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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全866件中 201~300件・3 / 9ページ

  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 149 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、東郷肥前守を通じた黄門様の意向として、薩州様の有馬直行はもっともである一方、松平信綱の従前の指示どおり在陣は不要で軍法に従うべきことを伝える。黄門様の病状は二十五日以来やや軽快し食事も取るが、咳で横臥しにくいとも報じる。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 150 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が北郷久直へ、薩州様が上関から有馬へ直行し到着した頃と伝え、加勢の程度は未決定と報じる。黄門様は十四・五日頃からやや軽快し少量ながら食事を取る一方、咳で横臥しにくいとし、加勢を出す際には有馬側が好まない者を含めないよう追伸する。

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 151 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、去る四日付書状への返答として、薩州様の有馬到着見込みと帰国時の川内筋・蒲生・宮之城の宿所準備を伝える。有馬在陣は不要との指示を踏まえ、加勢人数を早く決めて船・兵糧を整え、琉球米船を山川・坊津から回送すること、先送した装備や迎えの手配を求める。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 152 某廻状

    差出人不詳の廻状。諸浦からの書状を遅滞なく継送し、南風続きで到来が見込まれる琉球船を、着船した浦から出水方面へ直航させるよう命じる。各浦の船数・積米量・船頭名を次便で報告させ、地頭・浦役人の油断を処罰するとし、二系統の回覧先を列記する。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 153 平塞録

    『平塞録』所載の記事。八日、細川忠利の指図で従来の陣屋を堀・柵・番所・櫓を備えた陣城に改め、諸手を方陣に配置し、夜昼の鉄砲警固を定めた経緯を詳述する。足軽衆が命令前に城へ迫った際には引き戻して軍法違反を戒めつつ、その勇気は賞した。目録年月日欄は空欄のため本文の八日をB列へ補入しない。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 154-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。同日早朝、村田経乗が島原から上津浦へ戻り、兵糧負担を考慮して島原・上津浦の人数を減らし、船のある次第に千二百人を帰す案が定まったと記す。上津浦衆は戦況を見ず帰るのを不本意として島原衆との交代を願い、島津久賀・喜入忠政らが島原の薩将へ協議の書状を送った。目録年月日欄は空欄。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 154-2 島津久賀・喜入忠政連署書状

    入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗の返事を受け、渡海人数と兵糧が多過ぎるため、船便に応じて人数を帰し兵糧を陣へ送る案を相談する。上津浦衆を新着衆と交代させ、帰還前に島原の陣城を見せたいとの願いも取り次ぐ。本文末は二月八日だが目録年月日欄は空欄。

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 155-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。加久藤地頭伊地知杢右衛門が率いて来た約百五十人のうち、三十五人をこの日上津浦から帰したと記す。目録年月日欄は空欄。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 155-2 某覚書

    伊地知杢右衛門勢から帰した三十五人の覚。与力・内衆八人、加久藤衆二十四人、自力立三人を列記し、合計三十五人とする。親集団の三十二人・九十五人という記載と今回の帰還内訳を区別し、全人名は概要へ推測補入しない。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 156 小原織部取払留

    小原織部の米払方・出入賄の取払留。正月十五日から十七日および二月八日までの期間ごとに、立久井七介らへ支給した真米を一人別に記し、合計を示す。末尾は諸衆帰還時の飯米精算を二月十三日条に載せるとの参照注である。目録年月日欄は空欄。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 157 川上久国・三原重庸連署覚

    川上久国・三原重庸が薩州様の有馬下向に伴う手配を条書きした覚。供人数・着陣・伊豆守への挨拶、左右の備と上方軍法に従うこと、黄門様への暇乞い、使者礼、武具・小袖・道服などの装備、琉球船約二十艘の参着と上津浦への回送などを伝える。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 158 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が勝目助左衛門尉へ、一色杢頭宛の書状を肥後八代へ軽い衆に持たせ、世上の物音をさりげなく聞き回って帰るよう使者へ申し付けることを求める。

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 159 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、国分十右衛門尉が有馬へ赴くため、獅子島で鹿を捕らえて肴料とし、猪も出水・高尾野・阿久根などで調達して持参させるよう命じる。本文後の『九日癸卯』は次日条の見出しで、この書状の日付には含めない。

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 160-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。九日、世子が有馬へ直行するとの報が鹿児島から島原へ届き、賦方村田経乗や相良頼房ら普請奉行・功者衆を島原へ召したため、上津浦の四将が島原の両将へ書状で報じたと記す。目録年月日欄は空欄で、続く160-2がその返書本文に当たる。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 160-2 島津久賀外三名連署書状

    入来院重国ら上津浦四将が山田有栄・島津久元へ、薩州様の直行に伴い伊勢貞昌から注進があり、陣営を早く整えるため村田経乗・相良頼房・村尾源左衛門らを当地へ参らせるよう求める。佐州・石州の陣所が遠いため両所とも相談したと追伸する。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 161-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。村田経乗が島原へ渡るに際し五か条を島津久元らへ協議させ、その返答を聞かせるため本田隼人佑親紀を同行させたと記す。目録年月日欄は空欄。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 161-2 島津久賀外二名連署書状

    入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗が召し寄せられたため五か条の書付を送り、返答を早く求める。本田親紀を同行させ、詳しくは同人を通じて伝えるとする。

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 161-3 某覚

    有馬への軍衆交代について、五日替えの期限、三重在陣の衆の帰還、番所の配置、薩州様到着時の賄、米之津へ送る船のうち上津浦へ置く船数など五か条を挙げた覚。目録年月日欄は空欄で、『五日替』を日付として扱わない。

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 162-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。島津久賀らが、出水へ中取として出張している御使役市来宗友へ檄を送り、兵糧の運漕を促したと記す。目録年月日欄は空欄。

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 162-2 島津久賀外二名連署書状

    入来院重国・喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、上津浦の軍衆五千人に対して米千石ほどしかなく一か月分の兵糧にも足りないため、雑穀を含め早急に継送するよう求める。薩州様の有馬直行を踏まえ、賦方・物奉行と相談して手配させる。

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 163-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。世子の有馬出陣に備えて増援が差し立てられ、この日、山口直重らも外城衆二百四十七人を率いて鹿児島を出発したと記す。目録年月日欄は空欄。

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 163-2 山口直重訴状

    山口直重の元禄十一年十一月二十六日付訴状に見える由緒。寛永十五年の島原一揆で山口内蔵助が外城衆二百四十七人を付けられて島原へ向かったが、到着前に落城して戦闘に遭わず帰還し、その際の覚書を所持すると述べる。目録年月日欄は空欄。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 163-3 新納久宣・仁礼頼充連署覚

    新納久宣・仁礼頼充が山口直重へ示した出陣編成の覚。川辺・福山・恒吉・横川・指宿・末吉・加世田・清敷・伊作など各衆を組別に割り当て、総計二百四十七人、うち弓衆八十八人とする。道中で勝手な行動をしないよう命じる。canonicalの三月九日は採らず、目録・本文の二月九日とする。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 164 国分賦所日記

    『国分賦所日記』。二月九日に喜吉兵衛らが国分を出立したこと、各郷から差し出す鉄砲衆・弓衆・賄衆・夫丸等の組別人数を記す。五口十三か所計百五十六人(うち賄衆五人)、三口四十一か所計四百六十四人(うち御道具持衆四百四十九人・賄衆十五人)を掲げ、諸外城衆への飯米支給を命じる。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 165 北郷久加世別記

    『北郷久加世別記』。天草の切支丹狩の帳面を有馬へ持参するよう島津久元から命じられ、二月九日に上津浦を出船して有馬へ渡り、松平信綱・戸田氏鉄へ提出した経緯を記す。目録年月日欄は空欄のため本文日付をB列へ補入しない。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 166 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が大膳亮へ、薩州様の有馬直行に伴い当地衆を率いて出立する旨の書状を受けたが、松平信綱は加勢・在陣不要との意向であるため、人数の出立は改めて知らせるまで控えるよう命じる。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 167 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、有馬表へ書状を届け、同地で下知を担い、引付のない者の渡海を厳禁するよう命じる。薩州様到着の報があれば早船で知らせること、黄門様の病状が前日より重く食事もほとんど取れないことを伝える。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 168 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が山田有栄らへ、琉球から戻った竹之下善左衛門尉・蓑田五兵衛尉が持参した書状を送り、琉球船は正月九日までは帰朝していなかったとの報告を伝える。人数の渡海や箱の送付も相談する。B列は書状成立日の二月九日のみとし、正月九日は引用情報として分離する。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 169 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ継飛脚で、黄門様の病状が一昨日より悪化し、食事も取れず衰弱したため医師の書状を送り早船で注進するよう求める。島原加勢は不要と見込むが、船・兵糧を準備し、米之津への渡海を厳しく統制するよう命じる。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 170 三原重庸・川上久国連署書状

    川上久国・三原重庸が山川の寺師与左衛門へ、竹下善左衛門が琉球から持ち上った南蛮人の道具を有馬へ運び、島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ確実に披露・引き渡すよう命じる。

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 171 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が米之津の市来宗友へ、薩州様が豊後鶴崎で乗船したとの風説を確認するよう求める。諸所衆の有馬渡海を無断で許さず、先発四百人や道具持衆の到来に応じて割付・継送を整え、紛失者等も勝手に渡海させず賦所の指図で扱うよう命じる。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 172 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、七日申刻に米之津へ着船した道具衆が九日八ツ時にようやく到着した遅延を咎め、使者・飛脚を昼夜速やかに継ぎ、茂棚を含む道筋を滞りなく通すよう命じる。

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 173 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、六日付書状への回答として立花飛騨守・有馬玄蕃頭らに関する照会と弟子丸治左衛門への早急な返答を求める。追而書では井伊掃部頭の下向の有無を尋ね、下向なら城攻めが決し大勢を率いるはずとして後便の報告を求める。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 174 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、黄門様は前日の不食で衰弱し声は日々改善する一方、病状は悪化して回復の兆しがないと報告する。瑞仙を召して脈を診せ、服薬・食事・女房衆の看護など今後の養生について指示を仰ぐ。末尾の『十日甲辰』は次の日次見出しで本文外。

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 175 天草説書

    『天草説書』所収の『吉利支丹ニ立帰り候村々覚』。島原・天草の各村について、切支丹・残百姓の人数、男女別人数、竈数を列挙し、総計二万七千六百七十壱人、切支丹二万三千八百九拾壱人、残百姓三千七百七拾五人等を掲げる。末尾は寛永十五年二月十日付で多賀主水・岡本新兵衛・田中宗夫が署名する。原記載の内訳・合計は…

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 176-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。上津浦に駐屯する喜入摂津守忠政が、島原の薩摩陣営にいる基太村越中守忠智へ、薩州世子が近日到着すると聞いたため参謁に便利なよう、御陣営の隣に立営地を選んでほしいと申し入れた経緯を記す。

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 176-2 喜入忠政書状

    喜入忠政が基太村越中守忠智へ、薩州様が近日当地へ着陣することを祝い、自身も追って赴くと伝える。滞留の有無にかかわらず御陣屋近くの場所を望むので、小屋掛けの場所を一人遣わして見分し、申し渡してほしいと頼む。

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 176-3 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、吉利三郎九郎久が天草から帰国したことを記す。

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 177 国分賦所日記 堅山郷兵衛外二名連署覚

    『国分賦所日記』。国分役所が、楯板十枚・熊手十挺を出水米之津の竹内宮内左衛門らに注文して長櫃へ収め、正月十七日付の季安らの書状により公儀の命として島原へ渡すよう調えた経緯を記す。二月十日、楯十五枚・熊手十挺の調達・搬出に関わる者を任命した。

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 178 川上久国・三原重庸書状

    川上久国・三原重庸が吉利役人へ、当地にいる『とりい』の件で川窪慶右衛門に用があるため直ちに参るよう命じ、送迎等は役内で調達して後日役奉行へ報告し、少しも遅延しないよう指示する。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 179 川上久国・三原重庸書状

    川上久国・三原重庸が川越三右衛門へ、当地に焼酎壺があると聞いたので便船の折に有馬へ送るよう命じ、向田の御仮屋にあるはずなので尋ねるよう指示する。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 180 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、四日付書状への返答として、旧冬に鹿児島町で出会った桂外記・柳元喜左衛門が福昌寺・浄光明寺から寺領を与えられ、当地へ来たかを尋ねる。幕府の公儀により町奉行へ任命できない事情を述べ、喜入久右衛門・相良杢助と相談して寺領・町奉行双方の扱いを調整するよう求める。

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 181 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が蒲生衆中へ、御宮作のため蒲生御城山の楠・たぶを伐る際、舟楫木にできる材木は残し、それ以外を引き渡すよう命じる。

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 182 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊集院備後守へ、薩州様が上之関から有馬へ直行するとの知らせを祝い、兵具衆を早く派遣し、その他の人数は指示次第召し立てるよう伝える。自身の出陣希望については松平伊豆守信綱に伺い、有馬の加勢人数や上境目の事情を踏まえて判断するよう回答する。

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 183 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が、黄門様の病状がこの一両日重くなったと報じ、医師衆と治療・養生を相談するため相手に来訪を求める。薩州様の到着状況などを踏まえ、今後の対応を協議するよう依頼する。

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 184 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が岩切信堯・川上久康・市来宗友へ、当地へ向かう軍衆のうちこちらの手形を持たない者には船も兵糧も与えないよう命じる。違反は軍法の妨げとなり後日処分の対象になると警告する。

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 185-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。十一日、上津浦番手の島津久賀らには武功があり軍議のできる者がいなかったため、島原の島津久元らへ報せ、讃良善助貞賢と蒲川内蔵丞を上津浦に置くことを相談した経緯を記す。

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 185-2 島津久賀外二名連署書状

    入来院重国・喜入忠政・島津久賀が島津久元・山田有栄へ、当地には一所衆や鹿児島衆など若輩が多く、武功ある者が少ないため、召し寄せられた皿良善介・蒲川内蔵允の両人をこちらに置くよう求める。事情に応じて相談の上取り計らうよう依頼する。

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 186-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。伊地知重政は米之津まで主従三十五人を率い、その後人数を減らして上津浦で三十一人分の兵糧を受け、さらに帰還者を出して約二十四人で島原へ渡海したと考証する。九人ほどは自力で賄った可能性を示し、この日初めて島原で受けた支給を次条に掲げる。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 186-2 伊地知重政付衆小原織部取払留

    『伊地知重政付衆小原織部取払留』。伊地知重政付衆の飯米、魚などの買物、使者の賄、俵を町から船手まで運ぶ賃銭等を日付・品目別に記す。本文には二月十一日・二月十三日や正月十七日からの期間も記されるが、目録年月日は空欄を維持する。

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 187 旧伝集

    『旧伝集』所収の逸話。中納言様が讃良善助を召し、肥前・天草一揆籠城の様子を絵図で説明させ、絵図と実状の違いをただす。城攻めでの鉄砲・矢や攻撃経路、酒匂太郎左衛門の進言、加藤清正の攻撃例を挙げ、経験ある者の下図・判断が違わなかったと伝える。

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 188 川上久国・三原重庸連署覚

    二月十二日、川上久国・三原重庸が南来院左衛門尉へ、今井市兵衛が有馬から使者として帰国し、七日に島津久元が松平信綱へ赴いたところ、薩摩守の有馬出陣は不要との意向が示されたと伝える。追而書で、御手回り道具・兵具・代官・振舞奉行・包丁人・その他の役者・文箱持を渡海させるよう指示する。

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 189 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、七日に久元が松平信綱を訪ねた際、薩州様の有馬行きは不要との意向が示され、今井市兵衛の口上として東郷肥前守から聞いたと報じる。その意向なら加勢を強く申し入れず、黄門様へ報告するよう求める。

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 190 川上久国・三原重庸連署達

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、薩州様の船が八日に出たものの風波で未着のため到着見込みを尋ね、東郷肥前守へ渡した絵図・書状や陣道具の受取りを指示する。江戸屋敷無事の報知を伝え、早い渡海と後報を求める。追而書では中間五人・道具衆十人を直ちに上らせるよう命じる。

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 191 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、黄門様の疲労が続く状況を詳報する。平田主殿助を側近衆に加えること、食事・排泄・脈・服薬・睡眠など日々の病状と医師の処置を述べ、今後の養生を相談するとともに、黄門様が待つ薩州様の帰着についても伝達を求める。

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 192 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊勢貞昌・山田有栄へ、九日付書状が本日昼九ツ過ぎに到着し黄門様へ披露したと伝える。薩州様の船が八日晩に七釜まで着いたとの報告を喜び、加勢衆の第一陣が着いた知らせを早く聞きたいという黄門様の意向を伝える。

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 193 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が吉田・蒲生・山田・帖佐の衆へ、鮎が必要なので捕らせ、新恵内に持たせて当地の納殿衆へ渡すよう命じる。傷んだ魚では役に立たないため、道中を急がせ油断なく進上するよう指示する。

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 194 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が吉田を一番、蒲生を二番、山田を三番、帖佐を四番として、翌日から順次切れ目なく鮎を捕らせる。月末であっても過剰なら当地で必要な分だけを送り、供給を調整するよう命じる。

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 195 川上久国・三原重庸連署廻状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、薩州様の船が八日に七釜まで来たと伝え、諸役人と御道具衆を早急に渡海させるよう命じる。不要な人数は留め置き、現地で必要となる者を選んで整えるよう指示する。末尾の『十二日丙午』は次の日次見出し。

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 196 切支丹ニ無之村々人数並竃数

    『天草説書』所収の、切支丹ではない村々の人数・竃数目録。東空閑村以下、各村について総人数、男女別人数、竃数を列記し、寛永十五年二月十二日付で多賀主水・岡本新兵衛・田中宗夫が署名する。有馬へ持参された目録と記す。

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 197-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。三原重庸が在陣中、松平信綱の下知により出水から山元左近ら忍び十人を島原へ差し向けていた。重庸は帰陣したが、この日、左近らへ書状を出して様子を尋ねたと記す。

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 197-2 三原重庸書状

    三原重庸が出水から派遣された忍衆十人へ、帰陣後は音信できなかったが、その後の状況を尋ね、各人の苦労をねぎらう。現地で首尾よく帰郷できることを待ち、加勢に充てられた場合は参陣するので、その時に詳しく語り合いたいと伝える。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 198 小原織部取払留

    『伊地知杢右衛門付衆中小原織部佑取払帳』。二月十二日、羽月米として真米一斗五升を受け、上津浦で瀬戸山主左衛門から酒代分の銀子五匁六分を受け取ったことを記す。目録年月日欄は空欄。

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 199-1 矢文

    肝付兼屋の従臣・緒方主殿介の覚書に写された矢文。城中から寄手の鍋島・肥後・豊後横目衆などを嘲る文句を列ね、二月十二日酉刻に城から付けた矢文とする。末尾に浮武士頭有馬亀之丞時貞・口之津左兵衛正利の名を記す。

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 199-2 伊地知季安記事

    伊地知季安が、時任氏日記と肝付兼屋従臣・緒方主殿介の覚書を校合し、互いの誤りを訂して載せた記事。城中からの矢文の日付・歌の異同、島原への援軍不要との情報、寄手側の動向が城中へ漏れた経路を考証し、捕虜・間者などを通じた情報流入を指摘する。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 200 市来宗友書状

    市来宗友が松下源五左衛門・酒匂彦兵衛へ、熊野元志摩之助を通じた知らせを披見したと伝え、帰陣を待つ。仮屋用の畳を急いで出すよう求め、殿様の陣屋用や鹿児島御道具持に必要な分を差し引いた上で、残りを調達・差替えするよう指示する。

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 201 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、薩州様の着船・加勢衆の参着、黄門様の病状と養生、兵糧・旅人・塩硝の統制、城中からの脱出者や敵情などを報告し、必要な処置と後報を求める。追而書では琉球から竹下善左衛門が持参した南蛮人道具の送状写しを再送する。

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 202 小川監物日記

    喜入摂津守の地頭所・加世田衆中に属する小川監物の日記。十三日、殿様が有馬へ直行したと聞き、加世田衆十五人が召し列ねられ、同道して七ツ時に有馬へ着船し、諸大名の陣屋と敵城を見物したと記す。以下は十四日条へ続く。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 203 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』。薩摩守が正月十三日に阿部豊後守へ召され、その夜江戸を発ち、二月十三日に肥前口之津へ着船したと記す。伊勢兵部少輔を介して松平信綱へ人数を率いて参陣する旨を伝えたが、下野守と相談の上、父の病のため早く帰国するよう告げられたとする。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 204 旧伝集

    『旧伝集』所収の石原愚見の談話。若年時に島原へ派遣され、仁礼九郎左衛門の命を受けて使者・物資輸送や船の手配に関わり、夜間の航行や城からの鉄砲攻撃に遭った経験を語る。後記は関係者名・軍役人数の異同を考証する。

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 204-1 時任氏日記

    島津久賀の従兵・時任氏の日記。十三日、有馬城見物のため上津浦を出船したが、順風が悪く、柳之瀬戸に船掛かりしてその夜泊まったと記す。以下は十四日条へ続く。

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 205-1 有馬陣中城ヨリ矢文

    有馬陣中の城から寄手へ放たれた矢文。立花・大鍋・板倉・後藤・肥前らに掛けた風刺的な文句を列ね、二月十三日酉刻に城から付けたものと記す。異本は緒方主殿介覚書へ混入した旨の注記がある。

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 206 国分賦所日記

    『国分賦所日記』。二月九日条の続きとして、高岡・穂佐・倉岡・野尻・綾の各衆を槍・鉄砲・弓・賄などに分け、五か所計百五十六人と記す。続いて二月十三日の人員を掲げ、合計七百三十六人、内訳を鹿児島衆百十六人・外城衆六百二十人などとし、別に昇差百五人・詰夫二十七人を記録する。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 207 喜入忠政従臣聞書

    喜入忠政の従臣による聞書。同年二月十三日、喜入忠政が有馬へ渡海したことを記す。

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 208 堀輿延自記

    『堀輿延自記』(本文見出しは「堀興延自記」)。寛永十五年二月十三日、日州方外城の士百五十人に槍・弓・鉄砲の御道具持の代役を命じ、堀興延が堀四郎右衛門らを召し連れて向田まで進んだが、島原の事が済んだとの報を受け、御道具持百五十人とともに帰ったことを記す。

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 209 川上久国・三原重庸連署廻状

    川上久国・三原重庸が指宿・市来・阿久根・串木野・頴娃・加世田・山川へ、黄門様の養生のため好物の生鮑・さし烏賊・「う□」・ながらめを調達し、昼夜を問わず急いで持参するよう命じた廻状。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 210 小川監物日記

    小川監物日記。十四日朝に殿様の船が着き、直ちに上使の陣へ見舞って暇を得て船へ戻った。摂州様も帰国に供奉することとなり、十五日から船々が順次出航したこと、豊州様らへ落着を尋ね、二十一日に仁礼佐渡守が三分の一の帰衆を率いて出船したことを記す。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 211 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』。十四日に薩摩守が有馬へ着船し、在陣して奉公したいと再び松平伊豆守へ申し入れたが、前と同じく許されず、その日のうちに帰国した。のちに民部少輔が千余人で在陣し、暇を得て帰ったと記す。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 212 御恩徳記

    『御恩徳記』。二月十四日に有馬へ着いた島津光久は、松平伊豆守から父・家久の病が重いと聞き、島原は心配ないので帰国して看病するよう勧められた。光久は奉公せず帰るのは面目ないとして在陣を望んだが、伊豆守に強く命じられて帰国し、病中の孝行を尽くせたことを大院様の仁慮として称える。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 213 御功恩之次第大概

    『御功恩之次第大概』。二月十四日に島原へ着いた島津光久が事情を松平伊豆守へ伝えたところ、父の病が重いので早く帰国して看病するよう強く勧められ、その意に従って帰国したところ、同月二十三日に家久が死去したと記す。

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 214-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、伊地知杢右衛門重政が島原の陣屋で、鹿児島の士である土持平左衛門綱辰・田中善兵衛・吉田次郎兵衛康清・中上内蔵丞を饗応したことを記す。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 214-2 小原織部取払留

    伊地知重政付衆・小原織部の取払留。二月十四日の振舞方として上白米一斗五升を土持平左衛門尉・田中善兵衛・中上内蔵丞へ渡したこと、同日、買物方として真米八升四合八勺を記す。瀬戸山主左衛門へ渡した天草栖本から出水米之津までの船賃以下は十五日条に載せると注記する。

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 215 旧伝集

    『旧伝集』所収の仁礼九郎左衛門物語。島津光久が江戸から到着すれば城攻めがあると考え働きを期していたが、松平伊豆守から父・家久の病が重いので薩摩へ帰るよう繰り返し命じられ、光久の供として帰国したため、合戦に間に合わず軍物語がないと語る。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 216 時任氏日記

    島津久賀の従兵・時任氏の日記。十四日に有馬へ着船し、薩州様の船で目見えしたのち、陣場と城を見物し、同日晩に有馬を出船して上津浦へ着いたと記す。

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 217 浦の波

    『浦の波』。島津光久が帰国のため島原沖を通船した際、伊勢貞昌が供奉した。交戦中で虎口が狙われるため、構わず帰国させるとの返答を受けて海上へ掛けた城の屏下を通り、船首に楯を立てたが、城を過ぎるころ船尾へ移すよう下知があり、城から雨のように鉄砲を撃ち掛けられたと記す。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 218 有川喜左衛門覚書

    伊勢貞昌・有川喜左衛門の覚書。島原では陣場がないため松平伊豆守の指図で鹿児島へ着き、獅子島で狩りをしたこと、中納言様の逝去を受けて間もなく再び江戸へ下ったことを記す。末尾に、下文は三月十七日に載せるとの編者注がある。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 219 川上久国・三原重庸連署廻状

    川上久国・三原重庸が伊集院以下の諸地域へ、黄門様の養生のため好物の竹の子を献上するよう命じた廻状。各地に大名竹があるので周囲の土を掘って竹の子を採り、少しも遅延なく急送するよう求める。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 220 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が山田有栄・伊勢貞昌・島津久元へ、有川藤左衛門尉の赦免をめぐる照会を伝える。有川は先年、御成の際の植木の入組により流罪となり、年数を経たため召し帰すことになったが、東郷肥前守が、同罪と聞く川上泰介との扱いの違いを問い、両人が江戸での穿鑿の事情を知らないため返答を求めたもの。回答次第…

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 221 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が山田有栄・伊勢貞昌・島津久元へ、新納二右衛門尉の動向を報告する。新納は東目への御下向を聞いて迎えのため豊後方面まで赴いたが、御下向到来の報を受けて戻り、この日出立したので、与えられた陸衆の賦を直ちに伝達するよう求める。尚々書には一昨日帰着し、今日また当地を発ったとある。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 222 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、前日の書状と有馬からの文箱が届いたと伝え、有馬へ使者として赴く新納二右衛門尉と北郷式部の使者一人に早船を手配するよう求める。薩州様の着船後の御座、黄門様の病状、薩州様に供奉する人数、兵糧不足者や琉球船までの扱いも指示する。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 223 某覚

    新納二右衛門尉が有馬へ使者となる際に渡された覚。先に出水へ派遣された南戸衆、伊豆守方に留め置かれた高岡・穆佐・相良の衆、江戸南戸衆の欠員補充、小番衆・大番衆の稽古、御番帳、病欠時の補充などについて、現地で事情を確認し報告するよう求める。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 224 川上久国書状

    川上久国が山田有栄・伊勢貞昌・島津久賀へ、黄門様の病状がさらに重くなったため、琢庵から松平伊豆守を通じて江戸の年寄衆へ注進すべきとの意見が出たと知らせる。島津正久の奥方からの見舞いと薩州様の来訪希望、黄門様の食事量と衰弱の様子も報告する。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 225 川上久国書状

    川上久国が市来宗友へ、黄門様の気色が衰えたため琢庵が松平伊豆守宛の注進状を作ったので、早船で有馬へ届けるよう命じる。黄門様の危篤を嘆き、薩州様の着船について昼夜を問わず報告を待つと伝える。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 226 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元らへ、十三日付書状への返報として、薩州様の船が十日に「のむへ」へ入津し、伊勢兵部少輔が先に上使へ赴いたこと、松平伊豆守から人数加勢は不要との内意があったことを報告する。黄門様の病状、薩州様の帰国見込み、鹿児島への道筋、宿・迎馬の手配を伝える。

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 227 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、前夜の書状と有馬の三老からの文が到着したと伝える。先に暇を得た兵少老らの着船に伴う指示を待つこと、跡立衆の道具を島原から戻すこと、帰国する薩州様の進路・宿泊、川内・祁答院方面の人馬や物奉行への指示を急ぐよう求める。

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 228 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、大炊頭・讃岐守から黄門様へ届いた書状を示し、薩州様が使者を早く有馬へ遣わすことを黄門様が喜んだと伝える。松平伊豆守が薩州様の有馬在陣を不要としたなら当地へ帰着するはずなので、貞昌が供奉して対面できるよう求める。

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 229 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、十一日付書状を受け、薩州様の着船報告を待つとともに、日々重くなる黄門様の病状を新納二右衛門尉へ伝えるよう求める。城攻めの状況、陣所普請、松平主税助・戸田左門・寺沢・伊東大和守らとの相談、唐津方面の薩摩衆を含む帰衆の扱いを照会する。

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 230 某覚

    黄門様の病状を列記し、新納二右衛門尉を使者として山田有栄・伊勢貞昌・島津久元らへ伝えた覚。日々の衰弱、夜間の痰と咳・熱、食事量、脈の状態、入浴禁止、薬、薩州様の帰着待ち、式部大輔の見舞いなどを具体的に報告する。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 231 吉田与三右衛門覚書

    吉田与三右衛門の覚書。島原一揆の際、病中の島津家久を見舞うため初めて江戸から帰国した光久が、そのまま島原へ加勢しようとし、家久から御召の鎧二領を託された伊東祐昌が光久の陣で待ったが、加勢に及ばず帰国したと語る。宝永六年八月二十四日、八十一歳の吉田の話を家来坂元武右衛門が書き留めたもの。

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 232 喜入忠政従臣聞書

    喜入忠政の従臣による聞書。島津家久が鹿児島で病気となり、光久が江戸から帰国する途中、肥前有馬浦へ船を着け、上使へ使者を出した。城攻めへの参加を許されれば入城すると申し入れたが、直ちに通行するよう返答され、同日有馬を出船したと記す。