。父が殉死に際して提出した訴えで、戦死した伯父祐吉の跡を継がせたいとされた人物。
HP-1748 木脇祐久
木脇三左衛門祐久は初め源次と称し、のち三左衛門。木脇祐光の嫡子である。
HP-1749 木脇祐兄
虎寿丸に仕え、大永七年六月十五日の実久襲来時に供奉。のち申口役を務め、伊集院の恋之原を領した木脇氏の人物。
HP-1750 木脇祐元
木脇刑部少輔祐元は祐光の二男で、入道したと記される。元和六年の高帳では、医者として無上地の木脇氏に載り、隅州串良に居住したという。
HP-1751 木脇祐光
木脇若狭守祐光(入道如閑)は祐充とも記され、木脇祐兄の嫡子。当代に鹿児島へ召し移された。
HP-1752 木脇祐秀
木脇刑部左衛門祐秀は祐昌の二男。天正五年生まれ、兄の戦死後に家督を継いだ。
HP-1753 木脇祐昌
正徹の嫡子。三山城で軍功を挙げ、肥後花山城の地頭となる。阿蘇方の包囲に防戦し、負傷後に辞世を詠んで戦死した。
HP-1754 木脇祐辰
木脇納右衛門祐辰は祐秀の二男。島津忠朗に召し付けられたが、ある事件により切腹したと記される。
HP-1755 木脇祐貞
木脇三右衛門祐貞は祐吉とも称し、祐昌の嫡子。元亀三年生まれで、肥後堅志田地頭を務めた。
HP-1756 木脇祐定
木脇伊賀守祐定(入道正徹)は越前守の嫡子。島津貴久から歳久の後見に付けられ、軍功があった。
HP-1758 餅原大隅守
餅原大隅守は飯野へ召し移された六十人の一人で、大友との合戦で戦死した。子の与四郎綱は庄内で戦死したと記す。
HP-1759 籾木隼人(宗永)
籾木隼人は米良氏の庶流。日向が島津方の支配に入る際、須木地頭の村尾重侯に協力し、籾木村の田畠を与えられたと記す。
HP-1760 籾木平右衛門
籾木平右衛門は隼人の子。出米の負担で知行を返上した後、義弘帰還の出迎えを機に籾木村の知行を再び与えられた。
HP-1761 門司安意(光空)
門司安意(光空)は大内家に属した後、義弘に召し出され、家久の御物読師となった。父の永禄三年の戦死とは区別される。
HP-1762 野間宗員
野間為阿弥宗員。島津義久の命で京都へ上り、同朋道と茶事を学んだ。
HP-1763 野間政員
野間孫兵衛政員。政商の子で、島津義久に仕え、書道の達人とされた。
HP-1764 野間忠政
野間喜庵忠政。幼名犬太郎で、畿内から薩摩へ来住した野間氏の由緒と川内・出水の記事を伴う。
HP-1765 野間武蔵守
禰寝重長の一族・家臣の部に載る田代地頭。
HP-1766 野元為綱
野元源左衛門源為綱。系譜と舞台勤仕の由緒を伝え、子孫は島原で戦死して出水龍光寺に葬られた。
HP-1767 野口右京亮
野口右京亮。清水の兵士で、弘治元年三月二十七日の帖佐合戦で戦死した。
HP-1768 野久尾越後
野久尾越後。島津忠平に供奉し、飯野へ移住した六十人の一人とされた。
HP-1769 野崎吉左衛門
野崎吉左衛門。長阿の子で、与力役や納殿役などを務め、持高四百石と記された。
HP-1770 野崎升左衛門
野崎升左衛門。高麗渡海と各地への出陣に供奉し、御厩方に属して知行を与えられた。
HP-1771 野崎長阿
野崎入道長阿。寺児として福山城内に通じ、城攻めで潜入放火して落城に功を挙げた。
HP-1772 野山越中坊
野山越中坊。木崎原の戦いで戦死した。
HP-1773 野川国昌
野川筑後守国昌。内匠国広の子で、島津義弘に仕え、樋川に居住した。
HP-1774 野村軍綱
野村加賀守軍綱。肥前守元綱の四男で、伊東家から島津方への内通に関わり、八代・志波須地頭を務めた。
HP-1775 野村寛綱
野村太兵衛寛綱。国綱の子で、御船奉行・江戸留守居・山ヶ野金山奉行・大坂留守居などを務めた。
HP-1776 野村教綱
野村後藤兵衛教綱。父子関係だけを伝える短い系譜記事である。
HP-1777 野村君綱
野村織部介君綱。備中守文綱の三男で、国分の番と御荷物役を務めた。
HP-1778 野村景綱
野村四郎左衛門景綱。弥四郎光綱の子で、父から兵道を伝授され、六人御賦を受けた。
HP-1779 野村綱堅
野村蔵人綱堅。是綱の子で、島津義弘に仕え、御番頭を務めた。
HP-1780 野村元綱
野村大学助元綱。良綱の子で、御右筆・御使役を務め、串木野地頭となった。
HP-1781 野村古綱
野村当右衛門古綱。初め四郎と称し、島津義久に仕えて高千石を与えられた。
HP-1782 野村古之允
野村古之允。判読未確定の陣で負傷し、療養の甲斐なく死去した。
HP-1783 野村幸綱
野村但馬守幸綱。文綱の次男で、兄の戦死後に家督を継いだ。
HP-1784 野村綱佐
野村大炊兵衛綱佐。天正年間の軍談合人五十四人の一人に数えられた。
HP-1785 野村国綱
野村弥平国綱。吉綱の養子で、実父は日置吉兵衛久長、島津忠恒に奉仕した。
HP-1786 野村斯綱
野村兵部少輔斯綱。平佐地頭として功労が多く、島津忠良から褒状を与えられた。
HP-1787 野村主水佐
野村主水佐。宮崎衆に属し、岩屋城攻めの番乗りで石に当たった。
HP-1788 野村全綱
野村狩野介全綱。平右衛門とも称し、信綱の養子で、実父は伊集院蔵人と記される。
HP-1789 野村古次昌綱
野村古次昌綱。文綱の子で、朝鮮で戦死した。
HP-1790 野村信綱
野村狩野介信綱。天正年間の軍談合人五十四人の一人で、高城籠城と島津義久の上洛供に加わった。
HP-1791 野村真綱
野村右衛門佐真綱。元綱の子で、奏者番と町奉行を務めた。
HP-1792 野村是綱
野村民部是綱。憲綱の子で、島津義久の近習役を務めた。
HP-1793 野村清継
野村市右衛門清継。文禄四年に島津義弘の帖佐からの上洛へ供奉し、足軽大将と記された。
HP-1794 野村藤蔵
野村藤蔵。島津家久の実臣で、慶長四年に山田で二十一歳にして戦死した。
HP-1795 野村文綱
野村備中守文綱。もと伊東義祐の家臣・日向内山地頭で、島津方へ内通し、のち八代方面の軍務に従った。
HP-1796 野村弥次郎
野村弥次郎。教綱の嫡子で、関ヶ原からの退却時に落とした鉄砲を取り戻し、九月十五日の合戦で戦死した。
HP-1797 野村与右衛門
野村与右衛門。久田の野村氏の養子となり、御兵具奉行を務め、高麗渡海に供奉して関ヶ原で戦死した。
HP-1798 野村利綱
野村美作守利綱。野村斯綱の子で、初め弥四郎と称し、山崎地頭を務めた。
HP-1799 野村良綱
野村美作守良綱。利綱の子で山崎地頭を務め、兵法の師を付けられて軍学を修めた。
HP-1800 野添右近将監
野添右近将監。島津忠平に供奉し、飯野へ移住した六十人の一人とされた。
HP-1801 野添慶育坊
惟新公の納殿役を務め、高麗へ供奉した。道釈伝にも同名で掲載される。
HP-1802 野添太郎左衛門
野添太郎左衛門。島津忠恒に供奉して高麗へ渡海し、旅進物役を務めた。
HP-1803 野添忠幸
野添善兵衛忠幸。島津義弘の御厩別当を務め、高麗渡海に供奉した。
HP-1804 野田越中坊
道釈伝に野田越中坊の名を掲げる。具体的な経歴の説明はない。
HP-1805 野田宗可
野田宗可。連歌を好み、寛永年間に加治木へ召し移された。
HP-1806 野畑助七
野畑助七。島津義弘の中間を務め、高麗渡海に供奉した。
HP-1807 野畑太兵衛
野畑太兵衛。木原崎で戦死したとだけ記される。
HP-1808 野辺金右衛門
野辺彦一に続く「同金右衛門」。梶山城の人物群に載る。
HP-1809 野辺彦一
野辺金右衛門・谷口丹波らとともに梶山城の人物群に載る。
HP-1810 野木和泉
野木和泉。野本越中守の子で肥後氏を継ぎ、関ヶ原退却に供奉して三十石の感状を受けた。
HP-1811 矢上大膳正
蒲生氏に関する人物群に名前が載る。本人固有の経歴は記されていない。
HP-1812 矢野弾正忠兼雲
矢野弾正忠兼雲は初名久次。十四歳で島津歳久に召し付けられ、安志から大坪流馬術を相伝した。
HP-1813 矢野出雲守
矢野出雲守は天正十年冬、筑後柳川の田尻氏へ派遣された加勢人数の一人と記される。本文は派遣年、派遣先、軍役だけを伝える一行記事で、主君、出自、役職、知行、籠城や戦闘の具体的経過、家族関係、生没年、法名、墓所は記載しない。
HP-1814 薬丸壱岐守
薬丸壱岐守は、肝付兼続の家老で出雲入道孤雲と号した薬丸兼持の家系に連なる。壱岐守の代に島津家へ召し出され、忠節により二十七石、庄内の乱の功で十七石を受けた。