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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全866件中 601~700件・7 / 9ページ

  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 418 高橋銀右衛門実見証文

    高橋銀右衛門が長野正右衛門へ、二月二十八日に本文表記『春之城』の本丸の屏を乗り越え、敵を討ち取ったことを確かに見届けたとして、三月二日に与えた証文の写し。『九ノ張紙』とする貼紙に収める。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 419 寛明日記

    『寛明日記』は、三月三日に肥州島原で、この日から五日まで陣払いをして帰陣したこと、原城は諸将から人夫を出して壊したことを記す。

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 420 藤掛集書

    藤掛氏は、三月三日から五日の間に各陣が陣払いして帰陣し、諸大名衆から人夫を出させて原城の石垣を破却したと記す。温泉山に一揆の残党が潜む可能性から諸手の足軽が狩ったが敵はいなかった。鹿や猪を敵と誤認して驚き、谷へ落ちたり脛を損じたり、死亡者も出たが、いずれの足軽かは不明とする。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 421 小河景信書状

    小河景信が村尾源左衛門尉重候へ、しばらく書状も出さず疎遠になったことを詫びて健康を案じ、自身は歩行できず面会できないため残念だと伝える。今後はどこにいても書状で相談したいとし、愚意のしるしとして押掛武具を贈った三月三日付書状。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 422 小原織部取払留

    三月三日の取払として、赤川弥七郎の飯米に真米一斗、膳長坊への借米に真米四升を渡した。振舞では伊地知弥右衛門尉重延に白米五合、有馬主馬丞純秀に白米二合五勺を用い、買物では酒一升代に真米二升、原記『若女』代に真米七合五勺を支払った。二月二十七日・二月二十九日・三月五日・四日の所在注を各勘定と区別する。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 423 天草覚書

    『天草覚書』は、有馬原城が寅二月二十八日に落城し、上使・目付衆が中三日滞留して仕置などを命じた後、三月三日に有馬表を引き取って陸路七里の島原へ着いたと記す。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 424 緒方主殿覚書

    緒方主殿の覚書は、三月三日の節句に軍衆へ御通・御酒・草餅が下されたことを記す。

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 425 北郷久加世別記

    北郷久加は三月三日に富岡へ到着し、竹之内備前・山之内勘兵衛・肥後内蔵助・山本内匠・本田民部右衛門・大馬場吉右衛門と同心して、四日から六日まで天草退衆の改めを行ったと記す。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 426 寛明日記

    『寛明日記』は三月四日、城内の男女の首一万五千余級を伊豆守の下知により城前の田の中へ梟首したことを記す。柵木の両端を尖らせ、前後から突き並べたという。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 427 天草覚書

    『天草覚書』は三月四日、島原逗留中に高来郡の絵図などを作るよう命じられたことを記す。伊地知季安は、命じた主体は上使・目付衆であるとの按を付す。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 428-1 平塞録所収記事

    『平塞録』は三月四日、公儀が諸将へ在陣中の扶持方代銀を給付し、上使衆が公儀勘定頭の能勢四郎右衛門・山中喜兵衛へ申し渡したと記す。両人は正月朔日から三月十日までの扶持方代銀を渡した。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 428-2 有吉英貴・松井興長連署達

    長岡佐渡守興長と有吉頼母英貴が、役高五十四万石につき百石四人扶持として二万一千六百人分、合計七千四百五十二石京升、石当たり銀五十目で銀三百七十二貫六百目の扶持方を、能勢四郎右衛門頼安・山中喜兵衛信三から受け取ったことを証する。

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 428-3 記事

    三月四日、上使衆が諸手で討ち取った一揆の首を梟首するよう命じた。諸大名が帰国し家老が残っていたため、細川家老中から各家老へ申し渡すことになったと記す。

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 428-4 松井興長・有吉英貴連署廻状

    長岡佐渡守興長・有吉頼母英貴が、伊豆守の命により、捨て置かれた首を一か所に掛けるよう各陣へ申し渡し、道奉行を差し出すよう求めた廻状。差出側も道奉行を出すとし、鍋島・松平・有馬・立花・寺沢各家老中へ回覧・判形を求める。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 429 伊地知季安記事

    伊地知季安は、この日、北郷久加が松平主税介・伊東大和守・寺沢兵庫頭の衆とともに天草退衆を改めたと記す。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 430-1 阿久根古帳所収某手形

    天草出役に伴い、阿久根町浜の水手女房百十二人へ、延べ八千三百五十二日分の跡飯米として先掻粟三十四石六斗六升を渡すよう、廻文に従って田上九兵衛・小幡主膳正へ命じた寅三月四日付の手形。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 430-2 阿久根古帳所収某手形

    有馬出役の水手三十五人について、延べ千三百八十一日分の女房跡飯米として、折口浜村に先掻粟五石七斗三升一合一夕を渡すよう、廻文に基づき命じた寅三月四日付の手形。右記が寛永十五年寅の留帳中にあるとの後記を伴う。

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 431 小原織部取払留

    小原織部の取払帳は、三月四日に真米一斗五升と赤米一斗五升を先掻で受け、三月七日から十日まで主従十五人分の引飯米としたこと、米合計十石四斗三升八合の先掻・前掻別および米種別内訳を記す。伊地知重政の在陣中、地頭所加久藤・羽月での持留、出水の米津・天草の上津浦・有馬で主従三十五人から漸減した兵糧だとの編者…

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 432 合戦手負注文

    蒲生士有馬氏家蔵の覚で、村尾筑前守以下を手負・付衆・当病・指合などの区分で列挙し、合計三十人とする。本文末に五日戊辰と記す。

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 433 天草覚書

    『天草覚書』は五日、上使・目付衆が島原を出船し、海上七里を渡って天草郡の寺沢兵庫頭領内大矢野へ着き、そこに止宿したと記す。上文が四日にあるとの参照注を伴う。

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 434 市来宗友与力衆合戦手負注文

    市来八左衛門尉宗友の与力衆について、村尾筑前守ら八人と各下人の手負を列挙し、合計二十九人とする三月五日付の覚。御船奉行中へ提出した。

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 435 市来宗友与力衆人数覚

    市来八左衛門尉宗友の与力衆について、村尾筑前守ら八人とその下人二十一人を列挙し、合計二十九人・弓二十九張とする三月五日付の覚。文書434の手負注文と同じ構成員を示す。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 436 松下源五左衛門書留

    松下源五左衛門の書留は、三月五日に十日分の御上米を受け取り、七日に有馬を陣払いし、八日に出船したことを記す。八左様は十日に上津浦へ着き、蒲生衆も同様に到着した。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 437 小原織部取払留

    伊地知重政付衆小原織部佑の取払留は、三月五日の御振舞方として、伊地知弥右衛門尉へ白米二合を振る舞ったと記す。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 438 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、この日、伊豆守が上津浦へ急ぎ到着するとの知らせを受け、渋谷重国が富岡から上津浦へ帰陣したと記す。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 439 長瀬新兵衛実見証文

    長瀬新兵衛が湯田平右衛門尉へ、有馬城本丸で鉄砲を射通したことを最前からその場にいて見届けたとして、後日のために与えた三月五日付の実見証文。末尾の六日己巳は次の日次見出しとして区別する。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 440 天草覚書

    『天草覚書』は六日、上使・目付衆が海上五里を経て上津浦村へ到着したと記す。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 441 伊地知季安記事

    伊地知季安は六日、北郷久加らが退衆改めを終え、その結果を帳面にしたと記す。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 442 壱岐舎人佑・池袋九左衛門連署送状

    池袋九左衛門と壱岐舎人佑が野村五郎左衛門尉へ、甑島の船頭清左衛門の十三端船一艘に原記『立五十帖』を積んだので、その津で受け取るよう求めた三月六日付の送状。積荷には小字で『楯板ナラン』と注記する。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 443 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、四日から六日まで、松平主税介家中の大田仲右衛門・千賀七太夫・槙野権左衛門、伊東大和守家中の伊東大蔵介、寺沢兵庫守家中の九里六左衛門・田代八右衛門が合同で天草退衆を改めたと記す。渋谷重国は伊豆守が上津浦へ急ぎ到着するとの知らせを受け、三月五日に上津浦へ帰陣した。上文・下文の所在注…

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 444 天草覚書

    『天草覚書』は七日、上使・目付衆が栖本へ到着して止宿したと記す。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 445 松下源五左衛門書留

    松下源五左衛門の書留は、三月七日に有馬を陣払したが順風が悪く、八日朝に乗船し、その日は柳の瀬戸に掛かったと記す。

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 446 小原織部取払留

    伊地知重政付衆小原織部佑の取払留は、久蔵・大蔵介・八右衛門尉・西田七左衛門尉らへの米払を人数・日数別に記す。重政一人分は正月十六日夜から三月五日朝まで四十三日分で上白米六斗二升二合五夕、手勢三十五人の賄差引総計は米六石八斗五升五合、うち白米三斗二升二合五夕とする。編者は『上御壱人』が重政を指すと注記…

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 447 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、北郷久加が同月七日に上津浦へ帰陣したと記す。上文は六日、下文は十三日にあるとの所在注を伴う。

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 448 谷口氏書留

    蒲生谷口氏の書留は、三月七日に有馬を出船し、柳の港に中一日逗留した後、十日に天草の上津浦村へ参着したと記す。上文は二月二十七日、下文は十四日にあるとの所在注を伴い、末尾の八日辛未は次の日次見出しとして区別する。

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 449 寛明日記

    『寛明日記』は三月八日辰下刻、鎮西から宿次飛脚が到来し、二月二十七・二十八日の一揆落城を注進したと記す。江戸から寄手大名へ伊豆守の指図に従い原城を引き払って帰国するよう命じ、伊豆守・左門は天草・長崎の仕置後、肥前名護屋・唐津、筑前福岡・筑紫を巡見して豊前小倉へ着いた。

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 450 元寛日記

    『元寛日記』は三月八日未下刻、鎮西から宿次が到来し、二月二十七・二十八日の攻城・落城と委細の注進を受けて将軍家が喜び、鎮西仕置の奉書を発したと記す。寄手諸将は伊豆守の指図で原城を引き払い、伊豆守・左門は天草・長崎の仕置後、肥前名護屋・唐津、筑前福岡・筑紫を巡見して豊前小倉へ着いた。

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 451 藤掛集書

    『藤掛集書』は、原城落去・破却後、諸将が三月中旬に帰陣し、松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が天草・長崎を仕置して肥前・筑前・豊前を巡見し、小倉へ九州諸将を召集したと記す。島原一揆を招いた領国統治の責任から松倉家を改易し父子・兄弟を諸家預けとし、寺沢兵庫頭から天草四万石を召し上げた。さらに軍法に背いた城乗…

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 452 諸将有馬着陣覚書

    『諸将有馬着陣覚書』は、松倉長門守・右近、板倉内膳・石谷十蔵をはじめ諸将・上使・目付・横目らが、寛永十四年十一月から十五年二月に島原・有馬へ到着・出陣・着陣した日程を人別に列記する。伊東大和守らを天草城代として遣わしたこと、島原横目下曽根三十郎の二月二十三日島原着も記し、攻口・間数の記載は前巻にある…

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 453 旗馬印覚書

    『旗馬印覚書』は、板倉内膳正重・板倉主水正重矩・石谷十蔵貞清・松平伊豆守信綱をはじめ、諸将と家中の旗・馬印・指物について、地色、形、紋、付物、家老・家中の印を人別に列記する。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 454 天草覚書

    『天草覚書』は、同八日に上使・目付衆が海上三里を経て中田村へ到着したと記す。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 455 伊地知季安記事

    伊地知季安は、前日に有馬を陣払したものの順風にならず、市来八左衛門尉宗友らがこの日に有馬を出船して柳の瀬戸に泊まったと記す。

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 456 清敷丸乗合人数覚

    『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 457 天草覚書

    『天草覚書』は、九日、上使・目付衆が壹町田に止宿し、陸路二里であったと記す。

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 458 伊地知季安記事

    伊地知季安は、市来八左衛門尉宗友らが風潮の意に任せないため柳の瀬戸に滞船したと記す。

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 459 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』は、正月二十六日、天草番の細川越中守家臣清田石見守が上津浦に在番するところへ、島津豊後守・喜入摂津守が千余人を率いて交替したと記す。その後の切支丹狩の帳を北郷佐渡守が持参し、三月九日に上津浦を出船、島津下野守と有馬で松平伊豆守・戸田左衛門に披露し、帳を戸田に預け、十二日に上津浦へ帰っ…

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 460 天草覚書

    『天草覚書』は、同十日、上使・目付衆が志岐の内富岡に止宿し、陸路八里であったと記す。上文九日を参照するよう注記する。

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 461 伊地知季安記事

    伊地知季安は、十日、市来八左衛門尉宗友らが蒲生衆を率いて江津浦に着船したと記す。

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 462 小川監物日記

    『小川監物日記』は、三月十一日、三原左衛門佐が有馬から上津浦へ渡ったことと、三日以内に上使が天草へ渡るとの風聞を記す。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 463-1 天草覚書

    『天草覚書』は、同十一日、上使一行が肥前長崎に着き、海上七里を経て茂木村から渡海し、唐津を回って豊前小倉へ向かうとの風聞を記す。この時、上使石谷十蔵が小倉で出会ったという。

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 463-2 伊地知季安記事

    伊地知季安は、右の覚書が宝永七年の国廻上使下向に際し、天草郡の私領・御領の始まりや古来の沿革を郡中庄官が富岡で吟味した際の記録であると説明する。天正十七年に天草郡が小西摂津守行長の領地となって以後の代々の定めを記した覚書が、各組の大庄屋方にあったという。

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 464 伊地知季安記事

    伊地知季安は、十二日、北郷佐渡守久加が有馬から上津浦へ帰ったと記す。

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 465 小川監物日記

    『小川監物日記』は、十三日、松平伊豆守・戸田左門が『かうつら』へ渡り、『巣元』を通行し、晩に薩摩衆が皆暇を与えられたとの風聞を記す。

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 466 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』は、入来院石見守・北郷佐渡守が天草番を請け取り、北郷佐渡守が富岡で寺沢家の退衆改めを行った経過を記す。三月十三日、松平伊豆守が上津浦へ着くと、北郷佐渡守らが出迎え、伊豆守は千束島・湯島の切支丹狩、上津浦人数の帰還、北郷佐渡守による富岡での退衆改めと報告を命じた。編者は下文が十五日にあ…

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 467 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』は、二月二十三日夜に中納言が没した後、下野守が遺言に従って三月十三日に薩摩を発ち、四月十四日に江戸へ着いて土井大炊頭・酒井讃岐守へ申し入れ、五月十六日に遺物を土井へ持参したと記す。島原出陣鹿児島衆は総数五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人で、主要将と普請奉行を…

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 468 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、三月十三日、松平伊豆守が上津浦に着船し、三原左衛門重饒・渋谷伯者守重國・北郷久加・市来八左衛門が出迎えたと記す。伊豆守は久加に、上津浦へ戻って千束島・湯島の切支丹狩を命じ、上津浦の人数を帰し、富岡で退衆改めを行って報告するよう指示した。久加は上津浦へ戻り、渋谷伯者守重國を両島へ…

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 469 小川監物日記

    『小川監物日記』は、十四日に上津浦を出船し、十六日七つ時に小松原へ着船したと記す。陣中の事は別紙の小日記にあるとし、大将の下野守・豊前守と、喜入摂津守・北郷佐渡守・入来院石見守・新納加賀守・山田民部・三原左衛門佐を列挙する。

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 470 蒲生軍衆差出

    『蒲生軍衆差出』は、蒲生軍衆が三月七日の陣払いに伴って上津浦へ赴き、十四日に上津浦を発ち、十七日に蒲生へ帰ったと記す。

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 471 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、同十四日晩、北郷久加が上津浦を出船したと記す。上文は十三日、下文は十五日にあるとの所在注を伴う。

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 472 谷口氏書留

    本文見出し『蒲生書留』は、上津浦村に三日逗留し、三月十四日に出船、天草の火之嶋に掛かって一夜を明かし、翌日に出水米津へ着いたと記す。上文は七日、下文は十六日にあるとの所在注を伴う。

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 473 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』は、三月十五日、北郷佐渡守が富岡へ再び渡り、松平主税・伊東大和守・寺沢兵庫頭家中と作成した退衆改帳を松平伊豆守・戸田左衛門へ上呈したと記す。千束島・湯島の切支丹狩は入来院石見守が担当し、十六日に伊豆守・戸田左衛門から暇を与えられ、一同が無事帰った。

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 474 伊地知季安記事

    伊地知季安は、此日、入来院石見守重國が三角瀬戸を発して帰国し、十七日に府宅へ戻ったと記す。同日、世子が鹿児島を発って江戸へ向かい、伊勢兵部少輔貞昌・島津豊後守久賀らが従い、久賀はこの旅から豊前と称した。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 475 有川喜左衛門覚書

    『有川喜左衛門覚書』は、有川喜左衛門が兵部殿の供を務め、伏見で伊勢寿林という者に関わる『幕之相伝』を受けた旨を記す。急な出発により伏見から京へ上り、十日余逗留して江戸へ下った。

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 476 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』は、同月十五日、北郷久加が富岡へ着津し、松平主税介・伊東大和守・寺沢兵庫頭家中から先に退衆改めを行った者たちと同様に、松平伊豆守・戸田左門の前へ出て改帳を差し出したと記す。

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 477 史官雑抄

    『史官雑抄』は、家久が上命を奉じて兵を派遣し、肥後天草を警固して有馬を援け、正月朔日の攻撃と二月二十八日の落城で諸将が戦功を挙げたと記す。斬獲はほぼ二百級に及び、負傷・戦死者も出た。光久は賊徒殲滅を賀する書を執政へ呈し、相良主計頼尭が命を受けて江戸城への使者となった。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 478 緒方主殿覚書

    肝付兼屋家臣緒方主殿の覚書は、三月十八日、上津浦から帰陣し、市来の湊へ入津したと記す。帰陣者の名は本文に明記されない。

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 479-1 北郷久加世別記所収記事

    『北郷久加世別記』所収記事は、同十六日に北郷久加が暇を与えられ、三原左衛門重饒も同様に富岡を出船したと記す。上文十五日・下文十七日の所在注を伴う。

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 479-2 記事

    前後の『北郷久加世別記』所収記事に続き、同十七日に北郷久加が京泊へ着津したと記す。『京泊』は港名であり、京都への到着とはしない。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 479-3 記事

    前後の『北郷久加世別記』所収記事に続き、同十八日、北郷久加が鹿児府へ向かう途中、江戸参勤のため移動中の光久と串木野で会い、尊顔を拝して富岡・天草の次第を報告したと記す。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 480 谷口氏書留

    蒲生谷口氏の書留は、三月十六日に出水米津を発ち、同十七日に蒲生へ帰着したと記す。上文は十四日にあるとの所在注を伴う。

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 481 山田右衛門佐口達

    『山田右衛門佐口達』は、松右衛門・善右衛門・宗意・源左衛門・山善左衛門らが四郎を大将に立て、島原・天草で役人を殺して住民を動員し、本戸・富岡を攻めた後、原城へ籠った経過を述べる。口之津の蔵米約五千石を運び、天草から約二千七百人が加わり、籠城者は男女計三万七千人、鉄砲五百三十挺とする。弾薬は正月二十日…

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 482 島津久慶・鎌田政統連署書状

    島津久慶・鎌田政統は、弾正が薩州様の帰府まで番を勤めること、大坂から届いた物の送状を火事後の分と照合することを伝える。薩州様の参府・宿・船・借銀等を相談し、有馬一揆の城が先月二十七、八日頃に落ちたため、相良主計に年寄衆への祝詞連署状を持参させると記す。諸外城衆の戦功により首級が二百ほどに及んだとの報…

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 483 伊地知季安記事

    伊地知季安は、十四日丁未に島津久元が江戸へ着いたと記す。末尾の二十四日丁巳は次の日次見出しであり、本記事の内容に含めない。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 484 寛明日記

    『寛明日記』は、四月二十四日、上使太田備中守資宗が小倉で松平伊豆守・戸田左門に上意を伝え、九州諸大将を集めたと記す。島原・天草一揆は守護の政道の弱さに起因するとしつつ、忠戦を理由に松倉長門守らの死刑を一等宥めて配流・預けとし、寺沢兵庫頭や城攻めで不届とされた諸将も戦功により赦免した。諸将は帰国し、高…

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 485-1 寛明日記所収記事

    『寛明日記』慶安二年八月二十五日条は、朝比奈源六・庄田小左衛門が伊達遠江守秀宗へ、先年勤めた公儀普請・役儀等の書付を送るよう求めたと記す。宇和島から届いた書付目録は両人から老中へ披露された。

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 485-2 伊達秀宗覚

    伊達遠江守秀宗は、寛永十四年霜月から十五年四月まで、肥前国島原一揆に際して上使の船御用に船五十艘・水主千二百十四人を出し、飯米は公儀から支給されたと記す。ほか二か条は編者が省略する。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 486 小川監物日記

    『小川監物日記』は、卯月二十七日、上使の有馬引陣に船が必要なため分国から借りることとなり、舟追立として宮里壱岐守を坊津へ送ったと記す。二十八日には津留新左衛門尉・伊集院治右衛門尉を片浦へ通した。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 487 伊地知季安記事

    伊地知季安は、四月二十四日丁巳に世子が江戸へ着いたと記す。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 488 伊地知季安記事

    伊地知季安は、この月、松平伊豆守・戸田左門の手帖により、皆吉長右衛門の弟芦塚権右衛門が北郷式部のもとにいるとの情報を受け、捕縛に赴くよう命じられたと記す。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 489 伊地知季安記事

    伊地知季安は、五月十六日戊寅、島津久元が老中土井利勝の邸へ赴き、先公の遺物を届けたと記す。

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 490 某覚

    キリシタン宗・一向宗の者、逃亡者、不審な旅人、博奕を鹿嶋上下の横目衆に見張らせ、該当者を見つけた場合は申し出るよう命じる旨を仰せ渡すと定める。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 491 肥前島原天草軍立之事

    寛永十四年冬の島原籠城を受け、三原左衛門を大将として人数を差し遣わし、のち島津豊後守久賀・下野守久元が人数を率いた経過、正月元日の大合戦や島原城攻撃・帰陣を記す。続いて寛永十五年正月十四日に召し立て、三月末に帰宅した130人を名と知行高別に列挙する。末尾には一向宗改めで仏踏みを命じられた者や、屋敷・…

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 492 島津久慶書状

    島津久慶は、村尾源左衛門尉が南蛮宗徒の籠もった筑紫有馬の城の落城に居合わせ、鑓の働きに加えて他国衆とも証拠を取り交わす武功を立てたと聞いたことを述べる。少し鑓疵を負ったものの日々平癒していることを喜び、自身も近日帰国して詳しく申し達すと伝える。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 493 伊地知季安記事

    二十九日辛卯、日高十兵衛正盛が、前日の二十八日の攻城で受けた石疵が治らず死去したと記し、法号を一雄宗勝居士とする。

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 494 盛香集

    『盛香集』は、落城時に伊豆守の子松平甲斐守が抜駆して働いた逸話を記す。大久保彦左衛門は伊豆守に、軍法違反として子を勘当・追放した形を取り、密かに高野山へ送れば、無私の処置として父子双方の名誉となり、後に召し返しも期待できたと説く。伊豆守はそのように処置しなかったことを残念がった。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 495 伊地知重政書状

    伊地知重政は、有馬城攻めの二月二十七・二十八日の両日、持場に詰めていたが、落城の混乱時に下知を受けないまま本丸へ赴いて見物したのは不届であったと申告し、しかるべく取り計らうよう南林寺へ頼む。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 496 新納忠清書状

    新納忠清は一老衆へ田舎茶を贈り、有馬落城時に城近くまで赴いたこと、刑部太輔の戦死や親弥太右衛門の鑓働きは周知であることを述べる。自身も軍神や祖先の加護で好機に立ち会い、寺領の身ながら一世の本望を遂げたとし、久しく会えなかった相手と対面して昔語りをしたいと近況を伝える。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 497 島原立之時相付参人数覚書

    姶良地頭児玉四郎兵衛利重が島原へ出陣した際の随行者として、中俣主膳以下8人を列挙する。さらに二番組与頭入来院石見の与下に入って奉公した者として、松山助右衛門以下8人を列挙し、計16人を記す。

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 498 天草覚書

    『天草覚書』は、寛永十四年十一月のキリシタン蜂起と翌寅年春の原城落城を受け、正月から富岡に上使松平主税二万石、伊東大和守五万石、目付杉原四郎兵衛千二百石を城番として置いたと記す。松平・伊東は二之丸、杉原は出丸を守り、三人とも寅年六月まで富岡に滞在した。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 499 天草覚書

    『天草覚書』は、寛永十五年七月から天草郡が山崎甲斐守の拝領となり、三年間支配したのち、寛永十七年四月に讃岐丸亀へ転封されたと記す。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 500 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌は、町田出羽守の使者を機に、公儀奉書の写しを送り、薩州様の有馬下向と天草への人数留置が承認されたことを祝う。有馬・天草間を物頭の断りなく移動した家中衆など軍令違反の疑いがある者について、幕府が処罰を命じていない場合でも十分に調査して報告するよう求める。暇・守備交替・琉球米の件にも触…

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 501 島津久慶外六名連署廻書

    在々所々・町々でキリシタン宗の者を隠れ住まわせないよう命じる。公儀の定めとして、伴天連を届け出た者に銀二百枚、イルマンは百枚、キリシタン宗体の者は身分等に応じ五十枚または三十枚を与える。宗徒を知りながら届け出なかった者や匿った者は厳罰に処すとして、探索と通報を怠らないよう諭す。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 502 小川監物日記

    『小川監物日記』は十月十六日、次郎兵衛の商売船が小松原へ着いた際、本人が元キリシタンであることから、御衆の命により窪田壱岐・大山与七兵衛が同行して即時出船させたと記す。次郎兵衛は町の伊勢千代の父で、その子らは船に乗って面会した。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 503 川上久国外四名連署廻書

    在々所々でキリシタン宗門の者を隠れ住まわせないよう命じ、伴天連の届出には銀二百枚、イルマンには百枚、宗徒には身分等に応じ五十枚または三十枚を与えるとする。宗徒を知りながら届け出ない者や匿う者は厳罰に処すとして、探索・通報を怠らないよう命じる。

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 504 堀久左衛門尉有馬先船衆書付

    堀久左衛門尉は、有馬へ先発する船衆として江夏五右衛門・益山弥兵衛・佐藤伊豆守・杉尾千右衛門・渋江藤七兵衛らを主従人数とともに列挙し、合計十一人とする。別に夫丸七人を記し、西田貞右衛門尉・有馬千兵衛へ提出する。

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 505 寛明日記

    『寛明日記』は十二月五日、松倉長門守重次が四十二歳で切腹を命じられたと記す。領内の悪政で百姓が困窮し、やむなく一揆を起こした事情が目付衆から上聞に達し、詮議の末の処分であった。養子となっていた舎弟右近も同罪となるべきところ、島原城での忠戦を理由に死罪を免じられた。

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 506 元寛日記

    『元寛日記』は十二月五日、仕置の悪さから百姓一揆を招いた松倉長門守重次が四十二歳で切腹を命じられたと記す。養子である舎弟右近は同罪となるべきところ、たびたび身命を捨てて軍功を励んだことが聞き届けられ、死罪を免じられた。末尾の六日甲午は次の日次見出しである。

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 507 寛明日記

    『寛明日記』は十二月六日、高力摂津守忠房が遠州浜松三万石から肥前島原四万石へ転封されたと記す。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 508 元寛日記

    『元寛日記』は同六日、高力摂津守忠房が遠州浜松城三万石から肥前島原四万石へ転封されたと記す。

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 509 某覚書(皆吉長右衛門妻子召捕)

    寛永十五年、渋谷恕右衛門が足軽三人を率いて下り、公儀の囚人とされた皆吉長右衛門を召し捕ろうとした。長右衛門の父が島原籠城後に生け捕られ、吟味で息子が永俊に奉公していると白状したため、長右衛門の妻子五人を召し捕って鹿児島へ送った。当地からも宰領を付け、渋谷方に添えて差し遣わした。