後編2-No.279記録
上野隼人覚書
年月日未詳
確認度中
概要
上野隼人が幼少期から島津家に仕え、高城合戦や豊臣軍との戦いを経て、戦後も奉公と所領給付を受けた歩みを記す覚書。家族・養子、役職、知行の変遷にも触れ、一家臣の履歴を短くまとめた記録である。
登場人物
上野隼人、島津義久、島津家久、豊臣秀吉
宛先
—
キーワード
上野隼人覚書、上野隼人、島津義久、島津家久、豊臣秀吉、高城合戦、知行、所領、奉公、家臣履歴
冊子頁
309頁
読込量
小
面白さ
★★★★☆
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(3)213~314頁(天正14~天正15).pdf
COMMUNITY TRANSCRIPTION
採用済みの翻刻・訳文
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原文写し
管理人採用済み一 千代太郎六歳之時ハ、天正十五年丁亥者天下猛勢差下候て、日向高城山田殿地頭所へハ、いまた目白陳・川原之陳・野久尾之陳ニ而取廻シ、相ノ垣ヲ結廻ス也、然慮ニ薩摩軍勢ヲ催シ、諸大将差揃候てめしろ陳ヲ詰破り候へ共、京勢之陳数康く、猛勢ニ懸合之合戦つかれ候て、其憧軍衆被引候へハ、山田殿ハ城ヲ渡シ、御園之様ニのかれ候也、然ハ漸小林迄ヲ持こたへ候へハ、追付岩牟礼陳ヲ付る也、西日ハ関白殿自身御下向ニ而、祁答院卒佐ニ御陣 ヲ召也、比ハ卯月β五月雨迄の事成リ、今日も明日も毎日大雨ふりて水出候へハ、御家景中ノ川之渡ハなかりけり、京勢之績ク事ハ、野も山も人計とこそ云也、然ハ御家中御談合之上を以、又市様人質ニ御渡りニ而候へハ、御供ニハ新納三郎四郎始として諸士御供也、然ハ園下豊鏡ニ罷成、京勢も引て被登候也、其時某千代太郎ハ七才ニ而吉松城にあかり候所、其六月朔日ニハ本ノ吉田へ居付申て候也、初又関白様ノ御代ニ罷成候て、弥御軍役厳敷御座候へハ、我等年少也、母ハ女之事ニ候へハ、知行受取候へ共御奉公難成之故ニ、白坂美濃守御銚望ニ而、栗野衆中ニ梶原越後守ハ川上三河守之衆中ニ、隠居人ニ御所望ニ而、千代太郎か嫡家代と定、上野越後守ニ被成かわし、某七歳ニ而後ノ親子と契諾也、然ハ亦彼越後守ハ有馬ニ而、隆信亡之時ニ無比類分捕を仕候也、又武芸之方は諸人勝たる人也
- 根拠・参照箇所
- notebooklmを活用して原文写し
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10
書き下し文
管理人採用済み一 千代太郎六歳の時は、天正十五年丁亥(ひのとい)は天下の猛勢差し下り候いて、日向高城山田殿地頭所へは、いまだ目白陣・川原の陣・野久尾の陣にて取り回し、相の垣を結び回す也。 然る所に薩摩軍勢を催し、諸大将差し揃い候いて目白陣を詰め破り候え共、京勢の陣数康(多)く、猛勢に懸け合いの合戦疲れ候いて、其の時軍衆引かれ候えば、山田殿は城を渡し、御本(?)の様に退かれ候う也。 然れば漸く小林までを持ち答え候えば、追っ付け岩牟礼陣を付くる也。 西日(先日)は関白殿自身御下向にて、祁答院入佐に御陣を召す也。 此れは卯月より五月雨までの事なり。今日も明日も毎日大雨降りて水出で候えば、御家中の川の渡りはなかりけり。京勢の続くことは、野も山も人計(ばかり)とこそ言う也。 然れば御家中御談合の上を以て、又市様人質に御渡りにて候えば、御供には新納三郎四郎を始めとして諸士御供也。 然れば天下豊饒(?)に罷り成り、京勢も引いて登られ候う也。 其の時某千代太郎は七歳にて吉松城に上がり候う所、其の六月朔日には本の吉田へ居付き申し候う也。 初めてまた関白様の御代に罷り成り候いて、いよいよ御軍役厳しく御座候えば、我等年少也。母は女の事に候えば、知行受け取り候え共、御奉公成り難きが故に、白坂美濃守御執望にて、栗野衆中に梶原越後守は川上三河守の衆中に、隠居人に御所望にて、千代太郎が嫡家代と定め、上野越後守に成し代わされ、某七歳にて後の親子と契諾也。 然ればまた彼の越後守は有馬にて、隆信亡(ほろ)びの時に比類なき分捕りを仕り候う也。また武芸の方は諸人に勝りたる人也。
- 根拠・参照箇所
- notebooklmを活用して書き下し文
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10
現代語訳
管理人採用済み私が千代太郎と名乗っていた六歳の時、天正15年(1587年)のことですが、天下(豊臣秀吉)の大軍が九州へ下ってきました。日向国の高城にある山田殿(山田有信)の地頭所は、敵の目白陣・川原陣・野久尾陣によって幾重にも包囲され、柵が張り巡らされました
。 そこで薩摩軍を動員し、諸将が揃って目白陣を攻め破りましたが、上方軍の軍勢は非常に多く、激しい合戦に疲れ果てて薩摩軍が退却すると、山田殿も城を明け渡して落ち延びられました。 どうにか小林まで持ちこたえましたが、すぐに(敵軍は)岩牟礼に陣を敷きました。先日には関白殿(秀吉)自身が下向し、祁答院の入佐に本陣を置かれました。 これは四月から五月の梅雨時のことで、連日大雨が降り続いて増水したため、家臣たちは川を渡ることもできませんでした。続く上方軍の数は、野も山も人ばかりと言われるほどでした。
そこで島津家中で相談した結果、又市様(島津豊久)が人質として送られることになり、新納三郎四郎をはじめとする諸士がお供をしました。これにより天下は平穏となり、上方軍も京へ引き揚げていきました。 その時、私(千代太郎)は七歳で吉松城に移っていましたが、六月一日には元の吉田に戻り住むことになりました。いよいよ関白様の世となり、軍役も厳しくなりましたが、私はまだ年少であり、母は女の身であったため、知行(領地)は受け取っていても、十分なご奉公をすることが困難でした。
そのため、白坂美濃守の取りなしにより、栗野衆の梶原越後守や川上三河守の衆中から、隠居後の養子にという要望がありました。そこで千代太郎が家督を継ぐ代わりとして、上野越後守の養子となることが決まり、私は七歳で父子の契りを結びました。
この越後守という人物は、有馬(沖田畷の戦い)で龍造寺隆信が滅びた際に、比類なき手柄を立てた人物で、武芸においても他者より優れた人物でありました。
- 根拠・参照箇所
- notebooklmを活用して現代語訳
- 投稿者
- keicho
- 投稿日
- 2026-08-10