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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録
暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。
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旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 309-1 伊地知季安記事
伊地知季安の記事。二十四日、伊地知杢右衛門重政が、新納加賀守忠清、三原大蔵介重朗、市来五兵衛家昌、西田市左衛門、伊地知弥右衛門重延の五人を有馬の陣屋で饗応したと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 309-2 小原織部取払留
伊地知重政付衆中・小原織部の取払留。御振舞方として、日付を欠字を含む「同廿□」と記し、真米一升三合を白米にして一升七合五夕とし、新納加賀守、三原大蔵介、市来五兵衛、西田市左衛門、伊地知弥右衛門尉の五人への振舞いに用いた。買物方は二月二十四日付で、長さ一尺六寸の鯛一つ(二匁)、鮑三盃(二匁)、別の鮑三…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 310 島津久元外三名連署書状
二月二十四日、三原重庸・伊勢貞昌・川上久国・島津久元が山田民部少輔らへ連署した書状。黄門様こと島津家久が病状回復せず、前夜四ツ時ごろ死去したことを、言葉に尽くせない悲嘆とともに知らせる。薩州様(傍注は島津光久とする)から松平伊豆□・戸田左門宛ての書状が送られたので、これを持参するよう求める。松平伊豆…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 311 某書状
二月二十四日付と目録に載る差出不明の書状。黄門様こと島津家久が病状回復せず、前夜四ツ時ごろ死去したことを川上彦左衛門尉へ知らせ、これに伴い有馬へ早く船を渡すよう求める。本文には複数の欠字があり、月は傍注で「二カ」とされる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 312-1 寛明日記
『寛明日記』の二十五日条。松平伊豆守方から、翌二十六日にいよいよ総攻めを行うが、天候次第であるとの軍令が伝達されたと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 312-2 松平信綱軍令
総攻めの合図と軍勢統制を定めた松平信綱の軍令。一の鐘で食事をし、太鼓で出陣し、貝で攻め掛かること、諸手が一斉に鉄砲を放って鬨の声を上げることを命じる。相印は三巻、合言葉は「国か」に「国」と答える。後陣は列を乱して先手を追い越さず、後備はしきりに鬨を上げて先手を援ける。城内へ攻め入ったら早く小屋に火を…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 313-1 評定所案文留
『評定所御案文留』所収の二月二十五日付案文。黄門様が去る二十三日に死去したため、葬礼の日取りを来月十日と定め、長野殿・酒匂殿が役者であるので早々に帰宅するよう申し渡し、船を付けて少しも遅延させないよう命じる。差出は三原重庸・伊勢貞昌・川上久国・島津久元、宛所は北郷佐渡守(傍注・久加)・渋谷石見守(傍…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 313-2 島津久元外三名連署書状
二月二十五日付の島津久元外三名連署書状。黄門様が去る二十三日に死去したため、葬送の日取りを来月十日と定め、長野殿・酒匂殿が役者であるので早々に帰宅するよう申し渡し、早船を付けて少しも遅延させないよう求める。差出は三原重庸・伊勢貞昌・川上久国・島津久元、宛所は北郷佐渡守(傍注・久加)・渋谷石見守(傍注…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 314 寛明日記
『寛明日記』の二十六日条。二十四日から雨天で、二十五日には雨がいっそう激しくなり、二十六日も大雨・強風のため触れにも及ばず城攻めが中止された。しかし夕方から穏やかな晴天となり、諸将が翌日の攻城を予想していたところ、松平伊豆守信綱から、二十八日に城攻めを命じるので二十七日早朝に戸田左門の陣所へ全員集合…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 315 平塞録
『平塞録』の二十六日記事。松平伊豆守(信綱)の陣で諸大将が攻城を評議し、城内では鉄砲の発射が減り、竹木を薪にし、海藻を拾うほど糧米・玉薬が払底したとの報告を受け、二十八日卯刻から追手・搦手が一斉に総攻めする方針を定めた。松平右衛門佐が前後からの越矢を懸念したのに対し、妙解公は越矢は弱まり、多少の被害…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 316 天草説書
『天草説書』が載せる、二月二十六日の総乗りについて松平伊豆守から出された触。一の鐘で食事を整え、太鼓で人数を出し、貝を合図に押し掛かり、一斉射撃と鬨の声で攻めること、諸手が攻め掛かったら火矢を絶え間なく射ることを命じる。相印は三巻、合言葉は「国か」に「国」と答える。海手では番船を巡らせ、後陣は下知な…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 317 小原織部取払留
『伊地知杢右衛門付衆中小原織部取払留』の「米請取方并銀子銭」。二月二十六日、銀子二匁五分を小屋一つの代、すなわち村尾源左衛門の家の代として記す。また、羽月蔵米の真米二石四斗について、年内に羽月から出水知識村へ下した米であると注記する。村尾源左衛門は代価の対象となった家の主として記され、宛先ではない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 318-1 伊地知季安記事
伊地知季安が島原出陣時の薩摩軍を評した記事。薩摩軍は名目上およそ二万人の賦課であったが、各家が分限に応じて従卒を伴い三万人に達したとする。元日の攻城で官軍が敗走した際、薩摩の使者三原重庸が少隊で踏み止まり、軍勢を励まして退却を支えたため薩兵の勇名が諸陣や江戸に広まったと述べる。細川忠利が薩摩軍に肥後…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 318-2 評定所案文帳
外城衆等を区分した人数帳。米津から召し帰された衆は合計二千九百二十一人で、人躰千六百四十三人と夫丸千二百七十八人(内訳合計二千九百二十一人)。上津浦衆は原記載で合計二千七百八十一人、人躰千八百六十六人、夫丸九百五十七人と見え、内訳合計は二千八百二十三人となって一致せず、傍記もある。有馬へ詰める衆は合…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 319-1 島津久元外三名連署書状
二月二十六日付の島津久元外三名連署書状。伊作衆中の中村名字の者が受取人方で番を務めているが、葬礼の役者に入るとの沙汰があったため、早々に帰るよう命じることを求める。葬礼の日取りは来る十日なので、それより前に帰着するよう申し渡せと指示する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 319-2 島津久元外三名連署書状
二月二十六日付の島津久元外三名連署書状。肥後十右衛門尉・米助右衛門尉が進物蔵の改めを行い、残りが少ないので首尾を整えたいと改め衆が述べていること、三原五郎兵衛尉と父次郎左衛門尉が庄内と当地を往来して苦労し、倅者らにも差し支えがあるため帰還を願っていることを伝える。そのうえで渋谷石見守・北郷佐渡守に早…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 319-3 向評定書案文帳覚書
評定所案文帳の保管・改装履歴を記した覚書。正月六日から二月二十六日までの一大冊で、島原の乱以来、家老座に保管されていた。延享三年十二月六日、元禄九年の御城火災(回禄)の焼け残りで、中納言様の病中の事柄も記すため記録所の照合に役立つか吟味して報告するよう、町田仲右衛門へ渡されたという。他に同類の冊子が…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 320 元寛日記
『元寛年月日記』巻第十三の寛永十五年二月二十七日条。鍋島勢は築山から大石・火矢を絶え間なく浴びせて城兵の出丸往来を妨げ、出丸を乗り取るための仕寄を進めた。二十七日午刻、出丸近くに鎧武者三百余騎を隠し、竹束を段々に付けて攻撃を開始したため、二十八日の総攻め命令を待つ諸陣は法令との関係に戸惑ったという。…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 321 天草説書
『天草説書』に記された原城攻めの記事。二月二十六日に予定された城乗りは二十四日夕方から二十六日昼までの大雨で延期され、松平伊豆守は二十八日の総攻めを定めて諸大将を二十七日早朝に戸田左門氏鉄の陣所へ集めた。評定後の濃茶の席で物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、伊豆守が櫓から確認して諸将を各陣へ戻したため、予…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 322 藤掛集書
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 323 伊地知季安記事
薩軍の原城攻め陣営を記した伊地知季安の記事。薩軍は城から田地を隔てて五、六町ほど海手にある天神が森へ布陣し、家老兼出水地頭の山田民部少輔有栄と使役兼大口地頭の新納加賀守忠清を談合衆・将帥とした。市来八左衛門宗友、伊地知杢右衛門重政、木佐貫半右衛門、仁礼左近将監景頼、是枝喜右衛門快温ら役職者と鹿児島衆…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 324 小原織部取払留
「重政付衆中小原織部祐萬取払留帳」の米払方記録。二月二十七日、白米五升を同日夜に城へ飯を調えて持ち遣わすため払い出した。これは通常の御賦二度分とは別であると注記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 325 松下源五左衛門書留
市来宗友の従兵・松下源五左衛門の書留。二月二十七日八時に城へ火が掛かり、諸軍が続いた。二十七日に二の丸を攻め落とし、二十八日未明から本丸を攻め、同日九つ時には薩摩衆も槍を交えたという。二十九日まで城詰めを続け、同日晩に落城したと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 326 伊地知季安記事
薩軍の多くが天草の上津浦を警固した事情を述べる伊地知季安の記事。加世田士の小川監物祐政は地頭喜入摂津守忠政に属して従軍した。忠政は二月十五日に帰り、人衆の三分の一も帰されたが、小川は上津浦に在陣し、二十七日に有馬の城から上がる火を遠望した。船止めのため抜け駆けできず、二十九日に二十八日の落城を聞いた…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 327 小川監物日記
喜入摂津守忠政の従兵・小川監物祐政の日記。二月二十七日七つ時過ぎ、有馬城の方に火が見え、一同は落城したのではないかと話した。二十九日に詳報を聞き、敵方は一人も残らず、味方にも多くの損害があり、鍋島殿衆が先陣だったという。また城の大将は「有馬四郎」といい、肥後の百姓の子で若輩であると聞いたと記す。いず…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 328 田代衆中島原立之覚
「田代衆中島原立の覚」。二月二十七日、肥前守殿家中の十三人が有馬城へ忍び入り、火を掛けて焼き払い、城へ乗り込んで敵を討ち取ったが、その数は不明とする。さらに、助命を願って投降してきた男女・子供が多数いたものの、一人も残さず皆殺しにしたと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 329 坂元清長書留
田布施郷坂元安右衛門清長の書留。田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に付き陣中で勤務した。諸所の衆は地頭に従って有馬へ詰め、戦功を挙げたが、鹿児島衆・外城衆は天草内高津浦の張番を命じられたため戦功がなかったという。有馬城落城の前後は船留が厳しく、その様子を知らなかったと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 330 塵葉
『塵葉』巻十二所収の四本縫殿の逸話。島原で城下浜手の干潟にある岩を盾に敵を射て、多くを討ち、鉄砲の名手と呼ばれたという。他国衆の一人から翌日の介抱を頼まれたが断り、翌日その者と干潟で再会して九年母を分け合ったのち共に城へ乗り込んだ。他国衆は帰らず、四本は「介抱」とは最期を見届ける依頼だったと悟り、後…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 331 谷口氏書留
蒲生士谷口氏の書留。二月二十七日八つ時に城乗りがあり、翌二十八日までに一戦が済んだと記す。本文には上文が二月二十一日、下文が三月七日にあるとの参照注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 332 寛明日記
『寛明日記』の二月二十七日条。翌二十八日の総攻めを評議するため諸将が戸田左門の陣へ集まり、巳の下刻、濃茶を飲んでいたところ、物見が鍋島勢の攻撃開始を告げた。鍋島信州は自軍が法を背いて軽率に出丸へ攻め込んだことを嘆く。鍋島安芸が出丸に敵がいないのを見て乗り込み、榊原飛騨守ら諸勢が続き、城内各所で戦闘と…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-1 記事
『平塞録』所載の二月二十七日原城攻撃記事。翌二十八日の総攻めを評議するため、松平伊豆守ら諸大将が戸田左門の山手陣屋へ集まった。鍋島信濃守は、自陣前の二の郭枡形へ翌日の足次とする竹束を付けたいと上使衆へ申し、竹牌だけを寄せることを許された。ところが鍋島勢の者が出丸へ竹牌を付け、敵が退いたと見て鍋島安芸…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-2 佐田長三郎外三名連署差出
二月二十七日、永良弥角・入江八郎兵衛・小林勘太夫・佐田長三郎の四名が、三の丸一番乗りは自分たち四人であったと連署して申し出たもの。四名は仕寄の当番中、鍋島勢の指物が三の丸へ乗り入る様子を見たところ、その時点では誰もいないので三の丸へ乗り入るよう教えられ、四人も乗り入ったと述べ、自分たち以外に三の丸一…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-3 記事
右の面々には褒美の沙汰がないとし、さらに長岡勘解由相組の者頭国友式右衛門が式部手に付いてその日働いたことについて、差出一通があると記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-4 国友式右衛門差出
二月二十七日、国友式右衛門が鉄砲隊の行動を申し出たもの。長岡佐渡の仕寄場西の透戸口から鉄砲を率いて最初に出て三の丸へ乗り入り、二の丸堀下と本丸小土居で鉄砲を撃たせたとし、佐藤安右衛門・谷忠兵衛・高田角左衛門を証人に挙げる。夜は長岡佐渡の備えへ参り、下知に従って本丸旗下で夜詰し、翌日、御人数が入るまで…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-5 記事
藪図書助と佐分利加左衛門も三の丸一番乗りを申し出たが、その事実は不分明であると記す。未刻、戸田左門の対面所で休息していた上使衆・諸大将は、物見櫓から鍋島勢が出丸へ乗り入ったとの報を受けた。松平伊豆守は自ら櫓に上って確認し、諸勢は騎乗して城へ進み、三の郭へ乗り込んだ。記事後半は長岡佐渡勢の働きを記し、…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-6 松山次郎太夫差出
二月二十七日、松野右京組の松山次郎太夫が二の丸での戦闘を申し出たもの。一揆三人と遭遇し、自身も腕・耳の下付近を突かれたが、起き上がって一人を突き倒した。また長刀で兜の頬当ての上と籠手の上を切られたと述べ、和田清太夫を証人に挙げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-7 記事
長岡佐渡勢のうち、二の丸内で敵を討ち取り高名を挙げた者たちを示す見出し的な記事。本文はこの一文だけで、人名は記されない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-8 某覚書
八組に属する手負者計二十名を列記した覚書。谷主膳組は釘本十左衛門・山路太左衛門・魚住藤七・杉山七太夫・宇野喜一郎・魚住藤三郎の六名、西郡要人組は伊藤左内・道家清十郎・北村半右衛門の三名、島又左衛門組は友田八太夫一名、小笠原備前組は佐分利彦右衛門・佐々次郎右衛門の二名、松野右京組は安井喜一平次・和田清…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-9 記事
西郡要人配下の浪人平田太郎兵衛が、白紙の天目采を付けた番指物で三の郭から乗り込み、同じ手の浪人阿部七郎兵衛・水田半右衛門を証人として行動したことに始まる攻城記事。小屋内外で敵と遭遇した三人の戦闘、二の丸城戸口付近での諸勢の進退、妙解公らの指揮と諸将の働きを記す。大先手の十時摂津・同三弥之助・立花壱岐…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-10 立花宗茂・細川忠利連署書状
二月二十七日未刻、細川越中守忠利・立花飛騨守宗茂が川勝丹波守・佐々権兵衛へ早打で戦況を報じた連署書状。三の丸の塀を取り、城内へ押し入って二の丸際まで押し詰めたと伝える。急ぎのため両手の戦況だけを記し、諸手については上使衆から伝えるとする。追而書では、二の丸際へ柵・竹束を付け、討ち取った切支丹の人数も…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-11 記事
細川勢・長岡佐渡勢・黒田勢・黒田美作勢・有吉頼母組などの原城攻めを、多数の個別武功、負傷・討死、証人、進退命令とともに記す長文記事。冒頭では細川勢の北村甚十郎・財津市兵衛らの敵討ち取り、長岡佐渡勢の働きなどを列挙し、諸勢が二の丸・本丸方面へ進む過程で、鉄砲・石火矢・火攻め・柵などを用いた激戦と、先走…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-12 薮図書助差出
二月二十七日、有吉頼母組下の番頭が、自分たちと三の丸へ乗り込んだが証人はいないとし、続いて二の丸へ入り、敵を少々討ち捨て、小屋へ火を掛け、本丸へ向かって蓮池上の城戸目付の石垣へ着いたと申し出たもの。この地点では佐分利加左衛門を証人とし、その後、使いによって引き取る際、立允へ断って有吉頼母の備所へ戻っ…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-13 佐分利加左衛門差出
二月二十七日、佐分利加左衛門が鉄砲衆を率いて三の丸へ一番に乗り込んだと申し出たもの。この一番乗りには証人がいないとする。二の丸際で鉄砲を据えて敵を多数撃たせ、水之手口でも鉄砲を撃たせたと述べ、後者の証人として本文『図書助』に付された薮・萩の編者注を掲げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-14 後藤市十郎差出
二月二十七日、後藤市十郎が清田石見守勢から三の丸へ一番に乗り込んだと申し出たもの。仕寄場の城戸口で菅村藤兵衛が進出を遮ったが、自身の者である平九右衛門が菅村を押しのけて後藤を出したと述べる。さらに二の丸で小屋から逃げた敵四人を一人で仕留めたと主張する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-15 菅村藤兵衛差出
二月二十七日、菅村藤兵衛が清田石見守勢から三の丸へ一番に乗り込んだと申し出たもの。服部九右衛門・竹内八兵衛を証人に挙げ、二の丸で槍を合わせたことにも同じ二人を証人とする。後藤市十郎の件は少しも覚えがなく、自分が一番であると主張する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-16 竹内八兵衛差出
二月二十七日、志賀左門組の竹内八兵衛が、二之丸の『すときハ』から乗り込み、槍を合わせて首を取ったと申し出たもの。左腕に槍傷を負い、腕が利かなくなったため引き取ったとし、働きの証人に服部九右衛門・香山与助を挙げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-17 有吉舎人佐差出
二月二十七日、長岡右馬助組の有吉舎人佐が、二之丸で槍・長刀を持つ二人に向かい、一人を突き伏せて打ち捨てたと申し出たもの。その様子の証人に田中又助を挙げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-18 軍功衆人名書上
有吉舎人佐・澤村宇右衛門・築紫大膳・萩図書(編者注『薮カ』)の各組について、軍功衆の氏名を列記した人名書上。年月日・宛先や各人の具体的な働きは本文に記されない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-19 記事
前掲の面々の働きを記した記事。有吉頼母家来の中松傳助は一揆と槍を合わせて相手を突き伏せ、木部清太夫は早く二之丸へ着いて鉄砲で一人を倒し、矢で上帯付近を射貫かれても踏みとどまったという。米田与七郎は三之丸から二之丸へ乗り込み、蓮池辺で不意に槍を突き掛けた一揆を突き伏せた。歩の者田辺小右衛門も敵を突き伏…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-20 米田与七郎差出
二月二十七日、米田与七郎が本丸塀前の土居へ到着し、有吉頼母と一所にいた馬乗たちは二之丸・本丸で戦闘したと申し出たもの。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-21 記事
原城攻めにおける諸士の働きと、一番乗りをめぐる申告・証拠調査を記した記事。米田与七郎家来の松岡四郎兵衛は一揆を突き伏せて首を取り、小崎次郎左衛門と互いに証人となり、嫡子松岡權三郎も二之丸へ乗り込んで升形で負傷したという。続いて上使衆の撤兵命令、水野美作守らによる一番乗り申告者の書付・城内痕跡・持ち出…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-22 益田才助差出
二月二十七日の本丸乗取りで、益田才助が東隅から四人で一番に乗り込んだと有吉舎人へ申し出たもの。証人に石谷十蔵配下の浪人岡本八左衛門と寺尾左助組の鉄砲者を挙げる。乗込み後、槍を持つ敵一人を突き倒したが首は取らず、加藤安太夫を証人とする。また甥一人を伴って同じ乗口から入り、小屋へ放火した後に槍で戦い敵の…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-23 津川四郎右衛門差出
二月二十七日の有馬城攻めで、津川四郎右衛門が馬場三郎右衛門の命により本陣から楯板を受け取り本丸坂下へ運び、石垣に付いた人数へ撤下命令を伝えた経過を澤村宇右衛門・淺山修理へ申し出たもの。立石助兵衛と相談して侍衆を下がらせた後、角から城内へ入り、大手口まで見分した。さらに柵木・竹束を請求して鉄砲衆前に柵…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-24 河喜多正重差出
二月二十七日の城乗りで、河喜多九太夫正重が本丸海手角と升形の間にある、蓆を掛けた塀の破口下の崩れた石垣(高さ三尺五寸ほど)に取り付き、砲石の激しい攻撃にも退かず、そこから乗り込んだ経過を嶋少右衛門へ申し出たもの。山田新九郎ら近傍の者を一番乗りの証人に挙げ、乗込み後は槍を合わせて敵二人を仕留め、前田忠…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-25 山田新九郎差出
山田新九郎が、本丸下石垣角から塀下へ進み、寺本八左衛門・長谷川仁左衛門の鉄砲射撃後、平野太郎四郎らと塀の破口から乗り込んだ経過を坂崎清左衛門へ申し出たもの。木戸口から敵を追い、太郎四郎らが一人を突き伏せたこと、自身も槍を取替えて長谷川と蓮池端を防いだこと、家への放火後に先へ進んで梅原九兵衛と会い、夜…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-26 山田新九郎差出
山田新九郎が、長谷川仁左衛門・寺本八左衛門組の鉄砲前で本丸へ一番に乗り込み、内部に味方は一人も見なかったと有馬吟味御奉行衆へ申し出たもの。河喜多九太夫が自分を証人に立てた件は後方を見ていないため知らないとし、小澤五左衛門・金坂彦右衛門・山田三郎右衛門・野村才兵衛・設楽源太郎らを自身の一番乗りの証人に…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-27 早水一郎兵衛差出
二月二十七日、早水一郎兵衛が本丸北東の石垣腹に取り付き、投石で兜を数度打たれながら堀を越え、本丸東の海手で敵と槍を合わせて首を取った経過を丹羽亀之丞へ申し出たもの。築紫大膳・澤木弥平太夫・歩御使番吉岡瀬兵衛・森田弥五右衛門を証人に挙げ、同日夜半まで本丸に留まり、津川四郎右衛門へ相談後、桑木浅右衛門ら…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-28 記事
本丸での軍功者を記した記事。歩行使番都合太兵衛は塀の破口から乗り込み、一番乗りと名乗り、一揆と組み合って押さえ首を取り、これを本丸の一番首とする。池永源太夫は槍で一揆を突いて負傷し、後藤権右衛門は一揆を斬り伏せて首二つを取ったという。さらに足軽十人として山内五兵衛・平井十兵衛・岩尾数右衛門・齋藤庄蔵…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-29 都甲太兵衛差出
二月二十七日七つ時分、都甲太兵衛が本丸海手角から南へ二間ほどの石垣に取り付き、二度の撤退命令後も澤村宇右衛門と本丸で討死する約束を理由に残留した経過を申し出たもの。品川六兵衛と鉄砲で敵を撃ち伏せ、池永源太夫・後藤権右衛門と三人で本丸へ乗り込み、自身は塀際で敵を組み伏せて首を取ったと述べる。また品川六…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-30 後藤権右衛門差出
二月二十七日、後藤権右衛門が、本丸先手へ撤退命令を伝えたが退かなかったため城東の石垣に取り付き、鉄砲で敵を退かせてそのまま乗り込んだ経過を御吟味奉行衆へ申し出たもの。海手からの一番乗りは都甲太兵衛・池永源太夫・自身の三人で、両人を証人とする。城内で敵一人を討ち取り鼻を取り、多田十右衛門・難波右衛門を…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-31 池永源太夫差出
二月二十七日、池永源太夫が、先手衆への撤退命令を本丸海手角の塀破口にいた侍衆へ伝えたが、交戦が続いたため後藤権右衛門と鉄砲を撃って敵を退かせ、そのまま乗り込んだ経過を寺内五兵衛へ申し出たもの。本丸東角からの一番乗りは都甲太兵衛・後藤権右衛門・自身の三人だけだったとし、城内で軽い槍傷を負って帰ったと述…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-32 記事
本丸一番乗りをめぐる都甲太兵衛・森本藤太昌勝・田中左兵衛氏久の働きと認定を論じた記事。都甲は躑躅採取の人夫を連れていたところ城乗りを知り、雨具のまま石垣へ急行して城中へ入り、蓑に火を付け小屋へ投げたが、上使衆が見ていなかったため一番乗りとならなかったという。森本も早く城中へ入り、一揆一人を斬り槍二本…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-33 田中左兵衛差出
二月二十七日の原城落城時、田中左兵衛が三之丸・二之丸までは主君の側に置かれていたが、諸勢が本丸へ乗りかねるなか、志水久馬とともに先手へ進むよう命じられ、本丸石垣へ直行した経過を住江求馬介へ申し出たもの。上から鉄砲・石・槍・火を受けながら名乗って乗り込み、自身が一番乗りであると主張する。城内で多数の敵…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-34 記事
村上吉之丞・山田忠三郎・平野太郎四郎の三人が、かねて共に討死する覚悟を定め、本丸へ乗り込んで槍・太刀で戦った最期を記した記事。平野太郎四郎が最初に討死し、山田・村上も深手を負って小屋まで退いた後、ほどなく没したとし、心掛けのある討死だったと評する。末尾で、太郎四郎の父平野治部左衛門による二男太郎四郎…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-35 平野治部左衛門差出
平野治部左衛門が、二月二十七日の有馬城乗りで討死した子・太郎四郎の働きを申し出たもの。太郎四郎は二之丸で槍を持つ切支丹二人に襲われ、一人を突き留め、もう一人にも槍を付けたが逃したという。村上吉之丞から翌朝に伝えられた話や、従者・山田新九郎の証言を挙げ、本丸塀の破口付近で敵を突き伏せた後、大勢と戦って…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-36 記事
細川方大先手の長岡佐渡勢が本丸へ突入した経過と、諸士の働きを列叙した記事。旗奉行西垣庄太夫が前日に鉄砲で討死したため、子の西垣太右衛門が父に代わって旗を支配し、佐渡備を抜けて二之郭へ入り、砲石・火矢を受けながら本丸内の高所へ旗を立て、後続の目印としたという。続いて式部配下や諸士の進撃、槍戦・討死・負…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-37 長岡右馬助差出
長岡右馬助が、二月二十七日の原城攻めで負傷して退くまでの行動を申し出たもの。浜手を見回っていた際、鍋島勢が乗り込んだと聞き、組の者へ機会に応じて突入するよう伝え、自身の供回りと三之丸浜手口から入り、二之丸大手の須戸から乗り込んだ。小屋から出た敵に槍で突かれたが、若党がその敵を討ち取り、馬乗の者には各…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-38 記事
細川立允の相備の組頭・三淵内匠が、鍋島勢による出丸攻略を知って本陣から出撃し、重傷を負いながら本丸下まで進んだ経過を記す記事。竹束と混雑で城戸が開かないため竹束を越え、家来に左右へ押し開かせ、当初十二人ほどで飛び出した。佐渡守備・式部手に加わる過程で家来に討死・負傷が相次ぎ、内匠自身も右手を鉄砲で撃…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-39 三淵内匠差出
三淵内匠が、二月二十七日に二之丸大手口左側の塀から乗り込み、敵へ向かったところ左肩を鉄砲で撃たれて手が利かなくなったため、頼母佐・清田石見へ事情を断って退いたと申し出たもの。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-40 記事
小笠原備前組を中心に、二月二十七日の原城総攻撃で各組が二之丸・本丸へ突入した経過と、軍功・死傷を列挙した記事。前夜の仕寄場当番を終えて組士が休息中、城乗りを聞いて出動し、番頭有吉舎人が真先に二之丸へ攻め入って一揆二人を突き留め、妙解公から高名を与えられたこと、七十三歳の藤本勘助と河村伊右衛門らが備前…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-41 志水新之丞差出
志水新之丞が、二月二十七日の原城攻めでの見聞を申し出たもの。早く本丸石垣へ着いて石垣上から塀へ取り付き、長岡佐渡家中の田原清兵衛の子・田原角十郎が槍で腕を突かれ、さらに石で犬走りへ打ち落とされるのを見たという。また、自身が通った二之丸門口にも、本丸石垣下にも、多数の手負・討死がいたと述べる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-42 記事
十八歳の仲光小内膳と横井牛右衛門の原城本丸攻めを記す記事。小内膳は本丸石垣を越えて入城しようとして敵の槍・長刀を払い、投石を肩に受けた。旗本衆の細井喜三郎はその働きを賞し、後日の証拠として小刀を与えたという。その後も小内膳は槍で深く突かれながら持ちこたえ、妙解公に召されて旗本へ赴いた。横井牛右衛門も…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-43 横井牛右衛門差出
横井牛右衛門が、二月二十七日の有馬城総攻めで本丸海手側を攻めた際の行動と証人を申し出たもの。本丸石垣角から山側へ二、三間ほどの所で松平石見守家中の安藤半助と言葉を交わし、後に半助から書状を受けた。同日、同じ石垣の犬走りへ上り、紀伊大納言家中の田屋五郎左衛門とともに塀越し・狭間越しに槍を入れたが、自身…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-44 記事
原城本丸の大走りへ到達して戦った細川方の諸士を、佐渡守一手の各組・組頭別に列挙し、その後の戦闘・死傷・軍功証明を詳述した記事。諸士が矢・石・鉄砲を受けながら石垣・大走りへ進み、熊谷忠右衛門らが敵と斬り合い、鉄砲・槍・投石で多数の討死・手負が出た経過を記す。また、先登や働きの証拠をめぐって妙解公・細川…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-45 細川忠利・同光利連署書状
細川光利・忠利が川勝丹波守・佐権兵衛・日根野織部へ、二月二十七日の原城総攻撃の結果を急報した連署書状。先刻も飛札で知らせたとしたうえで、三之丸・二之丸へ七ツ時に乗り込んで焼き立て・切り捨てを行い、本丸にも同日酉刻に乗り込んで焼いたため、すべて一度に済んだと喜ぶ。ただし手負・死人が多く、他の部隊のこと…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 333-46 記事
府内への戦況注進後、日暮れの原城本丸前で味方が密集・混乱するなか、夜間防備を整えた経過を記す記事。寺本久太郎は、諸隊が先を争って入り込んだ状態で敵が突出すれば味方が自由に戦えないと旗本へ警告し、敵味方を隔てる柵木の設置を提案した。妙解公の許可を得て、長良長兵衛・長岡佐渡らと夜中に柵を立て、出入口を設…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 334-1 寛明日記
『寛明日記』が原城陥落時の細川・黒田勢の働きを記した記事。二十八日早朝、細川越中守忠利勢が四郎時貞の居館へ乱入して数百人を討ち取り、火を放ち、細川家臣の陣野佐左衛門が一揆大将四郎時貞を討ち取ったため、本丸一番乗りは細川忠利であると江戸へ注進したという。また黒田右衛門佐忠之勢は未明に本丸へ攻め、鉄砲・…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 334-2 二月廿七日八日両日討死・手負ノ覚
二月二十七・二十八日の原城総攻撃における諸大名家中の手負・討死人数を列挙した覚。細川忠利家中は手負826人・討死272人、黒田忠之家中は手負1,600人(異記1,658人)・討死213人などとし、秋月・佐賀・久留米・柳川・島原・小倉・豊後・備後・唐津・豫州・武州の各家中を続ける。末尾の原記載合計は手…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 334-3 記事
諸大名がそれぞれの首帳を松平伊豆守信綱へ送り、信綱が将軍の上覧に供したことと、原城攻めの死傷者総数を記す記事。前年十二月二十日の合戦、正月元日の合戦および夜討での討死・手負を4,917人とし、今回の二日間分を合わせた討死・手負は合計一万三千余人であるとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 335-1 元寛日記
『元寛日記』が二十八日の原城総攻撃を記した記事。未明に諸手が一斉に攻め、寄手は総勢十二万五千余騎とする。諸大将が一番乗りを争うなか、一揆勢は鉄砲・矢・石・大木・槍・長刀・鎌などで防ぎ、寄手は死骸を重ねながら石壁を登った。城方は苫・茅に火を付けて塀下へ投げ、寄手を焼き、黒煙と暴風のなかで双方が戦ったと…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 335-2 味方手負死人覚
二月二十七・二十八日の原城総攻撃における味方の討死・手負人数を、諸大名家中別に列挙した覚。細川忠利・光尚父子勢は討死270人・手負826人、黒田忠之勢は討死213人・手負1,658人、黒田長興勢は討死32人・手負345人などと記し、鍋島・有馬・立花・松倉・小笠原・水野・寺沢・戸田・松平各勢を続ける。…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 335-3 記事
前掲の味方手負死人覚を総括し、落城後の生捕り処置を記す記事。二月二十七・二十八日の討死を1,126人、手負を6,950余人、合わせて8,086人とし、板倉主水・石谷十蔵らの郎等や諸国浪人の死傷は含めないと断る。前年十二月二十日・正月元日・夜討の4,917人を合わせ、寄手の討死・手負は一万三千余人とす…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 336-1 記事
『天草説書』所載の記事。二月二十七日から二十八日にかけ、黒田右衛門佐の一手が原城の詰の丸を攻め、一揆勢の石礫・材木・火を付けた苫・鍋釜・弓・鉄砲による防戦を受けながら、七、八間の石垣を登ったと記す。黒田三左衛門・橋本市郎右衛門・吉田久太夫・内藤源之丞・高橋忠左衛門・二宮六郎兵衛・福山長助らが乗り込み…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 336-2 落城時寄手討取首数覚
原城落城時に寄手が討ち取った首数を諸将別に列挙した覚。細川越中守285首(小字に四郎時貞の首と陣佐左衛門の討取りを記す)、黒田右衛門佐576首、鍋島信濃守692首、有馬玄蕃頭125首、立花飛騨守157首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹波守13首、寺沢兵庫頭108首、有…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 336-3 記事
原城落城時の死傷者を寄手諸家別・身分別に集計し、個人名を列挙した大部の名簿。冒頭では、落城時に討ち込まれた者、焼死者、生捕り後に首を刎ねられた者、女童部を含む焼け残りの首を集め、北面に掛けたと記す。続いて黒田甲斐守・同市正、鍋島信濃守・同紀伊守、細川越中守、有馬玄蕃頭、寺沢兵庫頭、立花飛騨守、小笠原…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 336-4 討死手負覚
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 336-5 藤掛集書
十二月二十日の城攻め、寅年二月二十一日の夜討、その他たびたびの戦闘における寄手・味方双方の討死・手負について、人数を知ることができないため省略するとした『藤掛集書』の記事。目録年月日欄は空欄で、本文中の二日付はB列へ補入しない。確認用画像第2頁の氏名断片は同じ原本296頁に併存する336-3等の隣接…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-1 記事
『藤掛氏集書』所載の黒田右衛門佐一手による天草丸・詰の丸攻撃記事。二十八日、石礫・材木・鍋釜・弓・鉄砲による防戦下で七、八間の石垣を登り、黒田三左衛門・鷲見市郎左衛門・吉田久太夫・内藤源之助・高橋忠左衛門・二色六兵衛・福山長助らが乗り込み、巳の下刻ごろに敵を討ち果たしたとする。右衛門佐は家臣と生死を…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-2 原之城落去手負死人覚
『藤掛集書』所載の、原城落城に伴う二月二十七・二十八日の寄手側手負・討死人数覚。細川越中守忠利、黒田右衛門佐忠之、黒田甲斐守直澄、同市正高政、鍋島信濃守勝茂、有馬玄蕃守豊氏、立花飛騨守宗茂、松倉長門守勝家、小笠原右近大夫忠真・同信濃守長次、水野日向守勝成、有馬左衛門佐直純、寺沢兵庫頭忠高、戸田左門氏…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-3 記事
前掲337-2の手負・討死人数覚について、松平伊豆守へ書き出した内容はこのとおりであると明記する短い付記。337-2と一体的な説明だが、固定ID337-3として区別する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-4 落城時討取敵首数覚
原城落城時に寄手が討ち取った敵の首数を諸将別に列挙した覚。鍋島信濃守692首、黒田右衛門佐576首、細川越中守285首(内、大将天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取った旨を付記)、立花飛騨守157首、有馬玄蕃頭125首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹後守13首、寺沢…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-5 記事
原城方の女・童子は合わせて三万人に少し足りないほどで、残る者は各所で討死し、落城時の射撃や火災で焼失したとする記事。諸手が生け捕った者も首数に入れ、銃撃を受けた首や焼け残った首を女・童子までことごとく集め、落城の西深田で柵木に貫き、北向きに獄門へ掛けた光景を夥しいと記す。336-3冒頭の同趣旨記事よ…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-6 水野家手筈合面々覚
『藤掛集』所載の、水野家で手筈を合わせた者を順不同で列挙した名簿。鈴木半之丞以下、水野家中・関係者の氏名と異本の字注を掲げ、末尾を「合二百六人」とする。ただし「此外にも可有之、追而可考」として、ほかにも該当者があり得るため後考に待つと留保する。全7頁の氏名列を画像確認したが、206人全員の独立転記照…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 337-7 記事
前掲337-6の206人名簿に挙げた者には、首を取って来た者、敵を討捨てにした者、深浅の手負を負った者、大将の供をよく務めた者、少年ながら心操のある者、直接敵に会わなくても言葉を尽くして手筈を合わせた者が入り交じると説明する。当時の書付のとおり書写したため、ほかに書落しがあるかは不明と留保する付記。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 338 浦の波
『浦の浪』によれば、島原陣の後百年に当たる時、松平伊豆守家が島原で戦死した家来の子孫を召し出し、書院で料理を給し、自ら引出物を渡して盃を交わした。この行為は公儀にもよく聞こえ、世上でも賞美されたとする記事。目録標題は『浦の波』、本文見出しは『浦の浪』で、表記差を保持する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-1 記事
『平塞録』を引き、二月二十八日辰刻に板倉主水が原城攻撃を開始し、上使の制止や相談を顧みず本丸へ進んだ経過、板倉勢・佐渡勢・細川勢らの戦闘と死傷を詳述する。細川方が柵を越えて本丸へ攻め入り、佐左衛門(本文表記)が四郎居宅に踏み込んで首を取った顛末を記し、籠城中の辛苦による四郎の痩せた首を上使が実見し、…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-2 陣佐左衛門差出
陣佐左衛門が、二月二十七日に二ノ丸の塀裏へ取り付き、直ちに塀を越えたこと、その証人は谷助太夫であること、本丸で首三つを討ち取り、そのうち一つが四郎の首であることを証明し、有吉頼母佐へ提出した差出。二月二十九日付で、少しも相違ないと結ぶ。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-3 記事
同刻、黒田右衛門佐の詰の丸を乗り取ったとし、伝聞として、二月二十七日晩に大江郭を崩した黒田勢二万が本丸を直ちに攻め落とすため、追手西の空堀から南の升形下の海手まで展開して矢・鉄砲を放ち、柵・屏を破り投石・火矢で攻め込んだ経過を記す。黒田勢を中心に細川・鍋島など諸勢も本丸へ突入し、城内各所で首を取り、…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-4 一揆討取首数覚
一揆方から討ち取った首数を寄手別に記す覚。細川越中守手2,632首、松平右衛門佐手2,913首・鼻10、有馬玄蕃頭手1,380首・鼻1、鍋島信濃守手58首、寺沢兵庫頭手6首(ただし生捕の首)、立花飛騨守手2,637首・鼻268、松倉長門守手180首、水野日向守手85首・鼻28を掲げる。首数八明細の和…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-5 味方討死手負覚
味方の討死・手負を諸将の手勢別に記す覚。先備七口について細川越中守手285人・1,826人、黒田右衛門佐手等251人・2,171人、鍋島信濃守手116人・600人、有馬玄蕃頭手88人・259人、寺沢兵庫頭手23人・338人、立花飛騨守手97人・305人、松倉長門守手27人・68人を列挙し、先備人数合…